2-5. モラトリアムな夜
キャンプに着いた後、バルカは突如現れたグリムによる動揺を紛らわそうとするかのように大宴会を開いた。
部下に命じて、備蓄していた食糧や酒を惜しむことなく解放すると、特上級のドラゴン肉をバーベキューみたいに炭火で炙って皆に振舞った。最初は食欲なんてなかった俺も、さすがに肉が焼ける香ばしい匂いには勝てなくて、一切れ分けてもらうことにした。
臭みの強い肉汁が口の中に溢れ出す。濃厚な味だが、近くの木の実を潰して作ったソースと絡めるとなかなかクセになる香りだ。
皆が大騒ぎしている中、ヴィオラだけは頑なに宴会に加わろうとせず、一人テントにこもっている。何か持って行ってやろうか。そう思って座っていた丸太から立ち上がろうとすると、どかっとバルカが隣に座ってきた。
「な、何」
「……私の故国には『あめ玉一粒、しかばね一つ』という言葉があってな」
「どういう意味?」
「あめ玉一粒が一人の命を救うこともある、そこから派生して、人の命を預かる者は食糧を惜しむなという意味だ」
「ああ、『腹が減っては戦はできぬ』みたいな?」
「なんだそれは」
「えっと、俺の世界の言葉のことわざだよ。意味は言葉通り」
「ははは……世界が違っても人間の考えることは同じか」
彼女はそう言って豪快に笑い、ごくごくと酒を飲み干し、宴でハメを外す部下たちの様子を見ながら一人満足げに頷く。
ああ、この人、やっぱすごい人なんだな。
グリムの存在に混乱したのは彼女も同じであるはずなのに、そんな感情は一切表に出さず、正体のわからない相手に意気消沈してしまった部下たちを励ますことだけを考えている。
自分のことだけで精一杯の俺とは大違いだ……。
皆が寝静まった後、俺は一旦自分のテントに戻った。だがどうもこのまま眠れるような気がしない。身体はぐったりと疲れていたけれど、やけに目が冴えてしまっていた。宴会で大騒ぎしていた時には頭を離れていた森の中の光景や、グリムに言われた言葉が蘇ってきて、何度もループするのだ。
グリムは一体何者なのだろう。
ヴィオラがグリムに言われた二つの選択肢とは何のことだったのだろう。
それに、グリムが言う「あのお方」とは誰のことなのだろう。
そしてヴィオラは今、どうしているのだろう……。
彼女は何があっても自分のテントには来ないでと言ったけれど、気になって仕方なかった。
いきなり訳の分からない理由で襲撃されて、理不尽に選択肢を提示されて、一晩でどうするか決めろと言う。
……そんなの無茶だ。
外に出て、ヴィオラのテントへと向かう。
彼女のテントにはまだ明かりがついていた。周囲にはバルカの兵士たちの中でも選りすぐりの者たちが見張りとして立っていて、近寄ってきた俺のことを不思議そうな目で見てくる。
ええい、構うものか。
「ヴィオラ。起きてるか」
テントの外から声をかける。
しばらく返事は無かったけれど、やがてテントの中の影がごそごそと揺らぐのが見えた。
「イサム……来ないでって言ったのに」
その声は森の中で強がっていた時とは違い、どこか弱々しい声だった。
「うん、ごめん……けど、ここで声をかけなかったら俺は後悔するような気がして」
「どうして?」
「うっ、そう言われると困るな……。なんとなく、だよ。根拠なんてないんだ。それでも……もし俺が声をかけることでヴィオラの気が少しでも和らぐならいいなと思って」
するとテントの中からくすくすと笑う声が聞こえた。
「イサムは優しいね。会ったばかりのわたしを支えてくれたし、危ない時は守ってくれた」
「それは……」
言いかけて口をつぐむ。
君が俺をこの世界に呼び出した手紙の差出人で、スミレちゃんに似ていたから……なんて言えるわけがなくて。
しばらく、お互い何も言葉を発しない時間が流れた。
物語の翻訳をする中でどんな記憶が戻ったのかとか、グリムにどんな選択肢を突きつけられたのかとか、聞きたいことはいっぱいあったはずなのにどれも喉につっかえてしまって言葉にならない。
テントの中からは万年筆を走らせる音が聞こえた。ヴィオラは何かを書いているようだ。やがてぱたりとその音が止まり、ヴィオラの影がテントの入口の方まで近づいてくる。出てくるのか……そう思ったけど、彼女は入口の手前で足を止めて言った。
「ねぇイサム。わたしはあの人が言った通りだと思うよ。君はとても頭がいい。だからこんな世界にいないで、早く元の世界に帰った方がいいと思う。イサムにはお父さんとお母さんがいるよね? きっと心配してるよ」
「え……」
ヴィオラにそう言われるとは思っていなくて、俺は何て答えれば良いか分からなくなってしまった。
俺はこんなことを言われるために、ヴィオラのテントを訪ねたわけじゃない。
