他律(たりつ)
己を愛せないが故に、愛する己を外に創り出した。
いや……違うな。そういう人もいるかもしれないが、僕と姫様の関係はそうじゃない。あの日、あの瞬間から姫様は壊された自分自身を認められなくなった。自分自身を愛せなくなった。だから、その記憶ごと、自己愛と先祖返りの能力と共に捨てたのだ。捨てられた塊から、僕が生まれた。僕は彼女が失った記憶でもあり、先祖返りとしての能力でもあり、自己愛でもある。
あの日のあれは姫様を壊す行為だ。一般的に、人はそれを『愛し合う行為』だとか『愛を確かめ合う行為』だとか『愛を深める行為』だとかほざいているが、愛のためにそれをするなんて、僕らにとっては理解し難い。愛が欲しくてそれをするのは、もっと理解し難い。他者が愛をくれるのか? 自分自身ですら満足に愛せていない癖に。得られたとして、それは本当に欲しかった愛か?
あれは
痛くて、苦しくて、気持ちの悪い。引き裂かれた内部から、躯中に走る神経までも利用して全身を余すところなく壊してくる。生き物として大事な何かごと壊してくる。
あれは愛などではない。所有欲と支配欲を満たすための行為だ。独占欲とはまた違う。所有欲だ。『自分だけのもの』というより、『自分のもの』であることの方が重要なのだ。マーキングと確認行為。それだけのために、小さな体は徹底的に壊された。
僕らには自己愛だけで充分だ。僕らの外に存在する愛なんて、愛ではない。自分を本当に愛せるのは自分だけだ。恋人なんて、相手の中に自分自身と自分にない憧れを映しこんでいる相手にすぎない。結局、相手を通して自分を愛しているだけにすぎない。自分を上手く愛せないから、相手が必要なだけだ。自分を愛するために、相手を利用しているだけだ。
家族愛? そんなもの、自分と同じ遺伝子を残すための本能だろう。自分の遺伝子を残すためのパートナーと、自分たちの遺伝子を持つ子どもを保護・育成するために、協力関係を築いているにすぎない。
自分がこうして愛について語っていること事態に虫酸が走る。嗚呼、厭だ厭だ。下らない。僕は姫様がいればそれでいい。
一人では完全に壊れていた。完全に壊される前に二人になることを選んだ。二人だから、完全には壊れなかった。だが、失った。半分を失った。それでも、僕はこうして戻ってこれた。なのに、一人には戻れない。二人のままだ。
だから僕は、二人のままでしか居られないなら、僕と一緒でなければ何もできない
ゼノンはプシュケの右手首を掴んだ。手首の内側の薄い皮膚。白い肌に走る青い血管。その手首に軽く歯を当ててみた。力を入れれば、簡単に皮膚を突き破れそうだ。それは一瞬で、とても容易なことだろう。しかし、その痛みも、傷も、その一瞬が過ぎた後も残り続ける。
痛覚は刻み込まれて、いつまでも消えずに残る。抉られた箇所をなぞられる度に、痛みの恐怖は蘇る。痛みを与えた存在ごとも、消えずに残る。刻まれる。消せない。あの光景。あの影。あの手。あの感覚。あの動き。そして、あの痛み……。
プシュケの手が微かに動く。プシュケが目を覚ましたようだ。ゼノンはプシュケの手を離した。
「ん……。何も……見えない……。ゼノン? どこ?」
プシュケは両手を宙に彷徨わせた後、目に巻かれた包帯に触れた。自分で目を潰したことを思い出したのか、そこからピタリと動きが止まった。
「目を覚まして、真っ先に呼ぶ名前が僕の名前だなんて、冥利につきます」
ゼノンの声がする方向。プシュケはゼノンに向けて、右手を伸ばす。ゼノンが両手でその手を包み込むように握ってやると、ホッとした表情になる。
「ここは?」
「姫様のお部屋です」
「熱い……。苦しい……」
熱い息を吐くプシュケ。手もいつもより熱を持っていた。頬を染めて、苦しげに呼吸をする姿が婀娜っぽく、そこはかとなく情欲を唆ってくる。気を失い、無防備にゼノンの腕に抱かれている間も、彼女からは背徳の香りがした。妃が彼女を
