下火(したび)
寒い……。冷え切った床に体温が奪われていく。寒い……。こんなに寒いのに、この躰は身震い一つしない。体温を上げる活力がない。躰は冷えていく一方だ。寒い……。寒い……。どうしようもなく寒い……。姫様……。僕は……僕はもっと……姫様のお傍に居たかった……。寒い……。姫様……。
「~~! ~~~~~!」
声が聞こえる。今は何を言っているのか分からない。誰かを探しているようだ。だんだんこっちに近づいてくる。この声、誰の声だったろうか。この王宮は、人が多いからな……。
「ゼノちん! ここに居た! ゼノちん! クッソ……! なんてこったい……。相当ピンチじゃねぇか」
ゼノちん? そんな呼び方をする奴は、アイツしか知らない。
ゼピュロスか?
声は出なかった。目も開けられない。躰が形を失って消えていくようだった。今の自分を灯火に例えるなら、そよ風一つで消えてしまうほどに消えかけの灯火だろう。そのそよ風の神が最期に現れるなんて、なんて皮肉だ。僕はこのまま彼の風で消えるのか。
「喋らなくていい。そのまま大人しくしていろ。絶対に助ける。言いたいことは後でいくらでも聞いてやる。だから、今からオレがすることに抵抗するな。嫌だったら、後で十発だろうか百発だろうがいくらでもオレを殴ってもいい。どうしてとかも、何も考えるな」
有無を言わさぬゼピュロスの物言い。言われるまでもなく、抵抗する力も、何か深く考える力も、今のゼノンにはもう既になかった。
「ぬあッ! クッソ……いってぇ~……」
液体がぽたぽた落ちる音がする。
「ゼノちん。これだけは頑張って飲み込んでくれ」
ゼピュロスがゼノンの口を手で薄く開かせる。その間も、生温かい液体が顔に落ちてきた。頬が、唇が、濡れる。そして、口の中に垂らされたそれは、鉄の味がした。
なんだろう、これは……。
「分からなくてもいいから……飲み込んでくれ……っ。頼む……頼むから……」
ゼピュロスは、ゼノンの疑問を察しながら、何度も懇願を繰り返した。
この男の口から、『頼む』なんて言葉を聞くなんてな……。
それが滑稽に思えて、あと少しだけ頑張ってみようかと思った。もう何もできないと思っていたが、鉄の味がするこの液体を飲み込むことぐらいはできそうだ。
ごくりと、口の中の液体を飲み込む。同時に、喉仏が上下に動く感覚。薄く目を開くと、左腕の切り傷から血を流しているゼピュロスが、泣きそうな顔で見下ろしていた。
「ゼノちん! ああっ! ゼノちん! よかった! 結婚して!」
「断る」
即答するノンの躰は、寒さに凍えてはいなかった。消えかけていた灯火が、再び火勢を取り戻し始めた。嘔吐感や頭痛や眩暈も、随分楽になった。まだ本調子ではないが、日常生活は送れる程度に回復してきた。
「そんなつれないところも好き!」
「貴様はぶれないな」
「それだけゼノちんが魅力的なのよっ」
満面の笑みを浮かべるゼピュロスの左腕には、真っ直ぐ走る切り傷。痛々しい傷口から滴る血に、ゼノンは心痛した。
「はっ! くだらない……。僕を生かしたところで、貴様に靡くわけでもないのに……」
鼻で笑い、ゼノンが身を起こそうとすると、ゼピュロスは慌てて制止した。
「おっと。無理するな。これは応急処置だ。この後、天界に行って、オレの宮殿で禊を行ってもらう。神の肉体を持たないゼノちんは、普通に能力を使うだけでも精神に影響が出るんだぞ。契約という名の鎖で縛り、繋がられているっていうのに、ずっとその契約者相手に能力を使ってきたんだ。相当精神を蝕まれただろう? ただでさえ、ゼノちんの肉体……いや、存在そのものがその先祖返りの能力をもってして保たれているもんだからな。その先祖返りの能力の基盤となる精神を蝕ませてまで能力を使い続けるなんて、自殺行為だぞ。一体、ゼノちんの契約者は誰なんだ? 今はもう、契約は切れているみたいだけど」
「それは……。……この国の国王様だ。正確には、もう先王だが……」
あんな男と契約させられていたことを知られることに引け目を感じ、ゼノンは俯き、躊躇いがちに答えた。
すぐにゼピュロスが何か言葉を発すると思っていたが、ゼピュロスは黙っていた。どうしたものかと、伏せていた視線を上げて、ゼピュロスを見やると、ゼピュロスは毛を逆立てた獣のように、憤りを顕にしていた。
「ゼノちん。この国、消すぞ」
ゼピュロスの低く、冷然な声に、ゼノンは背筋に寒気が走った。この神が本気で怒っている。いつもふざけてばかりいる彼からは想像もつかないほどに、極寒の冷気を纏った無情の目をしていた。そこにいるだけで、身動きがとれなくなるほどの恐怖を感じた。
「国王ってこたぁ、お
眉間に皺を寄せて、苛立たしげに前髪を掻き上げるゼピュロス。
「さあ! このオレを怒らせた罪を償ってもらおうかァッ!」
その叫びと共に、地面が大きく揺れた。爆発音がすると、夜の街に悲鳴があがりだす。
「な、なんだ……? 一体何が……」
爆発音から発生した空気の振動で、壁や窓が揺れる様を見て、ゼノンは外を確認したく思った。
「火山を噴火させた。噴石に当たるか、溶岩に焼かれるか、火砕流に追いつかれる前に、さっさとずらかるとするか」
