3-3. 六十八番目の笛吹き
バルカが『ナ・レート』でドラゴンを従わせたおかげで、中腹までの登山の厳しさが嘘だったかのようにあっという間に山頂にたどり着いた。
すでに雲より高い場所にいるはずだが、見上げると空には分厚い雲の層ができていて、その向こう側から透けて見える太陽の光はまるで水中から水面を見上げた時のように神々しく輝いている。
あたりには植物が一切生えていない山肌むき出しの殺風景が広がっていて、山頂の中央には質素な木組みのロッジが一軒ぽつんと建っていた。
「ここが
家の中はやけに静かで、人の気配はしない。
「そうさね。まあ見ておれ」
ミルコはつかつかと玄関まで歩いていくと、コンコンと戸を叩いた。
「ミルコじゃ。今日は二人ばかり客人を連れてきた。出てこい」
すると、足音のようなものが小屋の中で響いたと思うとすぐさま扉が開いた。出てきたのは記憶の中のグリムや、森で襲ってきたのと全く同じ顔の男だ。だが……額の数字はゼロではなく、「68」。
男は邪気のない、満面の笑みを俺たちに向けて言った。
「これは失礼! ミルコ様のご客人でしたか! こんな山奥まで来ていただいて、さぞかし疲れたでしょう。ささ、狭いところですがどうぞ入って。ハーブティーとお菓子くらいはお出しできますよ」
な、なんだこいつ……。
拍子抜けして俺もバルカもすぐにはその場から動けなかった。
兄山の笛吹きと呼ばれる男は、俺たちが今まで出会った同じ顔の男たちとはまた違った性格の、陽気で腰の低い男らしい。
「一体どういうことなんだ……?」
するとミルコはカッカッカと高笑いして言った。
「おぬしら、幼いころに『伝言遊び』はしたことがあるかの?」
「『伝言遊び』って……ああ、『伝言ゲーム』のことか。それなら何度か小さい頃にやったな。間に人を挟むごとに伝言の内容がどんどん内容が変わっちゃう遊びのことだろ」
「そうじゃ。この男はまさにそういう存在なんじゃよ」
「は……?」
要領を得ない俺たちに構わず、目の前の笛吹きは家の中へと手招きをする。
「ほらほら、そんな場所に突っ立ってないで。ここは風が強いですからね、ぼーっとしていると危ないですよ」
笛吹きの家の中にはまるで生活感がなかった。
不便な山頂に家を構えているくせに食糧を貯蔵している様子が全くないのだ。ハーブティーと茶菓子は出てきたが、どう見ても来客用の品で彼自身の食事を作るためのものはどこにも見当たらない。
それ以外にも、部屋の中にはベッドがなかったり、暖炉がなかったりと人が生活するために最低限必要なものがまるで揃っていない。
「あんた本当にここに住んでんのか?」
「ええ。もう何年になりますか……少なくともミルコ様がこの世界にいらっしゃるより前からなので、千年くらい前からでしょうか」
笛吹きは平然とした様子でそう言った。
……もう、何から突っ込んだらいいのやら。
「貴様は一体何なのだ。そもそも人間なのか?」
しびれを切らしたバルカがいきなり根本的なことを問い詰める。
すると笛吹きは困ったような表情を浮かべて、肩をすくめた。
「その質問は僕にとってはいささか回答が難しいですね。人間であるとも言えるし、そうでないとも言えます。何しろ僕はあくまで
「伝言体……?」
そういえばさっきミルコも『伝言遊び』がどうとやらって言ってたっけ。
「ええ。僕たちは世界に一人ずつ、ゼロ番からの伝言に従ってその世界の人の営みを見守る役割を担っています。伝言はゼロ番から一番、そして二番・三番へと順々に伝えられ……僕が六十八番目。こうも数字が大きいと果たして伝えられた伝言が正しいのかすべて間違っているのかさっぱりなんですよね。使命も性格も伝言と共に伝えられているはずなのですが、六十八回の伝言のうちにゼロ番とはすっかり真逆の性質の人間になってしまったかもしれません。先ほどの問いに『回答が難しい』とお答えしたのはそれが理由ですね」
彼はそう言ってあっけらかんとした様子で笑った。悪気はないのだろうが、丁寧な説明のせいでますます意味が分からない。
見かねたミルコが口を挟んで説明してくれた。
要するに伝言体とは分身のようなもので、ゼロ番が本体、それ以外は目の前にいる兄山の笛吹きやグリム、モルテ卿含め全員本体の分身にすぎないということらしい。
ただ分身と言ってもクローンのようなものではなくて、あくまで伝言の力——ミルコはこれもおそらく『ナ・レート』の力ではないかと推測している——で生まれた存在であるため、容姿は同じでも人となりは世界によってまるで異なる。伝言ゲームのように、番号が大きいほど元の本体と性格が離れていく傾向にあるようだ。