「怪我のせいで熱が出ていますから。お水をご用意しております。お飲みになられますか?」
ゼノンはプシュケから手を離し、水瓶や果物が並べられたテーブルへと移動した。手を拭くための手巾をサイドテーブルに乗せる。
「息が苦しくて、少しずつしか飲めそうにない」
「果物も食べられそうにない?」
「一口サイズの果物なら、ゆっくり飲み込めば、なんとか食べられそう……」
「葡萄はどうです?」
ゼノンは葡萄を皿ごとサイドテーブルに乗せ替えた。
「葡萄……?」
プシュケは数秒思案した後、
「食べる。どこ?」
右手を宙に彷徨わせる。ゼノンは手巾と葡萄が乗ったサイドテーブルをプシュケが横たわるベッド脇に寄せる。房から葡萄を一粒摘み取り、それを丁寧に皮を剥く。剥き終えると、葡萄を求めて彷徨うプシュケの右手をゼノンは左手で掴むと、ベッドに縫い止めた。
「僕がします」
右手で摘んでいる、果汁で全身を艷めかせる葡萄をプシュケの唇に近づけた。
「口を開けて……。ああ、駄目ですよ。舌でちゃんと受け止めなきゃ、喉の奥に入ってしまう。苦しいのは、厭でしょう?」
開かれたプシュケの口からは、
「ふふっ。いい子ですね」
縫い止めていたプシュケの右手を解放し、その手でプシュケの頭を撫でてやった。プシュケの顔の上半分は包帯で隠れていて、表情が上手く読み取れないが、それでも彼女がいつもと様子が違うゼノンに困惑していることは気配で分かった。
「本当にゼノンなの?」
プシュケの不安げな声。ゼノンは房から一粒葡萄を摘みとる。
「僕の声をお忘れですか?」
葡萄の皮を剥く。滴る葡萄の果汁がゼノンの指を濡らす。
「いつもと様子が……」
「様子が――違う?」
そう訊ねると、プシュケは頷いた。
「憑かれているだけですよ」
「……どういうこと?」
「そのままの意味です」
剥けた葡萄をプシュケの唇に当てると、プシュケは口を開き、葡萄を口内に含む。果汁を飲み込むと、白い喉が動く。この首を絞めたら、彼女はどんな顔をするだろうか?
「ゼノン……。私、自分の意思とは違う何かに動かされる時があるの。今回だってそう。私、どうしてこんなことをしちゃうの?」
「ええ。どうしてだと思います?」
次の葡萄を剥き始めるゼノン。
「貴女は国王様の操り糸のついた傀儡だからですよ。いつまでも糸を断ち切れず、思い通りに動かされるだけの傀儡です」
「え……?」
「だから、姫様は国王様の願い通りに動いてしまう。――知っていますか? 東洋の大陸では、愛玩用の女をつくるんです。どうやってつくるかと言うとね、見目の良い少女を手に入れて、その目を潰すんです。そして、その躰を使って、何をすべきなのかを教え込ませるんです。目が見えないということは、自分が一体どんな醜男に抱かれているのやら、分かりやしないのです。勿論、逃げることなんてできやしない。例え逃げられたところで、外で生きていくための術も知らない。愛玩用として育てられた以上、彼女たちは愛玩用として生きるしかないんです。翼を切られた籠の中の小鳥が、野生では生きていけないように、籠の中で生きて、籠の中で死んでいく。決して自由な野鳥にはなれないんですよ。彼女たちは唯一教え込まれてきた技術を駆使して、精々一日でも長く愛されるように、一日でも長く生き長らえられるように、必死に奉仕して、飢えた男に浅ましく股を開くしかない。それ以外の術を知らない。愛され方も、生き方も。――これを聞いて、どうです? 姫様はこの王宮という籠の中で、自ら目を潰したんですよ?」
プシュケが纏う空気が変わった。絶望と恐怖に、その身を微かに震わせていた。
嗜虐心をそそられる。
ゼノンは、剥いていた葡萄を自分の口に入れた。唾液の分泌を促す葡萄の酸味。口に溢れてくる唾液を飲み込んだ。震えながら嗜虐心を煽り続けるプシュケを見つめながら、果汁で濡れた指に舌を這わせて舐めとる。
