No,14 Alice said, "Who am I?" To myself.


 ドスン。

 アリスは建物の中にいた。目の前には自分の腰の高さくらいのテーブル。テーブルには鍵が置いてあり、よく見渡すと地面の床に小さな、小さな扉があるのが見えた。どうやら鍵はこの扉のものらしい。

 鍵穴の向こうにはお花畑が見え、それが風に吹かれている。

「チャシャ猫、どうして助けてくれたの? 私、貴方を助けたっけ。それに忠告ってなによ」

「助けちゃいないさ。ただ、助けたと思えば助けてなくても助けたことになるのさ。だから君は俺を助けたのさ」

「……あぁ、そう。ならよかったわ」

 屁理屈だ。もう慣れてしまったけど。

 するとチャシャ猫はやれやれといったように肩を竦めた。

「忠告って何?」

「君、もう見失っているね?」

「なにが?」

「君、もうこの世界から出られなくなっているんだよ」

「……どういうこと」

 チャシャ猫はアリスの顔をじっと見た。そしてため息をつく。

「俺がなにに見える?」

「……チャシャ猫?」

 チャシャ猫はチャシャ猫だ。他に何に見えるのだろう。

「チャシャ猫とはなんだ?」

「チャシャ猫はチャシャ猫じゃない」

「おお、かなり毒されているな!」

「だから、なんなのよ!」

 アリスは段々イライラしてきた。変なやり取りに変な答え。普通ならここで怒ってもおかしくない。

 でも、あれ? 普通ってなんだっけ。

「……デファンス」

「……!」

「君の名前はアリスじゃない。そうだろう?」

「あれ……私何を」

 チャシャ猫は語り始めた。

 いや、ネーロと言ってもいいかもしれない。チャシャ猫ネーロは語る。この世界の怖いところを。

「この世界の怖いところは迷い込んだ住人の名前を隠して、初めから、あたかも初めからここの住人だったように錯覚されることさ。取り込んで迷わせていつしかこのヘンテコリンなこの世界を変だとは思わなくなる。実際そうだったろう? デファンスアリス、今の君に俺はどう見える?」

 いつしか地の文も取り込まれ、デファンスはアリスそのものになっていた。初めは猫には見えなかったチャシャ猫はいつしか猫になっていた。だから柔らかい柔毛があったのだ。白うさぎはぴょこぴょことうさぎのように動くようになったし、赤の女王は気まぐれではなくいつの間にか口癖が「首を刎ねよ」に変わった。

 アリス、いや『デファンス』はゾッと身震いがするのを感じた。

 いつしか自分はアリスになっていた。自分の名前を見失っていた。そうして「アリス」と呼ばれて疑問も持たなくなっていた自分にゾッとしたのだ。

 目の前のチャシャ猫は初めに見た人型のネーロに変わっていた。あの、に。

「いつから私、アリスになったの」

「……赤の女王に名前を聞かれてアリスと名乗った時さ。それがこの世界の台本の中でヒロインをアリスにするスイッチみたいな役目を果たしている」

「……台本?」

 さっきから、チャシャ猫……いやネーロは何を言っているんだ。台本? ヒロイン? それじゃまるで。

「本の中みたいだって?」

 アリスはビクッと顔を上げた。

「実際そうなのさ。この世界は本の中の世界。誰かの夢の中なのさ。そしてその夢を見ている主人が誰なのかは――アリス、分かるだろう?」

 チャシャ猫はニヤリと笑う。

 アリスは恐る恐る自分を指差した。

「私の夢ってこと? 私は眠っているの? なら、外の私を起こせばこの夢は終わるの?」

「あぁ、終わるさ。でも、無理に起こせばこの夢ごと君は壊れる。それにこの本の中の世界から外のやつらを起こす方法なんかないのさ」

 チャシャ猫はまたもやニヤリと笑った。

「アリス、でも方法が一つだけある」

「……それは何」

「この世界にはがいる」

 黒幕、そりゃ本の中の世界なのだからいるのかもしれない。

「この世界の中で唯一、台本を持たない全てアドリブの演技者だ。黒幕はいわば監督。自分の好きなシナリオを作り、出演者に台本を配るかのように舞台を設定。支配し、操る」

 チャシャ猫はその説明に少し加える。

「君と同じく、外から来たそいつは君の夢の中を原料としてこの世界を操る支配者というべき存在だ。そいつはこの世界の住人の喋る言葉や、行動も支配しているが、彼自身はこの世界の住人になりきる為に演技をしている。完璧になりきっているそいつをお嬢ちゃんがもし見破れたら――この世界から出られるし、このゲームは君の勝ちだ」

「誰よ、それ」

 アリスは不機嫌ながら聞いた。チャシャ猫が答えるかは五分五分であったが、聞かないよりはいいだろう。

「気になる!? 気になるよねー」

「まぁ、気になるけど」

 なら早く答えてほしい。

「俺は黒幕をねー、なんと! 知らないんだよ!」

 なんなのだ。

「……知らないならさっさと知らないって言えばいいのに」

 でも、ここでふと考える。黒幕が唯一台本を持たないということは他の役者は台本を持っているということだ。

 もし、自分が黒幕なら、自分が黒幕とバレる様なことはしないのではないか? そもそも、黒幕の存在を知らなければ黒幕だなんて暴けっこない。そもそも私は黒幕という存在を知らなかったのにチャシャ猫はこう黒幕の存在を教えるようなことを言った。

 もし、チャシャ猫が黒幕ならこれは演技であることになるが、それになんのメリットがある? チャシャ猫が黒幕でない場合も黒幕がわざわざこの台詞をこのタイミングで言うように仕掛けたということになる。言わなければ黒幕の存在を知らなかったのに、黒幕は台本を渡してまで訪問者に存在を教えた。

 その理由はなんなのか。

 黒幕、何を考えているのか全く分からない。

「でも、こいつじゃないのかなーというのは予想がついてるよ」

 チャシャ猫はこう言った。

「誰!? 誰々!」

「おっと、誰にも言うなよ? 黒幕の存在を暴こうとすると処刑されちまうんだよ。いや、だからこそというか。そこから俺はこいつが怪しいんじゃないのかなと思っているんだけどね」

 アリスは耳を傾げた。チャシャ猫はアリスの耳元に近づいて小声でこう言った。

「……だよ。アリス、お前をこの世界に引き込んだのは誰だ? 白うさぎだろ? 処刑をするのは誰だ? 白うさぎだろ? それに訪問者の話じゃあいつの部屋には怪しげなクッキーが置いてあるとか聞くじゃないか! あいつが怪しくて、怪しくて堪らないよ!」

 チャシャ猫は高々と宣言する。

「白うさぎは怪しい。だから、俺はあいつを監視しているのさ。訪問者はみんなあいつの時計の針にされたんだ。だからあいつは黒幕だ」

 初めの変な言い回しはそんな理由だったのか。

「でも、白うさぎが黒幕なら単純すぎると思わない? そういう要素が散りばめられすぎているというか」

「何を言う!」

 アリスはビクッと驚いた。チャシャ猫がとても怖い顔でこう言ったからだ。チャシャ猫はさも当たり前のようにこう言った。

「――あいつは俺をとしたんだぞ! だからあいつは黒幕だ!」

 あぁ、やっぱりチャシャ猫も私怨の塊だった。


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