「それにしても、ミルコ様はどうしてそんなこと知ってるんだよ」
「……まあ、ある事情があってな。いろんな世界を回るうち、同じ顔をした笛吹きに何度も会うものじゃから、気になって詳しく話を聞かせてもらったのじゃ。時には口が堅く何も話してくれない者もおったが、五十番以降の者はたいがい六十八番と同じく気さくなやつが多くての。数百年かけて手がかりを集め、そしておぬしらに出会ったおかげでようやくゼロ番への糸口を掴んだ」
「おお、ついにゼロ番について何か分かったのですか」
笛吹きが身を乗り出して尋ねる。ミルコは深くうなずいて彼の方を見た。
「そのことでおぬしを頼ろうかと思っての」
「はい、なんでしょう?」
彼はきょとんと首をかしげて言った。この様子だと、伝言体とはいえ俺たちが会ったゼロ番のことは本当に何も知らないようだ。
「数日前にゼロ番がこの世界に現れてヴィオラを襲い、あの子に何か吹き込んだようなのじゃ。そしてゼロ番もヴィオラもそれきりこの世界から姿を消してしまった。もし別世界に行ってしまったのだとすればまだ風穴があいておるはずじゃろう? おぬしの笛の力でその風穴がどこにあるのか調べてくれんか」
すると笛吹きはそれまでの陽気な表情が嘘だったかのように顔を曇らせて、一人席を立ち窓の外を眺めた。
「風穴の場所を教えて差し上げることは可能ですが……。僕は六十八番目の伝言体とはいえ、ゼロ番の考えていることを少しは理解しているつもりです。彼がどうして彼女に接触したか、その理由はご存知で?」
「理由……」
ゼロ番ははっきりとは語らなかったが、ヴィオラのことを危険視していたのは確かだ。
——君たちだって農作物を荒らす害虫を駆除するだろう? それと同じだよ。取り返しのつかないことになる前に、彼女には消えてもらわないと——
——彼女は禁忌を犯した。人間が知ってはいけない真実にたどり着いてしまったんだ——
思い出すだけで胃がむかむかとするような言葉がしっかりと頭に焼き付いて残っている。
兄山の笛吹きはふぅと小さなため息を吐いた。
「直接見ていただいた方が早いでしょう。みなさん、外へいらしてください」
そう言って彼は笛を片手にすたすたと小屋の外へと出て行った。俺たちも後に続く。小屋の外の景色は来た時と変わらない、殺風景な山頂のままだ。
「ミルコ様には今さら説明するまでもないですが、風穴というのは普段目で見ることはできません。ですが——」
彼は笛を手に取り、奇怪なメロディーを奏でた。「空とぶじゅもん」とは違う、聞いたことのない音だ。
彼が笛を吹き終えた時、俺は思わず目を疑った。
さっきまで何もなかったはずの空に、いくつもの穴が空いている。天気予報番組で見るような、台風の目みたいな穴だ。穴の中はそれぞれ違った色をしていて、どんよりと曇った崩壊世界の空の中にあるとコントラストが強すぎて目が痛い。
「おお、なんという……!」
隣でミルコが嘆く声が聞こえる。
「もしかしてこれが風穴というやつなのか……?」
バルカが尋ねると、笛吹きは頷いた。
「ええ、その通りです。風穴は世界と世界をつなぐ門。普段であれば一つ穴があくというだけでも滅多にないことですが、今は数百以上の穴ができてしまっています。このせいで最近は僕が笛を吹かずとも穴から漏れた強い風が吹き続けているのです」
「まさか、世界が崩壊したのは……」
ミルコの声が珍しく震えている。
笛吹きは穴だらけの空を見上げ、静かな口調で答えた。
「……本当に突然の出来事でした。何の前触れもなく、多くの風穴が同時に空に
「あのお方ってのは一体誰なんだ? 確かゼロ番も言ってたような……」
「僕たちの
「どうしてそいつが穴をあける? ゼロ番の主人ということは、この世界の住人ではないのだろう」
バルカが苛立ちの混じった声で尋ねる。
だけど、俺はすでに薄々答えに気づき始めていた。
ヴィオラは俺たちに宛てた手紙にこう書いていた。
わたしは触れてはいけないものに触れてしまった、と。
そしてゼロ番がヴィオラの命を狙ったのは、彼女が禁忌を犯したからだと言った。
その禁忌がどんなものなのかは分からないが、ゼロ番が主人のために動いているのなら、そこに踏み込まれるのが彼の主人にとって何か都合の悪いことだったのだと想像できる。
そして実際にその主人とやらが、ヴィオラの住むこの世界を崩壊まで追い込んだ。
「つまり、ヴィオラがこの世界を崩壊させた原因だったってことなんだな……?」
笛吹きはどこか悲しげな表情を浮かべ「はい」と言った。
「世界が崩壊して、彼女は本来死ぬはずの運命でした。ですが、異世界から訪れたあなたたちによって息を吹き返し、失った記憶まで取り戻してしまったのです」