「本当に、そう思ってるのか?」
「うん」
ヴィオラは即答する。
「そ、そうは言われてもさ、だいたい帰り方なんて分からないし……」
「帰れるよ。『ナ・レート』を使えばね」
「そりゃ確かに、『ナ・レート』ならできるかもしれないけど……!」
そうじゃない。……そうじゃないだろ。
グリムから与えられた猶予はこの一晩だけなんだ。こんなくだらない話をしている場合じゃない。なのに、声が震えて、身体が熱を帯びて、上手く思考をコントロールできない。
「俺はそんなことに『ナ・レート』を使いたいわけじゃ——」
「手遅れになるかもしれないの!」
ヴィオラは声を荒げて言った。テントの入口の幕をしわになるくらいぎゅっと握っている。
「君の髪……今日久々に見たらほとんど赤になってて驚いたよ……。わたしね、思い出したんだ。わたしの髪は元々黒色だったの。だけど、『ナ・レート』を使ううちにだんだん紫色になってきて……完全に紫に染まった時には、もう自力で『ナ・レート』を使えなくなってた。……ねぇイサム、この力は有限なんだよ。全部使い切ったら……元の世界に帰れなくなっちゃうの」
そんなことどうでもいい。俺の心配なんかより自分の身を心配してくれ。俺は今度こそ君の側から離れないためにこの世界に来たんだ。
そう言おうとしても声が出なかった。
おかしい。ビビってるわけじゃない。ちゃんと声に出そうとしているのに。
周囲の景色が滲んで見えるのに気づいて、ようやく仕掛けが分かった。いつの間にか俺の顔がシャボン玉のようなもので囲まれている。声はその膜に吸収されているのだ。
こんな奇妙な現象は、ヴィオラの『ナ・レート』しか考えられない。
「……ごめんねイサム。君に何か言われたら、気持ちが揺らぎそうだったから」
気持ちって……何のことだよ。
急に嫌な予感がして、俺は話せない代わりにテントの幕越しにヴィオラの手を握った。
ヴィオラは一瞬戸惑うかのようにびくりと身を震わせた。テントに映る彼女の影は、ゆっくりと首を横に振る。
「もう、行かなきゃ……」
行くってどこに?
それさえ、俺に尋ねる権利はないのか?
ヴィオラは黙ったまま、もう片方の手で俺の手を優しく撫でると、俺の手をするりと外して幕から離れた。
「……ばいばい、イサム。わたしのことは忘れて」
彼女がそう言ったとともに、テントの内側から吸い込むような強い風が吹く。
「ヴィオラ!」
いつの間にか顔の周囲を覆うシャボン玉が消え、テントの入口の幕がめくれた時——そこには、誰もいなかった。
「嘘、だろ……?」
テントの中に残っているのは、相変わらず呪術の札を貼られたままのストンと、彼女が着ていたはずの衣服だけ。
「ヴィオラ……ヴィオラ!?」
周囲を見渡しても、彼女はどこにもいない。
よく見ると、彼女の服の上に一枚の書き置きが残されていた。インクはまだ乾ききっていない。おそらくさっき彼女が書いていたものだろう。
だが、その内容を見て俺はすぐにそれをくしゃくしゃに丸めた。
————————
イサム、そしてバルカさんへ
勝手な行動をとってごめんなさい。
わたしはこの場を離れます。
ようやく思い出しました。わたしがあの手紙の差出人だったのです。この世界が崩壊することを知って、異世界に助けを求めたのです。
二人のおかげで姫さまや村の人たちが助かって、感謝しています。
本当はもう少し一緒にいたかったけど、そういうわけにもいかなくなりました。
二人はどうか『ナ・レート』が使えなくなる前に元の世界に帰る方法を見つけてください。昔、森のおばあちゃんが『ナ・レート』を使えば異世界に行けるという話をしていました。彼女を頼れば何かわかるはずです。
最後に、一つだけお願いです。
わたしのことは忘れてください。
そうすればもう、世界が崩壊することはありませんから。
————————
俺が騒いだことで、他の人たちも何事かと起きだした。
バルカはすぐに俺のところまで駆けつけた。そして空になったテントを見て、何があったのかを悟り舌打ちを鳴らす。彼女は俺を責めはしなかった。グリムの力を目の当たりにして、見張りの兵士など気休め程度にしかならないことは理解していたのだ。それに、俺があまりにも打ちひしがれているせいで、声をかける気にもならなかったのだろう。
気がつけばいつの間にか夜は明け、周囲の兵士たちはいそいそと復興作業に取りかかり始めていた。バルカも彼らに指示を出すのに手一杯の様子で、俺だけがまるで置物のようにただヴィオラがいたはずのテントの前に立ち尽くしている。
……これからどうすればいいんだ。
ヴィオラが言った通り、元の世界に帰る方法を探せばいいのか?