一切の感情を感じさせない平坦な口調。ゼピュロスがゼノンを腕に抱えようとすると、ゼノンは「やめろ」と拒んだ。
「貴様の
「ちぇっ。バレたか」
ゼピュロスはいつもの人懐っこい笑みを浮かべて、舌をペロリと出した。
「……すまないが、外を確認したい」
「OK ちょっと立って」
ゼピュロスはゼノンに手を差し出す。手を取り、ゼノンが立ち上がると、足元がふらついた。「肩ぐらい貸すよ」と、ゼピュロスのいつになく優しい声音が降ってきた。ゼピュロスはゼノンの腕をゼピュロスの首の後ろに回し、ゼノンの体を支えた。
窓から見えたのは、灰色の煙とマグマを噴き上げる山。山の麓は冷えて岩と化したマグマが降り注ぎ、灼熱の真っ赤な河に呑まれていた。
「ほら。ここも時間の問題」
笑顔を向けるゼピュロス。さっきまで、あれだけ激怒していたのが嘘のようだった。
そうだ、こいつはこういう奴だ。終わった後のことは、どうでもいい。興味を失くしたことは、どうでもいい。つまらないことに時間を割くのが大嫌いな性分だ。
「丁度、今ハニービーが姿を晒しちまってるんだわ。暗い夜にあんなに輝いてんのが宙に浮いてんだから、ここの国民の殆どがその姿を見ちまっているわけ。オレ一人の力で噴火させたわけじゃなくて、ハニービーの姿を見てしまった人間への罰ってのも掛けられてる。ハニービーをこれだけの国民が見てしまった以上、どういう形になるにせよ、この国は消される定めだ。どういう形にするかを決めたのが、オレだったってだけ。ゼノちんとの契約が切れた途端にこれとか、どんだけゼノちん頼りな国だったわけ? 大変だったんじゃね?」
「一人抜けたぐらいで機能しなくなる国なんか、最初から機能していないのと同じだ」
「マジそれな。ゼノちんをこき遣いやがって、本当にここの国王は今朝からオレの神経を逆撫でしてきやがるなぁ。ゼノちんが王宮に戻ってきた時、国王が外にいたろ? あれ、オレが追い出したんだぜ? 追い出した時のアイツ、めちゃくちゃビビってやがったなぁ~。まあ、もうすぐ死んじまうから、もう二度と拝めないけどな! もったいない、もったいないっ。ハハハハハ!」
もったいないなんて微塵も思ってもない癖に、口先だけ惜しみながらゼピュロスは笑っていた。左腕から血を流しながら。
「その傷、手当しなくて大丈夫か?」
「ああ、大丈夫、大丈夫。人間より治りが早いからな。傷口も塞がってきてるし、出血の量も減ってるだろ? もうすぐ止まるって」
ゼピュロスの言う通り、傷口は小さくなっていた。だが、治りが早いというだけで、痛みがないというわけではない。
「言うのが遅くなったが、助けてくれてありがとう……」
「いいって。ゼノちんの『ありがとう』を聞くためにやったわけじゃない。オレがゼノちんに消えて欲しくなくてやっただけだ」
「助けてくれたのは有難いが、僕はもう役目を終えてしまった……」
「本当に終わったのか? お
「蓮葉な女王蜂か……。社畜蜂には無理だな」
「ハッキリ言うアナタが好き! ハニービーには無理ってことは、ゼノちん、まだ必要なんじゃね? 役目、終わってなくね?」
「……」
命拾いをしたのは二度目か。最初は、王家の処刑。死ねずにこの国に亡命した。そして、今。国を出るどころか、人間界から出ることになるとは……。この国に来た時は、元居た国と比べて別世界だと思ったものだが、今度は本当に別の世界。人間界、天界と渡り歩いたなら、次に命拾いする時は冥界だろうか? それはそれで笑える。
「姫様のためなら、仕方がないな」
「禊も忘れるなよ?」
「禊って何をするんだ?」
「まずは風呂だ! 風呂! 温泉! うちの宮殿の温泉は、ラドンを含んだラジウム温泉だぜ?」
「イオン化作用によるデトックスか」
「それもあるけど、洗うってのがいいんだよ。まずは体から。武道で、心技体ってあるけど、あれって変えにくい順に並んでんだぜ? 一番変えやすい体から整えて、次は技、最後に心だ」
「技? 体と心はともかく、技って何だ?」
「人間界で先祖返りの力は強力すぎるから、勝手にリミッターがかかるんだ。リミッターかかってないと、人間界で怪奇現象起きまくりだからな。そもそも、ゼウスの先祖返りなのに、その程度の力っておかしいだろ? 天界に来たら、リミッターが外れる。本来の力を発揮できるわけだが、ゼノちんが持つ力は、普通の神ですら扱うには強力すぎるから、コントロールが難しいわけ。上手く使えないと……ん~? どうなるんだ? とにかく、上手く使えないってことは、使い物にならないってことだ。宝の持ち腐れってやつだな。そうならないために、技を磨く」
「どうなるか分かってないなんて、結構適当だな」
「適当なのがいいの! こういうのは適当が丁度いいの! だから、まずは温泉でゼノちんの全裸を拝む!」
「見物料を貰おう」
「金を払えば見てもいいのか!? いくらだ! 言い値を出そう!」
鼻穴を膨らませるゼピュロスに、ゼノンはニヤリと笑う。
「金じゃない。――貴様の命が対価だ」
「Noooooooooooooooooooo!!」
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