「ねえ、知らなかった? 僕が教えていませんから、知らなくて当然です。なのに、自ら目を潰してしまうなんて、あの
「私は……」
プシュケの呼吸が乱れる。彼女の顔が半分包帯で隠れているのが本当に残念だ。怯えた表情を、もっとじっくりみたかった。でも、これでよかったのかもしれない。今、僕は彼女が痛がる顔を見たくてたまらないのだ。痛がる顔というものは、恍惚の極致に達した時の顔によく似ている……。
ゼノンは包帯を剥いでその表情を確認したい衝動を、そっと密やかに抑えつけながら、プシュケの髪に指を通す。指に絡め、髪が擦り抜ければ再び求めるように絡め直し、五指の間を滑る髪の感触を楽しみながら玩んだ。慈しむようなゼノンの手つきに、プシュケの震えも落ち着いた。
「あんな国王様のために、目まで潰して、こんなになるまで必死に頑張って……。ああ、違いますね。貴女は頑張っているわけではない。自然に国王様の望み通りになるように動いてしまうだけでしたね。『お前は俺の子供なんだから、俺の言うことを何でも聞くのが当たり前だ』『俺がいなければ、お前はこの世に存在できなかったんだから、俺に感謝しろ』『お前は俺を満足させることだけを考えればいいんだ』……思い出しましたか? 貴女はずっとそんなことを国王様から言われながら育って来たんですよ? 覚えていない?」
自分にとって大切な姫様を精神的に追い詰めていく。吐かれる言葉の内容とは裏腹に、声色は残酷なほど優しかった。
「ぁ……ああ……」
プシュケはか細い声を出し、頭を抱える。思い出したようだ。
「今日だって、その大事な目を切り裂いて、国王様を満足させたじゃないですか。貴女はそうやってあの男を満足させるために存在しているようなものですよ。例えば、僕が内心で姫様に『笑え』と命じれば――」
ゼノンの念に合わせて、スイッチが切り替わったかのように、プシュケは蕩けるような笑みを浮かべた。それを見て、ゼノンも微笑む。
「ほら、笑った。自分の意思ではなく、自動的に。そして吐き気。姫様、つらい? 苦しい? それとも哀しい?」
ゼノンの言葉に、プシュケは首を横に振る。スイッチを再び切り替えたかのように、表情から絶望の色が戻る。
「どうして……。どうして……?」
「僕に取り憑いているのは国王様ですから。僕に取り憑いている国王様に反応にて笑ったんです。国王様を満足させるために、笑いたくなくても、勝手に笑って媚びを売る」
「ああ……そんな……。分からない……。私……どうすれば……」
「ねえ、そんなに国王様に愛されたいんですか? それは愛ではないと分かっている癖に、執着でしかないと知っている癖に、それでも欲しかった?」
「違うッ! あんな男の愛なんか欲しいわけがない! なのに、なんであの男の望み通りなの!? 私は……どうして!!」
その声は悲鳴のようだった。ほどんど悲鳴だった。こんなプシュケの声は、ゼノンも初めて聞く。
分かっている。彼女は愛されたいわけではない。生きていくための術がそれだっただけ。他の術を知らないから、それ以外のことができないだけ。愛もなく、くだらない所有欲と支配欲を満たすためだけに■■れたことを否定したいのに、やっていることが噛み合わない。
『従順で、か弱く、反抗する力も持たず、それでいて聖母のように包み込む優しさを持ってして無条件に尽くし、外見や仕草や口調の中には清純さと扇情的な魅力を兼ね備えていて、常に父親を満足させていなくてはならない』……言葉で言われたわけではない。そもそも、こういうものは言葉ではない。非言語のメッセージほど、心の奥底に潜り込み、居座り、住み着く。
僕にとって姫様は大事な存在だ。そこに嘘はない。彼女が目を潰した時の僕の反応にも偽りはない。だが時折、こうして酷くしてやりたくなる。僕のことだけを考えさせて、僕だけに依存させて、僕だけの世界に閉じ込めてしまいたくなる。
どうやら、貴女の
でも、貴女だって、心の何処かでこうされることを望んでいるでしょう?
