面従腹背(めんじゅうふくはい)~シミュラークル~

 プシュケが自ら眼を潰した。悲劇の空気に呑まれている神託の間で、国王だけは歓喜に震え、声を上げて笑っていた。周りは、あまりのショックで気が触れたのだろうと思っているようだが、ゼノンだけはそうではなかった。国王はプシュケの行動を喜んでいるのだと、ゼノンだけは気付いていた。

 国王としては、当初から思い描いていた計画よりも、ずっと理想的な展開が起きたのだ。これでプシュケはどこにも逃げることができなくなった。盲目の王女を欲しがる王子はいない。目が見えなくなった以上、盲目でも生活できるようにする練習や訓練をさせなければ、誰かがいなければ何もできないままにさせることもできる。最も手に入れたかったものが、わざわざ首輪と鎖をつけてやってきたようなものだ。

 晴れてこの国王おとこは、自分の思い通りに動く、美の女神よりも美しい娘を手に入れたのだ。そしてゼノンは、プシュケをこの王宮に閉じ込めておくための足枷にすぎない。

 ゼノンはこの国の外からは出られない。それは、ゼノンがこの国に亡命し、地下牢に閉じ込められていた一か月間のことだ。曲がりなりにも神であるゼノンは国王と無理矢理血の契約を結ばされ、この国の土地神として祀らされた上に、この国の王族の守護神として位置付けさせられたのだ。神であるが故に、土地神になってしまえばその国から出られない。純血の神であれば、分霊としてなら他の土地にも滞在できるが、人間の肉体を持つ先祖返りにすぎないゼノンに分霊を作るだけの能力もない。そんなゼノンと結婚させれば、プシュケがよその国へ出て行く心配はなくなる。普通の人間の王配では、この国が傾いたり、何か問題が生じようものなら、王配が元いた国にプシュケを連れて帰ってしまう可能性があるのだが、ゼノンは帰る国もなければ、この国から出ることもできない。しかも守護神にさせてしまえば、守護すべき王族を殺すこともできない。つまり、ゼノンはどれだけ憎くても国王を殺すことができないのだ。絶対にこの国から出られず、絶対に国王も殺せない。だから、他のどの王子を王配にするよりも、先祖返りであるゼノンを王配にする方が国王にとって都合がよかったのだ。ゼノンと結婚させて、プシュケをこの国に閉じ込めることが、当初からの国王の計画だった。

 最悪だ。

 ゼノンは心底そう思った。プシュケの目も治るような傷では到底ない。これから彼女は一生を暗闇の中で暮らしていく。ゼノンは何をしても国王から逃れられないかのような無力感に襲われた。

「ゼノン……。一体誰が笑っているの……?」

 自ら目を切り裂いたプシュケが、痛みに歯を食いしばりならが言った。笑い声の正体を知るゼノンは、息を飲み込んだ。この不快な笑いをする者の正体を知れば、彼女は自分の行動に秘められた意味を知ってしまうかもしれない。プシュケの手を握るゼノンの掌に力がこもった。プシュケの手を濡らす彼女自身の血が、ゼノンとプシュケの手の隙間から床へ垂れ落ちた。

「ゼノン?」

 目は見えていなくても、ゼノンの方を真っ直ぐ向き、じっと応えを待つプシュケ。笑い声はまだ止まない。ゼノンは意を決して一音一音明瞭に述べた。

「国王様です」

 ゼノンの答えを聞いて、プシュケの空気が固まった。プシュケは唇を震わせ、何かを否定するかのように、首を横に振った。

 気付いたのだ。自分の行動が何を意味していたのか。父親の望みを叶えるべく、その身を蔑ろにすることも厭わない自分自身の行動に絶望している。まるでプログラムされているかのように、父親の望み通りの行動をとってしまう。父親のために都合よく動き、都合よく扱われる道具にすぎない自分自身から逃れられないほど、身体中に父親の思惑が染み付いてしまっている事実に気付いたのだ。

 娘がそういう女になるように父親は望み、それに応えたくなくても応えてしまっている娘。どれだけ拒んでも、どれだけ逃げても、結局行き着く場所は父親が望んでいた結末だ。

 プシュケは糸が切れた人形のように崩れる。ゼノンは咄嗟に彼女を抱きとめた。受身さえ取れずに崩れていった様子から、あまりのショックで気を失ってしまったようだ。そもそも目を切り裂いた痛みの中でもその足で立っていたのだから、さっきまでよく気を失わなかったものだ。そんな先刻まで毅然と立っていたプシュケだが、今は全身の筋肉が弛緩しきった、あまりにも無防備な姿でゼノンの腕の中にいた。それほど、無意識でも父親の望み通りに動いてしまっていることは、彼女にとって耐え難い事実だった。

「僕に身を委ねてしまうのですね。姫様、僕は王子様ではありませんよ? いくら、かつては王子様であったとしても、立ち振る舞いが王子らしくても、僕はもう既に王子様ではないんです」

 ゼノンはプシュケを腕に抱えて立ち上がった。

「この世界で、僕以外誰も姫様を人間として扱わない。お可哀想に。姫様には僕以外いないんですね。僕があの国王おとこに縛られている限り、僕は姫様にとって安全な人間でもないのに……。それでも姫様は僕にこうして委ねるしかない。そして僕にとっても、この国にいる限り、姫様と共にいることは毒を飲み続けることと同義なんです。僕は姫様の毒。姫様は僕の毒。――でも大丈夫です。僕は姫様の半身ですから。貴女は僕だ。あなたを守るためなら、ぼくはなんだってします」

 聞こえているはずがないプシュケに語りかける。反応は勿論ない。ゼノンが今の彼女に何をしても、彼女は抵抗もできなければ、泣きも叫びもしないだろう。腕の中の彼女からは、背徳への誘惑の香りがした。

