夢浮橋(ゆめのうきはし)

 心臓を握った。熱く脈打つそれを心臓だと思った。

 でも違った。あれは心臓ではなかった。あれは……あれは――

 ドタンッ!

 鈍い音がした。すぐにゼノンが倒れたのだと分かった。見ていなくとも、見えなくとも分かった。直感とはまた違う。ゼノンとプシュケの繋がりだった。

 プシュケはゼノンの名を呼んだ。身を案じた。傍に行きたくて、慌ててベッドから降りようとした。だが、視界零の暗闇の中、それは無謀だった。ベッドから降りるつもりが、身体は床に叩きつけられた。痛みに呻く。ベッドを手で触り、自分の位置を確認した後、ドアの方向へと四つん這いで移動した。どこまで直進すればいいのか分からなかったが、構わなかった。進んでいくと、ドアに頭をぶつけた。また呻いた。

「ゼノン……ゼノン……」

 目に激しい痛み。目は潰してしまったが、涙腺は生きている。包帯が湿っていく。湿らせているのは、血か、涙か、確認できない。

 ゼノンは、プシュケにこの国から逃げるように言った。その声は、彼にしては信じられないくらいに弱々しかった。ゼノンはどんなに弱っていても、その姿を他者に見せることを厭う。いつも端然としている彼が倒れて、ここまで弱々しい声を発している。それがどういうことか――

 認めたくなかった。ゼノンは私と一緒に逃げるのだ。二人で逃げるのだ。

「僕は……無理です……。僕はもう……限界です……。こうして……喋るのさえ……辛いんです……」

 駄目だった。駄目なのだ。彼はもう存在を保っていられないほどに消耗していた。彼はこれほどになるまで身を削ってくれたのだ。

 夢が終わった。ゼノンが見せてくれていた夢が終わった。

 ゼノンは私だ。十三年前に絶望した私が創った「こうありたい私」だ。事実を否定し、私自身を守るために生まれた幻想だ。

 もし、私が先祖返りではなく、ただの人間だったら、人間扱いされただろう。

 もし、私が男だったら、■■に■■されなかっただろう。

 もし、私が王女ではなく、王子だったら――

 もし、私が別の国の王子として生まれていれば――

 もし、私がもっと年上でしっかりしていれば――

 もし、私が――……

 すべてのifに、すべての先祖返りの力を加えて、否定したい記憶と一緒に私から切り離して生まれた私の半身。

 私から切り離された半身は、従兄の国にたどり着き、あたかも最初からそこに居たかのように紛れ込んだ。それはまるで蜃気楼。ないはずのものが、ごく自然に、そこにあるかのように認識される。私が第三王女だからか、ゼノンは第三王子として出現した。本来の第三王子は、第四王子になってしまった。世界に割り込んだ存在だったが、ゼノンの存在に違和感を感じる者は誰もいなかった。

 記憶も、先祖返りの力も、ゼノンに持って行かれた私は、唯の人間になった。なのに、誰も私を人間として扱わない。

 切り離したことを、無駄だったとは思わない。記憶を持ったままだと、私は今日まで生きてこれなかっただろう。彼はそれを分かっていて、記憶を持って行ったのかもしれない。

 彼が、私とは別の人生を謳歌してくれていれば、私はそれだけで救いだった。私の半身が充実した人生を送れていたなら、それでよかった。私がどれほど不自由でも、私の半身が不自由ない生活をしてくれているのだと思えば、いくらでも耐えられた。彼と分離した際に、多くの記憶を失ったが、どこかに私の半身がいるという漠然とした情報だけは頭に残っていた。

 なのに、運命の悪戯か、宿命か、切り離したはずの半身が私の国に戻ってきた。父の手で強制的に戻された。父にとって、私は只の人間であっては駄目なようだ。父にとっての私は、女神であり、少女であり、聖母であり、娼婦であり、奴隷でなければ駄目で、どれが欠けても許されない。

 父の支配の外に逃がしてやったのに、結局はその半身も連れ戻され、支配される。

 逃げられない。

 おかしなことに、私が捨てた私が私を教育することになった。彼が他のどこかで自由に生きてくれていればよかったのに、私のためにあらゆることを教えてくれた。育ててくれた。実に奇妙な話だ。他に例があるなら教えて欲しい。

 彼が生まれた経緯が私を守るためであったせいか、彼は私のために言葉通りその身を削ってくれた。父に浸食されつつも、私を守るために懸命に抗ってくれた私の半身ゼノン。父の言いなりにならず、私が父の人形にならぬように、常に私のために犠牲になってくれた私の半身ゼノン。既にこれほどまで浸食されてしまっていた私の半身ゼノン……。

 私の元に戻ってきてしまったが故に、ゼノンが存在を保てないほどに消耗させてしまった。きっと彼は、このまま私の記憶ごと消えようとしているに違いない。

 私のせいか?

 ――全部お前のせいだ!

 ゼノンが来る前、よく父にそう言われた。屁理屈を捏ねて、私の責任だと主張した。反論しても、殴られるだけだった。それは、まるで私が何もかも悪いってことにならねば、世界が納得しないかのようだった。

 ――どうして私と同じ顔をしているの?

 ゼノンは答えなかった。答えられるわけがなかった。だって、彼は私が生み出した私のための幻想。私が自分でゼノンの正体に気づく前に幻想だと教えてしまったら、私と一緒には居られなくなる。

 あの時、この夢を終わらせるにはまだ早かった。「これは夢だ」と現実に帰すには早かった。

 でも、もう駄目だ。私を守る私ももう限界なのだ。私の半身はこれほど父に穢されてしまった。このまま私も半身と同じ運命を辿る。私の半身に私を壊してもらうことすら叶わないのなら、私はこんな体も、こんな人生も、全て捨てよう。

 穢される躰なんか要らない。穢される人生も要らない。

 熱を持つ喉。嗚咽を噛み締めた。熱い息が歯の隙間から抜け出る。

「分かった……」

 プシュケは体を反転させて、今度は急ぐことなく、手探りで前方を確認しながら、四つん這いでゆっくりベッドの方へと戻っていった。無事にベッドに戻ったが、プシュケは横たわることなく、手探りで窓を探し、開ける。

 ゼノンが持っていた記憶の何割かは戻った。思い出したことはいくつかある。

 を握った。熱く脈打つそれは――

 こんな躰は要らない。

 私はを握った。それから先、何が起きたのか覚えていないが、想像はできる。

 こんな躰は要らない!

 プシュケは窓から身を乗り出した。

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