「聡い姫様なら分かっていますよね。執着はただの鎖だと。愛のような温もりのある絆ではない。それは分っているし、あの男のことも、ちっとも好きではない。なのに、貴女の躯は? 行動は? あの男に支配されているでしょう? 自分がどういう道を辿るのか……分かりますね? なにせ、貴女は僕の優秀な教え子ですから」
「やめて……。もう何も聞きたくない」
プシュケは耳を塞ぎ、か細く消え入りそうな声で言った。
「ふふっ。可愛らしいですねぇ。耳を塞ぐその手を切り落としてしまいたい」
愛しそうに笑うゼノン。プシュケは、ひゅっと息を飲む。
「国王様は、ずっと自分の思い通りにできる美しい女性を求めていたんです。だから作った。それは愛ではなく、所有欲から来るただの執着心。姫様は国王様が求める女性像をそのまま押し付けられていたんですよ。そして、貴女は僕と共に偶像ではない貴女になろうとした。ですが、どうです? いくら僕と逃げ回っても、結局貴女は自然に国王様の願いを叶えようと動いている」
葡萄の房から、また一粒摘み取るゼノン。
「姫様は僕がいないと駄目なんです。あの
「貴女は僕から逃げられる?」
皮を剥がれ、潤んだその身をさらけ出された葡萄をプシュケの唇に軽く押し付ける。プシュケの身体がビクッと震えた。唇は堅く閉ざしている。
「どうやって食べるのか、ちゃんと教えましたよ。自分でやってごらんなさい」
「……」
無言の抗拒。彼女の纏う空気が屈辱的だと訴えていた。
「もう一度、ご指導いたしましょうか?」
指導し直しなど、彼女により一層屈辱的な思いをさせると知っていて、わざと言ってやった。だがプシュケは一向に口を開けようとしない。
「無理矢理入れてやることだってできますよ。酷くされる方がお好みですか? 乱暴に扱われる方がいいなら、今後からそう致しましょうか。痛みも、苦しみも、欲しいなら差し上げます。姫様は、ご自身のお身体を蔑ろに扱う節がございますから、存外そういうのがお好きかもしれませんね。……やってみますか?」
脅してやると、プシュケは恐る恐る口を開く。遠慮がちに出迎えに来た舌の上に葡萄を乗せてやった。舌が引っ込み、口の中へと誘われる葡萄と共に、ゼノンの人差し指も沈む。プシュケの口が閉じられる前に指を引き抜く。引き抜く時、プシュケの舌と唇を撫でた生温かく湿った感触が、濡れた指先に残った。咀嚼するプシュケの口角から、果汁が垂れる。その垂れた果汁をゼノンは彼女の口内の感触が残るその指で掬い、舐めた。
「嗚呼、
これ以上、何も言うな。
自分を制止する自分が声をあげる。だが、僕の唇は姫様を苦しめると分かっていて言葉を紡ぐために動き続ける。ブレーキが壊れてしまったように、止まらない。止められない。姫様が自分の意思とは違う意思によって動かされているのと同じように、僕も自分の意思とは違う意思によって動かされ、止まらない。これでは僕は国王様のスケールモデルだ。
もうダメだ。僕もあの男と同じところまで来てしまった。お願いだ。誰か僕を■■してくれ。
「お可哀想に。本当に、お可哀想。ですから、せいぜい僕がお傍にいてさしあげますよ」
クスクス笑う僕の笑みは、きっと大嫌いなあの男と同じ笑みをしている。
プシュケは、細く、長く息を吐く。
「私達は、ここまで行き着いてしまった……」
そう。僕達はここまで行き着いてしまった。
ゼノンが何者であるのか、彼女は完全に思い出してしまったのだろう。僕と彼女の間の空気が繋がった。それだけで、彼女の記憶の回復度が分かった。
剥き身で力を使い続けた代償。あの男に精神を侵食されすぎて、僕の力も弱まってきている。プシュケの記憶に蓋をしてきたのも僕だが、もう……外れてしまいそうだ。
プシュケは包帯に触れる。
「目を潰すなんて、私にとって何の得にもならないってことは分かっている。理屈は分かるの。でも、何かが私をそうさせる。頭ではどうにもできない。結局、私がどこかでそうしたいと望んでいるだけかもしれない。でも、自分では分からないの。私の口から出る言葉なのに、私の意識とは別の何かが言わせている。ずっと繰り返していると、それが私の本当の望みのように思えてくる。私にとっての真実になっていく」
悔しそうに、包帯に爪を立てるプシュケ。
「男の人は私に母も娘も少女も妻も女も求めてくる。疲れる。凄く疲れる。私は母親になったことも、妻になったことも、その人の娘になったこともない。もう、少女の年齢でもない。押し付けられても、どうすればいいのか分からない。なのに、できなかったら怒る。私が悪いんだって怒る。恐い。痛い。身体中が痛い。躯の中も外も全部痛い。私が壊される」
