4-6. 失われた世界で手に入れたもの
「『
パタンと本を閉じる音が聞こえて、はっと夢うつつから目が覚めた。
風穴を抜けた先は、以前姫さまを探しに来た時に訪れた城の『永樹の図書館』だった。あの時と変わっていることといえば、バルカの部下たちが散らばっていたガラスの破片を片付けたくらいで、他はそのまま荘厳な景色を保っている。
そんな中、彼女は地面から突き出た大樹の根の上に座っていた。
「……久しぶりだね、スミレちゃん」
あえて、そう呼んでみる。
全ての記憶を取り戻したという彼女をどちらの名前で呼ぶべきなのかは正直よく分からなかった。こうして異世界の風景の中にいる彼女は、どちらかといえば「ヴィオラ」であるような気もする。
だけど、今は「スミレちゃん」と話がしたかった。
「うん。久しぶりだね、イサム」
彼女は穏やかな笑みを浮かべてそう答えた。
呼ばれた名を、否定せずに。
……さて、何から話そう。
話したいことはたくさんあるんだ。
それなのに……言葉が喉に詰まって上手く出てこない。
そんな俺のことを、彼女はじっと見ている。
七年前と比べると大人っぽく成長してはいるけど、澄んだ瞳はちっとも変わらない。あの頃も今も、こうして見つめられると何か話さなくちゃという気に駆られる。そうでもしないと、彼女に胸の内を見透かされるような気がして怖かった。
ただ、当時はなぜそのことを「怖い」と思うのか自分でもよく分かっていなかった。何かやましいことがあるわけでもないのに。
でも、今はなんとなく分かる。
胸の内に芽生え始めた淡い感情。その正体を知られることで、彼女との関係が終わってしまうことが怖かったんだ。
結局、下手にごまかそうとしたせいでかえって彼女を傷つけることになってしまったのだけど。
……スミレちゃん。
君は今も引きずっているのだろうか。
七年前の、あの台風の日のこと。
「あのさ——」
「ねえ」
彼女は俺の言葉を遮った。
「……謝ろうとか、考えてたでしょ」
「えっ」
どうして分かったんだ。
動揺で脈が速くなる感じがした。それに拍車をかけるように、彼女はずいずいと俺の方に歩いてくる。
「まったく、イサムって昔っから無駄に慎重だよね。夜の小学校で肝試した時はお化けの撃退グッズとか言って塩にニンニクにファブリーズにいろいろ持ってきたり、異世界に行くための方法にヘルメットとかアメ玉とか追加したり」
「わ、悪かったな。けど、それとこれとは関係ない——」
「関係あるよ」
彼女はきっぱりと言った。
「イサムは失敗するのが怖いんだ。謝ろうとしたのは、わたしが何を考えているのか分からないから。もしかしたら七年前のことを引きずっているのかもしれない、それなら最初に謝ってすっきり清算してしまおう……そう思ったんでしょう?」
「うっ……」
何もかも図星だ。
彼女はふっと微笑み、首を横に振る。
「そんなことよりもさ。わたしね、こうして話す時間ができたら一番最初に言おうと思ってたことがあるんだ」
「俺に?」
「うん。……わたしに会いに来てくれてありがとう、イサム」
その言葉を聞いた瞬間、不意に目頭が熱くなった。
なんだよこれ。想定外だ。
なんでこんな簡単な言葉で泣きたくなるんだ。
慌てて目を押さえる。
俺はただ、もう二度と同じ後悔をしないようにやりたいことをやってきただけ。
異世界、そして狭間の世界まで彼女を追いかけてきたのは、彼女のためというより自分のためだ。
だから、ひょっとしたら呆れられるかもしれないと思っていた。
イサムはやっぱりわたしのこと分かってないね、って。
どうして放っておいてくれなかったの、って。
そう咎められる可能性だって考えていた。
なのに。
——『ありがとう』
彼女の口から発せられたほんの短いその言葉が、俺の胸の中で七年間よどみ続けた雲を払っていく。
……そっか。
俺がやってきたこと、間違いじゃなかったんだ。