 一人の臣下が声をかけてきた。あたかもプシュケが気がかりであるかのように見せかけているが、ゼノンの腕の中で眠るプシュケを食い入るように見ており、目は潰れていようが絶世の美女の無防備な姿を間近で拝みたいだけのクズだった。

「煩い。君はさっさと薬師と医者を呼んで来たらどうだ?」

 ゼノンはクズを追い払い、いつもプシュケの着付けを担当している女性奴隷の一人を呼ぶと、その奴隷を連れて、できるだけ傷に響かないように細心の注意を払いながらプシュケを彼女の部屋まで運んだ。

 プシュケをベッドの上に寝かせる。一緒についてきた女性奴隷にプシュケのストラとパルラを脱がさせ、着衣をトゥニカのみの状態にさせた。女性奴隷を下がらせると、入れ違いに薬師と医者がやってきた。二人共、プシュケの傷を見て絶句していた。それだけの傷を、自ら負わせるとは……。

 血で汚れた手や顔を綺麗にし、傷の処置が行われた後、プシュケは包帯をぐるぐるに巻かれ、顔の上半分がほとんど隠れてしまった。怪我による発熱もみられたため、薬師から調合した薬をもらった。その間も、ずっとプシュケは眠ったままだった。

 薬師と医者を帰らせると、ゼノンは部屋の外にいた奴隷達に飲み水と水気の多い果物、冷水を張った桶と手巾をいくつか持ってくるように指示した。

 部屋にプシュケと二人きりになったゼノンは、椅子をベッドの傍らに持ってきて、座った。じっとプシュケの血色を観察する。熱の出始めは、体を温めるようにする必要があるが、充分に熱が上がってきたならば、今度は体を冷やさなければならない。熱が上がりすぎないようにするためだ。高すぎる熱は臓器の機能を低下させてしまう。

 今のプシュケは怪我の出血で血がいつもより少ない状態にある。血色だけで冷やすタイミングを計れるか怪しい。

「水分補給以外にも、血を造る必要もあるか……」

 貧血にはレーズン……の方がいいが、水分が足りない上にレーズンは高級食材だ。ここが王宮といえど、備蓄は多くない。今は葡萄が取れない季節でもないし、葡萄なら丁度いいだろうか。

 プシュケの額に手を当てた。……かなり熱い。体温が上がってきているようだ。顔も赤い。

 奴隷達が飲み水が入った水瓶と、カップ、葡萄や柘榴やメロンといった果物に、冷水を張った桶と手巾を持ってきた。それらをテーブルに並べさせると、ゼノンは奴隷達を下がらせた。

 ゼノンは手巾を冷水に浸し、固く絞ったそれをプシュケの首に巻いた。一般的には額に冷えた手巾を乗せるが、ゼノンはプシュケの体を冷やすことを目的としている。この場合、首の回りや脇や太腿の付け根を冷やす方がいい。リンパが活発に働くと熱を発する。つまり、熱の出処を冷やすのだ。

 掛け布団を剥いだ。プシュケのトゥニカは袖がないものだったため、直接脇に濡らした手巾を挟むことができた。太腿は……更に熱が上がるようなら止むを得ないだろうが、今はそこまでする必要はないだろう。ゼノンは掛け布団をかけ直した。

 目覚めるまでにまだまだ時間がかかりそうなら、どこかで一度、汗で濡れた姫様の体を拭く者を呼ばねばならないな。

 ゼノンはそんなことを思いながら、椅子に腰掛けた。プシュケは呼吸に合わせて胸元を上下させるだけで、寝返りさえもうたずに微動だにしない。

 無防備すぎる。

「こんなに無防備だと、他の者にお世話を任せたりできませんね」

 ふう、と息を吐いた。そして今朝のことを思い出した。久しぶりに会ったゼピュロスと、初めて会ったアモール。またアフロディーテの逆鱗に触れてしまったらしいプシュケを不幸にする男性を探していた。

 プシュケは放っておいても不幸になる。最初の誰からも愛されなくなる呪いを受けた時点から、幸福への道は閉ざされたようなものだ。彼女は人間でありながら人間として生きられなくなったのだから。

 先祖返りごときが純血の神に張り合えるわけもなく、また、プシュケに惚れているアモールが彼女を救いようもない程の不幸にまでは陥れやしないだろうという思いから、反抗もせずに何か訊ねられれば答えてやった。勝てない相手なら、勝機が訪れるまで流されながら情報を集める。そのくらいの気持ちでいた。

 だが、あの神託だ。

 本来なら、国王が事前に用意していた虚偽の神託の内容がブランキダイの巫女の口から語られる予定だった。どうせ、国王にとって異常に都合がよすぎるクソッタレな内容だっただろう。その神託が語られる前に、アモールとゼピュロスがアポロンのフリをして介入した。

 何やら考えがあるようだが、ゼピュロスはどうもプシュケに興味がない様子なのが気にかかる。ゼノンにとってプシュケが重要な人物であることは分かったようだが、それで彼がプシュケに対して親切を働いてくれるとは限らない。

 彼は特定の誰かの味方はしない。気分で手を貸したり、貸さなかったり。ゼノンに対しても、ゼノンにとって悪いようにはしないだろうが、かといって何かと助けになってくれる保証もない。味方になるのも、敵になるのも、彼にとっては結果的にそうなっているだけなのだ。

 実際に吹いている風もそんなものだ。風が吹く原因は様々だが、いわば所詮空気の動き。地球の自転により、大気に力が働き、空気が移動する。太陽熱によって暖められれば空気は上昇し、夜などで冷えれば空気は下降する。こうした空気の動きが風だ。だから風は地球が自転する息遣いであり、地球上の温度差でもある。地球の動きや温度によって空気が動いた結果が風であるだけなのだ。

