奔逸(ほんいつ)

 ――この後やることがあって忙しいから、さっき言っていた契約者の話は夜にでもしてやる。

 ゼノンの話を聞くために、アモールとゼピュロスは日が暮れてから王宮に向かっていた。

「なんかヤバい! なんかヤバいぞ! 俺の直感が全力でヤバいと叫んでいる! 急げ! これはマジで一刻を争うレベル!」

 全く訳が分からないが、酷く慌てて夜空を翔けるゼピュロスの後をアモールは追った。

 王宮が見えてきた。中に入るのに丁度よさそうな窓を探していると、窓から半身を出している人影が動いている。僅かな月明かりを頼りに、目を凝らしてみると、人影の正体はプシュケだった。顔の上半分は包帯を巻かれているが、あれは紛れもなくプシュケだ。そして、今にも窓から落ちそうになっている。

「んああああああああ! パンナコッタァァァァァァッ!」

 ゼピュロスも人影の正体を知り、盛大に叫んだ。

「駄目だ。落ちるッ!」

 アモールはゼピュロスを追い越し、全速力でプシュケが落ちようとしている窓に向かった。ゼピュロスから離れたがために、本来の姿が丸見えだが、そんなことを気にしている暇はなかった。

 そして、とうとうプシュケの体が窓の外へと投げ出された。

 地面へと急降下していくプシュケの体。アモールはプシュケが地面に叩きつけられる前に、なんとかその体を腕にキャッチした。すると、プシュケはアモールの腕の中で咆哮した。

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 断末魔のような悲痛な叫び。半身を引き剥がされた魂から湧き出る叫びだった。叫びを聞いているだけで、胸に激痛が走る。この世の何もかもを引き裂いてしまうような鋭利な慟哭だった。

「殺してやる! 私の半身ゼノンを穢したアイツを殺してやるッ! 殺してやるッ! 殺してやるッ! 殺してやるッ! ゼッッッタイに殺してやるッ!! 殺す! 殺すゥウウッ! アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 以降、言葉にならない叫びを叫び続けるプシュケ。言葉通りの血の涙が包帯を赤く染める。泣けば泣くほど傷口に激痛が走っていることだろう。この涙に癒やしや浄化の効果はなさそうだ。

「私の代わりに何もかもを犠牲にしてくれた私の大事な半身ゼノン……。絶対に赦さない……。私の半身ゼノンに酷いことをしたアイツを赦さない……ッ!! アイツを殺してやる! アイツと同じ血が半分流れている私も殺してやる! 姉様たちも殺す。あの男の痕は全てこの世から消してやる! 何もかも殺して壊して滅茶苦茶にしてやる! あの男がどこにも存在しない世界にしてやる!」

 憎しみと怒りに叫ぶ彼女に、かける言葉が見つからない。ただ、叫ぶ彼女を抱えていることしかできない。

「これは……ッ。おひいさんがこれだと、ゼノちんは……。ゼノちん!」

 遅れてやってきたゼピュロスが、プシュケの様子を覗き見た後、顔を真っ青にさせてどこかへ飛んで行ってしまった。

「どこの誰だか知らんが、どうして私をあのまま地面に叩き落としてくれなかったのだ」

 淡々と、しかし確かな怒りを含んだ物言いだった。プシュケがこんな喋り方をするとは思っても見なかったため、思わず呆けていると、「聞こえなかったのか」と苛立たしげな問いを投げつけられた。

「君を見殺しにはできなかった」

 アモールがそう答えると、プシュケはシニカルに笑った。

「ハンッ! 私がいつ、どこで死のうが私の勝手だ」

「人は、生かされるままに生きるものだよ。与えられたものの中で、何を得て、何を学び、どう活かすか……。それに、君が殺したがっていた人たちも、ここで死んでしまったら殺せないよ?」

「御託を並べおって! くだらん! キサマは誰だ!」

「僕は――」

 なんと答えればいいのか分からなかった。正体は言えない。自分の存在を彼女にどう説明すべきか悩んだ結果、今から自分が行おうとしていることは答えられることに気が付いた。

「僕は君をこの世界から奪い去る者だよ」

「……」

 プシュケは何も反応しなかった。流石に格好をつけすぎた答え方だったかと思案していると、プシュケは重い溜息を吐いた。

「女というだけで、どうしてこうも私の人生を好き勝手に支配されねばならんのだ。王位も実質的にはどうせ継げない。支配権はあの男。継ぐのは形だけ。私はお飾りだ。あの男は私を、王位を継ぐに相応しい人間としてではなく、王の傍に相応しいお飾りとして育てたかったのだろう。ゼノンが抗ってくれたが、結局私も彼も、あの男の支配からは逃れられん。私は所詮、権威の象徴の一部として侍らせるための存在なのだ。民からは女神だとかなんだとか言われても、私は女神でも人間でもなかった。私がどれだけ頑張っても、私があの男のお飾りである以上、その努力がもたらした輝きは、私ではなく、あの男を照らすものにしかならない。結局、私は女神を模した偶像として、娘でありながらあの男の隣に座ることを強いられた飾りにすぎない。自由もない。何もない。挙げ句はこうして連れ去られて、私の意志なんてものは尊重されない。女というだけで、何故こうもお前たち男の欲を満たしてやるために生きるような生き方を強いられるのか……」