「……姫様」
もう、何も言わなくていい。一番重要な記憶は僕が持っている。そこは思い出せないだろうが、それ以外は……時間の問題だ。
「私は何になればいいの? 駄目な女? 包む母? 従順な娘? 純潔な少女? 支える妻? ――違う。分かっているの。私は私にしかなれない。そんなこと、頭では理解している。でも、どうしようもないの。抗っても、気付けば引きずり込まれていて、何もできずに勝手に堕ちていく。意識でどうにかなるものではないの。私だって嫌なのに、いつもここに辿り着く。まるで、足元にワープがあるみたい。気をつけて歩いていても、それを踏んでしまって、いつも飛ばされる。自分でもよく分からない場所にいる。自分がどうでもよくなる。発した言葉に責任を持っていないわけじゃない。きっと今の私だと、アナタにどんなことをされても私はなんとも思わない。本当よ。酷いことをされても、何も思わないの。誰かの意思に操られて、酷くされても何も感じない、人形になっていく感覚。でも、凄く楽。頑張らなくていいから、楽。人形になれば生身より丈夫。痛くない。全てを手放すの。重いものも何もない。何も考えなくていい。ただ従うの。私を操る糸に。私をグチャグチャにする誰かに。そうやって、私は壊されていくの。ただ、お父様に壊されるぐらいなら、私は……」
「姫様が壊れてしまうなら、壊すのは僕でありたい。本当に貴女は僕の毒だ。そして、僕も貴女の毒だ。大丈夫。壊れてしまえば、辛いことは何もなくなりますよ。もう頑張る必要もなくなります。壊した後も、僕は最期まで姫様をお護りします。貴女は僕の半身。僕は貴女の半身。
マグデブルクの半球――空気さえない、空っぽの真空が繋ぎ合わせた二つの物質。二つの物質の間にある空洞が満たされることは……ない。
控えめなノック音。ゼノンはノックの主に聞こえるように「すぐに行く」と言った。そして、プシュケの右掌に唇を落とした。
「姫様。ここでお待ちを。僕が逃げてと言うまで、この部屋から出てはいけませんよ」
ゼノンは腰を上げた。離れそうになったゼノンの手を、プシュケが掴み止める。
「駄目ッ」
プシュケはゼノンを決して離さまいとしているのか、ゼノンが痛いと思うほど、力強くその手を掴んでいる。
「ここに居て。お願い……。ここで別れたら、二度とゼノンに会えない気がする……。ゼノンが居てくれるなら、私、ずっとこの部屋から出られなくてもいいから。ゼノンが居てくれたら、それでいい。ゼノンの傍以外は、私にとってどこも危険な場所だわ。私の安全な場所が、無くなってしまう……」
「いけません。姫様はこの国から出るんです。
プシュケの手を解こうとして、ゼノンは手を添えたが、ゼノンの手を掴むプシュケの手の力が弱まることはなかった。
「――……」
困ったように鼻の奥から小さく息を吐くゼノン。
「すみません、姫様。僕はこれ以上、貴女に酷い仕打ちをしたくない。僕の九年間を無駄にしないためにも、この手を離してください。お願いします」
ゼノンの切願に、プシュケは逡巡した後、ゆっくりと手を離す。
「なんだか、今生の別れみたいで息が苦しい……」
プシュケは、ゼノンの手を掴んでいた右手で胸元を押さえた。
今生の別れですよ。
言えなかった。言葉を飲み込んだ。喉が
「……ぐっ」
声が上手く出せない。九年。九年だ。この日のために、我武者羅にやってきた。それも、あと少しで終わる。僕の役目が終わる。
「呪われた世界の中で、僕だけは、誰よりも貴女を、愛してきたと、自負しております……っ」
ゼノンは一句一句、震えそうになる声を制しながら吐露した。熱を持つ涙腺。しかし、泣くにはまだ早い。まだ僕にはやるべきことが残されている。
ゼノンの様子を訝しむプシュケが、口を開きかけた。言葉が発せられる前に、ゼノンは足早に部屋を去った。
後ろ手にドアを閉め、目を閉じて長い息を吐く。肺の空気を出し切り、息を吸うと同時に目を開けると、ヴァイオスが気遣わしげにゼノンを見つめていた。
「大丈夫だ」
ゼノンはヴァイオスの肩を軽く叩いた。ヴァイオスは何か言いかけるが、諦めたように首を横に振った。
「準備は整っております」
ヴァイオスの後ろ。見知った我が国の衛兵と、見知らぬ七名ほどの人影――国外の使者らしき者たちと、その使者たちの
「機が熟したな」
役者は揃った。あとは、あの男だけだ。
「ゼノン! ゼノン! プシュケはどうなっている! さっさと報告に来い!」
噂をすれば、国王が大股でこちらにやってきた。ヴァイオスの背後、見慣れない者たちの存在に気づき、眉を顰める。
