面従腹背(めんじゅうふくはい)~パトス~
うちの姫様はぼんやりしていることが多い。
今も、ゼノンが話している最中だというのに、プシュケは空ろな様子で椅子に座っている。
この状態のプシュケは、まさに空っぽだ。よくできた彫刻なのかとさえ思える。今この瞬間に火事が起きても、ぼんやり虚空を見つめたまま座っていることだろう。
プシュケは今や十一歳になる。体つきも丸みを帯び始めてくる年頃だが、それと平行して、こうして空虚な状態になってしまう頻度が増えている。
「ひーめーさーまっ」
空ろだったプシュケに生気が戻ってきた。目を瞬かせるプシュケ。
「え……何?」
「僕の話、聞いていましたか?」
「えっと……人に物をあげるな?」
「あともう一つ」
「ん……」
困った顔をしてから、思い出そうと真剣な様子で考え込むが、しばらくするとお手上げだと言いうように、ゆっくり首を横に振る。
「分からない」
「何か、考え事をしてたんですか?」
「……よく、分からない。なんだか、空白の時間がある。……ごめんなさい。でも、ゼノンの話を聞く気がわけじゃないの。勝手にこうなる……。理由は説明できない……」
しょんぼりと、眉をハの字に下げるプシュケ。
「ごめんなさい……」
再び謝るプシュケに、ゼノンは首を横に振る。
「責めているわけではありません。聞き逃してしまった内容は、また伝えればいいだけのことです。そういったことは、後でなんとかなることです。ですが、事故は起きてしまってからでは遅いのです。後でどうすることもできない……。僕はそうなってしまうことが怖いのです」
ゼノンの言葉を聞き、プシュケは目を見開く。
「どうしてゼノンは、そういう風に私を心配してくれるの?」
「そういう風……とは?」
「怒らないし、責めないし、純粋に心配してくれてる。他のごちゃごちゃした感情が入ってない。『こういうお前であれ』みたいなのがない」
「……続けて」
「例えば、ヴァイオスさんが心配してくれたら、それは私が綺麗な女神様じゃないと駄目だからなの。純粋に私のことを心配しているんじゃなくて、私が綺麗な女神様じゃなくなるのが心配なの。根拠は? って訊かれたら、答えられないけど、でも、それは凄く感じることなの」
神格化されているが故に、理想も押しつけられる。ヴァイオスはそれが顕著だ。信仰している対象が生身の人間であろうが、純血の女神と同等でなければならない。偶像が堕ちることを許さない。今はまだいいが、この先、三十歳、四十歳とプシュケの肉体が老いていった場合、彼はプシュケの顔に小さな皺を発見しただけでプシュケを殺してしまうのではないか、とさえ思う程、プシュケに押しつけている理想は絶対的だ。理想が理想でなくなってしまった時、彼にとって至高の女神様の崩壊と共に、プシュケは殺されてしまうだろう。
そうなる前に、あいつをなんとかしないとな……。
今は、まだ早い。利用価値がある。だが、いつ理想が崩れるか……。今、ここにいる現実のプシュケはただの人間だ。ヴァイオスが思い描いているプシュケなど、彼の中にしかいない。彼は一度たりとも現実のプシュケを見ていないのだ。老いはどうしようもないが、それ以外のきっかけで現実のプシュケを見てしまう可能性をできるだけ減らしたい。ならば、プシュケと接触する機会をもっと減らしていこう。となると、人材配置の調整も必要になってくるから、今の配置状況を見直して、最適化を図りつつ、もっともらしい理由を――……
冷めた視線をテーブルの一点に向けながら考え込んでいると、プシュケが身を乗り出して、ゼノンの顔を覗き込む。
「難しい顔してる……。どうしたの? 私、変なこと言っちゃった?」
ハの字に下がった眉。じぃっとゼノンの顔を見つめるプシュケの瞳が、不安と困惑に揺れていた。
ヴァイオスが納得できるだけの理由を探っていた思考をストップさせる。
「変なことなんて言ってませんよ。大丈夫。少し、考え事をしていただけです。だから、そんな顔しないで」
プシュケの顔にかかった数本の髪を掬い、耳にかけてやりながら、ゼノンは微笑んだ。
「考え事? 難しいこと……考えてたの?」
「たいした内容ではございません。大丈夫ですよ」
言いながら、ゼノンはプシュケの髪を撫でる。プシュケはされるがまま、心地よさそうに目を細めた。陽だまりの中にいるような――この瞬間を切り取ってポケットに入れられたらとさえ思えるほど、穏やかな気分になった。
純粋に愛おしいと思った。背後に隠れた、黒い影の気配を感じながらも、荒原にようやく咲いてくれた小さな花を愛でるように……。ざわざわ蠢く影がこの気持ちを覆ってしまう前に、綺麗な瓶に容れて保管できるのならば、僕は瓶に容れられたその純粋な愛おしさだけを彼女に渡したい。そしたら、彼女はどんな表情をするだろうか? きっと――
ぞわりと、黒い影が動き出した。思い描いたプシュケの表情がどんどん変わっていく。
違う、違う、違うッ!! やめろ! これじゃない! 僕が見たい表情は、これじゃない!
