3-4. 同期済記憶情報/永遠ノ償イ




———————————

呪術式ゴーレム:ストン

起動二三八七日目

兄山ノ山頂ニテ、新タナ記憶情報ヲ同期。

情報量過多ノタメ、仮想記憶領域ヲ解放シ、

ココニ一時保存スル。

———————————




「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息が切れる。だけど疲労は全く感じない。


 真っ暗闇に包まれたこの空間には時間や命という概念が存在しないのだという。


 だからどれだけ何をしてもわたしの身体は消耗することがない。食事も睡眠も排泄も必要なく、そのままの姿で永遠に在り続ける。


 老いるとすれば精神だけ。


 今こうして息が切れているのは、身体がそうしろと訴えているのではなく、精神が悲鳴をあげて身体の呼吸を遮ろうとしているのだ。


(情けない……まだここへ来てそう時間は経っていないはずなのに)


 あの男からは、わたしが元いた世界の感覚で数えればたった数日しか経っていないと聞かされた。だけど朝も昼も夜もないこの場所では、その数日が数十日のようにも感じられる。そもそも時間の概念のない空間なのだから、正確には数えようがないのだけれど。


 目の前にある、わたしの背丈ほどもある巨大な瞳がかすようにぎょろりと動いた。


「はい……お待ちください……すぐに次の物語を……」


 わたしはぱらぱらと手元の羊皮紙をめくり、次の物語を声に出して読み始めた。


「『むかしむかし、あるところに貧しい夫婦がおりました』……」


 わたしが語る間、巨大な瞳は微動だにせず、虹彩のない黒真珠のような目でじっと見つめてくる。


 物語の佳境に入ろうが、悲しい場面だろうが、何の反応もない。


 一文読み上げるたびに何かしら反応を返してくださった姫さまとはあまりにも違う。だから最初はすごく戸惑った。あまり好みに合わない物語を読んでしまったのではないか、あるいはそもそもわたしの物語は大して面白くもないのに、姫さまは気を遣って色々と感想を伝えてくださったのではないか……そんな風に思えてきて悲しくなった。


 だけど何度も物語を読み続けるうちに巨大な瞳はどんな話をしても反応がないことが分かって、わたしはだんだん何も感じなくなっていった。


 これは、あくまで償いだ。


 償いに対して語る喜びを見出そうとするなど、おこがましい考えだったのだ。


 それよりもわたしが語り続けることによって、この瞳が別の場所を向かないことの方が大事。他愛もない物語や、オチのない物語でも、とにかく語り続けることこそがわたしにできる償いなのだ。


「おしまい、です……。はぁ、はぁ……わかりました、次の物語ですね……少し、お待ちを……」


 羊皮紙をめくる手が震え、視界がかすむ。睡眠は必要ないはずなのに「眠りたい」という気持ちが頭をいっぱいに占領して、他に何も考えさせてくれない。


 だめ。だめなの。わたしは物語を読まなくちゃ……。


 トン、と肩を叩かれわたしの呼吸は急に楽になった。


 振り返るとわたしをここへ連れてきた笛吹きがそこに立っていた。


「気を張りすぎだよ。そんなに焦らなくてもいいのに。最初に言っただろう? をするのは君たちの時間感覚でいうところの数ヶ月に一度くらいの頻度だよ、って」


「……あなたは黙っていて。わたしはただ……もう、どんな世界も崩壊させたくないだけ……」


 わたしは彼に背を向けて、もう一度巨大な瞳——周囲が暗いせいで全貌は見えないけれど、笛吹きが敬称で呼ぶ存在——に向き合った。


 背後では彼がやれやれと溜息をつくのが聞こえる。


「この狭間の世界にいる限り肉体は不老不死だけど、気が狂ったらそれは死と同じようなものだよ。せっかく二つの選択肢から死ではない方を選んだというのに、今の君はひたすら自分の精神の死に向かって走り続けているようなものだ」


「……」


「精神にも休息は必要だよ。君がわざわざこちらの選択を選んだのは、永遠の時間を生きて僕の主人あるじに食事を提供し続けるためじゃなかったのかい?」


 反論はしない。間違っているのはわたしだ。


 彼の言うことはもっともだった。


 わたしがをすることができなくなってしまったら、わざわざ死なずにここに来た意味がなくなる。


「それでも……わたしが語ることでどこかの世界が崩壊するのを防ぐことができるなら、わたしは語るのをやめない……」


 笛吹きに何か言われる前に、新しい物語を語り始める。


 あの話はもうしたっけ? この話は前の話と同じテーマだ。だけど次に考えていた話はまだ結末まで考えられていない……。


 たった数日の間であるにもかかわらず、だんだんと話の種が尽きてきていた。ここは真っ暗闇で、笛吹きと彼の主人以外は誰もいないし、何も見えない。新しい物語の発想を練ろうとしても場所のせいか何も思い浮かんでこなくて、代わりに浮かんでくるのは数日前——イサムやバルカたちの元を離れたときのことばかりだった。




***




『どうやらすべてを思い出してしまったようだね』


 道中、わたしが自分の書いた最後の物語を翻訳し終えた時に笛吹きは突然現れた。


『あなたは兄山の……? いいえ、もしかして』


 グリム——その名前は、つい最近蘇り始めたばかりの不完全な記憶の中にある、幼い頃のわたしにとっての恩人の名前だ。


 だが、わたしが口に出す前に笛吹きはそれを否定した。その名前は正しいが間違っている、と。


『じゃあ、あなたはいったい誰なの……?』


『やれやれ……すぐに答えを求めようとするのは思考停止を促す人間の悪習だね。君は災いをもたらすだけの想像力を持っているんだ、僕の正体くらい少し考えてみたら分かるだろう?』


