1-10. 姫さまの真意は秘せられて
「なん、で……?」
途中までは完璧だったはずだ。
ヴィオラにやった時と同じように呪文を唱えて、同じように指先から白い光が出てきて、姫の額の中に溶け込んでいく……かのように見えた。
光は彼女の額に触れる直前、終わった線香花火のようにしゅんとたち消えてしまった。姫は相変わらず目の前でもがき、唸り続ける。
完全に失敗。
原因は何だ? 手順はヴィオラの時と全く同じようにしたはずだ。自分が気づいていないだけで、
「イサム!」
ヴィオラの悲鳴に似た声がして俺はハッとした。目の前の姫がすでに蜘蛛の糸を千切り、拘束から抜け出している。彼女はナイフを持った手を掲げ、その切っ先をまっすぐに俺に向ける。
どうするどうするどうする!
『ナ・レート』は確かに何でも使える力だが、自由すぎていざという時に唱えるべき呪文が思い浮かばない。
俺、ここで死ぬのか?
興味本位の実験で異世界に飛んできて、記憶喪失のヴィオラに悲しい想いだけさせて、幼馴染のあの子の手がかりは何にも見つけられずに死ぬのか?
ああ……なんかだんだん腹が立ってきた。
すべての元凶はあの金色の紙飛行機だ。
あれのせいでこんなわけの分からないことに巻き込まれている。
クソッ、ここで死ぬくらいならせめて、ヴィオラに思い切って聞いておけばよかった。
君があの手紙の差出人なのか、って。
どうして俺とあの子だけが知っているはずの方法で手紙を出してきたんだ、って。
……君は、あの子とどんな関係なんだ、って。
「お願いストン、私たちを助けて!」
ヴィオラの言葉とともに、背後から強い光が発せられた。その眩しさに、目の前の姫の動きが一瞬鈍る。俺はその隙に姫から逃げ、後ろにいたヴィオラを連れて後退した。
「はぁ、はぁ……。助かったよ……ってあれ、ストンは?」
いつの間にかヴィオラの肩の上にいたはずのストンがいない。
「……あそこ」
ヴィオラは唖然とした表情で天井を指差した。ひゅうううという何かが落下するような音がすると同時に、それはどんどん巨大化していく。
——ズドン!
激しい落下音とともに、床全体が大きく揺れて、立っているのがやっとだった。
俺たちと姫の間に、人間の背丈の数倍もの大きさに巨大化したストンが佇んでいる。
「なんだあれ……呪術式ゴーレムってあんなこともできるの?」
ヴィオラは杖を手に握りながら、ふるふると首を横に振った。
「し、知らない……わたしはただ、そうであればいいなって思っただけ……」
ふと、「森のおばあちゃん」の小屋で彼女が杖を初めて使った時のことが頭をよぎった。あの時も確か、ヴィオラが「これで文字が読めるようになったりしたらいいんだけど」と呟いた瞬間、この世界の文字で書かれた手紙が日本語で読めるように変換されたんだっけ。
ヴィオラの想像したものが世界に発現される。それがあの杖に込められた、彼女が幼い頃に有り余らせていた『ナ・レート』の力ということなのか?