ゼノンの手つきに、無防備なまでに気を許しきったプシュケ。安堵に満ちたその表情に、別の表情が重なりそうになった。
「ゼノンは色んなことできるし、賢いし、本当に凄い……。羨ましい……」
プシュケのふと漏らした呟きに、髪を撫でていたゼノンの手が止まった。
「成せることが多い、賢い、ということは、いいことばかりではありませんよ」
ゼノンの手がプシュケから離れる。プシュケも身を起こして、離れていくゼノンの手を追ったが、ゼノンの手はテーブルの下へと隠れてしまった。プシュケは不満げに抗議の目を向けてきたが、ゼノンは知らぬ顔をして、手に残ったプシュケの髪の感触を、影が見せたイメージごと拳を握って消した。
これでいい。これでいい……。
爪が食い込む痛みで上書きされていく。
プシュケはゼノンの手が姿を隠したテーブルを恨めしく睨んだ。
「どうして? できるって凄いことじゃない。賢ければ、難しいことも分かるし、分かったことを人のために還元することもできる。それは素晴らしいことだと思う」
「できるということは、それだけ多くの手段で人を苦しめることも、傷つけることも、殺めることもできるのですよ。それはもう容易く。だって、できてしまうのですから。なんだったら、直接手を下さずとも、自殺に追い込むことだってできてしまう。例えば、どういう言葉を与えれば、精神的苦痛を与えられるのか。どこを撲れば、より痛みを感じるのか。どこを刺せば、一突きで殺せるのか。どうゆさぶれば、相手は不安になるのか。どのタイミングでどこに触れれば、相手は安心するのか。分かるからこそ、できるのです。そして、できてしまうからこそ、利用されることだってあるのです。それが、自分の意に反したことであってもね。……例えば、ある偉人は、弟の死をきっかけに、より安全な建設用爆弾としてダイナマイトを生み出しました。また、ある偉人が発見したE=mc2は――」
後の言葉を飲み込んだ。
「……どちらも、多くの人間を殺めるために利用されたのです。成せてしまうが故に、理解できてしまうが故に、本人が望んだように利用されるわけではないのです。人のために還元できてしまうからこそ、還元したそれを使われてしまうのです。ダイナマイトに関しては、多くの人間を殺めることも想定しておりましたが、それでも思っていた以上に人を屠りすぎた」
「ゼノンは? ゼノンも誰かに利用されているの?」
首を傾げて問うプシュケに、微苦笑を浮かべるゼノン。
「そうですねぇ……。こうして姫様の教育係を任されているのも、僕の知識を利用されている、と言えるかもしれませんね」
「私は、ゼノンから教えてもらったことを悪いことに使ったりしないわ」
口を尖らせて反論するプシュケに、ゼノンは破顔した。
「ははっ。ええ、分かっていますよ。僕の可愛い姫様は、そんなことしません」
「でもやっぱり、私は不器用だし、要領も悪いし、人よりできないことも沢山あるから、ゼノンが羨ましい」
「……姫様。マルハナバチという蜂をご存じですか?」
「マルハナバチ?」
突然の聞き慣れない蜂の名に、プシュケはその名をオウム返しした。
「マルハナバチは、花蜂という蜜蜂と同じく花の蜜を集める蜂の一種です。名の通り、マルハナバチの体は丸いフォルムをしているのですが、マルハナバチの体に対して、あの翅では、通常は飛べないはずなんです(※1934年にオーギュスト・マニャンとアンドレ・サン=ラグが研究した結果。現在は解明済み)。だけど、マルハナバチは飛んでいる。何故か。それは、翅をしならせて空気の渦を発生させているからです。つまり、できないと言われていることでも、工夫をすればできてしまうことだってあるということです。しかも、マルハナバチは比較的遺伝子組み換え率が低いと予想されているのですが、それにも関わらず、分布はとても広いんです(※北極圏から北アフリカまで分布。遺伝子組換え率についてはあくまで「予想」の範疇)。一般的には、遺伝子組み換え率が高い方が、あらゆる環境条件や生態条件に適応できるのですが、マルハナバチは飛べるはずのない翅同様、それをやってのけてしまっているのです。その翅では飛べないだとか、遺伝子組み換え率が低いから適応できないとか、確かに多くはそうかもしれませんが、それが自分にも当てはまるとは限らない。大事なことは、持っているもの・与えられたものをどう使うか、何が利用できるか、ですよ。どうしてもできないなら、できないを補うためには何が必要かを考えるのです。それは努力かもしれない、物かもしれない、人かもしれない。そういったことを考える時間は、できないをできないまま嘆き続ける時間より、有益な時間となるでしょう。でももし、姫様一人で考えることが難しいのであれば、僕も一緒に考えますよ」
しかし、プシュケは哀しげに目を伏せる。
「私には、持っているものを上手に使ったり、与えられたものを上手に利用したりできるだけの器用さがない……」
「姫様は僕とお会いした時、読み書きも満足にできませんでしたが、僕という教育係を与えられたことで、読み書きができるようになりました。教育係を与えられただけで、読み書きができるようになるわけではございません。しっかり話を聴き、書く練習もし、実際に書物を読む……そういった努力を積み重ねてきたからこそ、できるようになったのです。姫様は与えられたものを、ちゃんと意味のあるものにするために、お勉強を頑張ってきたからこそ、こうして読み書きができているのです。それは紛れもなく、姫様の努力の賜ですよ」
プシュケは大きく目を見開いた。
「賢い人は言うことが違う……」
「それは、僕の方が姫様より長く生きているだけですよ」
「違う! だって、他の人はゼノンみたいなこと言わない! ゼノンみたいに、物事の本質をちゃんと見れる人は他にいない! 誰もいない! 馬鹿な私でも、それくらい分かる!」
むきになり、険しい表情で言い返すプシュケ。出会ってからというもの、表情も豊かになってきた。それが、ゼノンには微笑ましかった。
「僕はね、姫様が思っているよりも姫様は賢いと思っていますよ?」
「……っ」
プシュケは驚愕の目をゼノンに向けたまま固まっていた。全く予想をしていなかった返答だったのだろう。酷く動揺しているようだった。
「う、嘘よ……」
「おや。先程、僕のことを物事の本質を見極められる人物と評してくださったのは、姫様ですよ?」
狼狽えるプシュケをからかうように言うと、プシュケの目が急に冷ややかなものへと変わる。
「……でも、ゼノンと同じくらいに賢いっていうわけでもないんでしょう……?」
低く、そして力ない声だったが、それは真冬の海を漂う流氷のような冷たさを持って、ゼノンの元へと届いた。
「私が無能であることに変わりないし、私の無能さも、今に始まったことでもないわ」
返す言葉が見つからなかった。というより、何を返しても、今の彼女には入らないと思った。ゼノンが黙っていると、プシュケはまたぼんやりと虚空を見つめ始めた。
スイッチが切れてしまったかのように、全く動かない。唯一、瞬きをするために動く瞼だけが、彼女を生者であることを示していた。
「……」
ゼノンはプシュケの長い睫毛に指先を近づけた。睫毛の先に指先が触れても、プシュケは微動だにしなかった。瞬きの動きすら変化がなかった。
これは……。
明らかに異常だった。これでは人形というより、機械だ。
「姫様……? 姫様!」
このまま放っておいたら、機械のまま戻ってこなくなってしまうのではないかという恐怖心に煽られ、ゼノンはプシュケの体を揺すった。
すると、プシュケは「うっ……」と小さく呻いた。
「また……胸……痛い……」
プシュケはまだ虚ろな様子で、胸元を摩る。服の下では、未熟な二房が掌の動きに合わせて形を変えていた。ゼノンはその光景から目を逸らす。
プシュケが胸の痛みを訴えだしたのは数ヶ月前からだ。最初、ゼノンは病気を疑ったが、医師に診てもらっても、原因は分からなかった。一体何が原因なのか、医療に関する本を読み漁り調べていたが、分からずじまいだった。だがある日、プシュケの服の胸元が僅かに膨らんでいるのに気付いた。そして、その胸の痛みは成長痛なのだと悟った。
ぼんやりすることが増えてきたのも、ホルモンバランスが影響しているのかもしれない。それとも、体の変化に心が追いつかないのか……。
刻々と、
このままでは、あの日がやってくるのも、時間の問題だ。それが今日来てもおかしくないだろう。
「どうして痛いの? どうしたら治るの?」
苦しげに問うプシュケ。ゼノンはそんな彼女と目を合わせられなかった。
「それは……」
どうして痛いのか? ――知っているが、答えられない。
どうしたら治るのか? ――分からない。成長する限り、痛みは続くだろう。
ゼノンは口元を手で覆い、思考を巡らし始める。
痛みの対処ならできるな。柳の葉・樹皮にはサリシンが含まれている。分量は書庫の本に書いてあったから確認しよう。いかんせん苦味がきついが、煎じて飲ませれば痛み止めの薬になる……。痛みが酷くない限りは、あまり飲ませたくはないが、一応用意しておくか……。
ゼノンは口元から手を離した。
「後で痛み止めの薬を用意しておきます。酷くなるようでしたら、内服して下さい」
「分かった……」
今の彼女は、何を指示しても「分かった」と言いかねない危うさがあった。例えば、「今、ここで死んで下さい」と言えば、「分かった」と返事をして自殺しようとする……そんな剣呑な芳香が、彼女から漂っていた。むせ返るように、それを誘うように……。
僕がしっかり彼女を護っていかねば。
今の彼女は特に危険すぎる。体も変わってきている。信者たちの中にも怪しい動きをする者が増えてきた。そして、今回話していた問題だ。
「話が逸れてしまいましたが、人に物をあげてはいけない理由は、覚えていますか?」
「ごめんなさい……。――どうして、物がなくて困っている人を助けちゃ駄目なの?」
「一度あげたら、その後も何度も求めて来たでしょう?」
「うん……」
「本当に持っていなくて困っているんでしょうか? 最初の一回目は本当かもしれません。ですが、二度目、三度目の物は? 例えば、これ」
テーブルの上に手巾を広げるゼノン。
「街で見つけたものです。姫様から頂いた物だと高値で取引されていました。姫様……これは姫様がとある奴隷に譲与したものですよね?」
「……っ」
プシュケは酷く傷ついた表情で手巾を見つめていた。
「同じ神を信仰していても、信仰の仕方は同じではない。――姫様は女神として国民から信仰されています。しかし、国民全員が同じように信仰しているわけではありません。渡した相手が使い続けてくれるとは限らない。更には、よからぬ信者の手に渡ってしまう可能性だってあるんです」
姫様の優しさも分かるが、これは釘を刺しておかねば、今後どうなるか分からないな。
「姫様。奴隷は物を言う道具です。そもそも姫様は生まれからして、他の人間とは異なります。神の血を受け継ぐ、数少ない存在なのです。奴隷などと気安く言葉を交わすことも、ましてや物を与えることもしてはなりません」
差別的だが、これも王族として必要なけじめだ。
「でも……でも、困っている人は助けないと……」
プシュケは泣きそうになりながら、手巾に手を伸ばすが、プシュケが触れる前に、ゼノンはすかさず手巾を取り上げた。
どこの誰が触り、どう扱ったか……。この手巾以外にも、プシュケが奴隷や使用人に渡した私物をいくつか回収していた。中には、彼女には見せられないような黄白色や桑色の汚れがこびり付き、むせ返る悪臭を放つ物もあった。――随分な信仰心だ。姫様の善意を無下にした挙句、穢らわしい欲の捌け口にした。必ず見つけ出して始末してやる……ッ。
プシュケの私物を売った奴隷や使用人たちを拷問し、ようやく取り戻したと思えば、あのざまだ。転売され、行方がまだ掴めていない物だってまだある。最悪なのは、プシュケを信仰する宗教の一つとして組織化されており、プシュケから直接私物を貰って売った奴隷や使用人は末端にすぎないことだ。仮に、今取り仕切っている者を排除できたところで、その宗教の信者が存在する限り、別の誰かが取り仕切るだけだろう。
まるで、ゴキブリのようだ。
僕の教育が甘かった。綺麗事だけで、彼女を育てていけなかった。愛されない呪いのせいとはいえ、どいつもこいつも姫様にろくな感情を向けてこない。
僕しかいない。彼女には僕しかいないのだ。なのに――
どうして貴女は
「姫様には姫様の立場がございます。助けたいのであれば、姫様が直接手を差し伸べるのではなく、僕や他の臣下や使用人を動かしなさい。物を与えるならば、姫様の私物ではなく、国から用意した物を与えます。姫様が直々に物を与えるなど、顕彰以外ではあってはならないことです。それは、相手が奴隷であろうと、使用人であろうと、臣下であろうと……例え僕であっても同じことです」
「ゼノンも駄目なの……?」
両目から涙をはらはら流すプシュケ。
「ゼノンだけは違うって言って……。ゼノンとだけは、普通にお話ししたい。普通に物だって……あげたり、貰ったり……。私……他に誰となら……普通に……」
まだ幼い、小さな肩を震わせて項垂れる少女に、女王や女神など、あまりに重すぎて、押しつぶされてしまいそうだった。
この
気付いた時にはもう、ゼノンはプシュケの体を掻き抱いていた。手巾が、ひらりと床に舞い落ちた。
「姫様……ッ! すみません、姫様……すみません……僕は……僕……は……教育係失格です……」
プシュケを女王に相応しい女性にするために、教育係を任された。最初から、女王にするのは乗り気ではなかったが、今この瞬間ほど、プシュケが女王になることへの拒否感は感じたことがなかった。
「僕が……僕がいます……。姫様には、僕がいます……。他に誰も姫様を愛してくれなかったとしても、僕だけは姫様を……愛しております……。世界中の誰もが姫様を憎んでも……敵になっても……僕だけは……ッ!」
骨が軋むほど強く抱いた。腕の中では、プシュケが苦しげな息と共に、か細い声を漏らす。それでも腕の力を緩めることはできなかった。そうしないと、彼女が深い谷に落ちてしまいそうだった。ここに谷などないのに、それは確信的だった。プシュケの命を繋ぎ留めるために、ゼノンは必死にその体を抱き締めていた。
「ゼノ……泣い……て……?」
プシュケは魚のように口をパクパクさせながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。頬にプシュケの息と、熱い一筋が流れる感触。――気付けは、ゼノンの目からも涙が流れていた。
その日の夕暮れ時、ゼノンが帰る支度をしていると、プリムスが息を切らして走ってきた。ゼノンの傍まで来ると、ゼノンの両肩を掴んで頭を垂らす。
「ぜー。あー。ぜー。ぜー。もー無理……。はー。ぜー」
荒い息を吐くプリムス。ゼノンはプリムスの手を払いのけて、踵を返した。
「引き留めたのに行くんかい! ちょい待って! 待ってぇなぁ! 息整うまで待ってくれたってええやろ~。冷たすぎやろ、自分~! 一番に報せよう思って、ぼく、体力ないのに頑張って全力疾走してきたっちゅうのに~」
ゼノンは足を止めて振り返る。
「それだけ喋れるのでしたら、さっさと用件を仰って下さい」
「あれはぼくのツッコミの
プリムスの発言が理解できず、眇めるゼノン。
「……解せない」
「解せんくても、えびせん食っても、かまわん!」
「左様でございますか。側用人の次はラッパーになってみては如何です?」
ゼノンはにっこり笑みを浮かべて、再度立ち去ろうとする。
「なッ! ちょぉッ! 話聞いてぇやー!」
よく喋る男だ。
「さっさと本題に入らないからでしょう」
ゼノンは呆れた顔をプリムスに向けて立ち止まった。
「分かった! 喋るから! せやから待って!」
「ええ待ちますよ」
「おおきに~。ちょい待ちや~。ヒッヒッフー。ちゃう! これラマーズ法や。ス~~~ハ~~~ス~~~ハ~~~……うぇ! ごほごほ!」
プリムスは深呼吸の途中で噎せた。
「それだけ喋れるなら、もう整ってるでしょう」
「ちゃう! ぼくの中の関西スピリットが喋らせてるだけや! ごほごほ!」
「……」
そっとしておこう。
「よっしゃ。息整ったで~。ほんで、ぼくの人生でいっちゃん速かったんちゃうかってぐらいにめちゃくそ走ってまで、ゼノンに真っ先に伝えなアカン思ったんは……そう! プシュケ様がとうとう初潮――」
言い終わる前に、ゼノンはプリムスの口を手で塞いだ。プリムスの肉のついた頬に指が食い込む。何事か、訳がわかっていないプリムスに顔を近づける。
「デカい声で話す内容じゃない。貴様も拷問部屋に行きたいか?」
ゼノンの低く、押し殺した声に、プリムスは稼働できる範囲で首を横に何度も振った。
ゼノンがプリムスの口から手を離すと、プリムスは頬に微かに残るゼノンの指痕を擦る。
「さ、さーせん……。めっちゃ怒ってはるやん。なんぼぼくが痛み感じへんくても、あんさんの拷問だけは勘弁ですわ~、ホンマの話ぃ~。痛いとか、痛ないとか、そういう次元ちゃうもん、ホンマの話ぃ~」
「姫様のその情報を知る者はどれだけいるんです?」
「ぼくと、あんさんと、第一発見者の世話係の使用人やな。めっちゃタイムリーやろ? 本来真っ先に報せなアカンの国王様やのに、ゼノン優先やで。バレたら激おこどころちゃうで。遅なりすぎたら怪しまれるし、隠せるもんでもあらへんから、ぼくはこの後にでも国王様に報告しに行くけど……あんさんどないする?」
「姫様は今どこに?」
「お部屋で横になってはるで~。ぼくが見たときは、顔面蒼白やったな」
顔面蒼白。それは精神面からか、肉体面からか……。
「……ありがとうございます。プリムスさんは、早く国王様に報告しに向かって下さい。僕は姫様の様子を確認してきます」
「おけおけ~。ほな、報告してくるわ~。夕飯は豪華なるで~」
夕食が豪華……? 初潮を慶するのか? あの親が?