「何だ? こいつらは」
「医師と
ゼノンの説明に国王はニヤリと笑い、「へえ。そうか」とだけ言った。感謝や労いの言葉はなかった。
「それで? プシュケの様子はどうなっている」
国王がプシュケの部屋のドアに手を伸ばしたところ、ゼノンが制止する。
「現在姫様は高熱が続いております。医師によると、怪我による発熱だけでなく、原因不明の病も発症しているとのこと。恐らく、神託に背く真似をした罰が下ったのかと。感染する可能性もあるため、入室は医師からも禁じられております。感染が広まれば、国民全員が病で倒れかねません。現在、医療関係者以外の入室は固く禁じられております」
「そ、そうか……」
「姫様は、一刻を争う状態です。このまま婚姻を結ばず姫様がお隠れになったなら、現状姫様の他に世継ぎもおりませんので、正式に王位を継げる者が居なくなります。僕はあくまで一介の王配候補であり、かつては王族だったといえど亡命者でもあります。そのハンデを抱えたまま、婚姻も結ばず、血縁というだけで国王に推薦されるには、年齢もまだ若く、国外に国王としての相応しさを証明できるほどの実力もありません。そうなると、体裁は最悪です。姉君であるディートラ様か、メデア様の御令息をこちらの王族としてお迎えするとしても、国同士の関係の均衡が崩れることになります。どうか、この国の未来のためにも、早急にご決断を」
この国の王は、ゼウスの血を継いでいることが第一条件だ。他国では、戦で勝利をもたらした英雄が王位につくこともあるが、この国ではどこの馬の骨とも分からない英雄が王位につくことはない。万が一、プシュケが死亡した場合、他国のゼウスの末裔を迎えるとなると、国同士の力関係に大きく影響する。国内でプシュケ以外に王としての条件を満たしているのはゼノンのみ。しかし、ゼノンは亡命者というハンデを抱えている。そのまますんなり王位につけるわけではない。国内外が納得する形でゼノンを王位に就かせるためには、プシュケとゼノンの婚姻を交わしておき、王配としての地位を与えるしかない。
なかなか決断しない国王に、ゼノンは追い打ちをかける。
「神託ではプシュケは怪物と結婚するはずですが、その神託は姫様がご自身の目を切り裂いたことで不完全なものとなっております。無視してよいかと。姫様が生死を彷徨っている今、一刻の猶予もございません」
ゼノンの催促を国王は鬱陶しいとでも言うように、手で払うような動作をする。
「分かった。分かった。ゼノンとの婚姻を認める。今日、この日からプシュケは女王、ゼノンは王配とする。これでいいだろう」
「姫様……いえ、プシュケ様は女王、貴方は先王になられる。それでよろしいですね?」
「ああ、それでいいと言っている」
国王――先王の返答を聞き、ゼノンは満面の笑みを浮かべる。
「左様でございますか。では、本日より貴方は地下牢でお過ごし下さい」
素早く、衛兵が先王を取り押さえる。咄嗟のことで、ワケも分からず騒ぎ暴れる先王を、傍で控えていた隣国の護衛の手を借りながら組み敷き、捕縛した。
「無礼者めが!! 俺は先王だぞ! おい、ゼノン! どういうことだ!」
「そう。貴方は先王です。西ノ国と結んだ条約に則り、姫様が女王になった今、この国は西ノ国と従属的国家結合(※時代錯誤ですが、お許しを)しました。つまり、我が国は西ノ国を保護国とし、西ノ国は被保護国である我が国の主権の一部を行使する権利が与えられました。ここにおられる使者の方々が証人でございます」
「昨日、今日で決められた条約なんぞ、いくらでも揉み消してやる! とっとと、この縄と解け!」
先王は蓑虫のように、身をよじらせる。固く結ばれた縄は解ける気配もなく、肉に縄が食い込むばかりで、先王は苦悶の表情を浮かべる。先王である彼がいくら命令しても、その場にいる誰もが縄を解こうとはしなかった。
「昨日、今日の話ではございません。この条約は五年前から結んでいたのです。今更揉み消すことなどできません。独裁者として国内外で有名な貴方は、西ノ国としても邪魔な存在。姫様を表向きに
にっこり微笑むゼノン。
「僕はこの国の土地神でもありますから、この国の繁栄のために動いたまでですよ。貴方は僕の契約者ではありますが、僕は国王としての貴方の立場を守るのではなく、あくまで貴方の命の危険を第一に回避させてきたまでです。何より、貴方は人の上に立てる器ではない。僕の力なくして、国を維持できなかった。国民からの評価も最悪。国民達もよくここまで耐えてくれたものです」
「この国を乗っ取るつもりか!?」