俺が使えるのも、彼女が杖によって使えるのも、同じ『ナ・レート』と呼ばれる力。
その使い勝手は都合がいいように見えて、さっき俺が失敗したように、時に理不尽に不完全だ。
「『ナ・レート』の力って、一体何なんだ……?」
独り言が漏れる。ヴィオラの表情を見る限り、彼女もまだ詳しくは思い出せていないらしい。
その時、頭上からのっそりと低い声が聞こえてきた。
「ヴィーオーラー・サーンー、スートーンーハー、コーノーアートー、ドーウースーレーバーイーイーノーデーショーウー?」
巨大化したストンが緩慢な動作で顔だけこちらに向ける。
そうだ、今は考え事などしている場合じゃない。
「とりあえずストンに姫さまの動きを封じてもらおう。それからもう一度『ナ・レート』で姫さまを元に戻せないか試してみる」
「う、うん。分かった!」
ヴィオラがストンに指示を出す。するとゆっくりと動き出し、不恰好な腕を持ち上げ姫に向かって振り下ろす。
もちろん、姫に命中させる気はない。狙ったのは、彼女の長いスカートだ。
「ウガアアアアア!?」
姫のスカートの裾がストンの腕の下敷きになり、彼女は自由に動けなくなった。
「シルフ!」
今度はシルフが彼女の
「フーッ……! フゥゥッ……!」
姫は何度も何度もスカートを引っ張ろうとするが、巨大なストンの腕はびくともしなかった。彼女が自分のスカートの裾を千切ってしまえばそれまでだったが、どうもそうする素振りは見せない。それどころか、スカートが破れないように下敷きになった裾のすぐそばを引っ張っている。
よほど大切にしていたスカートとかなんだろうか? すでに汚れたり、ところどころ穴が開いたりしてボロボロになってしまってはいるが……。
俺はスカートに夢中になっている姫の前に立ち、もう一度〈レドモ・バトコ〉と唱えてみた。だが、変わらず光は途中で消えてしまう。おかしい。さっきシルフの力でナイフを奪った時は普通に『ナ・レート』が使えたのだ。力が尽きてしまったという可能性は考えにくい。
「言葉を戻せないなら、何か他の手を……」
考えあぐねていると、すっとヴィオラが前に進み出てきた。
彼女は姫が手を伸ばせば届くほどの距離の場所に
「……『むかしむかし、あるところに一人の
姫がぴたりと動きを止める。たまたまかもしれない。すぐにヴィオラに襲いかかってくるかもしれない。そうは思っても、俺はその場を動けなかった。
彼女の物語を、邪魔してはいけないような気がして。
「『狩人は数年前に大切な奥さんを亡くし、一人で暮らしていました。孤独な日々でしたが、彼は自慢の弓を持って毎日欠かさず森に狩りに出かけました。彼には奥さんの遺したある言葉が励みになっていたのです』」
姫は相変わらず身動きせず、じっとヴィオラの物語に聞き入っていた。言葉は通じていないはずなのに、話に合わせて時折頷きさえする。
「……『奥さんはかつて死ぬ間際に言いました。あなたの好きなところが三つあるの。一つ目は、狩りの腕が優れていること。二つ目は、そうであっても謙虚であること。でも最後の一つが何より一番好きなところで……』」
ヴィオラはそこで一呼吸置き、じっと姫の顔を見据えて再び口を開いた。今度は少し、暗い声音で。
「『ある日、狩人のもとに一人の錬金術師がやってきました。彼は言いました。今から私があるものを狩ってきてくれたら、謝礼としてあなたの奥さんを蘇らせてあげよう、と。あるものとは……錬金術師が敵対する人間でした。それは暗殺の依頼だったのです』」
「アア……」
姫がほんの少し哀しげな声を上げる。ヴィオラはそれに同調するように、まつげを伏せて話を続けた。
「『狩人は葛藤しました。奥さんにもう一度会いたい気持ちはありましたが、そのために見ず知らずの他人を殺すなんてできるはずがないと思いました。そんな狩人に錬金術師は、命ならいつも狩っているだろう、言葉が通じるか通じないかの違いだ、とそそのかします。ですが、狩人はふと奥さんの言葉をもう一度思い出すのです。奥さんが言った、狩人の一番好きなところとは……言葉が通じない獲物たちにも敬意を払い、無駄な殺生は行わず、命を奪ったあとは必ず祈りを捧げること。我に返った狩人は錬金術師に向かって言います。私はあなたの依頼を受けられない、と』」
「それで、狩人はどうなったんだ……?」
つい気になって、続きを尋ねてしまった。