そこに情などないだろう。形だけの祝いの席に、無言で食事をする国王と王妃、主役として祭り上げられたプシュケが青ざめた顔で一人座っている姿が目に見える。
祝いなど必要ない。そっとしておいてくれ。
だが、現実はそうもいかない。そっとしておいてくれない。形式上であっても、祝わねばならない。それが仕来りだ。それが社会だ。
下らない。どこの誰が決めたかも分からない風習に従わねばらならないなんて。こっちの事情も知らないで……ッ。
募るイライラが、歩を進める足を大股にさせていく。
他の国の王女と比べて、うちの姫様の扱いは何なのだ。
同じ姉妹でも姉二人とプシュケの扱いは違う。王女らしく扱われ、美人姉妹として国民から愛されている。王女が王女として扱われているのと、王女であるのに女神として扱われているのでは全く違う。
プシュケの部屋の前に到着した。控えめなノックをする。
「姫様。ゼノンです」
……返事はない。もう一度ノックをして声をかけるが、やはり返事はなかった。
「……入りますよ」
扉を開けた。灯りも消して、
「姫様……お加減はいかがですか?」
プシュケは答えなかった。ゼノンは薄闇の中、静かに彼女の言葉を待った。
「……お腹……お腹痛い」
ようやく発した声は、静かな部屋の中でも消え入りそうな程、微かな声だった。
「お腹が痛いだけではないのでしょう……?」
痛いのは腹部だけではない。今の彼女は、身体中に痛みがるように見えた。
嗚咽を噛みしめる声。隆起した布団が震えだす。ゼノンはただただ傍で見守った。彼女に触れなかった。今、この瞬間の彼女に接触は要らない、と思った。
「いっぱい痛い?」
「いっぱい痛い……痛い……。感情なんか要らない。こんなの要らない……ッ。つらい……こんなにつらいのなんか要らない……」
涙声で訴える彼女の言葉を、ゼノンは噛みしめるように目を閉じて聴いた。
「……うん」
「血が出た」
「うん……」
「気持ち悪い……。感触も、こんな躰も……」
「うん……」
「お腹痛い……。血も出る……。吐きそう……」
「……うん」
「どうして躰が変わるの? こんな躰要らないのに」
「要らないの……?」
「要らない……」
「どうして?」
「……この感じ嫌。垂れる……気持ち悪い……吐きそう……。毎月血が出るって言われた。五日間も出るって言われた。昨日まではこんなことなかったのに。胸が痛みだして……それから……こんな……。私の躰が……。私の意志じゃないのに、変えられる……。こんなの、いつまで続くの? ねぇ……」
それまで閉ざされていたゼノンの目が、ようやく開いた。
「……つらくて当たり前です。自分の意志は反映されず、自分のものであるはずの体が勝手に変えられるのですから」
彼女の立場からすれば、そういうことだ。自分の体でさえ、自分のものではなくなったのだ。
「女性はみんな通る道だって言われた。女になったんだって言われた。子どもが産める、喜ばしい躰になったんだって……。喜ばしい? 何が? 子どもが産める? 私、子どもじゃなくなったの? 誰の子どもを産むっていうの? 産めるから何?」
言うと突然、掛け布団を乱暴に払い、身を起こすと、涙で濡れた顔と瞳をゼノンに向けるプシュケ。
「するんでしょ!? ■■■■を! アナタだって、誰かとするんでしょ!?」
プシュケは憎しみに満ちた瞳でゼノンを睨みつけた。ゼノンは何も答えず、哀しげな瞳でプシュケを見つめ返した。
「私、知ってる! ゼノンはちゃんと教えてくれなかったけど、知ってる! どうやって子どもができるのか知ってる! ちゃんと教えてくれなかったから、自分で調べた……。私……あれを知ってる……」
「それ以上はいけません……。何も言わないで下さい……。お願いです」
「だって私は――!」
「姫様!!」
ゼノンの大きな声に驚き、プシュケの体がビクッと反応した。
「それは……記憶違いです……。姫様は何も知らない」
「この生々しい感触を知っているのに?」
「――ッ!!」
ゼノンは大きく目を見開いた。掌が汗で湿り気を帯びる。躰が何かを覚えている。その事実がゼノンを大きく揺さぶった。躰があの忌々しい感触を覚えている。
ゼノンの脳裏で、