 そんなことを言われても彼のことは理解しようがなかったけれど、「災いをもたらすだけの想像力」という言葉には心当たりがあった。


 たぶん、この人は知っているんだ。


 わたしが姫さまのために物語を作り続けるうちに『ナ・レート』の力が暴走して……この世界を崩壊に導いてしまったということを。


『……あなたはわたしに罰を与えにきたの?』


 すると彼は首を横に振る。


『罰ならもう与えたはずだった。それなのに君は息を吹き返してしまったから、もう一度罰を与えなければいけない事態になる前になんとかしようと思ってね』


 笛吹きはそう言うと、わたしに顔を近づけ、声を潜めて囁いた。


『……選ばせてあげる。このまま死ぬか、それとも僕の主人の食事番として永遠に生きるか。どっちがいいかな』


 耳にかかる氷のように冷たい吐息にわたしは縮み上がってしまいそうだった。


『しょ、食事番って言われても……わたし、料理なんて……』


『必要ないさ。僕の主人の好物はなんだ。それも、物語みたいにとびきり想像力が詰まった言葉が大好きでね。本当なら禁忌を犯した時点でその人間は殺さなければいけないんだけど、君の想像の力の才能を摘んでしまうのはもったないことでもある。だから、この世界を離れて食事番として働き続けることを約束するなら、命を奪わずにいてあげるってわけ』


『そんなことをしてなんの意味が……』


『意味ならあるよ。君が僕の主人の空腹を満たすことができれば、世界は崩壊することはない』


『え……!?』


はお腹を空かせるとどこかの世界を崩壊させてしまうんだよ。それはこの世界かもしれないし、君が元いた世界かもしれない。だけど君が頑張って物語を語り続ければ、どこかの世界が崩壊することはなくなるんだ』


『世界の崩壊を、止められる……?』


 笛吹きはうなずいた後、低い声で『ただし』と続ける。


『君はこのことを他の誰にも言ってはいけない。言った時点で君だけじゃなく、君からこの話を聞いた人間も殺すよ。僕や僕の主人の存在は、知ること自体が禁忌になるのだから』


『そんな……』


『さあ、どっちにする? 悪いけど、あまりゆっくり考える猶予はない』


 笛吹きがわたしを羽交い締めにし、首元にナイフを突きつけてくる。


 いやだ。怖い。死にたくない。


 それなら彼の主人のために働く道を選んで、生きながらえていたい。


 そう答えようとした時、馬の蹄の音が近づいてきて、真っ赤に燃える炎のような髪をしたイサムが視界に飛び込んできた——




***




「っ……!」


 いつの間にかうとうとして眠ってしまったらしい。わたしの目の前にはあの巨大な瞳はなくて、身体を起こすと少し離れた場所で笛吹きが瞳に向かって何か話しているのが見える。


 彼はわたしが目を覚ましたのに気づいたのか、こちらを見てにっこりと微笑んだ。


「ああ、よかったね、ちゃんと起きられて。精神に死が訪れたらそのままずっと目が覚めないところだったんだよ。休息の必要性が理解できたかな?」


「……まだ慣れてないだけ。少し休んだら再開する」


「やめなよ。自分でも気づいているかもしれないけどさ、ここに来てからの君の物語はちっとも面白くない。そんなんじゃ主人のおやつ程度にもなりはしないよ」


「それでも……少しでも空腹を遮ることができるなら……」


「多少空腹の周期を引き延ばすことができたとして、どのみちどの世界もいずれ崩壊することが運命づけられている。君たち人間はその運命から逃れることはできないようになっているんだ。君一人だけの力でどうこうできる問題じゃない。現実を受け止めるんだ、ヴィオラ」


 笛吹きは淡々とした口調でそう言った。


 頭の中に、元いた世界の景色がよぎる。あの場所にはイサムも、バルカも、ストンも、姫さまも、森のおばあちゃんも、大切な人たちがみんないる。もし……もしも崩壊がまた起きたら、わたしの大切な人たちは……。


「……どうして……」


「ん?」


「どうしてそんなこと言うの……? わたしの知っているグリムは、辛い現実なんて認めなくていいって言ってくれた……! 誰も信じてくれなかった異世界のことを信じてくれて、わたしに『空とぶじゅもん』を教えてくれた……! なのにどうしてあなたは崩壊を認めるようなことばかり……あなただって、人間の一人なんじゃないの……?」


 笛吹きは表情を変えないまましばらく黙っていた。


 やがて深いため息を吐くと、わたしに背を向けてぼやく。


「やれやれ……八十一番目のやつめ、『カーム・ワールド』でずいぶん平和ボケしたみたいだな。こんな厄介な子どもに同情するなんてさ……」


「同情……?」


 その時、わたしと彼との間にわずかな風が吹くのを感じた。




 ——ヴィオラ、そこにいるのか!?


 ——いるなら返事してくれ……!




「イサム……?」


 幻聴なのだろうか。


 分からない。


 確かめるすべなどなかったから。


 それにわたしは知っている。


 イサムはわたしと違って、優しいお父さんとお母さんがちゃんといて、現実世界でも何も困ることなくやっていける人だ。わたしなんかに構っているよりも、早く元の世界に戻った方がいいって分かってくれているはず。


 だから、まだあの世界に残っていて、わたしの名前を呼んでいるなんて、きっとわたしの妄想でしかない……。


「おや、あの世界につながる風穴がちゃんと閉じられていなかったみたいだね」


 笛吹きがそう言って笛の音を鳴らし、風穴を塞ぐ。


 もう風の音も、幻聴も聞こえない。


 静かで真っ暗な世界。


 わたしはここで、生き続けるんだ……。




———————————

同期完了。

仮想記憶領域ヲ削除シマス。

現在ノ記憶情報ノ同期ヲ再開、、、

———————————


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る