「姫様。僕と出会って間もない頃、一度だけ二人で読んだお伽話の最後の一文、覚えていますか? 『お姫様は王子様と一緒に、幸せに暮らしたとさ』……僕は本物の王子様にはなれない。帰る国もない。この国からも出られない。偽物の王子様。お姫様を助ける白馬の王子様ではないんです。護ることはできても、この国から救い出すことは……できない」

 プシュケはまだ眠り続けており、意識もまだ戻りそうにない。顔の半分ほどしか見えないが、無防備な寝顔はいつもより幼い顔をしていた。

 プシュケの幼い頃は想像できる。その時の彼女と出会っていなくても、三歳や五歳の幼いプシュケの姿を想像して、脳内のキャンバスに描くことができる。だが、自分自身の幼い頃の姿となると、インクの出なくなったペンで描くかのように、いくらペンを動かしても何も描けないのだ。

 ゼノンに幼少の記憶はない。漠然と、一国の王子として生まれ、恙無つつがなく成長し、王子として必要な勉強をして、大きな病気や怪我もなく生きてきたような感覚だけがあって、それが本当に行われてきたという実感がなかった。


 ……。


 十三年前。僕が十三歳の頃に、僕の物語が始まったような気がする。いや、実際にそうなのだ。僕の物語は十三歳からスタートしている。僕の人生のスタートではなく、僕の物語のスタートだ。

 ある朝、目が覚めた。その朝までずっと眠っていたような気分だった。夢は見ていた気がするが、何もかもがぼやけて、揺らいで、掴めない。

 ここは何処だ? 僕は誰だ?

 疑問が浮かび上がっては、すぐに答えが浮かぶ。

 ここは僕が住んでいる王宮だ。僕はこの国の第三王子。

 どんな国なのか、兄弟はいるのか、両親はどんな人なのか。

 疑問は次々浮かぶが、滞ることなく答え合わせが行われる。まるでそういった設定が、僕が目覚める前から準備されていたかのようだった。

 僕の国は貿易が盛んな、豊かな大国。国王である父は、この大国を担うに相応しい人格者。ゼノンより十程年の離れた二人の兄も、そんな父を尊敬している。王妃である母は、ゼウスの血を引く半身の裔で、美しく聡明な女性。一つ下の弟はお世辞にも賢いとはいえないが、とても純粋で優しい王子。乳母は僕が先祖返りだからと特別扱いせず、弟と一緒に分け隔てなく育ててくれた。婚約者は母方の血縁の王女様。弟か僕か、どちらかが王配として彼女と結婚にする約束になっている。

 設定のようだと思った。この違和感を払拭するために実際に両親や乳母や兄や弟に会って、言葉を交わしてみたが、浮かんだ答えと相違なかった。相違がないというだけだった。僕以外の人間は、僕という存在がここにいることに何一つ疑いもせず、違和感も感じていなかった。

 当たり前のように僕の名前を呼び、十三年の間に起きた僕との思い出話を語る。

 それは本当に僕との思い出か?

 思い出話を語られるたびに、そんなこともあった気がするのだが、何一つ体感が伴っていないのだ。相手も相手で、そんなことがあったはずだという感覚だけで物を言っている。本人たちは、そこに疑問を抱かない。

 立場上王子というだけあり、出会う人すべてが僕を知っていた。僕がこの国の第三王子であることを知っていた。僕が先祖返りといわれる存在であることも知っていた。僕自身が知らない僕の情報も知っていた。

 もう一つ、奇妙なことがある。夢の中で僕は時々、五歳前後ぐらいの少女になっているのだ。少女の僕は、暗い部屋でいつも必死に抵抗している。僕は圧倒的な力で押さえつけられ、大人しくなるまで撲られていた。僕の上に馬乗りになっている人物は、明かりのない暗い部屋では黒い影に見えて、ゾッとするほど恐ろしかった。

 いつも途中で目が覚める。頬を撲られるたびにギシギシ軋む奥歯の音も、脳天を撲られた時に鼻の奥に走る塩酸の針金のような痛みも、どれもとてもリアルだった。

 少女の夢を見て起きた朝は、いつも自分の体を触る。自分が本当に男なのかを触って確かめずにはいられなくなる。男だと確信できるまで体を調べ続け、確信できてからやっとベッドから降りることができた。年齢も、体の大きさも、性別も全く違う。なのに、少女の夢を見る。

 一度、「僕は少女に見えるか」と訊いて回ったことがある。得られた回答はどれも「確かに顔は女のように綺麗だが、立ち振る舞いも仕草も王子のそれであって、少女には見えない」だった。

 設定のような違和感。少女の夢。この二つはゼノンが本当にゼノンなのかと、闇の奥底から問いかけてきているかのようだった。

 国内の人間はゼノンをゼノンであると肯定する発言ばかりを繰り返す。では、初めて会う人間が僕を見たら、どう思うだろうか?

 外交のために隣国へと父と兄たちが出かけると聞き、無理を言って同行させてもらった。国外の人間から見た「ゼノン」を知りたかった。だが、結果は国内の人々の反応となんら変わらなかった。国外でもゼノンはゼノンだった。

 他国の者から見ても、ゼノンは大国の第三王子様で世にも珍しい先祖返り。会う王族は皆、口を揃えて兄やゼノンに「我が国の王女を妻に」とすすめる。

 そこで気づいた。

 二人の兄のどちらかが国を継ぐことは決まっている。弟も王配になる予定だ。――まるでゼノンが後付けされたかのような違和感。ゼノンがいない方が、この国の王子たちの立ち位置はしっくりくる。ゼノンが王配候補になったのも、最近になって婚約者側の父である国王が、先祖返りの王子を王配に迎えたいと懇願してきたからだ。どうして今頃? 王配の話は五年前に持ち上がった。五年経ってから、どうしていきなりゼノンを指名するのか。

