第4章 失われた世界で手に入れたもの
4-1. 狭間の世界
あれ、ここは……?
いつの間にか景色ががらっと変わっていた。
しかも見覚えのある景色だ。ここは現実世界の俺の家の前。風がごうごうと吹き荒れ、土砂降りで側溝から水が溢れ出ている。こんなにひどい天気の日は……やっぱり「あの日」しか考えられない。
案の定、俺の目の前をびしょ濡れの少女が駆けていき、俺の家のインターホンを鳴らした。
そうだ……七年前、台風で大雨暴風警報が発令されたあの日、彼女はなぜかうちを訪ねてきたんだ。
『どどどどうしたの!?』
彼女の姿を見て慌てる小学生の俺に、スミレちゃんはうちの玄関でぽたぽたと雨の雫をこぼしながら言った。
『えへへ……ウンディーネとシルフが楽しそうにしてるから、わたしも一緒に遊びたくなって』
彼女はへらへらと笑っているけれど、その右頬が不自然に赤く腫れている。
小学生の俺がどうしようとあたふたしているうちに、母さんがすぐにバスタオルを持ってきて、スミレちゃんをくるんで風呂場に連れて行った。
玄関にぽつんと取り残された小学生の自分の側に立ってみる。気づく様子はない。どうやらブルースフィアの時みたいに、俺の身体は透明人間みたいになっているようだ。
風呂場からシャワーの音が聞こえ始めた後、母さんが玄関に戻ってきた。そしていつになく神妙な顔つきで、声を潜めて小学生の俺に尋ねる。
『ねぇ勇。スミレちゃん……いつもあんなにアザだらけなの?』
小学生の俺は「さぁ」と言ってごまかす。
本当は彼女がよく服の下にアザを作っていることを知っていた。だけどスミレちゃん本人に他の人には言うなと止められていて言えなかった。当時の俺は、彼女の言いつけを守ること以外に彼女を守る方法を知らなかったのだ。
風呂から出たスミレちゃんは、とりあえず台風が落ち着くまで二階の俺の部屋で過ごすことになった。
『勇、ちゃんとスミレちゃんにも本とかおもちゃとか貸してあげるのよ』
『はいはい、分かってるって』
『『はい』は一回!』
『はーい……』
母さんが一階に降りていった後、小学生の俺はようやく気になっていたことをスミレちゃんに尋ねた。
『……またお母さんに殴られたの?』
するとスミレちゃんは俺と目を合わせないまま、へらっと笑って言った。
『わたしがいけないんだ。ママが作ってくれたごはんにすききらい言って怒らせちゃったから。わたしって、生まれてきちゃいけない子だったんだって。うちの子はお兄ちゃんだけで十分ですって言われちゃった』
これは彼女がいなくなった後で色々調べて分かったことだが、武部家はいわゆるワーキングプアと呼ばれる世帯だった。両親ともに働いてはいるものの非正規雇用で収入は安定しない。一方、働けるからという理由で生活保護の申請は受け入れてもらえず、日々の生活費だけでも常にギリギリの状態だったらしい。長時間の割に合わない労働と節約生活のストレスから父親も母親もピリピリしていることが多く、近所ではトラブルメーカーとして認識されていたようだ。
歳の離れたお兄さんが中学を卒業してすぐ働きに出て家にお金を入れるようになり、少しは生活が落ち着いたかに見えた……が、そんな中でスミレちゃんが生まれた。
二人目の子どもを養える余裕と体力は両親にはほとんど残っておらず、近所には以前に増して夫婦喧嘩の怒鳴り声やどかどかと暴れる音が響いていたという。
当時の彼女は一体どう思っていたのだろう。
スミレちゃんが自分から家の話をすることは滅多になかった。だけど、いなくなる直前の頃の彼女が作る物語には「親からいじめられている少女が家出をする話」や「哀れな捨て猫のところに優しいおばあさんが通う話」とかそういう設定がやけに多くて、もしかしたら本心ではどこかへ逃げることを望んでいたのかもしれない。
『あのさ……スミレちゃんのお父さんとお母さんのこと、先生に相談した方がいいんじゃないかな。もしかしたらなんとかしてくれるかもしれないし』
