二、殺人鬼

 腕時計を覗き込んだ。

 そわそわとあたりを見回すが、待ち合わせた人物はおろか、人影のひとつもなかった。プラタナスが散る石畳の道はとても風情がある。景観を意識してか、吊り下げ式の街灯が規則正しく並ぶこの界隈は、フランスのショッピング街でも模しているのかやたらとお洒落で落ち着かない。

 それでも年若い乙女という立場相応にどこか浮き足立ったものを感じながらも、なんとか気を引き締める。

 今日会う予定になっている人物は、決して気を許して良いような相手ではない。思いつつ、気を落ちつけようと大きく息をして再び、腕時計を覗き込んだ。

 それにしても、もう五分以上の遅刻だ。このまま来ないのかも。そんな風に思いながら、少し先の曲がり角にある小さなカフェに目を向けた。

 歩道に設えられたテラス席にひと気はないが、どうやら奥の方は賑わっているようだ。人通りも少ないし、長いができるのかもしれない。そう思っていたら。

「――さん?」

 ぼそり、と。低い声が耳に忍び込んできた。反射的に振り返ると少し驚いた様子の青年が立っている。兎に角背が高い。一八五くらいはありそうだ。思わずまじまじと見上げながらも、

「はい」

と、返事すると、彼はちょっと口を開いたまま数秒固まった。

「え…あの、もしかして――さん、ですか?」

 状況を分析するに…。彼に引き合わせる予定だった友人の方がもしかして遅れているのだろうか?そう思って会う予定だった人物の名を上げると、彼は小首を傾げながら小さく頷いた。

「――、来れないって」

 短く告げられたのは、友人が来ないという事実だった。生来、コミュ力が高い方ではないから、大いに焦りつつも、仕方ないと腹を決める。

「あの、ここのカフェでお話、聴かせてもらってもいいですか?」

「ええ。…ココアあるかな」

 彼はそんな独り言を呟きながら横に並ぶ。触れそうになった左肩が強張るのを感じた。

 そのカフェは歩道に設えられたテラス席から木製の階段が三段ほど続き、その先にもう三席ほど丸テーブルが並んでいた。店全体がウォールナットのような深い色味の木材で統一されていて、間接照明の薄暗さも相まって独特の雰囲気を醸し出している。突き当りの奥には酷く危なっかしい階段が設えられていてちょっと驚いた。壁を塗りこめるときに直接短い木の板を差し込んだような小さな階段が急角度で壁を這っている。思わず一階席に視線を落とした。席自体は空いているものの、彼は黙って上階を指す。確かに、話す内容を考えればその方がいいだろう。

 カウンターに並び、飲み物を注文する。トレイに並んだホットコーヒーと、ココアを受け取って恐る恐る、階段の上り口に立った。

 階段は天井にぽっかりと開いた穴に続いている。思わず息を飲みながら足を賭けた所で、笑いながら降りてくる女の子二人連れに気付いた。慌てて身を引くと、慣れた様子で降りてくる。怖くないのだろうか。ちょっとバランスを崩したらそのまま落ちてしまう様な、手すりのない狭い階段なのに。

「すみません」

 すれ違い様、笑顔で小さく会釈をされて思わず会釈を返しながら、再び階段に向かう。慎重に、でも、誰かが来ては困るからとなるべく急いで。足を進めていると、彼はぴったり後ろについてきた。一段下に居る彼と、自分の身長は丁度同じくらいだった。

 すぐ後ろに彼が居る。そう思うと、心臓が早鐘を打ち始めた。

 彼の本名より、よく知られた呼び名がある。――少年Aだ。

 彼は母親を殺した罪で五年間服役し、先日社会に戻ってきた。事件に関する記事は集められるだけ集めて読んできたが、読めば読むほど理解が出来なかった。そして、情報を得た後で描いたその事件の少年Aの像と実際の彼は、かけ離れているように感じられた。

 何故か?判らない。事件も判らないし、この男の実像と結びつかない。

 初めて目があった瞬間の印象…落ち着いた、深い色の瞳。底が知れなくて、少し怖い。

「怖い?」

 不意に、耳元で囁かれて、危うくトレイをひっくり返すところだった。振り返った先の彼の蠱惑的な瞳に、惑わされてしまいそうだ。

 そんな予感を、感じた。

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夢の惑い路 ユキガミ シガ @GODISNOWHERE

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