国王はゼノンを睨んだ。ゼノンはそんな国王を見下し、「まさか」と、鼻で笑う。
「こんな国、僕は要りません。何らかの理由で女王不在となった場合は、僕は王配の立場を放棄して、西ノ国に国を譲与することになっております。そうなると、この国は西ノ国の一部となり、土地神としての僕の縛りも消失します。貴方の守護神としての働きはまだ保持されますがね。貴方は勘違いしているかもしれないが、守護神は幸運をもたらしたり、不幸を回避することが仕事ではありません。あくまで契約者が『死なないように』働くだけです。幸や不幸は貴方自身の力で手に入れる以外ありません。そういったものは、与えられるものではなく、掴み取るものなのですから」
そう言うと、ゼノンは片膝をつき、先王と目線を合わせる。
「つまり、貴方は老衰以外の死因で死ぬことがないのです。よかったですね。病気も気にせず、処刑や暗殺の心配もなく、自死も叶わず、暗くて何も無い地下牢で、天寿をまっとうするまで末永く生きていけるのですから。僕が一ヶ月であれだけ疲弊し、消耗した地下牢です。残りの人生、そこでずっと貴方は暮らしていくしかありません。せいぜいその中での幸せを、ご自身の力で手に入れて下さい。応援しております。今の貴方に必要なのはこうふくです。その
柔和に微笑むゼノンに、先王もつられて笑みを浮かべる。
「そうだ! 俺に必要なのは幸福だ! あの地下牢にそんなものがあるのか? どうしたら手に入る!?」
「簡単なことです。人間をやめればいいのです」
甘い囁きは、悪魔の如し。しかし、その言葉を吐いたゼノンの面持ちは慈悲深く、天使のように見える。所詮、悪魔も元は天使。彼はその裏表を体現しているかのようだった。
「は……?」
アンビバレントな情報に表情が固まる先王。ゼノンは春の陽光のように温かな笑みを崩さずに続ける。
「人間として生きることをやめてしまえばいいのです。どう人間をやめるかは、貴方の自由です。例えば、鼠かゴキブリと同じように生きることを選んでみればどうです? 死の危険もなく、衣食住にも困らないのですから、鼠やゴキブリから見れば幸せな環境でしょう。衣食住以外の道楽を捨てた何かになるなり、気を狂わせて現実を一切見ることなく空想の世界で生きていくなり、方法はいくらでもありましょう? 人を人として扱ってこなかった貴方なら、どのようにすれば人間をやめられるのかなんて、容易に思いつくのでは?」
「嫌だ……。それなら、いっそ殺してくれ……殺してくれ! 契約は解消する! だから、とっとと殺してくれ! お願いだ! 今、ここで殺してくれェエエエエエッ!」
叫び、のたうち回る先王。それを見てゼノンの笑みが一気に、真冬の底冷えするような酷薄な笑みへと変わる。
「僕と貴方の契約は、貴方の老衰による死をもってして以外に解消できるわけがないでしょう。貴方はそんな簡単に解消できる契約を交わしたのですか? 僕と貴方との契約は誰かの一存で解消できるものではなかったはずです、それが契約者本人であっても。あの時の貴方に抜かりはなかったはずですよ。まあ、抜かりがなかったお蔭で、今こうなっているわけですが」
「ヒィッ」
先王は悲鳴をあげ、ゼノンの豹変に身を震わせる。
「助けてくれ! 誰か! 誰かァ!」
先王は奥歯をガチガチ鳴らしながら救いを求めた。寒いわけではない。これは恐怖だ。
「誰が貴方を救うのです? 自分を救えるのは自分だけですよ。僕は、貴方が貴方を救うためのヒントを与えました。この国での暮らしを与えてくださったお礼です。後はご自身のお力で幸福を手に入れて下さい」
「……」
先王の顔から血の気が引き、股間からは尿が垂れ、床にアンモニア臭漂う水溜りを作った。
「そうやって一生僕に怯えていろ」
「ゆ、ゆ、赦してくれ……」
蚊の鳴くような先王の声。ゼノンはそれを憐れむでもなく、冷淡に見下す。
「権力と暴力でしか主張を通せない低脳な
「そんなこと言わないでくれ。すまない。すまない。頼む。何とかしてくれ」
国王の懇願に、ゼノンは優しく静かに微笑む。先王はゼノンの表情に安堵した。その先に待っている答えが、期待しているものとは全くの別物であるとも知らずに……。
「謝らなくてもいいですよ。我が身のため。当たり前のことです。ですから、いくらでも乞い求めて結構です。いくら求めようが誰も相手にしない、ただそれだけですから。気が済むまで、好きなだけなさってください、先王様」
穏やかに言うと、立ち上がるゼノン。
「少しでも平穏に生きたいのなら、姫様への執着心を捨てるんだな」
先王を見下ろすゼノンの目からは、感情という感情が読み取れなかった。先王は衛兵たちに抱えあげられる。