小学生の俺は恐る恐るそう言ってみたが、彼女にはあっさり否定された。
『べつにいいって。わたしが悪いんだもん。それよりもさ、こないだの『異世界に行くための方法』のつづき考えようよ。実はね……グリムにいいことおしえてもらったんだ!』
彼女は俺のランドセルに入っていたリコーダーを勝手に引っ張り出すと、不可解なメロディーを奏でてみせた。
『なにそれ?』
『空とぶじゅもん!』
『空とぶじゅもん……?』
『そう! これをふけば、からだがうき上がって好きなところにとべるんだって。わたしたちが考えてた『異世界に行くための方法』に足したら完ぺきじゃない? ね、イサムもそう思うでしょ?』
正直「本当かなぁ」と怪しむ気持ちでいっぱいだったが、なんだか嬉しそうな彼女の機嫌を損ねたくなくて俺は頷いてみせた。するとスミレちゃんの顔は嬉しそうにぱぁあっと輝く。
『そしたらさ、せっかくつよい風がふいてるんだし今から試してみようよ!』
『え……?』
『ほら、早く早く! 次いつ台風が来るかなんて分からないんだから!』
スミレちゃんはそう言って、俺の部屋を漁り「異世界に行くための方法」に必要なものを集め始めた。父さんの傘、金色の紙飛行機、タコひも、アメ玉、てるてる坊主、上履きシューズ。準備は着々と進んでいく。
『ねぇねぇ、自転車のヘルメットは?』
『外の自転車置き場にあるけど……って、本当に試す気なの!?』
『そうだけど』
スミレちゃんはきょとんとした表情で首を傾げる。
その時の俺は、少しだけ彼女のことを怖いと思ってしまった。小学校高学年になってもなお、この妄想遊びに本気になれるところ。そして自分の身の危険を顧みずに行動しようとするところ。このまま放っておいたら、きっととんでもないことになる……嫌な予感がして、俺は彼女にこう言ったのだ。
『やめようよ。台風の日に外に出たらあぶないんだよ。うちに来ただけでもびっくりしたのに、これからまた外に行くなんて……。べつの日にすればいいじゃんか。どうせそんなカサで異世界になんて行けっこないんだから』
そこまで口にして、「しまった」と思った。
部屋の空気が、ひんやりと冷えた気がしたんだ。
それまでにこにことしていた彼女の表情は翳り、じっと下を見つめている。
『……なら、分かってくれると……のに……』
『え?』
ぼそぼそと何かを呟いていて、聞き取れなかった。顔を上げてもらいたくて、彼女に触れようとすると……その手は思い切り強く弾かれた。
『……もういい! イサムはわたしのこと、何にも分かってない!』
スミレちゃんは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でそう言い放つと、必要な道具を全部抱えて俺の家を飛び出す。
『待って!』
追いかけようとして、家を出てすぐの場所で小学生の俺はつまづいて転んだ。大粒の雨が容赦なく背中に降り注ぐ。
そうだ……顔を上げた時にはもう……スミレちゃんの姿はどこにもなかったんだ。
転んで立ち上がれない小学生の自分の代わりに、俺はスミレちゃんの小さな背中を追いかける。
行かないでくれ。行っちゃダメだ。
君が進むその先には、あの大きくて醜い怪物が——
『そうまでして彼女を助けたいのかい?』
あれ?
いつの間にか目の前にゼロ番の笛吹きが立っている。
邪魔だ。どいてくれ!
『あの子は危険だよ。放っておいてはいけない。君もそう思ったから、彼女を止めようとしたんじゃなかったのかい?』
うるさいうるさいうるさい!
今はそんなこと関係ないだろ!
『君は本当は怖いんだろう? 自分の想像を簡単に飛び越えてしまう彼女のことが、さ。自分と一緒だと思っていたのに、いつの間にか置いていかれるんじゃないかって恐れているんだろう?』
クソッ……何を分かったようなことを……!
