面従腹背(めんじゅうふくはい)~エートス~

 プシュケの教育係となり、居住が地下牢から貴族の邸宅へと変わった。養父母には実子がいないため、血の繋がらない兄弟関係で煩わずに済んだ。養父母は血族貴族らしく保守的で、時代にそぐわないその思考から、ゼノンとはあまり意見が合わず、彼らと楽しい会話をした覚えがない。

 地下牢から出ても、結局僕はあの国王に飼われている。

 だからとそこに甘んじ続けるつもりもない。まずは侍従の立場を狙おう。この世界で姫様を護ってやれるのは僕しかいない。あの国王から護ってやれるのも僕しかいない。姫様と供にいる時間を可能な限り作るためには王宮に住まう必要がある。国王への進言も侍従になればやりやすくなる。侍従という立場があれば王宮内でかなり動きやすくもなる。国王の近くにいれば、何か活路に通じる弱みのひとつでも見つけられるかもしれない。侍従になるだけで現状を打破できるとまでは思っていないが、ただ飼われているだけで終わるより百倍マシだ。

 日が暮れ、邸宅へ帰る準備をしていたところ、書記官カッリグラプスのヴァオイスに呼び止められた。

「お時間頂けますか?」

 それだけ言い、ヴァイオスは公文書館タブラリウムの奥にある一室にゼノンを案内した。(※古代ローマ・ギリシャ時代で、公文書館の奥に別室があるなんて構造のものはなかったかと思います)

 部屋に入ると、宦官クビクラリウスの側用人(※本作では、侍従は国王の世話やサポート係で、側用人は国王の言葉を国王に代わって伝え広めるメッセンジャーのように書いてます)プリムスが既に椅子に座って待ち構えていた。

「ど~もど~も~。こうして顔を会わせんのは初めてやんなぁ」

 少年のような声。髭がないつるつるの肌。小太りな体。彼は幼少期に去勢されており、声変わりもしていない。古代ギリシャ・ローマでは高級官僚の世襲を防ぐために宦官を高級官僚に用いることが多かったのだが、プリムスもその一人だ。

 プリムスは、より高位に出世できるように、親の手によって去勢させられた。去勢すれば誰もが出世できるわけではないものの、それをする親は少なくない。ただ、プリムスは出世だけが理由ではなかった。去勢に至った経緯は王宮内でも有名で、ゼノンの耳にもすぐに入った。

 プリムスは左目を覆うように包帯を巻いている。怪我をしているわけではない。だが、ずっと包帯を巻いている。――左目がないのだ。無痛症。彼は痛みを感じられない。触れている感覚は感じられるが、熱さや冷たさ、痒みも痛みも分からないのだ。そのせいなのか、彼は一切汗をかかない。汗をかかない分、体に熱がたまりやすく、幼少期は何度か熱中症で倒れたりしていたそうだ。味覚では、辛いが分からないのだという。唐辛子も、汗ひとつかかずに涼しい顔で食べ続けることができる。左目は赤子の頃に失明するまで目を引っ掻いた結果なのだと聞いた。腹痛も感じないわけだが、不思議なことに便意はあるそうだ。

 プリムスが痛みを感じていないことに気付いたプリムスの両親は、『この子は去勢の痛みも感じることないだろう。きっと宦官になるべくして生まれてきたのだ!』と思ったそうだ。実際にプリムスは去勢されても痛みを一切感じなかったのだとか。

 ゼノンも直接プリムスと対面するのは今回が初めてだ。遠目で見るだけでは分からなかったが、左手の薬指と小指がなく、体の至るところには怪我や火傷の痕が残っている。痛みを感じないが故に、体が傷つくことに無関心なのだろう。