動揺を鎮めるように、一度呼吸に集中する。乱れかけていた呼吸が落ち着いていく。映像と共に水面下から浮上してきたあらゆる体感を再び沈めると、ゼノンは口を開いた。
「それでも、『知らない』と言わせてみせますよ……。僕は、そのために居るのですから」
「どうやって」
「簡単なことです」
ゼノンは妖しく微笑むと、プシュケの耳元に口を寄せた。あの男にいつもしているのと同じだ。何も難しいことはない。蓋が開きかけたのなら、また閉じてしまえばいい。
……
…………
ゼノンの囁きを聞いたプシュケは、ゆっくりと瞬きをした。
「さ、姫様。痛み止めのお薬をお持ち致しましょう。空き腹で飲めば胃が荒れますので、何か胃に入れねばなりません。何がいいですか?」
にっこり微笑むゼノンをプシュケは睨みつける。
「……何をしたの?」
「さて? 何のことでしょう?」
「惚けないで!」
「姫様はお疲れになっている。本日の
ご馳走と聞き、プシュケの顔色がみるみる青くなる。
「食べたくないわ……。こんな躰、祝って欲しくなんかない……」
ぱたりと倒れるようにベッドに横になるプシュケ。下腹部を抱え、体を丸める。
「何も要らない。食事も、薬も、この躰も、感情も……」
息を吐くような、力のない声だった。ゼノンはプシュケと同じようにベッドに横たわる。目を伏せるプシュケの顔をじっと見つめるゼノン。
「じゃあ、何だったら必要?」
「……別の躰。別の人生。こんな躰も人生も要らない」
「それが手には入ったら、どうなる?」
「……今より楽になる」
幸せになる、と言わない辺りが彼女らしい。
「楽になりたい?」
「それ以外の何があるっていうの」
「感情を失うことが楽?」
「楽。こんなにつらいもの」
「楽しいことも分からなくなるというのに?」
「……つらいよりマシ」
「それほどまでに姫様は――」
楽しいことよりも、つらいことの方が多いのですね。
口には出さず、心の中だけで呟いた。
「感情は何故必要だと思いますか?」
ゼノンの問いに、プシュケは伏せていた目をゼノンに向けた。
「……知らない」
「野生の動物は言葉を発しません。それでも、種にもよりますが、仲間同士でコミュニケーションを取る必要があります。その手段の一つが感情です。喜怒哀楽、もしくは快、不快を動作や鳴き声で表現しています。人間同士でも、言葉は分からなくても、声から感情を読み取れることだってありますよね。何を言っているのか分からなくても、その人が怒っているのか、喜んでいるのか……。まあ、百パーセント正確に判断できるわけではありませんが、淡々とした口調の全く知らない外国語を聞くのと、感情表現豊かな口調の全く知らない外国語を話されるのでしたら、後者の方が伝わってくる情報は多いでしょう。そして、心理学の実験では、視覚的断崖実験というものがあります。――床の一部を硝子にし、その名の通り、視覚的に断崖があるかのような箇所を設けておくんです。床を視認できる場所に赤子を乗せ、視覚的断崖となっている向こう側には赤子の母親に立って頂きます。そういった環境で、母親の表情によって、赤子がどういった行動をとるのかを実験したものです。母親が言葉を発せずとも、母親が笑顔であれば、多くの赤子は視覚的断崖の上を移動して母親の元に行きますが、母親が無表情であったり、心配そうな表情をしていたり、怯えた表情をしていると、多くの赤子は視覚的断崖の上を移動しなかった。――言葉は詳細な情報を共有できますが、感情はもっと漠然と、しかしスピーディーに情報を共有することができます。感情とは、優れたコミュニケーションツールなのです。だから進化の過程で淘汰されずに残っている。人気者の人間は、たいてい喜怒哀楽が豊かな人が多いのも、感情という優れたコミュニケーションツールを上手く活用しているからこそなのです。ですが――」
だからと感情豊かになれとは言えない。感情豊かでいても安全に暮らせる環境に身を置いていなければ、感情は自身を傷付ける鋭利な刃物にしかならない。
「自分の感情であれ、相手の感情であれ、感情に振り回されるのは、生きていく上で苦しいことです。環境によっては、感情を殺さねば生きていけないことだってあります。僕は姫様を取り巻くこの環境を変えたい……。だけど僕は……僕は……」
この国から出ることができない。貴女をこの世界から連れ出すことができない。
