1-5. 最初の村がいきなり不穏すぎる



 ヴィオラの断片的な記憶によると、「森のおばあちゃん」とは彼女の育て親のような存在で、人気ひとけのない森の奥に住んでいる物知りな老婆なのだそうだ。


 崖から傘で降下して、眼下に立ち込めていた霧を抜けると、傘が俺たちを運ぶ軌道の先には確かにうっそうと茂る森が見えた。


 その手前には村のような小さな集落が見えて、俺はヴィオラに「まずはあそこで食事でもしないか」と提案した。


 正直、傘にくくりつけていたアメ玉なんかじゃごまかしきれないくらい腹が減っていた。そういえば今日一日、朝起きてからずっと押入れを漁るのに夢中になっていたせいでまともに食事を摂っていなかったのだ。現実世界に戻りたい理由なんてたいして無いと思っていたが、情けないことに出かける直前に台所から香ってきた唐揚げの匂いが今は恋しい。


 腹が減っていたのは俺だけじゃなかったようだ。「森のおばあちゃんのところに行けばご飯くらい出してもらえると思うから」などと言っていたヴィオラも、集落が近づくにつれて漂ってきた香ばしい匂いにやられたのか、盛大に腹の音が空腹を告げて「……やっぱり寄ろうか」と恥ずかしそうに呟いた。


 それに、俺は心の中でほのかな期待を抱いていた。ファンタジー世界において人の集落に立ち寄るのは基本中の基本だ。そこで村人たちの話を聞くことで、この世界がどういう場所なのか手がかりを得られるかもしれない。ヴィオラの言う「森のおばあちゃん」に頼るのも方法としては間違っちゃいないだろうが、いきなり人里離れた場所に住んでいるばあさんに会いに行くより、まずはこの世界における一般人の話を聞いておきたい……そんな風に思っていた。




 その結果、自分の甘すぎた見立てをとことん後悔するハメになったのだが。




「ヴィオラ、危ない!」


 村に入るなり、猪頭の怪人——ファンタジー世界で「オーク」と称されるタイプの生き物だ——が棍棒こんぼうを振り上げて襲いかかってきた。俺はとっさにヴィオラを突き飛ばし、勢いあまって俺も彼女に覆いかぶさるようにして地面に転がる。


「ウガガガ……」


 オークは鼻息荒く興奮した状態で、再び棍棒を構え直す。


 冗談じゃない、こちとら丸腰だぞ?


 いくら魔法——もとい『ナ・レート』とかいう力があるとは言え、俺には戦闘の経験も知識も無い。せめて最初にエンカウントする敵が水色のプルプルした奴らだったらましだったものの、残念ながら目の前にいるのはごつい体格で巨大な棍棒を片手で振り回すオーク。RPGで言うところの中盤以降のダンジョンで出てくるような奴だ。


 わらにもすがる思いでヴィオラの方を見る。こういうのってほら、異世界からやってきた奴が無能だとしても、異世界で出会った女の子たちが最強で無双してくれるとかなんだろ?


 そして彼女の顔を見て俺は確信した。




 ——あ、だめだわこれ。




 ヴィオラは顔を真っ青にしており、恐怖で声すら出ないのか、口をパクパクさせるだけである。


「そう都合よくはいかないよな……!」


 こうなったら俺がなんとかするしかない。洞窟の中で初めて『ナ・レート』を使った時の要領を思い出しながら、俺はオークに向かって指先を向けて唱えた。


「〈ロエモ・ヨヒ〉!」


 爪の先に小さな火の玉が灯り、オークめがけて飛んでいく。


「いっけぇ!」


 だが、オークの身体の手前で毛深い腕によって振り払われてしまった。あっけなく火の玉はしゅんと消える。


「あ……」


 しまった。次の手は何も考えていない。


「ウガ……ウガァアァァァァァアアァァ!!」


 オークが雄叫びをあげる。


 するとどこからか複数の足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。


 ザッザッザッザッ……。


 それは絶望の音。


 崩れた家屋の影から続々と怪物たちが現れた。オークにリザードマンにハーピー。ファンタジー界のモンスターたちが勢ぞろい。どう考えても人間の子二人を歓迎してくれる様子はなく、敵意むき出しに俺たちを睨んでいる。