ヴィオラは一瞬俺の方を振り返り、ほんの少し微笑んでみせた。思わずどきりとする。それは普段自信なさげな彼女とはまるで違う表情だったのだ。今のヴィオラは無力な女の子じゃなくて、ミステリアスな雰囲気をまとった語り部だった。すべてを知っていながら、読み手の感情を手のひらの上で転がせて弄ぶ。
かつての俺が憧れた、物語を語る時のあの子と同じ表情。
「『怒った錬金術師は言いました。それなら貴様も殺して
ヴィオラの額に汗がにじむ。
彼女の物語は佳境に入る。姫と俺たち以外は死人だらけの異常な空間の中、今、彼女の語りを邪魔する者は誰一人いない。
「『狩人のはらわたは煮え繰り返り、彼は拘束を抜け出して力いっぱいに錬金術師を殴りました。私を殺すのか、錬金術師は尋ねます。すると狩人は首を横に振りました。殺しはしない、だがお前の命よりも大切なものを奪う、と。そうして火矢を放ち……錬金術師の研究成果の詰まった彼の家を燃やしてしまったのです。錬金術師は跡形も無くなった自分の家を見て嘆きます。こんなに酷い仕打ちはない、これならいっそ殺してくれれば良かったのに、と。そんな彼に狩人は言いました。家はお前が生きていればいつか元どおりにできるだろう。だが、命はもう二度と戻ってはこない。お前は取り返しのつかないことをした、命を奪うとはそういうことなのだ、と』」
ヴィオラはふうと息をつく。
「その後は……?」
「『悔しく思った錬金術師は、仕返しをしようと狩人の家を燃やそうとしました。ですが、何度彼の家に行っても森の動物たちに邪魔をされてしまいます。彼らは以前、狩人に他の動物に襲われていたところを助けてもらったものたちだったのです。ついに観念した錬金術師は、別の街へと逃げていきます。一方狩人は、その後も奥さんの遺した言葉を励みに森で静かに暮らし続けるのでした』……おしまい」
ヴィオラは語り終えると、目の前の姫に尋ねた。
「姫さま、いかがでしたか?」
もはや姫は誰彼関係なく襲いかかるような状態ではなくなっていた。憑き物が落ちたかのような穏やかな表情を浮かべ、ヴィオラに向かってにっこりと微笑む。それはまさにブルースフィアで見た姫そのもの。瞳の端にはうっすら涙が浮かんでいて、血と埃で汚れた彼女の頬を洗い流していく。
「ウー……オオウ……」
姫の手がヴィオラの頬を優しく包み込む。
「……ええ、姫さま。言葉が通じなくともちゃんと伝わっていますよ。わたしのこと、思い出してくださったのですね」
姫は何も答えないが、愛おしげにヴィオラに触れる仕草からは敵意は全く感じられない。
「ねえ、姫さま。一体お城で何があったのですか? これは……何か事情があってのことなんですよね?」
ヴィオラは責めることなく、優しい口調で姫に問う。
姫は少しだけ彼女から視線を逸らした。どこか迷っているような仕草に見えた。そして姫は何かを訴えるように、巨大化ストンの腕の下敷きになっているスカートを指す。
「ああ、そうでしたね。手荒な真似をしてしまって申し訳ございません……。ストン、もういいから——」
ヴィオラがそう言ってストンの腕をどかせようとしたその時だった。
姫の表情が変わった。無差別に暴れていた時の顔だ。憎々しげに美しい顔を歪め、呼吸が荒い。
「ヴィオラ!」
名前を呼ぶが、ヴィオラはまだ気づいていなかった。ストンの腕が動き、姫が自由を取り戻す。彼女は床に落ちていたナイフを拾い、再び獣のような咆哮を上げた。
ヴィオラが危ない——考えるよりも先に足は動く。彼女を庇わなければ。だが、俺よりも姫の方が近くにいる。どう考えても間に合わない。
逃げろ! 早くその場から逃げてくれ!
こんなところでお互い終わるわけにはいかない。
だって俺、今やっと分かったんだよ。あの手紙、あの物語、あの表情! どう考えたって間違いない。むしろなんで今まで気づかなかったのか不思議なくらいだ。君が覚えていなくたって、外見がすっかり変わっていたって、本質は子どもの頃からずっと変わっていなかったというのに。
どんなこじれた問題も、一つ一つ手がかりを紐解いていけば案外単純な答えだったりする。あとはその事実に向き合う勇気を持てるかどうかだけ。
そう、俺の抱える一つの問題も、俺が受け入れさえすればすんなり解に辿り着く。
なぁ、ヴィオラ。
君は……スミレちゃんなんだろう?
——パァン!