 ゼノンの両親と婚約者側の国王との話し合いの結果、ゼノンか弟のどちらを王配に迎えるかは、結婚する当人たちの意思と神託で決めるべきだとしたため、ゼノンは国を継ぐ国王候補であると同時に、王配候補でもあるという不安定な立ち位置になってしまった。

 それでもゼウスの血筋の先祖返りというラベルは非常に魅力的らしく、王族たちは今あるゼノンの婚約が破談になった暁には、王配として他国に出るとしても、国王として王妃を迎えるにしても、ただの王族として自国に留まるにしても、どうでもいいからゼノンの血を一族に取り入れるチャンスを掴もうと躍起になっている。

 歴史的にも不詳細な一例の記録しかない先祖返りの情報は、人を惹き付けるカリスマ性を持っていることと、特殊な能力を持っていることぐらいだ。人を惹き付けるカリスマ性は何となく実感しているが、特殊な能力については不明で、どんな文献にも能力の内容の記載はなく、ゼノン自身も能力の使い方を知らない。本当にそんな能力を持っているのかすら怪しい。そんな得体の知れない先祖返りを欲する者の気が知れない。

 ゼノン一行は、自国への帰路の途中にある湖で馬車の馬を休ませることにした。父や兄や従者も馬車から降り、木陰で一息ついている。

 ゼノンは草を食む馬の背を撫でていた。鞭で尻を叩かれながら、ここまで運んでくれた馬に労いの気持ちを伝えたかった。言葉よりも行動の方が伝わりやすいだろうと思って背を撫でているのだが、伝わっているだろうか?

 馬は草を食み続けている。会話ができれば、もっとちゃんと伝わるだろうか? いや、人間同士の会話の中でも、思いのすれ違いや誤解も数多い。伝えることは難しい。伝えねば伝わらぬ。しかし、伝えても伝わらぬ。それでも伝えることを求められるのだから、人間は難儀だ。

 馬から離れようとしたゼノンの目の前に、一人の若い男性が天から降りてきた。落ちてきたのではなく、降りてきた。背中の鳥のような翼を広げて、降りてきたのだ。

「風の噂を聞きつけて来てみれば、マジ美少年じゃん? 体つきといい、そそるねぇ~」

 男性はゼノンの顔を確認すると、舌なめずりをして下卑た笑みを浮かべた。その神々しい登場と不相応な浮薄さが滲み出た言動だった。

「は?」

 背中の翼とその登場からして神なのだろうが、ゼノンが抱いている神のイメージとはほど遠く、未知の生物と遭遇した気分だ。

 ゼノンが男性の姿をしっかり目で捕らえていることに、未知の生物は首を傾げる。

「ん~? 噂だから信用してなかったけど、これはマジもんなの? 年齢は十三歳らしいじゃん? 先祖返りなんてセンセーショナルなのに、な~んで十三年も経ってから漸く情報が流れてきたんだか」

「何だこれは」

 不快すら感じる男性の言動と、理解できないこの状況にゼノンは眉を顰めた。

「なんだろうなぁ。ここ十年以内にも先祖返りの情報を聞いたはずなんだが、思い出せない……。記憶には自信があるのになぁ。ああ~、それより美少年。オレのこと見えてる? 聞こえてる?」

「煩い。見えているし、聞こえている。出会って早々あれこれ質問を並べるんじゃない。まずは名乗るのが礼儀だろうが、慮外者め。僕はゼノンという名だが、貴様は誰だ。神か? 人間か?」

「――っ」

 目を丸くして固まる男性。男性の目の奥からキラキラした輝きが湧いてくる。

「……素敵」

 男性はうっとりと表情を蕩けさせた。

「は?」

「ハッキリ物申す男前! 好き! あっ、オレは西風の神、ゼピュロスね。ゼノちんって呼ばせて! オレの恋人になって! ついでに抱いて~!」

「すべて断る!!」

 これがゼピュロスとの出会いだった。この直後、父と兄たちは一人で宙を睨みつけなが大声を出したゼノンを心配して声をかけてきたのだが、ここで初めてゼピュロスが見えているのがゼノンだけだと知った。

 ゼピュロスは人間に見せられる姿に変えて父と兄と従者に挨拶をした。突然姿を現したゼピュロスに驚き、全員がすぐさま彼が神だと認めた。

 ゼピュロスも先祖返りを実際に見たのは初めてだったようだが、ゼノンたちより先祖返りについて詳しかった。

 先祖返りは人間の肉体に神と同等の精神体を宿した者のことで、神としての力はほとんどないものの本物の神らしい。

 ゼピュロスのお陰で、ゼノンの能力についても分かった。どうやら、『ゼノンが指定した気持ちや感情を認識できなくさせる能力』らしい。ただし、それは永久的ではなく、一定期間を過ぎると、その気持ちや感情は再度認識できるようになる。認識できなくさせられる期間はその気持ちや感情の程度による。軽い気持ちや、些細な感情であれば、長い期間消していられるが、重い気持ちや強い感情になると、再認されるまでの期間は短い。また、ゼノン自身に向けられた気持ちや感情を認識できなくさせることはできないようだ。

 ゼピュロスには能力をあまり使わぬように忠告された。先祖返りは他の神と違って人間の肉体をしているため、剥き身で能力を使うのと同義なのだそうだ。能力を使えば使うほど、力の源である精神体が穢れていくそうだ。

 ゼピュロスは博識だった。知恵の神でもない彼が、どうしてそんなに様々な物事を知っているのか気になり、ゼノンは一度訊ねてみたことがある。するとゼピュロスは好奇心だと答えた。

