血潮

谷内 朋

血潮

 とある施設型アパートに最近越してきた男、リョウ。彼は清掃員として日夜ビルの掃除に勤しみ、慎ましい生活を送っている。

 上の階にはシュウという名の女が住んでおり、常にタバコを咥えて所構わず転んではヘラヘラと笑っている一風変わった女であった。

 ‎リョウは普段自炊をしているので併設されている食堂は滅多に利用しないのだが、親しくなった隣人の男性に誘われて食事に混ぜてもらい、勧められた椅子に座ろうとしたところ……。

「寄るな人殺し!」

 ‎その言葉と共に灰皿が体に当たり、軽い金属音を立てて落下する。リョウは驚くばかりで言葉が出ない。

‎「シュウちゃん、いきなり何言い出すんや?」

「そんな言い方失礼やろ?」

 ‎皆が口々に彼女の言動を窘めるが、それに構わずリョウを汚い物でも見るかのように睨み付ける。

「お前、血の匂いがすんねん」

 ‎その一言に愕然とした。

 

 十年前、かつて交際していた女性がストーカー被害に悩まされていた。警察に相談してもまともに取り合ってもらえず、遂に彼女が襲われてしまうという事態に発展した。

 ‎それに対してキレたリョウは、犯人が持参していたナイフを奪い、馬乗りになって身体中を突き刺していた。その時の事は殆ど憶えていない、ただ気が付いた時には彼自身も血みどろになっていた。

‎『警察、呼んでくれ』

 ‎リョウは恋人にそう頼んだ。しかし彼女はリョウの形相を見て怖がってしまい、一人その場から去ってしまった。


 それから程なく逮捕された彼は七年刑に服していた。元々真面目な青年だったので更正も早く、前科があるなどとは誰にも思われていなかったはずだ。

 ‎ところが知って間もない女にあっさりと見破られ、そのショックが予想以上に尾を引いた。自身にも分からない血の臭い……それが気になって気付けば一時間以上体を洗い続けていた。


『何があってもここから出たらあかんで』

 ‎幼稚園児くらいの少女は、父にそう言われて自宅二階の部屋に閉じこもっていた。しばらく経って普段の生活音とは思えない大きな音が響き、少女は体を震わせ表情も固くなる。彼女は音の怖さと父の言いつけでなかなか部屋から出られなかった。

 ‎それでも様子が気になって怖いもの見たさで下に降りると、ダイニングの床は赤黒く染まり、その中央に父が倒れていた。

  

 その後少女は児童養護施設に預けられて程なく母親が交際男性を連れて迎えにやって来る。

‎『この人が新しいお父ちゃんやで、これから三人で一緒に暮らそ』

『……』

‎『こんにちはシュウちゃん』

 ‎男性はシュウの前で屈みにこやかに挨拶をしてきたが、その男からは生臭い匂いが鼻を突き、一瞬にして嫌悪感を覚えて咄嗟に施設職員の元に逃げ隠れた。

‎『イヤや!』

 ‎その一言を連呼するだけであとは泣き出すのみ。

【その男がお父ちゃんを殺したんや!】

 ‎児童にも満たない彼女の口から、その真実が紡がれる事は無かった。


【お前、血の匂いがすんねん】

 ‎幾日かの時が過ぎてもその言葉が頭から離れない。‎そのせいかあの日の夢を見ては魘されるようにもなり、理性を保てなくなった彼は自室内で発狂し始める。


 下の部屋で暴れる音がする……その音に触発されたシュウもまた過去の記憶に苦しんでいた。一人布団に包まり、音が止むのを体を震わせながら待っていた。

‎【あの臭いはもうイヤや……】

 ‎真っ暗な視界の中、ただそれだけを思っていた。


 周囲の住民に止められてようやく衝動の治まったリョウは、疲れ切った表情でベッドに座っていた。一人でいるはずなのに、隣に人の気配を感じて何となくそこに視線を向けると、自身を毛嫌いしているはずのシュウの幻覚が寝っ転がって見せた事のない微笑で彼をじっと見つめていた。

 ‎彼女の表情は穏やかで、白く細い腕を伸ばして頬を触ってくる。感触など無いのに何故か体温と程近い温もりは伝わってきた。

 ‎リョウは彼女の手を優しく握って寝っ転がる彼女を見つめる。大して美しい女ではなかったが、幻想上ではとても魅力的に映っていた。

 ‎それに誘われるかのように彼女の体をそっと抱き締めて口づけをを交わす。幻覚の中でだけでも愛を感じた事が妙に心地良かった。


 ある雨の日の夜、シュウはお気に入りの真っ赤な傘とゴム製長靴を身に着けて自宅付近を散歩しているところに、ずぶ濡れになったリョウの後ろ姿を見かける。これまでの彼女であれば間違いなく逃げていただろうが、この時は何故か背後から近づく。

‎「……」

 ‎二人は頭一つ分ほどの身長差があり、必死に腕を伸ばして傘を差し掛けてくるシュウの腕はぷるぷると震えている。その姿に急激な愛おしさを感じ、衝動的に小さな体を抱き締めていた。

 ‎シュウは鼻に付く血の臭いを嫌がって抵抗したが、男の力に敵うはずもなく体勢はほぼ変わらぬままだ。

「僕が欲しいんは傘やありません」

 ‎その言葉が耳元で囁かれた瞬間、リョウを取り巻いていた臭いは一瞬にして消し去られた。

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血潮 谷内 朋 @tomoyanai

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