プシュケから目を逸らしかけた時、ドアをノックする音が聞こえた。ゼノンはすぐには起きず、プシュケの頬を撫でる。涙の跡が乾ききっていないプシュケの柔肌が掌に吸い付いた。
「感情を捨てねば生きていけないような環境に、身を置き続ける。……こんな哀しいことはない。感情を素直に吐き出したとて、まともに受け止められない。赤子に対する大人の見方もそうですが、動物や赤子は感情を身体で表現してるのに、そこに人間はああだのこうだの自分都合の勝手な思考を乗せていて、コミュニケーションが噛み合わない。人間は言語と非言語を使ってコミュニケーションを図っていますが、人間はいかに言葉と感情が一致していないのか、相手に幻想を押しつけているのか、この国にいると、嫌でもよく知れます……」
姫様は必ずこの国から出す。どんな手段を使っても。僕がどうなろうとも。
それまでこの身が持つかどうか……。
「ゼノン……」
プシュケは物言いたげにゼノンを見つめる。ゼノンはその視線から逃れるように、ベッドから降り、ドアへと足を運んだ。
右目を覆うように巻かれた包帯。小指と薬指の無い左手。ドア前で待っていたのはプリムスだった。てっきり奴隷が何かを運んできたのだと思い込んでいたゼノンは一瞬頭が真っ白になった。
「どうして貴方が」
「ほい、これ。プシュケ様に必要やろ? 日中にあんさんが用意させとったやつ、葉っぱの分量も計ってあって、後は鍋に入れたらええ状態やったから、煮込んで持ってきたったで」
プリムスは痛み止めの
「その時が来たんや」
「その時が来た? それは、一体どういう……」
プリムスは答えず、プシュケの部屋に入った。いつもと違うプリムスの様子に、ゼノンは胸騒ぎを覚えた。
「プシュケ様。こうしてお話しするのは初めてですね」
プリムスはプシュケと滅多に顔を合わせない。その印象の強すぎる見た目から、極力プシュケに姿を見られないように自重していた。プシュケと鉢合わせしそうになると、彼はすぐにルートを変更し、ニアミスしないようにいつも注意を払っていた。
「プリムスさん……」
滅多に姿を見ないとはいえ、プリムスの存在を知っていたプシュケは彼の名を口にした。それが嬉しかったのか、少し泣きそうな顔でプリムスは微笑む。
「御見知り置き頂き、光栄です」
プリムスはプシュケに近づき、ベッドサイドに片膝をつく。目線が合ったところで、プシュケの目を右手で覆った。
「な、何……?」
困惑したプシュケの声。プリムスが「少し、眠りましょう」と言うと、数秒の内にプシュケは寝息をたてた。プリムスが立ち上がり、右手が退けられると、プシュケの寝顔がそこにあった。
「時が来たって、どういうことです? 姫様は……」
「そのまんまの意味や。ぼくが必要な時が来たから、もう戻るわ」
戻る。
その言葉の意味をゼノンは悟った。
プリムスは消えるのだ。
正確には、プシュケの元に戻るだけだ。だが、元に戻ると、プリムスの関わる部分だけ言葉通り元通りになるのだろう。彼が存在しなかった世界に戻るのだ。人々の記憶から消えてしまう。彼が現れた時、ゼノンと同様に辻褄合わせの設定が設けられ、世界に紛れ込んだが、その辻褄合わせの設定ごと、消え去るのだ。
「……」
僕もいつか消えるのか?
きっとそうなのだろう。でも、まだ駄目だ。この記憶は姫様には渡せない。
僕の場合は姫様の元にも戻らずに、ひっそり消えて逝く方が可能性として高い。彼女にとって、この記憶は要らないものだから。持っていては生きていけないものだから。
そう思うと、無性にプリムスが羨ましくなってきた。今、彼は必要とされて戻るのだ。プリムスはこの世からは消えてしまうが、これからはプシュケの一部として生きていける。
生きていくために捨てられた僕とは違う。
「ぼくが戻れば、ぼーっとすんのもマシになるやろうし、あんさんが憑かれたときも、何かしらの違和感とか、気持ち悪さとかで気付けるようになると思うで。実際、プシュケ様がどんな感覚で察知するんか知らんけど~。せやな~、ぼくの予想では吐き気やな。なんかちゃう! おえっ! って感じや!」
姫様がぼんやりする頻度が少なくなるのなら御の字だ。……御の字だ。
同じ、姫様から分裂してできた存在なのに、彼と僕はどうしてこうも違う?