「一応言っておくけど……七年前のこと、わたし別に怒ってないよ」
彼女は少し照れ臭そうに、視線を下に向けながら言った。
「確かに、イサムが異世界に行ける方法を一緒に試してくれなかったのはちょっと寂しかったけど、自分でもあんな台風の日に何言ってるんだろうって思ってたよ。どう考えたってイサムを困らせるだけなのに、だだをこねて馬鹿みたいだなぁって、遠くから嘲笑っている自分もいた。それでも……足を止めることはできなかった。もう、我慢の限界が来ちゃってたの。あの時はとにかく早く逃げだしたいって気持ちが一番強くて」
「……でも、俺がちゃんとスミレちゃんの気持ちに気づいていれば——」
「そう? わたしはね、イサムが気づいてくれてもどうしようもなかったと思うよ。わたしたち、子どもだったから。異世界を信じて逃げ出すくらいしかできることがなかった。あの時の自分たちなりに、お互い精一杯やったと思ってる。だから、気にしてないんだ」
彼女はにっこりと微笑む。
「それにね……勝手な考えだけど、わたしはこの世界に来れて良かったと思ってるの」
記憶をなくしちゃったのは想定外だったけど、と恥ずかしそうに小声で付け加える。
あの台風の日、彼女は勢いで俺の家を飛び出したので、俺の部屋になかったヘルメットだけ持っていき損ねた。それでこの世界に着地した時に頭を打ち、その衝撃で
「そんなわたしのことを森のおばあちゃんが拾ってくれて、最初のうちは慣れるのが大変だったけど、周りの人たちはみんな優しくて、ストンや姫さまみたいな大切な人たちにも出会えて……」
この世界の人々の名前を挙げていく彼女は、今までに見たことがないくらい穏やかで優しい表情を浮かべていた。
なんとなく分かっていた。
やっぱり彼女はこの世界が好きなんだ。
たとえ自分で崩壊に導いてしまった世界だとしても、ここにはヴィオラとしての彼女の居場所がちゃんとあるから。
……分かってはいたけど、少しだけ胸が痛んだ。
きっともう、俺たちが幼少期を過ごした世界に戻る気はないのだろう。
それはそうだ。わざわざ戻る理由がない。
元の世界には彼女の居場所は残されていない。その事実を伝えたわけではないけれど、きっと彼女は分かっている。
「でもね、それだけじゃないよ」
「え?」
いつの間にか彼女はすぐ目の前に立っていた。
手を伸ばせば届く距離に——そう思った瞬間、急にこっちにふらっと倒れこんで来て、俺は慌てて彼女を抱きとめた。
大丈夫かと、そう聞こうとした。
けど彼女が顔を上げて悪戯な笑みを見せてきた時、俺ははめられたのだと分かった。
彼女は細腕を俺の背中に回して胸に顔をうずめると、くぐもった声で言った。
「……この世界に来たから知ることができたんだよ。七年経っても、世界を越えて会いに来てくれる人がいるって」
つま先から髪の毛の先まで、全身が熱い。
「嬉しかったんだ。想像じゃ、計り知れないくらい」
彼女の声は、どこか震えているように聞こえた。
それは物語を語る時の凜とした声とは違う弱々しくて消えそうな声だったけど、間違いなく彼女自身の本音の声だった。
「ねえ、どうしてイサムはここまでしてくれたの?」
「どうしてって……」
ずるいなぁ。
本当は聞かなくても分かっているくせに。
だけど、俺たちはどうしても言葉に頼ってしまう生き物だから。
形容しがたい気持ちでも、言葉にしなくちゃ気が済まないのだ。
「好きだよスミレちゃん。君の物語の続きを聞かせてほしいんだ」
***
俺たちは一冊の本を持って狭間の世界に戻った。
題名は『さみしがりやの巨大怪獣』。
ヴィオラ曰く、これが「バクーと友だちになる」ために重要な役割を担うのだという。
正直どこまでうまくいくのかは分からないが、あとはそれぞれの世界の言葉の力を信じるしかないのだろう。
「本当にいいんだね?」
ゼロ番の笛吹きは念入りに確認してきた。
俺たちは迷うことなく頷く。