短い破裂音が響き、俺は驚いてその場で転んでしまった。冷たい大理石の上で足を擦る痛みを妙に強く感じたのは、無意識のうちに今何が起きたのかということから目を背けたかったからなのかもしれない。
恐る恐る顔を上げる。
何か、白いものが上からゆっくりと降ってきていた。
羽のようだと思った。
だがそれは幻覚で、よく見れば何の変哲も無い羊皮紙の破片だった。
文字がびっしりと書き込まれているだけの、ある人にとっては取るに足りないただの紙であり、ある人にとっては空想世界へと誘う魅力的なチケットだ。
筆跡はヴィオラの手紙の文字によく似ていた。
一体こんなものがどこから?
ふと、視線を移し——目を疑う。
紙は、姫の破れたスカートから舞い上がっていた。
彼女はスカートの裏にたくさんの手書きの物語をくくりつけていたのだ。
もしかして、スカートを大事にしていたのもそれが理由で……?
いや、今はそんな悠長なことを考えている余裕はない。
意識を失い、がくんと倒れる姫。彼女を受け止め、顔面真っ青に染めるヴィオラ。姫の太ももから流れ出す血が、スカートにくくりつけられたまま残っている羊皮紙を赤く染めていく。
「hиugbgu-тauoтcиn, aн ясйhнuв」
背後から聞き覚えのない声がした。
振り返ると、玉座の間の入り口に一人の背の高い女が立っていた。短い金髪に、この世界の雰囲気にはおよそ似合わぬ、近現代風の軍人のような格好——大きすぎて軍服の前のボタンを閉じることができないほどの胸に思わず目を奪われたが慌てて見なかったことにする——、そしてその右手に持つ銃から漂う硝煙。
姫を撃ったのは、彼女だ。
「よくも……よくも姫さまを!」
ヴィオラの怒りに震える声が背後から聞こえたかと思うと、急にしんと空気が冷える感覚がした。次の瞬間には、すぐ頭上を何か黒い影が飛んでいく。それは、ドロドロと形をなしていない黒の化け物だった。ヴィオラが『ナ・レート』の力で呼び出したらしい。化け物は気味の悪い雄叫びをあげて女に襲いかかっていく。
だが金髪の女は冷静だった。彼女は首を横にひねり、空いた左手でこめかみあたりをぐりぐりと押す。
「яяя、aaa、あー……ふむ、この言語か」
「!? あんた、日本語が……?」
何がどういう仕組みなのかは分からない。
だが、彼女が突然喋り出したのは紛れもなく俺とヴィオラが使っている日本語だ。
「しかし驚いたな。まさかこの世界にまだ生き残りがいたとは」
彼女はにやりと口角を吊り上げると、よく通るハスキーな声で叫んだ。
「迎撃せよ、我がしもべたちよ!」
その言葉とともに、彼女の背後から無数のモンスターたちが現れた。ヴィオラがとっさに生み出した化け物は、モンスターの鋭い爪によってあっさりと八つ裂きにされる。
俺たちは、あっという間にモンスターの群れに取り囲まれていた。こちらが大した抵抗をしなかったせいもあるが、そんなこと思いつく間もなかった。こんな危機的状況の中では不相応な感想だが……あまりに統率の取れた動きに、思わず「美しい」と見入ってしまったのだ。
「まさか、あなたも『ナ・レート』を……?」
圧倒的不利な場面でも警戒心を解かないヴィオラに対し、女は見せつけるようにして余裕のある笑みを浮かべる。
「ほう、この力のことは『ナ・レート』というのか」
女はそう言って、つかつかと俺たちの方へと歩いてきた。よく見ると、彼女の右手は機械でできていた。それだけじゃない、上着の下に覗く肌も、一箇所だけ長く伸ばした前髪の下に隠れた顔の皮膚も、すべて機械でできている。
いわゆる「サイボーグ」。
現代日本から来た俺が言うのもなんだが、中世ヨーロッパ風のファンタジー世界にはとても似つかわしくない風貌だ。
クソッ……今度は一体何が起きるっていうんだよ!
金髪の女は俺の目の前で立ち止まる。
そして蔑むような眼差しを向けたあと、腰のサーベルを引き抜き——その切っ先を俺たちに向けて言い放った。
「私の名はバルカ・サンドリア。この国の新たな王になる人間の名だ。よーく覚えておくがいい。貴様らは今から私の捕虜となり、私の手足として働くことになるのだからな」
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