「好奇心ってのは、色んな知らない世界を見せてくれるもんだ。そして物と違って知識はいくら金を使って手に入れても邪魔にはならない。頭に入っている限り、無人島に全裸で飛ばされても知識だけは持って行ける。知るにはまず興味を持たなきゃならない。興味がなければ頭に入らない。好奇心は知るきっかけも、知った知識を入れるスペースも作ってくれるんだ。知るってことは、物を買うより多くのものが自分に還ってくると思うぜ。だから、好奇心は大事にするといいぞ。好きな何かから枝をどんどん伸ばしていくんだ。きっかけはなんだっていい。義務的に行うのではなく、自ら興味をもって、自ら動いて知ること。知って理解できれば、その知識はもう味方だ。そして、味方は自分で手に入れるものだ」

 物と違って知識は邪魔にならない。

 まったくもってその通りだと思った。自分の身に何があっても、知識は自分を助けてくれる力となる。高価な物ばかりを買い、財力をひけらかす権力者が、いかに愚かであるのかを気づかされた。

 それからゼノンは多くの書物を読むようになった。そこには様々な人間の考えがあった。大国であっただけに、書庫には古今東西の本が揃っていた。王宮には知識人や専門家が多くおり、分からない箇所があっても簡単に教わることができた。

 だが、自分が少女の姿になって見る夢の正体は、いくら書物を読めども知ることができなかった。

 そして、ゼノンが十七歳になる年のある日の夜、ゼノンの寝室に女神が現れた。ゼピュロス以外の神に出会ったことはないが、凄艶な容姿に、蠱惑的な笑み、少し貞操感を欠いた服の着こなし、己の美を誇った傲慢な態度から、その女神がアフロディーテだと見受けた。妖姿媚態という言葉が服を着たような女神だ。

 夢に出てくる少女に呪いをかけた女神だ。

 直感だった。理屈は説明できないが、そう確信した。それは絶対に真実だという自信もあった。

 僕はこいつが少女に呪いをかけたことを知っている。その時、僕は少女と一緒にいたはずだ。

 でも、それはいつだ? 僕はどうして少女と一緒にいたんだ?

 分からない。分からないことが多すぎる。だが、この女神とは仲良くなれないのは確かだ。

「ねえ、アタシが誰だか……分かる?」

 アフロディーテは長い髪を耳にかけながら、今まさにベッドに横になろうとしていたゼノンに近づく。ベッドに乗り、四つん這いになってじりじり距離を詰めてくる。

「美と愛の女神アフロディーテ様」

 股も頭も緩い年増。

 心の中で言い換えてやった。

「素敵。本当に何も起こらない。人間に真のアタシの美しさを見せられるなんて、夢にも思わなかったわ!」

 人間か。先祖返りの位置づけは一応神ではあるものの、純血の神から見てみれば、先祖返りなど人間と似たようなものだ。ゼノンも自分は神というより、人間だと思っている。

「左様でございますか」

 抑揚のない口調。自分で思っていたよりも遙かに僕は彼女のことがお嫌いなようだ。

「アタシ、アナタと――」

 熱っぽい視線と吐息を放ちながら、アフロディーテは顔を近づけてきた。ゼノンは後に続く言葉を感じ取り、先に拒絶する。

「お断りいたします」

 この女はとんでもないことをした。

 僕の少女に取り返しのつかないことをした。

 そんな女の誘いに乗るわけがない。

 アフロディーテの怒りは凄まじかった。彼女からすれば、人間ごときに初めて誘いを断られたのだ。矜恃を傷つけられたアフロディーテは、怒りのあまり本来なら簡単に滅びるはずもないこの大国を滅ぼした。アフロディーテが神の力によって起こさせた戦が、ゼノンの国を滅ぼしたのだ。

 両親は死んだ。兄たちも死んだ。民のために命を捧げた。本来なら、ゼノンも死ぬはずだった。死んでもいいと思っていた。アフロディーテを怒らせたのは自分だ。怒らせた理由も、実在するかも定かではない少女を思って誘いを断ったという身勝手な理由だ。一国の王子がすべきではない。王子としての立場を捨ててまで、夢でしか知らない少女のことを思った。らしくもない馬鹿なことをした。だがあの時、ゼノンの答えにNO以外の答えは有り得なかった。もう一度やり直しができてもNOと答えるだろう。死を持って償える罪だとは思っていない。それでも、死んで当然のことをしたのは事実だ。

 死んでいいと思っていた。なのに、乳母が手を引いた。亡命の手はずが整えられていた。乳母一人でここまでできるわけがない。誰だ? 一体誰が僕の死を許さないのだ。

 騒動の中、弟と一緒に身を隠し、人と人の間を掻い潜り、馬車に乗り込んだ。馬車の中で、この亡命の手はずを整えたのは弟とゼノンの婚約者プシュケの父、つまりプシュケの国の国王だという。王配に死なれては困るから、どの国よりも先に、ゼノンと弟の亡命のために動いてくれたそうだ。

 自分は王子としても王配としても失格だから、弟だけを亡命させてやってくれ、と頼んだ。自分は兄たちと同じく、王族としての責務を果たしたい、とも伝えた。……誰も取り合ってくれなかった。乳母が困った顔をしながらゼノンを宥めるばかりだった。弟は泣き腫らした瞼を閉じて眠っていた。

 生きて償えということか。

 漠然とそう思った。「生きて償え」と運命が言っているのだと、思った。

 亡命国に到着した。馬車が停まり、弟と乳母から先に降りるよう命じられた。

 血が吹いた。

 弟と乳母の後に続くはずだった僕の目の前で、真っ赤な鮮血が宙に舞った。首から血を吹き出しながら弟と乳母が地面に倒れた。

 先に降りた弟と乳母が剣で斬られたのだ。ゼノンは夢を見ているのかと思った。倒れて動かない弟と乳母の首から流れる血が、地面に血溜まりを作り上げていく。血に濡れた剣を持つ者を見遣った。

 服装からして明らかにこの国の国王だった。国王は遺体を見下ろして笑みを浮かべていた。

「何故笑っている……」

 震える唇を動かした。声も震えていた。

 ゼノンは馬車から降り、弟の体に触れた。まだ温い体が全く反応しない。ついさっきまで生きていた弟が動かない。

「何故殺した!!」

 ゼノンは叫び、飛びかかるように国王の胸ぐらを掴んだ。荒い呼吸が食いしばった歯から漏れる。撲ろうと振りかぶった手を衛兵たちに掴まれ、止められた。そのまま力尽くで国王から引きはがされてしまった。

「何故殺したッ! 何故殺したァ!!」

 ゼノンは何人もの衛兵に取り押さえられながらも暴れ続けた。弟も乳母も死ぬべき人ではなかった。なのに殺された。今! この目の前で!

「要らないからだ」

 さも愉快げに国王は答えた。

「プシュケの婚約者は最初から先祖返りであるお前だけだ。弟なんぞお前に万が一があったときの予備にすぎん」

 国王は弟と乳母の血で濡れた顔で笑う。この瞬間、ゼノンは自分が何故生かされたのかを悟った。

 この男に利用されるためだ。


 拘束され、口には猿轡をはめられた。目隠しをされ、どこかへ引きずられるように連れられた後、薬か何かで意識を失わされた。その間に僕は、国王と様々な契約を結ばされたそうだ。目が覚めると、地下牢にいた。近くに何故か剣が落ちていた。僕は隙を突いて国王を刺し殺そうとしたのだが、寸でのところで体が動かなくなった。殺したくても殺せず、憎しみを込めた目で睨むことしかできない僕を見て、国王は満足げにしていた。殺意が増した。

 数日の間、国王は地下牢にわざわざ剣や弓や毒物、鈍器などを持ってきては僕に「殺してみろ」と挑発してきた。僕の選択肢は、不本意であるにしても挑発に乗ってやることしかなかった。殺したくてたまらないのに、どうやったって殺せない。指一本傷付けられない。毒殺さえ叶わなかった。致死量未満の毒物さえ入れられないのだ。先祖返りの能力を使って工夫をしてみても、『国王を殺す』という結果には至らなかった。

 すべての手段を試しきった後、僕の中から何かが砂のように崩れていく音がした。目の前が地下牢の暗さ以上に深い黒に塗り潰されていった……。

 国王は、いかなる手段を用いさせてもゼノンが国王を殺せず、ゼノンが絶望しきっていることを確信すると、ようやく地下牢から出された。

「お前は学問はできるのか」

 国王はゼノンの前を歩きながら、振り向くことなく問うた。

 ゼノンは両側の衛兵に監視されながら、国王の後をついていく。

「……」

 返事をする気になれなかった。あらゆる気力がなかった。

「あの国の王子をしていたんだ。何も知らん馬鹿ではないだろう。――プシュケの教育係が見つからん。仕方がないからお前が代わりにやっておけ。いないよりマシだ」

 プシュケ……? 僕の婚約者か……この国の女王になる予定の娘。幼いながらに、その美しさから女神と崇められている少女。

 なかなかエンジンのかからないオンボロの車のような酷く鈍い速度の思考回路。歯車が錆びきってギアの切り替えもできず、ずっと鈍足のままだ。

「ここに来てからどのくらい経った……」

 ようやく最初に浮かんだ疑問が日数だったのだ。地下牢には窓がなかった。寝ても覚めても、今が朝なのか昼なのか夜なのか分からず、定期的に与えられる食事も、朝食なの昼食なのか夕食なのかよく分からない粗末なものばかりだった。

「一ヶ月です」

 答えたのは国王ではなく、右隣の衛兵だった。ゼノンの声は国王には届かないほどか細かったのだ。

 一ヶ月の間にゼノンの精神は荒んだ。粗末な食事と粗雑な扱いを受け続けると、それに適応してしまうのか、まるで自分はそれが相応しい人間なのだと思えてくるのだ。自分には価値もないから。自分には何もないから。王子でもなければ、人間としても扱われない。神として祭ってもらえているわけでもない。只、地下牢で飼われている程度の生物。逃げることも叶わず、殺すことも叶わず、土地神と守護神の契約を結ばされたが故に死ぬことも許されず、この命を利用されるだけ利用され、窓もない暗い地下牢で腐るようにじわじわ死んでいくだけの生物だ。地下牢から出られるとしても、プシュケが年頃になった時に婚姻のためだけにひっぱりっ出されるだけだろう。

 そう思っていた。

 そう思って諦めていたのに、地下牢から出された。プシュケには今ゼノンが必要だった。

 まずは風呂にいれられた。ずっと地下牢にいたゼノンはあまりに汚く、不潔だった。体を洗われ、服を着せられ、身なりを整えられ、ゼノンは今日からこの国の血族貴族パトリキの養子となったことと、今後の生活の説明をされた。養父となる男に軽く挨拶と自己紹介だけを行うと、玉座の間に連れられた。

 扉が開くと、真っ先に自分の婚約者であるプシュケに目がいった。絢爛豪華な玉座に座る少女は、何もかもが自分の意思ではどうすることもできないと悟った諦観の眼をしていた。何をしても無駄で、圧倒的な力で抑え付けられる。あらゆる抵抗を踏みにじられ、矜持も汚され、子どもの無邪気さなど、捨てるよう強要されて、とっくの昔に自らの手で純粋なそれをギタギタに壊し捨てさせられた。彼女の口から語られたわけではないが、彼女の姿が語っているかのようだった。

 僕だ……。

 絶望に伏せていた目を見開いた。

 僕がいる。

 プシュケの顔はゼノンに似ていた。いや、似ているどころの水準ではない。きっと幼い頃のゼノンの顔そのものだろう。そして、その顔は夢の少女と同じだ。夢の少女の顔は見たことがないが、夢の少女はきっと彼女だ。間違いなく彼女だ。ゼノンの全ての細胞がそれを肯定するかのように、彼女に反応してざわめいた。