これからすべての世界の風穴を開き、それぞれにヴィオラの力によって顕現させた透明な姿のバクーの分身と、ミルコの力によって翻訳された『さみしがりやの巨大怪獣』の本を送り込む。
「いや、それは分かっているよ。ちゃんと協力する。問題はその後の話さ」
笛吹きは俺とヴィオラの顔を順々に見た。
これが終わったら、もう一度それぞれの帰るべき世界につながる風穴を開けてもらう手はずになっていた。
バルカは『スーサイド・ワールド』へ。
ヴィオラは『ロスト・ワールド』へ。
そして俺は、『カーム・ワールド』へ。
全員別々の、元いた世界に戻る。
それが俺たちの決めたことだった。
「僕はてっきり、君か彼女は同じ世界に行くものかと思っていたけど」
怪訝な表情で言う笛吹きに、俺の肩の上に乗っていたストンが得意気に答えた。
「大丈夫デス。イサム・サンニハ、ストンガツイテオリマスカラ」
笛吹きは一層苦い表情を浮かべる。
まぁ確かに、彼の言うことはもっともだ。
俺だって本音を言えば彼女と一緒にいたい。
だけど俺には元の世界でやるべきことが残っている。
だから——
「ストンは借りるだけ、そうでしょイサム」
「ああ。用事が終わったらすぐ返しに行くよ」
だから、それまでのほんのひとときの別れ。
大丈夫、小学生だって異世界に行くことができたんだ。
きっとまた会える。
「私の部下になるという選択肢は考えなかったのか? なかなか筋が良かったんだがな、貴様は」
バルカは冗談まじりにそう言った。
世界の崩壊のメカニズムを知ってしまった今、彼女は『ロスト・ワールド』での資源調達計画を取りやめ、元の世界で故国を立て直すことにするのだという。
「バルカ、あんたには何度も支えてもらった。初めて会った時は正直怖かったけど……今はあんたに会えて良かったと思ってる」
すると彼女はフンと鼻で笑った。
「当然だろう。暇ができたら私の故国にも遊びに来い。その頃までには紛争を収束させる、約束するよ」
彼女が拳を突き出す。俺もまた拳を返した。機械でできた鉄の拳は、初めて触れた時よりも心なしか温かいような気がした。
「さて、そろそろ準備はできたかの」
ミルコの言葉に、その場の全員が頷く。
風穴を開け始めるゼロ番、妨害が入らないよう警戒するバルカ、『ナ・レート』の源を翻訳し始めるミルコ、その力を受け取り透明なバクーを生み出そうと杖に祈りを捧げるヴィオラ。
「みんな——いくよ!」
ヴィオラが短く叫ぶと、暗く静かな狭間の世界に目がくらむくらいの光が溢れた。どこからともなく爽やかな風が吹く。笛吹きの開けた風穴から漏れた風だ。様々な世界につながる風穴はそれぞれ全く異なる色に溢れていて、まるで一枚のステンドグラスの絵みたいに世界を彩った。
ヴィオラによって生み出された姿の見えないバクーの分身たちが風穴の向こうへと旅立っていく。一枚一枚窓が閉まるように風穴が閉じていき、少しずつ狭間の世界は元の暗闇を取り戻していった。
いよいよだ。
長いようで短かった、異世界の旅が終わりを迎えようとしている。
俺がたどり着いた世界は、確かにすべてが失われた世界だった。
だけど、気づけばたくさんのものを手に入れていたように思う。
金色の紙飛行機に導かれて一歩踏み出さなければ出会うことのなかった、たくさんのものを。
「イサム・サン、行キマショウカ」
ストンに促され、俺はミルコに分けてもらった『ナ・レート』の力に意識を集中させた。
初めて異世界にたどり着いた時に持ってきた傘を開いて、地面を蹴る。
風は軽々と俺の身体を運び、あっという間に風穴の目の前まで飛ばされていた。
ふと、気になって振り返る。
遠くに見えるヴィオラが、こっちに向かって手を振りながら口を動かしていた。
——待ってるね、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます