2-4. 三つの顔を持つ刺客
『ナ・レート』の力で馬を具現化し、俺とバルカは悲鳴が聞こえた方へと急いだ。そう遠くはないはずだ。西の森には道が一本しかなく、迷うような場所でもない。
速度を上げてまっすぐ駆けていくうち、城からの合流部隊らしき一団が目に入った。隊列は乱れていて、皆何かを囲むようにして武器を持って構えている。
横を走るバルカが目を細めた。機械化している右目であればこの距離からも状況を捉えられるのだ。
「あの中心部に誰か私の部隊の人間とは違う奴が一人いる。そいつがナイフを持ってヴィオラの側に——」
バルカの言葉を最後まで聞いていられなかった。俺は馬に体重をかけ加速させる。
見立ての甘かった自分が憎い。
初めからこの世界は常に危険と隣り合わせだったじゃないか。ヴィオラを危険な目に遭わせたくないなら、今のところ一番腕の立つバルカの側に置いておくべきだった。復興のための遠征は、体力は要るけど大した敵には遭遇しない。記憶を取り戻すための物語の翻訳も、遠征に同行しながらやってもらえばよかったはずだ。
どうしてヴィオラを無理矢理でも連れてこなかった?
そこまで考えて、俺はゾッとした。
連れてこなかったんじゃない……本当はついてきてほしくなかった。
無意識のうちに、彼女を避けていたのだ。
よくよく振り返ってみると、ヴィオラがスミレちゃんかもしれないという結論にたどり着いてからというもの、一度も彼女とゆっくり話をしていない。
彼女には記憶を取り戻してもらいたい反面、昔のことを思い出されるのが怖いのだ。
七年前、失踪する直前のスミレちゃんは俺に対して失望していた。
一刻も早く「異世界に行くための方法」を試したがった彼女に対し、俺は台風だから別の日にしようとか、そんな傘で本当に異世界に行けるわけないとか、興ざめなセリフを吐いてしまった。
当時十歳——なかなか難しい年頃だった。思春期に入りかけて、現実を見ることも覚え始めて、女の子と二人っきりでファンタジーな妄想遊びをすることをだんだん「恥ずかしい」と感じるようになっていたんだ。
だけど、スミレちゃんは純粋だった。俺の言葉に傷ついて、顔をくしゃくしゃに歪めて、震える声で言った。
『イサムはわたしのこと、何にも分かってない!』
そして傘を持って嵐の中に出て行って、それきり消えてしまった。
ヴィオラがその時の記憶を取り戻したら、俺のことをどう思うのだろう。きっと軽蔑するに違いない。だって彼女の方が正しかったのだ。今こうして二人とも異世界にいるのだから。
まぁ、そんなことより何より……俺のことなんか覚えていなかったというオチが一番恐ろしいのだけど。
俺は後ろ向きに走り出した思考を払拭しようと首を振る。
今は過ぎたことで後悔している場合じゃない。
人影がだんだんはっきりしてくる。バルカの言った通り、見覚えのない人物が一人いて、ヴィオラを羽交い締めにしているように見えた。ヴィオラの首元に何かを突きつけている。あれは……ナイフだ。
「やめろ!」
怪我を覚悟で、馬から飛び降り相手にのしかかる。だが、手応えはなかった。するりとすり抜けたような感じがして、俺の身体は無様に地面に投げ出されてしまった。
「いってて……」
全身みしみしと痛む。それでも寝転がっているわけにはいかない。
「ヴィオラ、大丈夫……!?」
顔を上げて飛び込んできた光景に、俺は目を疑った。
ヴィオラの側には誰もいない。
幻覚だったのか?
いや……そんなはずはない。ヴィオラは顔を真っ青にして、恐怖で言葉が出ないのか口をパクパクさせながら俺の背後を指差す。
すると、それまで何もなかったはずの背後に急に人の気配を感じて、俺はすぐさま立ち上がって振り返った。
いつの間に移動したのか、男が一人そこに立っている。
深緑の膝丈まである長いローブに、同じ色のつば広帽子。尖った耳に色白な肌、どこか浮世離れしている中性的な顔だちは、ファンタジー小説でいうところの「エルフ」を連想させる風貌だ。そして何より特徴的なのは、腰のベルトに差された上半身ほどの長さのある笛。
俺は、この人を知っている。
「あんたもしかして……『グリム』なのか?」
『グリム』——幼い頃、近所の河原でよく笛を吹いていた男は、俺とスミレちゃんに対してそう名乗った。
目の前にいる男は彼にそっくりだった。
それも、気味が悪いくらいに。
俺たちが彼を最後に見たのは「空とぶじゅもん」を教えてくれた時だ。つまり、俺の中での彼に関する記憶は七年前で止まっている。それなのに、目の前の男はその当時の彼と見た目は何一つ変わらない。二十代前半くらいの風貌のまま、歳を取っていないのだ。
「モシカシテ、イサム・サンモ、コノ人ヲゴ存ジナノデスカ」
「『も』ってどういうこと?」
「コノ間、双子山ノ風ノ話ヲシタデショウ。コノ人ハ、風ヲ吹カセテイル張本人、『
「は……?」
ストンが言うことが確かなら、俺の知っている『グリム』と『兄山の笛吹き』は同一人物ということになる。……住む世界が違うというのに?
すると馬の蹄の音がしてバルカがその場に合流した。彼女は俺が勝手な行動を取ったことへの非難をしようとしたが、目の前の男を見て血相を変える。
「その顔まさか……『モルテ卿』!? なぜ貴様がここにいる!」
「『モルテ卿』って、バルカもこの人のことを知っているのか?」
「知らんわけがあるまい! この男は私の世界で戦争の引き金をつくった大罪人だぞ! すでに暗殺されたものと思っていたが……!」
彼女は奥歯をギリと噛みしめ、腰のサーベルを引き抜いた。
一体どういうことなんだ? 住む世界が違う三者が、一人の男に対してそれぞれ知っていると言う。
困惑する俺たちの様子を見て楽しむかのように、当の本人はけらけらと笑った。
「『グリム』『兄山の笛吹き』『モルテ卿』か……。どれも正しくて、どれも間違っている。僕には名前がない。だけど名前をつけるというのは、想像力に富み、代わり映えのしない命ですら物語として捉えたがる、とても人間らしい行為だ。僕は君たちの認識を否定することはしない」
「何を意味の分からんことを……! 貴様のせいで私の故国がどうなったか、知った上での言動か!?」
怒りで冷静さを失ったバルカは、問答無用で男に斬りかかっていく。逃げる隙を与えない踏み込みの早さに、鋭い眼光による威圧。どれだけ鍛え上げた武人でも避けることは難しい……かのように見えた。
バルカがサーベルを振るった時、男はその場から消えていた。
「なっ……!?」
唖然とするバルカ。次の瞬間にはヴィオラが短い悲鳴をあげる。男はいつの間にか俺たちの後ろにいたヴィオラの側まで移動し、彼女の首元にナイフを突き立てていた。
血の気が引いているヴィオラに対し、彼は穏やかな声音で囁いた。
「まったく、困るなぁ。『ロスト・ワールド』だけじゃなく、『カーム・ワールド』、そして『スーサイド・ワールド』の住人まで引き込むとは……。一体どれだけ僕の手を煩わせれば気がすむのかな?」
「ううっ……」
男のナイフの切っ先が、ヴィオラの肌の表面を浅く裂く。赤い血が滲み、首を伝って流れ出した。表情や口調とは裏腹に、彼は本気でヴィオラのことを殺そうとしている。
「やめろ……それ以上ヴィオラに手を出すな……! 〈フルシ・セカ・ラカ——」
『ナ・レート』の呪文の途中、俺は声を出せなくなった。
男が笛を吹いたからだ。奇妙なメロディのその音を聞いた瞬間、俺だけじゃなくバルカや周囲にいた兵士たちも皆、身体の自由を奪われ動けなくなってしまった。
男はつかつかと俺の方に歩み寄り、首をかしげるようにして俺の顔を覗き込む。
「ねぇ、君はそうまでして彼女を助けたいのかい? あの子は危険だよ。放っておいてはいけない。君たちだって農作物を荒らす害虫を駆除するだろう? それと同じだよ。取り返しのつかないことになる前に、彼女には消えてもらわないと」
何でヴィオラが危険なんだ——口には出せずとも俺の考えていることは伝わったらしい。男は目を細め、諭すように言った。
「世界はいつか崩壊するもの。天変地異、疫病、魔王の襲来、怪物の誕生、あるいは陰鬱な群集心理、あらゆる形ではあるけれど、いつか破壊される運命にあるというのは自然の摂理なんだ。そのことに疑問を持ってはいけない。答えを探してはいけない。だけど彼女は禁忌を犯した。人間が知ってはいけない真実にたどり着いてしまったんだ」
男は俺から離れると、ガクガクと震えるヴィオラの肩を叩く。
「哀れな君に、一晩だけ猶予をあげる。君が取りうる選択肢はさっき伝えた二つのうちのどちらかさ。賢明な判断を期待しているよ」
彼は微笑み、再び笛を吹いた。
この音色——間違いない、「空とぶじゅもん」だ。
風が強く吹き、俺たちは身体を動かせるようになっていた。
男の身体は宙に浮かび上がり、彼の背後にびゅうびゅうと風が集まっている。
「ふざけるな……! だったらどうして『空とぶじゅもん』なんか教えたんだよ……! あんたがそんなことしなけりゃ、俺たちは異世界になんて……!」
強い風が、男の癖のない前髪をさらう。
その時、俺は初めて気付いた。
彼の額の端には入れ墨で数字のゼロと描かれている。俺が知っている『グリム』は違った。何番だったか記憶は定かではないけれど、ゼロではなかったはずだ。二桁だった。確か覚えたての九九の数字と一緒で、「●かける●だね」なんて話をした記憶がぼんやりと残っている。
すると、男はまた俺の考えを察したかのように、怪しげな笑みを浮かべて言った。
「そうだね。君が知っている僕と、今ここにいる僕は違う。僕であって、僕ではない。だから僕には分からないよ。君の知っている僕がなぜ君たちをこの世界に
彼の背後に集まる風が一層強さを増す。
「さて、そろそろ帰らないと。あのお方が待ちくたびれてしまうだろうから」
よく見ると、男の背後にある風の集結点は渦のようになっていて、そこにはまるで台風の目のようにぽっかりと穴が空いていた。背後の景色が見えるわけではなく、真っ暗な空洞だ。一体どこにつながっているんだ? ふと、背筋に寒気が走る。穴の向こう側からじっと見られているような気がしたのだ。何も目のようなものは見えないのに、獲物を見定めるかのような視線を感じる。
ふと男がさっき言った言葉が頭の中で蘇った。
疑問を持ってはいけない。答えを探してはいけない。
「ふふふ……君は賢いね。こんな世界にとどまらず、早く『カーム・ワールド』に帰るんだ。その方が世界の発展と、そしてあのお方のためにも貢献できるだろうね」
「『あのお方』ってのは一体……!?」
俺の問いには答えないまま、男は風の渦にのまれて消えてしまった。
後には崩壊世界の森の静寂だけが残る。
俺たちは呆然として、しばらくその場に立ち尽くすしかなかった。
やるせなくて、思わず空を見上げる。その様相はヴィオラたちと合流する前のものとは変わっていた。おそらくあの男——仮でグリムと呼ぶことにしよう——があれだけ強い風を吹かせたからだ。遠くの空にあったはずの八雲が星々を覆い、雲の奥にある星の光で照らされてまるで夜空に浮かぶ桜のように見える。
「ヴィオラ・サン。先ホドノ翻訳結果ヲ、イサム・サンタチニ伝エテハ——」
沈黙を破ろうとしたストンであったが、途中で急にエネルギーが切れたように話すのを止めてしまった。ヴィオラが懐から出した呪術の札をストンに貼り付けてしまったのだ。
「ヴィオラ……? もしかして、記憶が」
彼女は首を横に振る。
「ううん。まだまだ全然だよ。さっきの人……なんだったんだろうね。びっくりしちゃった。あーあ……今日は疲れちゃったし、早くキャンプで休みたいよ」
先ほどまで青ざめて震えていたとは思えない、カラッとした口調だった。彼女は動かなくなったストンを腕に抱え、誰よりも先にベースキャンプの方へ歩き出す。
ふと、何か思い出したように振り返った。
「あ、今夜はストンの修理をしなきゃいけないから、絶対に私のテントに来ないでね。呪術式ゴーレムの仕組みは他人に知られちゃいけないって森のおばあちゃんに言われているの。だから、何があっても来ないでね」
ヴィオラはやけに語気を強めてそう言った。
彼女がそんな風に言うなんて滅多なことではない。俺はちらりとバルカの方に視線を向けると、彼女は肩をすくめる。
「あんなことがあった後だ、
「そう、なのかな……」
バルカの表情には疲労が浮かんでいて、それ以上あれこれ言う気にはなれなかった。彼女も混乱しているのだ。俺にとっての『グリム』は小さい頃に遊んでくれた近所のお兄さんのような存在だが、バルカにとっての『モルテ卿』は彼女の故国を揺るがした仇敵だ。
なんだか釈然としないが、森の中で突っ立っていても意味がない。俺たちはすたすたと歩くヴィオラに置いて行かれないよう、ひとまずベースキャンプへ戻ることにした。
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