「ゼノン! 赦さんぞ! 呪い殺してやる! どうせお前は俺の道具だ! 俺に敵うわけがない! 俺が地下牢に入って怯えるのは、どうせお前の方だろう! 俺をこんな目に合わせたことを一生後悔させてやる!」
衛兵たちに担がれながら、先王はゼノンに吠え続けた。
往生際の悪い。みっともなく減らず口を叩く男だ。
「ハハッ! 引かれ者の小唄にしか聞こえませんねぇ。俺の道具だから敵うわけがない? 人間はね、人間が作った道具に殺されるんですよ。それが強力なものであればあるほど、扱いには気をつけねばなりません。それに、忘れたんですか? 僕は曲りなりにでも神様ですよ? 神を呪うのですか? 何より、『人を呪わば穴二つ』です。呪いに支払うだけの対価もないじゃありませんか。今の貴方に何があるというのです? それでも僕を呪い殺したいのなら、どうぞお好きに。成功したところで、貴方にとっていい結果になるわけがありませんし、そもそもあの地下牢で誰かを呪えるだけの気力をどれだけ保っていられるか、見物ですね。ハハハハハハハッ!」
声を上げて笑うゼノンに、先王は口をパクパクさせるだけだった。
「だから言ったでしょう? 『今の貴方に必要なのは降服です』って。貴方はただ大人しく一生僕に怯えていればいいんです。簡単なことでしょう? 難しいことを要求しているつもりはないのですがねぇ。できませんか?」
幸福ではなく、降服。最初から大人しく降服していれば、みっともなく失禁することもなければ、情けなく赦しを乞うこともなかったのに……。
先王は何も言い返せないまま、暗闇の奥へと運ばれていった。
先王を運ぶ足音が聞こえなくなったと同時に、ゼノンは膝から崩れ落ちた。両手を床につけ、低く唸る。襲いかかる眩暈。頭を上げていられないほどの、鈍く重い頭痛。胃袋から迫り上がってくる吐き気。このまま床に横たわってしまいたいほどに、身体が限界を告げていた。三半規管が狂ってしまったかのように、身体が揺れる。世界が揺れる。平衡感覚を保てない。
苦しい……。頭かグラグラする。立っていられない。気を抜けば嘔吐しそうだ。上半身を支えている両腕にも力が入らない。
「も……無理……だ」
両腕の限界も迎えたゼノンは、冷え切った床の上に倒れた。横たわっていても、吐き気は治まらない。世界も揺れている。頭が痛い。気持ちが悪い。もう何もできそうにない。身体が動かない。頭も働かない。目を開けているのも辛い。
『ゼノン!? さっきの音は? 大丈夫?』
ドアの向こうから、プシュケの声。その直後に、人が床に落ちる鈍い音。目が見えない状態で動き、誤ってベッドから落ちてしまったようだ。プシュケの呻き声がした後、四つん這いで移動する音が聞こえる。間もなくして、ドアに硬いものがぶつかった音がして、またプシュケの呻き声がした。
『ゼノン……ゼノン……』
泣きそうな声。いつもの自分なら、すぐにそのドアを開けて、プシュケを抱きしめてやれるのに、今の自分はそれができない。
「姫様……。この国から……逃げて下さい……」
一音一音発する度に、胃液が逆流しそうになる。口の中に広がる酸味が、嘔吐感を誘う。手足を動かすどころか、喋るのもきつい。
彼女はもう姫ではないが、それでも姫様と呼ばずにはいられなかった。ゼノンにとって、プシュケは大事なお姫様以外、何者でもなかった。女王にする為に教育をしてきたが、国民のために生かざるを得ない彼女になって欲しいとは、一度も思ったことはない。この国で生きていくために、また、この先の人生を生きていくために、そういった教育が必要だっただけだ。
プシュケを国王――否、先王の傀儡にしたくはなかった。だからこそ、精神を蝕まれながらも抵抗して、彼女を形だけでない本物になり得る力を育てたつもりだ。僕らは飾りではない。
本物になり得る力。僕はそれを、信念と、それを貫き通すための知恵と努力だとしている。志有る者は事
『ゼノンが一緒じゃないと嫌よ!』
「僕は……無理です……。僕はもう……限界です……。こうして……喋るのさえ……辛いんです……」
『――ッ!』
プシュケが息を呑む気配。ややあって、嗚咽が聞こえてきた。本当に無理なのだと、一緒に逃げることはできないのだと悟ったようだ。敏い
『分かった……』
涙声の返事。鼻をすする音。彼女を抱きしめてやれないこの身体が憎い……。
ゼノンは、プシュケが四つん這いで一歩一歩慎重に進み、離れていく音を聞きながら、意識を手放した。
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