「そん、な……」
「このままでは彼女がもう一度禁忌を犯す危険がある……そう判断してゼロ番は彼女をここではないどこかへ連れ去ったのだと思います。それでもなお……あなたたちは二人の居場所を知りたいというのですか? それがパンドラの箱となり得るかもしれないのに」
ようやくヴィオラの書き残した手紙の意味がわかった気がした。
——最後に、一つだけお願いです。わたしのことは忘れてください。そうすればもう、世界が崩壊することはありませんから——
彼女に近づけば近づくほど、俺たちもその禁忌とやらに近づくことになる。そうすれば今度は俺たちがゼロ番の主人に命を狙われる。だからわざと突き放したのだ。俺たちが真相に気づく前に元の世界に戻るようにと言って。
「ははは……バカだな。あの子は、本当にバカだ」
乾いた笑いがこみ上げる。
「昔からそうだった。あの子はさ、物語について話している時は自信たっぷりのくせに、自分のことはさっぱりなんだ。いつもおどおどして、引っ込み思案で、口癖みたいに『わたしなんて』って言う。……甘いんだよ! 結局自分のことしか見てなくて、周りの人がどう思っているかなんてちっとも気づいてやしない……!」
一度火が点きだしたらもう止まらなかった。
次から次へと積もり積もったヴィオラ、そしてスミレちゃんへの鬱憤が口をついて出てくる。
「だいたいさ、なんなんだよあの翻訳結果は! あの子がこの世界で作った物語、全部読んだよ。『海竜と人魚姫』に『暴れ豆のパレード』に『商人リッチの武勇伝』……全部小さい頃に中途半端に終わらせてたやつじゃないか! ずるいんだよ……姫さまにはちゃんと面白い物語作ってたのに、俺には全部お預けだなんて……。だから物語なんて嫌いになれるように七年間ずっと避けてきたんだ。なのに……なのにさぁ……! やっぱ気になるんだよ、続きが……。悔しいんだよ、俺が知らないところで物語が完結してたなんて……!」
怒りに突き動かされて、俺は思わず笛吹きの胸ぐらを掴んでいた。
「パンドラの箱とか世界の崩壊とか関係ない……俺はさ、あの子にもう一度会って言いたいこと言わないと気が済まないんだ……! ふざけんな、なんでも勝手に一人で決めるなって。だからさっさと教えてくれ! あの子とゼロ番は一体どこにいる!?」
感情のままに笛吹きに対して八つ当たりする一方で、どこか冷静に何を馬鹿なことをやっているんだろうと呆れる自分がいた。この男にこんなことを言っても何も響かないだろう、そう思っていた。
だが、意外にも笛吹きは俺に向かって微笑み、再び笛を手に取った。
「ふふ……彼女は失敗してしまいましたね。あなたたちを突き放しきれなかった。いや……本当は嫌われたくなかったから、見限られるような酷いことをしなかったのかもしれませんね。幸せなことですよ、世界から姿を消してもなおこんなにも想ってくれる人がいるということは……。やれやれ、どこかの誰かとは大違いですね」
「……?」
「ああ、独り言です。お気になさらず。仕方ありません。あなたがそう言うのなら、二人のいる風穴の場所を示しましょう」
ふわりと煙管から吐き出された甘い香りが漂う。ミルコがため息と共に吐いた煙だ。
「おぬしはそれで良いのか、兄山の。ゼロ番からどんな仕打ちを受けても知らんぞ」
すると笛吹きは穏やかな表情で頷いた。
「良いのです。元はこの世界と共に消されそうになった身……せめてこの若者たちとミルコ様のお力になれるのなら、それで」
俺が彼から離れると、笛吹きはもう一度笛を吹いた。さっきとは違う音だ。
やがて、目に見えるようになっていた風穴は次々と消え、残りは一つだけになった。穴の中の色は漆黒に染まっている。
その向こうには一体どんな世界があるのか……目を凝らしてみようとして、ぞっと背筋が凍った。まただ。ゼロ番がどこかに消える時に見えた穴の向こう側から感じた嫌な視線を感じて、俺はとっさに視線をそらす。
「あそこにヴィオラとゼロ番が……」
「ハイ、ソノヨウデスネ」
「!?」
よくよく足元を見ると、不恰好なゴーレムが俺のそばにいて空を見上げている。
「ストン!? お前も一緒に来てたのか」
どうやらミルコの荷物の中に入っていたらしい。
ストンはじっと空を見つめたまま、ヴィオラの髪と同じ紫色の瞳を輝かせている。
彼がこうして元気に動いているということは、つまり——
「感ジマス……! アノ風穴カラ漂ウ、ヴィオラ・サンノ匂イヲ……!」
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