 自分と同じ顔の少女が、全てを諦めた目をして座っている。

 夢の中の少女がこうして目の前にいる。

 彼女は僕だ。僕は彼女だ。

 気付けばゼノンはしっかりした足取りでプシュケに真っ直ぐ向かっていた。それまでの力のないふらついた足取りが嘘のようだ。

 彼女のために生きねば。

 僕が彼女を護らねば。

 そう思うと不思議と全身から力が漲ってきた。彼女の前に跪く頃には、王子と呼ばれていた一ヶ月前までのゼノンと寸分変わらぬオーラを纏っていた。

「一ヶ月前に東方の国からこの国に参りました。ゼノンと申します」

 ぼくPsycheに、愛や慈しみといった言葉では到底言い表せない、涙が出そうになるほどの熱を持つ感情を掻き抱きながら微笑みかけた。


 ……結局、何も知らないプシュケに全て本当のことを話せるわけがなく、嘘を交えながら自己紹介をした。

 アフロディーテよりも美しい王女様。

 これが只の親や身内の贔屓目であれば、国民達も本気で信仰することはなかっただろうが、プシュケはそれを冗談や贔屓にさせないぐらいに美しかった。信者は国内に留まらず、国外にも存在するという。巷では、プシュケをモデルにした像が売られているそうだ。正直言って、ゼノンから見た行き過ぎたプシュケの信者たちは気味が悪い。

 地下牢から出て、この国の知るほどに違和感を抱いた。そして、その理由わけを僕は何故か知っている。

 アフロディーテの呪いだ。

 人間でいながら神として崇められているプシュケにアフロディーテが嫉妬し、プシュケに愛されない呪いをかけた。だから、国民たちはプシュケを『信仰して』いても、誰一人としてプシュケを『愛して』はいない。

 だからなのか、プシュケからはいつも、臓器という臓器が氷の塊に変容してしまったかのような冷然な空虚感が漂っていた。希望や可能性を秘めた子供らしい眼はしておらず、世の理不尽に打ちのめされ、希望も可能性も摘み取られてしまった凍てきった眼をして、ぼんやり座っている姿は、暗く深い海の底に沈んでいるかのような、閑寂な冴えた青に包まれていた。

 教育係を任され、手始めにプシュケがどれほどの知識があるのかを確認してみたが、驚いたことに彼女は読み書きさえ満足にできなかった。

 あの国王は本気でこのを女王にしたいのか? ――違う。そうじゃない。女王にするしない以前に、王女としての教育すら受けさせてもらえていない。

 思わずプシュケ自身に理由を訊ねると、彼女は困った面持ちで俯いた。

「『お前は俺とずっと一緒にいるんだから、そんなものは必要ない。他の国の王子から呆れられて、貰い手がいなくなるぐらいに教養も何もない馬鹿なのが丁度いい』ってお父様が……。でも、私が女王になるって決めちゃったから、読み書きさえできない女王なんて、流石に体裁が悪いからって……」

 意味が分からない。貰い手がいなくなるっぐらいに教養も何もない馬鹿なのが丁度いい? 貧民の娘ならまだしも、彼女は王族の娘、王女だぞ。確かに教養のない王女は好まれないが、容姿がよければそれで良しとする者だって存在するだろう。滅茶苦茶だ。

 ゼノンは国王の言動や周囲とのやり取りを振り返り、一つ一つを整理しながら見極めていく。

 国王は自身のこと以外はろくに考えられもしないのだろう。悪知恵は働くが、聡明ではない。だから自身の利益となる方向ばかり考えているわりに何もかもが浅はかで詰めが甘く、彼の目から見れば利益がありそうでも結果的には損害が出ることばかり。何より、『万が一、状況が変わった時でも対応できるように』という考え方がない。保険という概念がないのだろう。保険できるだけの蓄えがあるなら他で使ってしまう。そのせいで彼の気分や状況の変化で周囲は振り回され、挙げ句の果てに毎度毎度尻ぬぐいをさせられる。国王という立場に甘えて自分で尻ぬぐいなどしたこともないのだろう。自分のしたことの重大さも感じることなく、失敗しても懲りずに繰り返しているのだ。権力で従わせられなければ、すぐに暴力を奮って無理にでも従わせる。とても知的な生物が行う行為とは思えない。

 勝手すぎる。勝手な都合で教育を受けさせず、状況が変わったから教育を受けさせる。先を考えて行っているとは到底思えない。このは身勝手にあんな没分暁漢ぼつぶんぎょうかんに振り回されるばかりじゃないか。

「本……ずっと読みたかったけど、読めなかった。誰かに読んでくれるよう頼んだら、『勉強なんかするな!』ってお父様に怒られてた。……これからは怒られない? 私も読めるようになる?」

「えっ……。ええ、きっと読めるようになりますよ。姫様が立派な女王様になるためのお勉強するために僕が来たんですから、怒られなんか――」

 しない? 本当に?

 ゼノンは後の言葉を一度飲み込んだ。自分の都合でころころ意見を変える国王のことだ。何かで状況が変われば、再び勉強すると怒られるようになるかもしれない。

 かもしれない、じゃない。僕がさせなければいい。

「怒られなんかしません。……させません、この僕が」

 この国はどいつもこいつも国王の傀儡か、姫様を神格視するばかりで人間扱いもしない輩ばかりだ。この国で彼女にとって本当の味方になり得るのは僕しかいない。

 僕がこうして教育係に任命されたのが不幸中の幸いだ。

 この国がどんどん不景気になっていっているのは、国王が意見を頻繁に変えたり、目先の物事や自分の都合しか考えていないからじゃないのか?