そんなこと、考えたところでどうしようもない。僕と彼では役割が違うのだ。頭では分かっているが、納得ができない。
ゼノンが胸の突っかかりを感じてると、プリムスは、ハッと何かを
「……なあ、ゼノン?」
「なんです?」
「なんでこんなにちゃうねん! って思ってるやろ」
プリムスはにんまり笑い、ゼノンの内心を見事的中させた。
ゼピュロスに似ている、と一瞬思ったが、やはり違う。ゼピュロスは直感や推測からピタリと言い当てる。それが言い当てられた本人が思ってもみなかったことであってもだ。対してプリムスは、
プリムスにかかれば、ポーカーフェイスの裏側もお見通しだ。
「……ええ。そうですね」
ゼノンは口元を綻ばせた。それに釣られるように、プリムスも笑みを浮かべる。
「短い間やったけど、世話なったな」
彼の朗笑が何故だか目に沁みた。
「ぼくは消えるけど、プシュケ様のどっかに、ぼくはおるよ。ゼノンは隠すのが上手いから、みんなからなかなか分かって貰えんことも多いやろうけど、これからはプシュケ様がゼノンのことをちゃんと見てくれるで」
そう言うと、プリムスの体が透け始めた。ゼノンが口を開こうとした時には、全く見えなくなってしまった。プリムスは、消えてしまった。
呆気ないものだと思った。同時に、本当にプリムスが消えたのか、疑念が生まれた。ゼノンはプシュケが深く眠っていることを確認すると、部屋を出た。
丁度、通りがかった臣下にプリムスはどこにいるのか訊ねた。プリムスという名を聞いた臣下は、怪訝な顔をし、所在を知らない旨を伝える。
ヴァイオスなら、覚えているのではないだろうか。
そう思い、ゼノンはヴァイオスを探した。探しながら、プリムスを知らないか、通りかかる者に訊ねてみるが、皆首を横に振った。王宮内を歩き回り、ようやくヴァイオスを見つけた。ヴァイオスもゼノンの姿を認める。
「ゼノン様、どうされました? 私を探していたようですが」
「一つ、訊きたいことがありまして。プリムスさんを知りませんか?」
ゼノンの質問に、ヴァイオスも最初に訊ねた臣下同様、怪訝な顔をする。
「プリムス? ……この王宮にいる者ですか?」
「そう。側用人のプリムスです」
「側用人? 何を仰っているんです? 側用人が長らく不在なのは、ゼノン様もご存知のはず……」
明らかにヴァイオスは困惑していた。嘘や冗談を言っている様子ではない。そもそも、ヴァイオスは冗談を言う人間ではない。
ぞっとした。人が一人消えた。最初から存在していなかったかのように、消えた人間を誰も覚えていない。思い出せない。覚えているのは、恐らくゼノン一人……。
これまでのプリムスとの記憶が嘘なのか本当なのか疑わしく思えてきた。ずっと幻覚を見ていたのかもしれない。それとも、これは夢で、目が覚めるとベッドの上ではないのか? 違う……そんなはずはない……。
「ああ、そうだ。つい先程決まったのですが、とうとうゼノン様が侍従に任命されましたよ。今、侍従を任されている者の一人が側用人をすることになったので、空きができたのです。突然の異動ではありますが、プシュケ様の月の障が来て、国王様もゼノン様を王配とする意向を固めたのかもしれません」
念願の侍従になれた。一歩進んだ。なのに、何一つ嬉しくない。喜びよりも、圧倒的に不気味さが勝っていた。
ぞくっ……。怖気が全身を襲った。
本当にプリムスを覚えていないのか?
ヴァイオスは覚えていない。彼は嘘も冗談も言わない男だ。何度同じ質問をしても、答えは同じだろう。
訊いてみなければ分からない。
さっきの反応で分かるだろう。彼だけではない。ここに来るまでに何人声をかけた? 何度確認した? ヴァイオスですら覚えていないんだぞ。
姫様は? 姫様なら覚えているんじゃないのか?
一分一秒でも早く確認したくなった。堪らず走り出すゼノン。後ろからヴァイオスの呼び止める声がしたが、無視をした。
「姫様!」
部屋のドアを乱暴に開けた。その音にプシュケが飛び起きる。ゼノンはプシュケに向かって真っ直ぐ歩き、寝起きで状況もろくに整理できていないプシュケの両肩を掴む。
「プリムスという側用人をご存知ですか?」
今日が何日なのかも把握できていないであろうプシュケは目を白黒させる。
「プリムス?? 側用人??」
プシュケは部屋を見渡し、痛み止めの煎液が入った容器と、腹部の痛みに、まだ日付が変わっていないのだと知った。そして、プリムスという名の人物を記憶の中から探し出そうとして、考え込む。
「……知らないわ。その人がどうしたの?」
二分近く考えてくれたが、プシュケの答えはノーだった。
プリムスの両親は一昨年に亡くなっている。彼らに確認をとることはできない。
「あの煎液を持ってきた男性です。――覚えていませんか?」
「あれを持ってきたのはゼノンでしょう?」
小首を傾げるプシュケ。「どうしてそんなことを訊くの?」と訊きたげな顔をしていた。
きっと……いや、これはもう確定だ。プリムスを覚えているのは僕しかいない。
プリムスが消えたことよりも、自分が消えてしまう日が恐ろしくて堪らなくなった。プシュケの思い出してはいけない記憶ごと消える役割だったとしても、プシュケに存在を忘れられてしまうことは耐え難かった。
「ゼノン? どうしたの?」
肩を掴むゼノンの手をそっと握るプシュケ。
「……怖いの?」
窺う瞳。しかし、その声色は酷く優しく、胸を締め付けた。
――ぼくは消えるけど、プシュケ様のどっかに、ぼくはおるよ。
プリムスの声が鼓膜に蘇る。
羨ましい……。
言葉でそう表したが、実際は羨望とは別の感情――腹の底から沸々と煮え立つような
だって、貴方はそうやって姫様と一つになれたのだから。
黒い影が鎌首をもたげる。ゼノンの内部を這う舐めるような感覚に、今や心地良さすら感じていた。
僕はどうすればいい?
簡単なことじゃないか。
すかさず影が囁く。
躊躇う必要はない。
やめろ! 駄目だ。だって今は――
今は? 今じゃなければいいのか? いつならいいんだ?
影がほくそ笑む。よく知った誰かと同じ顔で。
いつであっても……僕はそんなことはしない……。
白々しい。お前はこのまま消えて逝っていいのか?
この世で最も憎んでいる男と同じ笑みを浮かべる自分の顔が迫る。
『素直になったらどうだ?』
その声は確かな肉体を帯びた声だった。吐息すら感じられた。圧倒的存在感を纏った声は、呪いのように何度も何度もゼノンに問いかける。
素直? 素直になる……?
「素直って何だ……?」
疑問が口から出た。意識が現実に引き戻される。プシュケの肩を掴んだままの手。目の前には、青い顔をして口を押さえるプシュケ。
彼女が嘔吐物を床に撒き散らすのは、この数秒後であった……。
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