『果たして彼女は君の呼びかけに応えるかな? 一緒に元の世界に帰ろうと思っているのは、君だけなのかもしれないよ』
……ああ、そうだね。俺だけかもしれない。
『じゃあどうして、危険を冒してまで手を伸ばそうとする?』
ははは。どうしてだろうね。あんたの言う通り、全然筋が通らないや。
それでも俺は——
その時、笛吹きの姿が霞んで、その奥に紫の髪の少女の姿が見えた。どこか寂しげな表情を浮かべて俺の方を振り返る。
「ヴィオラ!!」
気がつけば、七年前の光景も、笛吹きの姿も、ヴィオラの姿もどこにもなくなっていた。
俺が今いるのは、まるで宇宙空間のような場所だ。床も天井もなく、周囲にはただひたすらに奥行きのない暗闇が広がっていて、ところどころ星のような小さな光が見える。
「ずいぶんうなされていたようだが、平気か?」
声がした方を振り返るとバルカが立っていた。
そう言う彼女もまた、どこか顔色が悪い。
「もしかしてあんたも変な夢を見たのか……?」
彼女は苦い表情を浮かべて頷いた。
「ああ。夢というか、電子脳でブロックしていたはずの嫌な思い出が蘇ってきたという感じだな」
「嫌な思い出、か」
確かに七年前のあの記憶は、俺の人生の中では一番悔いの残る思い出に違いない。
「まったく……風穴を通るというのはあまり気持ちの良い体験ではないな」
「まぁな。とはいえ、この変な場所もあまり長居したいとは思えないけど」
本当にここが狭間の世界なのか、確証は持てなかった。近くにはゼロ番の笛吹きの姿も、ヴィオラの姿も、そしてあの怪物の姿も見えない。
まったく距離感のつかめない空間だが、探し回ってみるしかないだろう。ひとまず近くで最も強く輝いている星のような光の場所を目指してみることにした。
光は最初は米粒ほどに小さく見えていたが、数分歩いただけでみるみるうちに大きくなり、さらに近づいてみるとどうやらそれが窓のようなものだと分かった。
「なんだこれ……?」
窓の向こうを覗いてみると、まるで飛行機の窓から眺めているような景色が広がっていた。大地があって、緑があって、人の町のようなものが点在している。
「おい、イサム! こっちも見てみろ!」
もう一つ別の光の方の様子を見に行っていたバルカに呼ばれて俺は彼女がいる方へと向かう。そこにも同じような窓があったが、見える景色はさっきの窓とは全然違っていた。こっちはSF映画に出てくるような未来都市になっていて、緑はほとんどなく、極彩色のネオンが照らす空を車が走っている。
「もしかして、この窓はいろんな世界に繋がっているんじゃ……!?」
他の窓も見てみようと、背後を振り返った時だった。
人はあまりにも驚くと声すら出なくなるらしい、というのをこの時身をもって実感した。
すぐ目の前に巨大な影が佇んでいて、虚ろな瞳でじっとこちらを見ていた。
……笛吹きの
さっきまで何の気配も感じなかったのに、いつの間に後ろにいたのだろうか。
ストンの同期情報で見たときは、怪物の全貌は漆黒の闇に溶け込んでいてほとんど見えなかったが、今は窓の光に照らされてうっすらと見えた。
背丈は俺たち人間の五倍ほどはあり、全身は長い毛で覆われている。骨格は全体的にマンモスのような形をしていて、ずんぐりとした胴体に長い鼻、その脇には鋭い牙が伸びている。マンモスのような大きな耳はないが、頭の周りはゴツゴツと骨がつきだしたような硬質の何かが覆っている。よく見ると足は六本あり、猛禽類のようなゴツイ形をしている。
「こいつが世界を崩壊させる化け物か……!」
バルカがサーベルを引き抜き、斬りかかろうとした。
だが刃が触れる直前、怪物は急に雄叫びをあげる。
耳が裂け、腹の中が渦巻くかのようなおぞましい鳴き声。巨体がゆえに音の振動でバルカの身体は弾き飛ばされてしまった。
「くっ……!」
バルカはすぐさま立ち上がりもう一度向かっていこうとしたが、それは叶わなかった。怪物はのっそりとした動きで俺たちが先ほどまで覗き込んでいた窓に近づいていく。一歩進むだけでも辺りは激しく揺れ、立つことすらままならない。
怪物の長い鼻が器用に窓を開けた。
怪物が再び雄叫びをあげ、俺たちは耳を覆ってその場に転がる。一体何をする気なんだ。騒音に耐えながら怪物が鼻を突っ込んだ窓の方を見やる。
俺は、目を疑った。
怪物が窓の向こうの空気を吸い上げると、発展した世界では暴風が吹き荒れ、雷がとどろき、空飛ぶ車はあらぬ方向に走り、都市は停電で明滅を繰り返しながらぼろぼろと崩れ落ち始めたのだ。
「そん、な……」
目の前で、一つの世界が崩壊していく。
俺たちは何もできずに、ただその様子を見ているだけ。
「やれやれ……やはり彼女の物語だけでは空腹は満たされませんでしたか。バクーさま、ほどほどにしてくださいね。最近は暴食が続いてお腹が出てきてしまっているんですから」
聞き慣れた声がして、顔を上げる。
怪物の傍らには額にゼロの入れ墨が入った笛吹きが立っていた。
彼は横たわる俺たちを見て、にっこりと笑みを浮かべて言った。
「ようこそ、狭間の世界へ。僕は君の賢さを見誤っていたみたいだ……あれだけ忠告をしたのに、まさかここに来てしまうだなんてね」
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