 ヴァイオスは空いている椅子を引き、座るように促すがゼノンは断り、壁に背を預けた。

「それで? これはなんです?」

 書記官と側用人。そこに先日まで地下牢で過ごしていた教育係。この三人が集まる理由を探したが、見当たらなかった。

「王子様は、壁にもたれるだけでも様になるんやなぁ。髪もサラピン(=まっさらで新品)のシルクみたいにごっつ綺麗やし、ぼくらとは別世界の住民って感じやわ~」

 ゼノンの質問と関係のないことを言うプリムスにヴァイオスは咳払いをする。

「現国王様は国王に相応しくない、と貴方も思っているでしょう?」

「……」

 ゼノンはヴァイオスの問いに答えなかった。安易に答えて首を刎ねられるのは御免だ。

「貴方を姫様――プシュケ様の教育係に推薦したのは私です」

「……話を続けて下さい」

「姫様は女王になられるお方。私とプリムスはプシュケ様をあの国王様からお守りしたいのです」

「具体的に」

「国王様の好き勝手にさせていたら、この国はただの独裁国家に成り下がってしまう。そして、プシュケ様も国王様の都合に振り回され続けることでしょう。女王になられたとしても、国王様が死なぬ限り……。この国のためにも、姫様のためにも、まだあの国王様の傀儡になっていない、尚且つプシュケ様の傍で誰よりも力になれる方を探していたのです」

「それが僕だと?」

「貴方はプシュケ様の婚約者です。王配として、プシュケ様と共にこの国を担う者。王子としての教養もある。プシュケ様が女王になられた後も、この世の誰よりプシュケ様のお力になってくれると信じております。――この王宮には、あの国王のやり方に疑念を抱けるほど聡い者も、反抗する気力のある者もいません。この国の外から来た貴方こそ、我らの希望の光なのです」

 ヴァイオスの真っ直ぐな目を受けて、ゼノンは自嘲気味に鼻で笑う。

「『希望の光』ねぇ……」

 希望の光? 姫様は僕を捨てた。姫様ぼくぼくという光を捨てて、闇の中を彷徨っているとでも言いたいのか?

 我が身を護るため。分かっていますよ。だから僕と姫様が別々に存在しているんだ。僕は姫様の希望ではない。ぼく姫様ぼくにすぎない。姫様ぼくを護るためのぼくだ。希望ではない。僕に彼女の理想はあるだろうけど、希望ではない。だが、希望を見つける手助けはできるだろう。

「気に障りましたか?」

「まさか」

 悠然とした笑みを浮かべるゼノン。

「それで? 僕にどうして欲しいんです?」

「請うのは我々です」

「……つまり?」

「我々にとって、真の主はプシュケ様。反国王派です。あのような悪鬼に国をまかせていたら、この国は悪鬼の傀儡しかいなくなってしまいます。これまでも仲間が何度か国王の暗殺を企てましたが、悉く失敗し……芋づる式に露見した仲間は全員殺されてしまいました。露見をなんとか免れて生き残ったのは、私とプリムスのみ。我々の知恵と権力だけではプシュケ様を国王様の毒牙からお守りできない。――ゼノン様はこの国の侍従についてお調べになっておりましたね。地下牢での貴方の姿を思い返す限り、単に国王に取り入ろうとしているだけとは思えない」

 ヴァイオスは自身を落ち着かせるように、目を閉じて深呼吸をする。目を開ける。その目は、捨て身の体当たり攻撃をする特攻隊のような、自分の命を捧げる覚悟を決めた目だった。

「我々が道を作ります。貴方がプシュケ様を護るために必要な場所までの道を。それなら我々でもできる。貴方はどこに向かう道が欲しいのかを仰ってください」

「どうしてそこまでするんです?」

「プシュケ様は女神様です。敬っている神が悪鬼の贄にされていくのは耐えられない。プシュケ様には、もっと崇高な場所にいて欲しいのです」

「それは純粋な信仰心ですか?」

「……実は四年前……ああ、なんと言えばいいのでしょう……ある日突然プシュケ様への愛情が消えたのです。少なくとも、この国に住まう者は全員。プシュケ様を見ると、彼女がただただ美しいの彫刻のように見えるようになったのです。美しいとは思えど、愛おしいとは思えないのです。同じ生きている人間……いえ、もっと深い水準……同じ生き物として見れないのです。愛せなくなった代わりに、私を含めこの国の国民たちは、プシュケ様のゾッとする無機質な美に畏怖するようになりました。愛するどころか畏れるようになった国民たちは、プシュケ様を崇拝するようになりました。なので、この信仰心を純粋なものなのかと問われると、『愛という不純物のない信仰心』と表現することもできますし、『愛が欠落した信仰心』と表現することもできます。前者と後者ではニュアンスが異なりますが、どちらの意味でも間違いありません。私は、愛情からプシュケ様を大事にしたいわけではなく、私の中にある女神像をプシュケ様に押しつけているだけです。私の女神はこの国で国王あのような男に好き勝手されるのではなく、もっと崇高で美しい場所にいるはずであり、絶対にそうあるべきだという思いです。これは愛ではない。私の自儘な理想の女神像を、プシュケ様を通して実態化させたいだけです。愛情を向けられない以上、こういう形でしかプシュケ様を大事にする動機が生まれないのです」

 重い。

 そう思った。

 ずっしり、頭上から何かがのし掛かる感覚。ヴァイオスの言う通り、こんな感覚がするは愛情ではない。

 こんなもの、愛情なんかじゃない。

 アフロディーテはなんて厄介な呪いをかけたのだ。呪いのせいで、どれほどプシュケの世界を変えてしまったのだろうか。

「愛せなくなる前と後で、何か気付いたことは?」

「国外でも、四年前の同じようなタイミングでプシュケ様の信者が増加していったので、きっと国外の者も我々と同じように愛せなくなった代わりに信仰へと走ったのではないか、と推測しております。実際に調べていないので、断言はできませんが」

 国内外問わず、呪いの効果があるのか。

 どこにも居場所がない。安心して居られる場所がない。

 そう思うと、平衡感覚を一瞬失った。目眩がする。ぐらつく視界。眉間に皺が寄った。頭の片隅ではスノーノイズが映し出される。

 僕は知っているはずだ。四年前、姫様に何があったのか。でも、上手く再生できない。

「国王様とプシュケ様の様子が、なんやおかしなった気がするなぁ」

 プリムスはボーイ・ソプラノを独特の訛りある言語に乗せて音を紡いだ。今になってやっと気付いたが、彼はなかなかの美声の持ち主だ。宦官になる者は、見目のよい者であるほど重宝される。去勢すれば誰でも高級官僚になれるわけではない。彼の場合、見目は正直に言って並だ。そんな彼が側用人になれたのは、無痛症が評価に入っていたかは不明だが、美青年ならぬであったからだろう。

「それまでは、大人と子供って感じはあってん。あってんけど、今は大人と子供やのぅて、国王様のお気に入りの道具って感じやなぁ。そりゃ、これまでかてプシュケ様が国王様の言うこときかんかったら撲られてはったで? 国王様は躾でしばいてる感じやなかったけど、大人と子供の一線は超えてなかったんや。せやけど、今は見てて、なんや危なっかしぃて心臓がもたんわ。この間かて――」

「プリムス!」

 真っ青な顔をして耳を塞ぎ、悲鳴のようにプリムスの名を呼ぶヴァイオス。

「ゼノン様! 私はこの話、認めてませんよ! 何より証拠がない! 何一つない! こんな下らない話は聞くに値しません!」

 ヴァイオスはゼノンに詰め寄り、訴えた。その様子にプリムスは呆れたように大きな溜息を吐いて首を横に振る。

「聞きたないんはヴァイオスやろ? そんな聞きたないんやったら、部屋出ればええやんか」

「プシュケ様を穢すな!」

「穢れんのはあんさんの頭の中にいる理想の女神様プシュケ様やろ?」

「貴様――ッ!」

 ヴァイオスは真っ赤になった額に青筋をミミズのように盛り上げ、プリムスの胸ぐらを掴んで椅子から立ち上がらせた。

「撲るんか? あんさんにいくら撲られても、ぼくはいっこも痛くないし、別にええで。気が済むまでサンドバッグになったるわ。それでスッキリすんのやろ? ハハッ! ホンマのこと言われて、認めたないから感情のままに人を撲って、傷つけて、黙らせて、それでスッキリすんのや。あんさんが憎んでる国王様とおんなじやな。ハハハハハハハッ!」

 プリムスは怯むどころか、感情的になっているヴァイオスのことを嘲笑っている。そんなプリムスを壁へ突き飛ばすヴァイオス。傍にあった椅子が倒れてガタンッ!と大きな音がした。

「クソッ!」

 険しい形相でプリムスを睨みつける。しかし、プリムスは唇で弧を描き、その視線をおもしろそうに見つめ返す。

「ぼくさぁ、去勢されてるからその感覚は分からんのやけど、ホンマは純潔な女神様を空想の中で穢すんがたまらんのとちゃう? 理想の女神様の新雪にきったない足跡つけまくるんは自分だけがええのんやろ? 顔に書いてるからバレてるで? 空想の中ではさんざん穢しまくってんのに、人の口から聞くんはあかんのやなぁ? ハハッ! ゲスいわぁ~。女神、女神言うてるくせに、その顔でプシュケ様に会ってるとか、ホンマゲスいわぁ~。ハハハハハハハ――」

 ヴァイオスの拳がプリムスの左頬に激突し、プリムスの笑いが途切れた。ヴァイオスは乱暴にドアを開ける。「くそったれ!」とプリムスに吐き捨てると、大きな音をたててドアを閉めた。

「めっちゃキレるやん。ウケる」

 プリムスは鼻血を垂らしながらケタケタ笑う。ゼノンは懐から手巾を取り出すが、プリムスは「汚れるからええ」と制止して、自分の手巾を取り出し、鼻にあてた。

「挑発しすぎです」

「ぼく、痛いが分からんからかして、体が傷つく恐怖ってのがないねん。せやから、おもろいって思うと止まらん。撲られるって分かってても、怖くないから止まらん。ぼくはホンマのことしか言ってないし、悪いことしたとも思ってない」

 手巾で鼻を押さえながら倒れている椅子を起こすプリムス。椅子に座ると口で何度か大きく呼吸をする。

「あかん。息しにくい」

「苦しさは感じるんですか?」

「せやで。全力疾走したり、首絞められたら苦しいって感じる。ちなみにハートは無痛やないねん。初恋の女の子に『プリムスくんなんか大嫌い』って言われた時は号泣するぐらい傷ついたわ。転んで泣いてたから、なんで泣いとるんか分からんで、『なんで転んだぐらいで泣いてんの?』って訊いたら、大嫌いやて。体の痛みが分からんから、転んだり、撲られたりして泣いている子を見ると、なんで泣いてんのか理解できんかったわ。今は理屈で分かるけど。……あ~。あと、怖いんは親に叱られるんは怖いな。叱られたくないから、怪我せんようにしてたみたいなもんやわ」

 痛みを感じないせいで、意識的に怪我や体の異常に気を遣わなければならないのは大変だな。

 ゼノンは壁から背を離した。椅子に腰掛けながら、プリムスの欠けた左手薬指と小指に視線をやる。

「左手の指はどうしたんです?」

「気付かん内にバッキバキに骨折してたみたいで、そのまま変な形でくっついてしもて、めっちゃ邪魔やったから自分で切ったんや。国王様には、一生独身を貫くことと子を持たぬ覚悟として左手薬指と小指を切り落としたんや~って適当に言ってしもたから、内緒やで」

「……」

 無痛症だと知らずに聞いたら狂気だな。

「ああ、せやせや。国王様とプシュケ様の話やな。四年前にみんながプシュケ様のこと愛せんよぅなってからというもの、国王様がプシュケ様を道具のように見るようなったんや。とにかく人間とは見てなかったな。そのせいか、一緒に食事するんも気味悪がってたし、王妃様も姉君達もおんなじ感じやった。人形が勝手に動いて食事してるってぐらい気味が悪かったみたいや。そんである日……」

 プリムスは話を止めると、手巾を鼻から離して、鼻血が止まったことを確認する。「すまん、すまん」と言い、手巾を懐にしまうと話を再開させた。

「う~ん。せやなぁ。国王様からすれば、もうプシュケ様は自分の子供やのうて、綺麗で自分の言うことを何でもきく、人に見せびらかすためのコレクションの一品みたいなもんやったんやろう。未成熟な子供の体に触るような触り方をせんようになったな。太ももとか、首とか、背中とか、顔とか、触り方が変やったな。太ももなんか、わざわざ素肌触るために裾を捲ってはったから、流石にぼくも見てて気持ち悪かったわ」

「姫様は触られている間、どうしてたんです」

「顔を強張らせて耐えているか、衣装係の奴隷が近くにいたら、泣いてその人んところに行ってたな。奴隷は奴隷やから、国王様を前にしてかばったりせんかったけど、まあ、宥めてはいたな。確か、『国王様はプシュケ様を溺愛なさっているんですよ』って言ってはったわ。まあ、あれが溺愛の範疇のもんなんかって訊かれたら、首を傾げるけどな」

 プリムスの話の途中から針が何本も刺されるような頭痛に襲われた。ゼノンの頭の片隅にずっとあったスノーノイズから、途切れ途切れの音声が再生される。

 ――国■■はプシュケ■を■■なさって■■んで■よ。だから■王様に感謝■■ば■■ません。

 知っている。僕はこの言葉を知っている……。

「どないした? 顔色悪いで?」

「大丈夫です。ので、僕がやるべきことは何であるのかハッキリしました」

「思い出した? ハッキリしたんやったら、よかったわ。なんか知らんけど、今まで忘れてたんをパッと思い出すのんって脳ミソにええらしいな。知らんけど」

 プリムスは軽く首を傾げた。

 ゼノンはようやく脳内で再生されはじめた映像を消した。どれもこれもが気分のいい映像ではなかった。だからこそ、プシュケはこの記憶ごとゼノンを捨てたのだろう。

 ある方法を閃いた。この方法なら、姫様がこの国から出られなくなるという最悪の事態が起きようが、姫様をあの男から引き離すことは可能だ。殺さずとも、この国から出られずとも、成功すればあの男は姫様に手出しできなくなる。そのためには、僕も姫様も力をつけなければならない。協力者だって必要だ。

「貴方とヴァイオスさんは僕に協力して下さるんですよね?」

「せやで。それと、協力する限りはぼくとヴァイオスに敬語はいらんよ」

「敬語をやめるのはまだ早いですよ。僕はここに来て間もなければ、まだまだ地位も低い。そんな僕が平語で貴方がたと話している姿を見聞きされれば、会話の内容がなんであれ確実に怪しまれます。全てにおいて慎重に事を進めなければなりません。あの男を相手にするんです。一度の失敗で成功への道は閉ざされてしまうぐらいの心積もりでいて下さい」

 失敗すれば、僕は地下牢へと逆戻りになるかもしれない。そうなると、何もかも終わりだ。この計画が成功するには、その場に僕が必ず必要になる。代わりはいない。

「プリムスさんはどうして反国王派なんです?」

 ゼノンは部屋を出る前にプリムスに確認した。二人以外は処刑されたのだ。それなのにまだ続ける理由は知っておきたい。

「ぼくの場合、ヴァイオスほど必死な感じやないねん。ぼくとヴァイオス以外は、国王様が怖くて反抗できんだけや。国民なんか、もう諦めきっとる。せやから、いい年した大人がプシュケ様みたいな少女に女神やなんやと縋っとんのや。プシュケ様に畏れを抱くようなったのも原因のひとつではあるけど、そもそも国民たちは縋る何かがないと立ってられんぐらいどうしょうもない状態やから、あんなちっさい女の子に祈るんや。祈って救いを求めとんのや。一生懸命祈っとれば、なんとかなる思ってんねん。祈ったところで、プシュケ様が何かできるわけあらへんのに。大人やねんから、自力でなんとかせいっての、アホらしい……。ぼくはこんなんやから、国王様に反抗するんはいっこも怖くない。国王様が間違っとるんは、火を見るより明らかや」

 そう言い、包帯の上から右目を指でなぞるプリムス。

「……プシュケ様は痛みを感じてるくせに、ぼくとおんなじようなことをするねん。無痛症やないのに、なんでプシュケ様は平気な顔してられるんやろう。今の調子やと、将来的にぼくみたいに体ボロボロなってまうんちゃうかな。ボロボロの醜い体になったら、国王様になんもされんようなるかもしれんけど、そんなん確実やないし、逆に今より酷い扱いされるかもしれん。ぼくはボロボロでも平気やけど、プシュケ様はどうなん? って思うねん。そもそもぼくみたいにボロボロな王女様って、想像するとなんか変やない? こんなに違和感があるんは、それが『その人らしさのある姿やない』からやで、きっと。もうこの世界自体が異常やけどな。あんな国王様にこの国を任せてたら、異常異常の一直線やってことぐらいは分かる。でも、二人だけでどうすりゃええんか分からんで、右往左往しとったんや。仲もよぉないしな。そしたら、ゼノンが亡命してきた」

 プリムスは突然苦しげな表情をした後、俯いた。数秒沈黙してから、話を続ける。

「……ボロいんはぼくだけでええ。プシュケ様らしさのある姿ってのをぼくは見てみたいんや。ぼくは、自分の指二本と右目を自分で粗末にした。もう戻ってこん。目は、なんも知らんと潰した。指は『こんなもん要らん』と思ったから捨てた。せやけど、手放したら、もう戻ってこんのや……。そんなん知ってるのに、痛くないから捨ててまう。ぼくはいっぱい捨てた。痛いの平気やからって酷いことされて、捨てざるを得なくなったんも、なんぼもある。そんなんを全部一生懸命かき集めたって一個も戻ってこん。ぼくがどんどん削られる。せやのにぼくは……」

 プリムスが顔を上げる。ゼノンに向けられた左目は、昔に一度だけ見た、餓死寸前のやせ細った犬を腕に抱えた少年と同じ目をしていた。犬に何か食べ物を飼ってやることもできず、安らかな死を与えてやることもできず、かと言って道端に放っておくこともできず、手を差し伸べてくれる大人もおらず、犬の重みを共に抱えてくれる友もいない。腕の中で消えていく命を繋ぎ止めようにも、どうしてやることもできず、小さくなっていく犬の呼吸を感じながら、少年はじっと立っていた。

「ぼくは、ぼくがどんだけ削れても痛いとは思えんのや」

 ……あの時、あの少年は一体どんなことを思っていたのだろうか。


 姫様を女王にする。しかし、それだけなら姫様は国王の傀儡のまま、いいように利用され続けるだけだ。

 姫様の信者は国内だけに留まらぬほどの人数存在する。国王が姫様を支配するということは、その信者達までも支配するということだ。それは、国外に存在する信者にまで影響を及ぼすことにも繋がる。たちの悪い信者もいる。というのに、危険だ。

 そんな娘をあの男が手放したいわけがない。ならば、手放さざる得ない状況か、一切手出しできない状況を作り出せばいい。

 しかし、そこまで辿り着くにはまだまだ時間がかかる。準備する時間がたっぷりあるということだが、それだけ、その日が来るまでずっとやり過ごさねばならない。

 だから、僕は――

「国王様。お耳に入れておきたいことがございます」

 朝の礼拝前の時間帯、ゼノンはわざと重々しい表情をして、着替えを済ませたばかりの国王の前に現れた。

 ゼノンの先祖返りの能力は、『ゼノンが指定した気持ちや感情を認識できなくさせる能力』。0から1を生み出す能力ではないが、1を0に錯覚させることは可能だ。発動条件は対象者の耳元で囁くこと。完全に1を0にできるわけではないから、効力が切れる前に定期的に囁かねばならない。

 国王には何事かと問われたが、ゼノンは、大きな声では話せない内容だと言い、周囲を気にする素振りをしながら、あたかも緊要な話であるかのように装った。すると、国王はまんまとゼノンに耳を傾けた。

 あとは、国王のプシュケに対する執着心を認識できないほど透明にしてやるだけだ。いつまでも続けられない手段だが、時が来るまで姫様の安全を確保するためには必要なことだ。

 ニヤリと笑みを浮かべ、ゼノンは国王の耳元に口を寄せた。

 ――あまり能力を使うなよ。

 ゼピュロスにはそう言われたが、例えそれが諸刃の剣であっても……

「――ッ!!」

 囁き終えたゼノンは膝から崩れた。正体不明の黒いものが内側に侵入する感覚に強烈な吐き気を催し、口を両手で押さえる。早鐘を打つ心臓。震える手。内側を舐めるように這う黒に意識が遠退く。

 四年前のゼピュロスの言葉が蘇る。

 ――先祖返りは他の神と違って肉体はただの人間の肉体。つまりは、剥き身で能力を使うのと同じってことだ。能力を使えば使うほど、力の源である精神体が穢れちまうぞ。

 苦しい。苦しい。黒いものが体の中で暴れまわっている。一体何なのだ、これは!

「ゼノン! どないした! 何があった!」

 国王に用事があって来たプリムスが、国王の足元で蹲るゼノンを見つけて駆け寄る。

「プリムス……。丁度いいところに来た」

 国王は能力を使われた直後で呆けているのか、いつもより緩慢な口調だった。

「如何されました? 国王様」

 プリムスは国王の様子を奇妙に思いながらも、忠実な側用人の態度を崩さず応答した。

「これからは、食事の時にプシュケを同席させるな。他の者たちにも伝えておけ」

「どういうことです? プシュケ様だけは別室で食事させろってことですか?」

「あんな娘、どうでもいい。一緒に食事をするのも気味が悪い」

「……プシュケ様は王族ですよ。奴隷や臣下と共に食事をさせるわけにもいきません。自室で一人、食事をしろというのですか?」

「一人で食事をさせて、何か問題でもあるのか?」

 国王の発言からは、プシュケに対する執着など一切感じさせられなかった。ゼノンの能力は効いている。この男はプシュケに対して無関心になった。

 これでもう、こいつは姫様に触れない。その汚い手で僕の姫様に触れない。あの手だ。ずっと夢で見てきた。姫様に気持ち悪く触れるその手を見てきた! そして、真っ暗な部屋で姫様に跨る貴様の姿を! 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も!

「ふはっ!」

 そうだ。姫様は独りぼっち。今この世界で、誰よりも姫様の傍にいられるのは僕だけだ。ヴァイオスは、姫様を通して高潔無比な理想の女神を見るばかりで、姫様自身を見ようとしない。プリムスは、姫様の傍に置いておくには生まれが卑しい。

 アフロディーテに呪いをかけられた姫様を愛せる者も僕だけ。この世界にいる限り僕は……僕は――

 僕はこれでもう捨てられない。

「あはははははは!」

 大事な。大事なものは、ちゃ~んと手元に置いて置いておかないと。ずっと一緒にいられるように。もう二度と捨てられないように。

 僕には姫様を捕まえられる腕がある。僕には姫様を追いかけられる脚がある。

 

「ゼ、ゼノン? 何がおもろいんや?」

 プリムスは唐突に笑い出したゼノンに戸惑う。国王はプリムスとゼノンをそのままに、踵を返して礼拝の準備へと向かった。

「ははは……。すみません、プリムスさん」

 まいったな。この黒いものは、国王様の姫様に対する執着心だ。正確には国王様の姫様に対する執着心そのものではなく、国王様の姫様に対する執着心に、僕の精神が毒されて発生しているのであって、執着心の表れ方は同一ではない。触発されて僕の中から出てきているものであって、僕の中に無いものは出てこないはずだ。

 つまりは、僕は心のどこかで姫様を自分のものにしたいと思っているんだ。僕は姫様に捨てられた事実に傷ついていたんだ。僕は心のどこかで、姫様を支配したいと望んでいたんだ。

 ゼピュロスが言っていた、『剥き身で能力を使う』とは、こういうことか。能力を使った反動だろう。これほど強い感情に能力を使ったのは初めてで、こうなる事態を予測ができなかった。

 僕は姫様をこの国から出すためにいるんだ。閉じ込めるためじゃない。未来の姫様の傍に僕が居なかったとしても、僕は姫様のために……。

「ぐ……っ」

 駄目だ。内側に入り込んで蠢いている黒いものに抗うほど、頭痛と吐き気が増す。立ち上がれずにいるゼノンの傍らに、プリムスが寄り添う。

「ほんまにどないしたんや? 顔色も悪いで?」

「大丈夫です。つかれただけですから」

「……」

 ゼノンの顔をじっと見つめるプリムス。ゼノンの顔色や状態を見ているのではなく、もっと深い場所を見ている目だ。水面ではなく、その向こう。底の方を見ている。

「今のあんさん……国王様と同じ感覚がする。国王様に憑かれたんか」

 ぞわっ。

 鳥肌が立った。

 勘付くのが早すぎる。そもそも、勘付かれるとさえ思っていなかった。プリムスの左目とゼノンの視線がぶつかった。包帯だらけの隻眼の青年は、ゼノンを心配そうに見つめていた。

 女ではない。かと言って男として成熟することもなく、少年でもない。

 似ていないと思っていたが……こいつ……こいつ知っているぞ……。僕はこいつを知っている。

「まさか……そんな……君は……僕と同じ……」

「まあ、紛れとったんはあんさんだけやなかったってことやな。でもぼくは、ゼノンとは違う。先祖返りでもない。プシュケ様の半分でもない。プシュケ様の理想も何もない。ただの残りカスやで」

 女でもない、少年でもない、男でもないプリムスの笑顔は、痛く真っ白で純一無雑な笑顔だった。ゼノンの中で蠢いていた黒い執着心が静まった。

 綺麗に切り分けられなかったのだ。手でパンを二つに引きちぎる時だって、パン屑が落ちる。プシュケは無理矢理に我が身を切り裂いたのだ。その痕跡が彼なのは、ゼノンの中では妙に腑に落ちた。

「ぼくは残りカスやから、人の人生ほど長く存在を保ってられん。ほっといたら、あと数年で消えてまう。せやから、あんさんより先に、プシュケ様のとこに戻ることになるな」

「僕は――僕は貴方と違って、戻りたくても姫様の元には戻れません……。恐らく一生……」

「せやな。姫様の辛い記憶は全部、ゼノンが一人で背負ってくれとるもんな。ぼくはなんも背負えんで、すまんな。でもゼノンがここまで戻ってきてくれて、ほんまによかったわ。ぼくはその内消えてまうし、ぼく一人ではどうにもできんかった。ぼくでは、姫様を護るには役不足やったさかい、助かった。ゼノンがここに辿り着くまでに辿った道のりでは、えろう犠牲が出てしもたし、国王様に酷い目合わされたりで散々やったやろうけど、生きてここまで来てくれたんや。その結果が何より嬉しいし、姫様もあんさんと出会えんかったら、どないなっとったことやらやで」

「なんです? 僕の涙を見たいんですか?」

「ちゃうちゃう。労いや。まだ十七やのに、よう頑張っとる」

「プリムスさんは、おいくつなんですか?」

「ぼくも知らん! でも、まだオッサンちゃうで! 加齢臭せんからな! ぼくの体臭は高級石鹸の爽やかふわ~っとした香りやで、たぶん!」

「そんなに堂々と知らないって……」

「知らんことを認めるんは別に恥やないやん。知らんもんは知らんと言うたほうがええねん。知らんことを知らん言うやつを馬鹿にしてくるやつは、自分の方が上位やとアピールしたいがために、他者を見下しとるかっちょ悪いやつや。――それで、体調はどうや? もう立てそうか?」

「ええ。お陰様で」

 プリムスと話している間に吐き気も頭痛も治まった。立つ時に、少し立ちくらみがした程度だ。

「そうか。それはよかった。ぼくはなんもできんから……」

 プリムスはそう言って目を伏せた。

「何もできない?」

「……仕事に戻るで」

 プリムスはスッと立ち上がって、足早に去ってしまった。

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