それとも、彼女の忠告を無視してバルカの部下として復興作業を手伝い続けるか?
どちらもなんだかしっくりこなかった。
頭の中がぼうっとしていて、今はそれ以上に何かを考えられそうにない。
……ちくしょう。こんなの、七年前と何も変わらないじゃないか。
だけどあの時と違って、俺の中に湧き上がってくる感情は、黙って消えてしまったスミレちゃんへの怒りじゃなくて、ヴィオラを引き止めることのできなかった無力な自分への呆れだった。
深いため息が漏れる。
それをかき消すように、一筋の風が吹いた。時には咲いたばかりの花を散らし、時には火照った身体を冷まし、時には人々の生活を妨げる災害となり、時には心身を凍えさせる風。
俺にとって、かつては異世界に運んでくれる希望の象徴だったが、今はとにかく憎々しい。
ああ……なんか、もう、無理だ。
正直、泣くのは得意じゃない。俺にとって自分の感情を吐き出させるものは、やっぱり「言葉」らしい。大きく息を吸って、誰に向けるわけでもなく、ただ叫んだ。
「ばーーーーーーか!!」
「何がバカじゃ、このバカ餓鬼が」
突如背後でしゃがれた声がして、俺はハッと後ろを振り返る。
そこには俺の腰ほどの身長の、黒いローブに身を包んだ老婆が立っていた。白髪を後頭部でまとめ、派手な色のかんざしをいくつも挿している。
彼女は俺の横からテントの中を覗き込み、やれやれと嘆息を吐く。
「ヴィオラめ、早まったか……どうやら帰ってくるのが一歩遅かったようだのう」
「あ、あの、あなたは……?」
老婆は俺の質問を無視して、ずかずかとヴィオラのテントの中に入っていく。そして札を貼られたストンの前に立つと、しわくちゃの指を札にかざし、カッと目を見開いた。
「解!」
すると呪術の札はぼうっと光を帯び、はらりとその場に落ちる。
老婆はストンをむんずと掴み、ヴィオラの着ていた服の山に突っ込む。するとストンの身体からパァーッと強い紫色の光が溢れ出した。
「こ、これは……!」
「エネルギー源ヲ確認、起動術式発動、記憶情報ノ同期ヲ開始シマス」
「そういえばそういう仕組みだったな!?」
ストンはヴィオラの匂いをエネルギー源とし、彼女の記憶情報を同期する。ということは、この服を着ていた時までの彼女の記憶ならストンに聞けば分かるということだ。
そしてきっと、どうしてここを出て行ったのかも。
それにしてもどうしてこのばあさんは呪術の札を外すことができたんだ? 俺も試してみようとはしたけど、触れた瞬間静電気のようなものに弾かれて札はびくともしなかったのだ。
老婆は俺に構わず、ストンの頭をよしよしと撫でる。
「呪術札で強制停止とは……お前の主人はひどいことをするねえ、全く。ストンや、わしのことはちゃんと覚えておるかいの?」
すると、ストンは頷くような動作を見せた。
「モチロンデス。森ノオバアチャン、改メ、ミルコ・サマ。オ帰リヲ、オ待チシテオリマシタ」
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