 ああ、もしも俺が「勇者」だったら。


 きっとこういう場面で神のいかづちでも落として窮地を脱するんだろうよ。


 ただ残念ながら、赤塩勇あかしおいさむは昔からかみなりが苦手なごくごく普通の男子高校生だ。


 だから、俺にできることは。


「……〈ヨデイ・ンゴラド〉」


 呪文は虚しくその場に響くだけで、何も起きはしなかった。


 まぁそりゃそうか。さすがにそんな何でもできるような力じゃないよな。


 万事休す。


 しびれを切らしたモンスターたちがそれぞれに叫び声をあげて襲いかかってくる。俺とヴィオラはあっさり囲まれ、モンスターたちの餌食になろうとした——その時。


「ギャオオオオオオオオ!」


 遠くの空から耳をつんざくような咆哮ほうこうが聞こえた。モンスターたちの動きがぴたりと止まる。


「ギャオオオ! ギャオオオオオオン!」


 やがて上空を巨大な影が覆い尽くす。そこにいたのは……赤い鱗のドラゴン。


 目には目を。歯に歯を。モンスターにはモンスターだ。


 醜悪なモンスターたちも、さすがにドラゴンには恐れをなしたのだろう。皆慌てて俺たちから離れ、どこかへと逃げ去っていく。


 いつの間にか、村には俺とヴィオラだけがぽつんと取り残されていた。


「イサム……もしかして君、妖精だけじゃなくてドラゴンまで使役を……?」


 ヴィオラにそう言われて、俺は首を横に振った。


「呼び出せはしたけど、シルフの時みたいに話が通じる奴かどうかは」


 分からない——その言葉を続ける前に結論は出た。


 上空のドラゴンが大きく息を吸う。その口の中には先ほどの俺の火の玉とは比べ物にならないほど巨大な炎がたたえられている。


「に、逃げよう!」


 俺は足を痛めているヴィオラを半分背負うようにして、慌ててその場から駆け出した。


 ドラゴンが咆哮と共に火球を吐き出す。空気が熱を帯び、ただでさえ崩落していた集落をさらなる破壊へと導いていく。


 本当に、何なんだよこの世界は!


 俺は苛立ちを足先に込め、とにかく無我夢中で森に向かって走った。


 今タイムを測ったらインターハイにでも行けるんじゃないかと思うくらい、俺の足は素早く動いた。


 人間、危機が迫っていると普段以上の力を出せるものだ。


 そういえばだってそうだった。


 「あの子」の提案で夜の小学校で肝試しをしたのだ。ビビって先に逃げ出した方がアイスをおごるっていうルールで、学校の中を練り歩きながらお互いとっておきの怪談を披露するのだ。俺は学校の図書館でいくつも怖い話を仕入れて臨んだが、どれも彼女は読了済みで、話の途中でオチを当てられてしまう始末。一方彼女の方はというと、なんと自分で怪談を作ってきていた。しかも自分たちの学校が舞台の話ばかりだから、妙にリアルな怖さがあって、四番目の音楽室の肖像画の話に差し掛かった時には俺の恐怖はもう限界に達していた。ちょうどその時、見回りの先生の足音が聞こえて俺は耐えられなくなり、彼女のことなど置き去りにして猛スピードで学校から逃げ出したんだっけ——


「……サム、イサムってば!」


 ヴィオラに小突かれてハッとする。いつの間にか森の中まで来ていたようだ。


「前見て、前!」


「へ……?」


 強い衝撃が全身に響き、俺は反動でその場に倒れこんだ。追い打ちをかけるように上から何かがどかどかと降ってくる。


「いてて……」


 ズキズキと痛む頭を押さえて見上げると、そこには大きな木がそびえていた。傍らには俺がこの木にぶつかる直前で投げ出した——乱暴なやり方ではあったが、一緒にぶつかるよりはましだっただろう——ヴィオラが、座り込んで落ちてきた赤い果実を手に取っている。彼女がそれをひとかじりすると、甘酸っぱい匂いがその場に広がった。俺も近くに落ちていた果実を手に取りかじってみる。味も見た目もりんごにそっくりだ。


 この世界に来てようやくありつけた食料に、不覚にも目の端が熱くなってきて、慌てて顔を拭ってごまかした。


「あ、ほら……あれを見て」


 りんごらしき果実を食べ終えたヴィオラが、森の奥の方を指差す。


 そこには木漏れ日を受けて水面がきらきらと輝く、透き通った池があった。近づいて中を覗いてみると、底の方からぷくぷくと途切れることなく泡が浮き上がってくる。


 ヴィオラはしゃがんで池の水をすくう。すると、水は彼女の手でパチパチと弾け、やがて蒸発するかのように跡形もなく消えてしまった。


「これは……?」


 俺が尋ねると、ヴィオラはすっと立ち上がって答えた。


「『硝子水がらすみずの池』。おばあちゃんが呪術の触媒としてよく使っているの。だから……おばあちゃんの家はもうすぐのはずだよ」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る