1-8. 崩落城の図書館は褪せることなく
ヴィオラが落ち着いてから、俺たちは「森のおばあちゃん」の家を出た。
森を抜けると、そこかしこが崩れ落ちただだっ広い荒野が広がっていた。俺たちはストンが小屋の物置から引っ張り出してきた地図を手がかりに、かつて王城があった方へ向かうことにした。相変わらず道中他に人の気配はなく、寂れた景色が続く。
時折風が強く吹き、途中何度か身体ごと飛ばされそうになった。最初は遮るものがないせいかとも思ったが、どうもそれだけじゃなく、定期的にどこからか突風が吹いているらしい。
「こんなに風が強いのは普通のことなのか?」
試しに尋ねてみると、ヴィオラの肩に乗るストンは地図を見ながら城のある方とは別の方角を指した。それは俺がヴィオラと出会った崖の方角だった。よく見ると、俺たちがいた崖のある山の隣に、もう一つ背の高い山がそびえている。山と山の間は深い谷になっているようだ。
「風ハ、アノ双子山カラ吹イテイマス。
つまり本来なら笛の音がするときだけのはずが、今はその音が無いに関わらず風が普段より強く吹きつけているのだという。
「なるほどな。にしても『笛吹き男』ねぇ……」
「イサム、何か知っているの?」
「ああいや、俺の古い知り合いにそういう人がいたなと思っただけだよ。いつの間にかいなくなってて、どこに行ったのかは分からないんだけど」
それは俺とあの子に「空とぶじゅもん」を教えた張本人だ。俺たちの家の近くの河原で笛を吹きながらぼうっと過ごしている男で、名前も住所も彼の本当の仕事も何も知らなかったけど、幼かった俺たちは彼の自由な振る舞いに妙に憧れていたのを覚えている。俺たちに「空とぶじゅもん」を教えた後は
そもそも何であの人に「空とぶじゅもん」を教えてもらったんだっけ。まだ子どもの頃の記憶を失うほど年を取っていないと思っていたが、そこは曖昧で上手く思い出せなかった。
「ヴィオラ・サン、イサム・サン。アト少シ歩ケバ城ニ着キマスヨ」
ストンに言われて俺は前方を見る。目の前の小高い丘の向こうに、石造りの城壁が見え始めていた。ブルースフィアで見た荘厳な美しい姿ではなく、ところどころ崩壊して汚れてしまっているが、それは紛れもなくヴィオラが慕う姫の住んでいる城であった。
隣を歩くヴィオラが立ち止まって唾を飲む。一瞬足がすくんでいるのかと思ったが、その逆だった。彼女は力強い足取りで、俺より先に城に向かって一歩踏み出す。
……姫さまよ、どうか生きていてくれ。
俺は胸の内でそっと祈り、彼女の後を追った。
城内は外見以上に崩落がひどく、最上階にあるという姫の部屋にたどり着くための道筋はまるで迷路のように入り組んでいた。中央階段は途中で崩れ落ちていて使えず、給仕係が使用していたという細い階段に続く道もがれきで塞がれていて通ることができない。
「どうする?」
「ええと……確か『
ヴィオラは記憶を
『永樹の図書館』。それは俺が今まで見た中で最も巨大で、不思議な図書館だった。
城と隣接しているそれは、五階建ての吹き抜け構造であり、その広い円柱型の施設の一階中央部分からガラスでできた天井に向けて、樹齢何年だかわからない巨大な樹が生えている。この樹が柱となって建物を支えているおかげか全体的に城よりも崩壊の影響は少なく、本棚から落ちた本や割れたガラスの破片が散らばっているくらいで、図書館としての姿は健在だ。
「すごい……」
ガラスの天井から差し込む神秘的な陽光の
感動していたのは俺だけじゃなかった。この場所には馴染みがあるはずのヴィオラもぽかんと口を開けて広大な本の森を眺めている。
「そうだ……ここで、わたしは……姫さまは……」
「何か思い出せたのか?」
「うん、大切な記憶……」
そう言って、ヴィオラは吸い寄せられるように建物の外円を形作るらせん状の通路に進む。少しずつ上へ昇るスロープのようになっていて、壁沿いに隙間なく並べられた本棚の光景は圧巻だ。
ヴィオラはその本棚のうちの一つを手に取った。彼女が杖を取り出して念じると、「森のおばあちゃん」の小屋の時のように文字が浮かび上がって、ひらがなや漢字に形を変えていく。どうやらその本のタイトルは『さみしがりやの巨大怪獣』というらしい。
「これは姫さまがお好きだった本。こんな怪獣、本当にいればいいのにってよくおっしゃっていた」
「どんな内容なの?」
「主人公は大きな怪獣なんだけど、透明で誰の目にも映らない存在なの。怪獣は誰かに気づいて欲しくて色々いたずらをする。でもみんな天気とか動物のせいだと思って怪獣の存在に気づいてくれない。そんな怪獣に対して、ある日神さまが『誰にも気づかれないからこそできることがあるんだよ』って助言をするの。怪獣はその助言の通り、いたずらをやめて良い行いをするようにした。結局ほとんどの人は相変わらず怪獣のことに気づかないんだけど、ある日溺れかけた子どもを救った後、その子が小さな声で『見えない誰かさん、ありがとう』って言ったの。怪獣は感謝してもらえたことが嬉しくて、その後も人知れず善行を重ねる……そういうお話」