 アモールに向けて言っているのか、独白なのか……どちらにしても、諦めに満ちた声色だった。

「男か女か、そんなものに囚われずに、おのが人生を進むことができれば、どれほどよいか。どちらか、である私でいるよりも、唯ひたすらそこに存在している私、でいられれば……そう存在することを許される社会であれば、私は『私』の人生を本当の意味で歩いていけるような気がするのだ。……辛い。辛い。こんな躰なんか要らない。誰か『私』をこの躰から解放してくれ。何故、私は女の躰をしているのか。女として適応せねばならないのか。女は変わる。変えられてしまう。男にも、時間にも」

「変わるのが怖いの?」

「変わるのが怖いとか、そういう次元で言っているのではない」

 思い切って問いかけたが、プシュケをまた怒らせてしまった。

「私は、変える側でも、変わる側でもない何かになりたい。こんなに変わる不安定なせいべつが気に入らない。相手を勝手に変えてしまうせいべつも嫌だ。変わるなら、私は『私』として、『私』のベストな姿に変わりたい。私ではない何者かに勝手に変えられてしまうその姿が、『私』のベストとは限らない。私は、男や女ではなく、性別の概念を超えた純粋な人間になりたい。女というだけで人間として生きられないのは間違っている。人間でもなく、女としてしか生きられないのはおかしなことだ。いっそ、人形の方が安定している。諸行無常というものがあるが、ほぼずっと同じ姿だ。時間で変わることは仕方がない。皆、老いて死ぬ。だから構わない。男に変えられるのは嫌だ」

 ふっと薄ら笑いを浮かべるプシュケ。

「天敵だよ、キサマたちは」

「君の言う、『変わる』というのは?」

「少女、娘、処女、妻、母。軆が変わる。呼び方が変わる。否が応でも変わる。こんな難儀な器に入っているのが『私』なのだ。しかしながら、例えば器もなく、無形の場合、何にでもなれるわけだ。そうなると、何にでもなれるが故に自分を保てない。何もかもが自分なのだから。だから、器が必要なのだ。でも、こんな器は要らない。自分ではない何者かに変えられる器は要らない。私の中身は『私』のままなのに、誰かに器がグチャグチャにされていく。器に合わせて、『私』も変わることを必要とされる。嫌でもこの躰に適応しなければいけない。だから、つまらん男にこの躰をくれてやる気もない。とはいえ、この世はつまらん男ばかりが溢れている。つまらん男の数は圧倒的すぎる。焔の壁を作れるのなら、作りたい。茨の檻が出来るのなら、そこに入りたい。フィルターができる分、筒抜けよりとても楽だ。私は安心して眠れる」

 プシュケは小さく欠伸をする。

「眠い……。眠れば、『私』はこの器から離れることができる。器に何が起きようが、目覚めた時には何もかもが終わっている。起きたときに、何かが変わっていたとしても、変えられる最中の恐怖はない。『私』は何も知らずにいられる。起きている間に変えられるより、何倍もマシだ。寝ていれば、『私』までは手出しできないのだから。だが、できれば安心して眠れる場所が欲しい。筒抜けは嫌だ。『私』には手出しできないが、器は好きにされてしまう。嗚呼……この器は要らない。棄てられないなら、檻が欲しい。私はただ、男や女ではなく、『私』として生きたいだけなのだ。何故それが叶わない。何故こんなにも叶わないのだ。何故邪魔ばかりされる。女を強いる。人間扱いをされなくとも女でいることが、そんなに素晴らしく偉いことなのか。私に性別があったとしても、『私』には性別がないというのに。私と『私』の性別を同じにしないでくれ。お願いだから、『私』に性別を与えないでくれ。ああ、憎い。あらゆる性が憎い」

 私、という女性の肉体――器を持ったプシュケと、『私』という性別や肉体に囚われない精神としてのプシュケがいるようだ。肉体と精神が不一致を起こしている。プシュケとしては、『私』として生きたいが、私という躰や、その周囲がそれを許してはくれないのだろう。

「……眠い。眠るとしよう。起きた頃には全てが終わっているように、祈りながら」

 そう言って、プシュケはアモールの腕の中で寝息をたて始めた。

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