 そう思うと大きな溜息が出た。するとプシュケが身を震わせながら蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と謝った。

「さっきの溜息は姫様に吐いたのではありません」

「ご……ごめんなさい……」

「貴女が謝る必要はないでしょう」

「ごめ……」

 尚も謝ろうとするプシュケを見かねて、頭でも撫でてやろうと手を伸ばすと――

「――ッ!」

 プシュケの体はビクッと反応し、瞬時に身構えた。頭を手でガードし、体を丸めて震えている姿は、まるで――

 夢でみた映像が重なった。

 暗い部屋。黒い影。自分よりも大きな体をした大人に馬乗りになられ、抵抗する気力が失せるまで撲られ続ける痛み。激しい感情を吐き捨てるための道具と化したかのような感覚。自分が壊されていく恐怖。

 僕だ。

 ゼノンは漸く己が正体を知った。

 僕は彼女の半身だ。四年前の、プシュケが事実を否定し、自分自身を守るために生まれた幻想が僕だ。

 受け入れられない記憶と、先祖返りの力を切り離し、彼女が『こうありたかった』と思い描いた自分の姿に乗せてできあがったのが僕だ。世間に疎いプシュケが知っているよその国といえば、従兄弟がいる国ぐらいしかなく、『よその国で王子をしている自分』となると、ゼノンはあの国の王子として紛れるしかなかったのだろう。

 本当なら王配候補者は弟だけだった。先祖返りでもなんでもない弟が正式なプシュケの婚約者だったのだ。ゼノンが王子の中に紛れ込まずにいれば、プシュケは弟と結婚することになっただろう。国王の姉が王妃をしている限り、プシュケが弟と結婚した後、弟が国に連れて戻ってしまっても手の回しようはある。よその国に逃げようにも、他国にも信者が存在するプシュケを悪いように利用しようとする王族も存在するし、逆に信者がいることを快く思わない王族も存在する。

 先祖返りではない弟ならばゼノンほどプシュケの枷にはならないだろうが、弟とゼノン、どちらと結婚していてもプシュケは父親に縛られ続けるだろう。

 とはいえ、弟とゼノンだと、国王からすればゼノンの方が圧倒的に管理がしやすい。契約さえ結べたならゼノンは国王に傷一つつけられないのだから。

 ゼノンはプシュケから切り離されてしまったせいで、結果的に国王の都合のいい王配候補として紛れ込んでしまった。プシュケが自分を護るためにしたことなのに、父親が満足する方向へと向かってしまった。

 ならば、切り離さなければよかったのか?

 違う。切り離さなければゼノンではなくプシュケが土地神と守護神の契約を結ばされていた。だからこそプシュケは先祖返りの力も一緒に切り離したのだ。先祖返りの力を放棄せねば、それこそ彼女はどうやったってこの国と国王から逃げられなくなっていたかもしれない。

 逃げられない限り、迂愚で自儘な独善主義者の元で、身勝手な都合に振り回され続けるのだ。

 プシュケ一人なら、狂っていただろう。どういう形であれ、二人になれたから、プシュケは狂わずにいられている。この逃れられない世界で幼い少女が生きていくには、自身を引き裂いてでも二人にならなければならなかったのだ。

 プシュケの半身ゼノンは、一度は逃げられた。プシュケからすれば捨てただけかもしれないが、彼女の半分であっても一時的にこの国と国王の元から離れられた。この国から離れていた四年の期間は、きっと彼女のための四年間だ。自分が本来存在し得ない人物であったとしても、この物語の余分な要素であったとしても、彼女に捨てられた半身であったとしても、自分は『ゼノン』という名の一人の男としてこの国に戻ってきた。こうして彼女のために動くこともできる。

 この四年間で得た全てを姫様のために使おう。Psycheを護れるのはぼくだけだ。

 プシュケの元に戻るために、途轍もない犠牲を払った。多くの尊い命が失われた。それでも、ここに辿り着いてしまった以上、引き返すこともできない。後悔を繰り返していても仕方がない。今、ここで僕のできることを全力で行うまでだ。それが四年間世話になった両親と兄たち、弟、乳母のために僕ができる王族としての最後の責務でもあると思っている。例え、紛れ込んだだけの偽りの王子であったとしても……。

 ゼノンは小さくなって震えるプシュケの両手を優しく掴んだ。

「僕は姫様に痛いことも、怖いことも絶対に致しません」

 恐る恐る顔を上げるプシュケ。その目は疑心に満ちていた。ゼノンはその目を受け止め、見つめ返す。

「何も信じられなくてもいい。何も信じられなくてもいいから、せめて僕だけは信じて。例え他の言葉を全て疑っても、さっきの言葉だけは信じて欲しい」

 プシュケの疑心の目が怪訝の目に変わった。首を傾げて、何も言わずにゼノンを見つめている。

「お願いだ……。僕は夢で見てきたんだ。痛い思いをしてきた貴女を。ずっと、ずっと……夢で見てきたんだ……」

 自分が奇妙なことを言っている自覚はある。こんな台詞、気味悪がって逃げる女性だっているだろうが、どうやったら彼女に届くのか、他の言葉が思いつかなかった。

 プシュケは目を大きく見開いた。頭をガードしていた手を下ろし、プシュケの手を掴んでいるゼノンの手へと視線を下げた。

 しばしの間、ゼノンの手を見つめた後に、プシュケは小さく頷いた。

「よかった……っ。ありがとう。ありがとうございます」

 ゼノンはプシュケに、まるで砂のオブジェを抱いているかのような、肌を触れ合わせる程度の抱擁をした。そうしないと、プシュケが崩れてしまうような気がした。プシュケは腕の中で硬直したが、しばらくすると怖々とゼノンの背に手を伸ばし、背中の服をぎゅっと掴んだ。

 僕がこのを護らねば。

 あまりに無力で、愛さえ得られない少女を腕に、ゼノンは何度も心の中で呟いた。

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