「へぇ……いい話だな。あの姫が気に入ってたってのはちょっと意外だけど」
ブルースフィアで見た姫は、美人でどこか大人びている雰囲気があった。俺の中ではこういう子どもの童話のような話を好むイメージではなかったのだ。
「姫さまはね、『もしかしたら本当にあるかもしれない』って思えるお話がお好きなんだって。この世界は平和だったけど、平和ゆえに姫さまは退屈していたの。この国の姫でいても図書館の本を読むことくらいしかやることがないって、よく愚痴をこぼしていたっけ」
贅沢な悩みだとは思うが、理解できなくはなかった。もともと現代日本にいた時の俺だって同じだ。何不自由ない生活にどこか物足りなさを感じていた。フィクションに夢を見たくなる気持ちも分かる。じゃなきゃ異世界に行くための方法を試したりはしない。
「それにしても愚痴を聞くくらいの間柄ってことは、姫さまとはかなり仲が良かったんだな」
「うーん……」
ヴィオラは首を傾げる。まだそこまではっきりと記憶が戻っているわけじゃないのか。
「たぶん、仲が良かったわけじゃないと思う。生まれも育ちも全然違ったし、わたしと姫さまじゃ性格も見ているものも違った。でも」
一瞬口をつぐみ、ふっと顔を上げる。
「お互いがお互いを必要としていた。その自信はあるの。わたしは姫さまに認められることが幸せだったし、姫さまはわたしの——ああ、そうだ、思い出した……!」
ヴィオラの声音が熱を帯びる。
「姫さまは城の中で何事もなく過ごすことに退屈されていて、わたしが手紙を届けるのを待っていた。でも平和な世界じゃ手紙の内容も代わり映えしなくて、姫さまはそのうち手紙に飽きてしまった。次にわたしは図書館にある本を持って行って姫さまに読み聞かせをした。でもそれもだんだん読み尽くしてしまった。それでわたしは悩んで悩んで……新しい物語を作って姫さまに披露するようになったの」
「物語を作るって、ヴィオラが自分で……?」
「そう。初めは自分の物語を他の人に語るのが怖かった。ましてや相手は姫さまだよ。もしお怒りを買ったらどうしようと不安で仕方なかった。でも、姫さまは喜んでくれたの。面白かった、って。わたしはその一言で、何もかもが救われたような気がして……それからも、姫さまに満足してもらえるようにたくさんの物語を作り続けたんだ」
友人というよりも、語り手と聞き手。姫はヴィオラの語る物語で退屈をしのぎ、ヴィオラは姫に自分の話を認められることで自らの存在意義を確かめる。二人はそういう絆で結ばれていたということなのだろう。
「なんか……いいな、そういうの」
思わず本音が漏れる。
俺とあの子も、それに近い関係だった。違うのは二人とも物語を作りたがったことだったけど、結局あの子の方が話を作るのは断然うまくて、悔しいけど俺は自分の話を作るよりも彼女の話を聞いている時間の方が好きだった。あの子がいなくなってしまってから、俺は一切創作をしなくなったし、フィクションを読んでもあの子の話より面白いと思えなくて手をつけなくなってしまったけど……。
そんなことを考えていると、いつの間にかヴィオラの顔がすぐ近くにあって俺はたじろいだ。紫の瞳がじっとこちらを見つめている。
「な、何?」
「イサム、時々考え事をしているよね。ぼうっとしている時があるというか」
「ああ……うん。ちょっと似ている人のこと思い出してさ」
「そっか。イサムの知り合いにも姫さまみたいな人がいるんだね」
「ま、まあね」
適当に相槌を打ってごまかす。
俺があの子と似ていると思っているのはどちらかと言えばヴィオラの方なのだが、彼女の無邪気な微笑みを見ていると否定はしづらかった。
「ヴィオラ・サン、コノ図書館カラ、姫サマノ部屋ニ行ケルンデスヨネ?」
ストンの問いに、ヴィオラは縦に頷いた。
「うん。この螺旋通路を上まで登って、そこに繋がる城への渡り廊下を越えれば、姫さまのお部屋がある回廊に——」
——オォォォォオオオオオン!!
まるで獣のような叫び声が建物全体に響き渡った。音は俺たちがちょうど今向かおうとした方から聞こえてくる。もしかしてあの最初の村のように、正気を失ったモンスターが城で暴れているのか?
「姫さまが危ない……!」
駆けつけたところで自分たちに何が出来るかなんてたかが知れている。
それでも、俺たちは音がした方へと駆け出していた。
何もかも失われたこの世界で、「姫さま」は唯一の希望だと……この時は、そう思っていたから。
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