1-4. ヴィオラの目覚め



「わたし……どうして……」


 彼女は不思議そうに呟く。聞き間違いじゃない、どう考えても日本語だ。


「一応聞くけどさ、俺の言葉、分かる?」


 彼女は「うん」と肯定し、その紫色の瞳でじっと俺の右手を見つめた。


「君の……さっきの光は一体なんだったの……?」


「ごめん、俺自身まだよく分かってないんだ。魔法っていうのかな、こんな力が使えるようになったのはついさっきのことで」


「魔法……」


 彼女は首を横にひねる。どうも腑に落ちない様子だ。


「もしかして、この世界に魔法は存在しないのか?」


「うん、たぶん……。はあるけど、君がさっきやったようなことができる力じゃない」


「どういうことだ?」


「呪術は何もない場所から何かを生み出すことはできない。だから君の力は、どちらかと言えば——」


 言葉の途中で、彼女は急にうめき声を上げて頭を抱えだした。荒い息遣い。額には大量の脂汗が噴き出している。


 大丈夫かと声をかけてみるが、返事はかえってこない。その余裕すらないらしい。


 やがて彼女はゆっくりと顔を上げた。


 呼吸を整えながら、きょろきょろと周囲を見渡す。その表情は先ほどよりもどこか青ざめている。


「……ない……」


「え?」


「おかしい、全然思い出せない……。わたしは君の力について知っているはずだったのに、それが何だったのか思い出せない……。それだけじゃなくて——」


 彼女はすがるような視線を向けてきた。




「わたしは、誰……?」




 思わず絶句した。


 異世界転移にいきなり使えた魔法、それに記憶喪失の少女だって? なんだこの展開、王道のファンタジー小説かよ。


 突っ込みたくなるも、不安げに瞳を揺らす彼女を見ているとそんな気もがれる。


「それって、自分の名前も、住んでいた場所も、覚えてないってことだよな」


 彼女はこくりと頷いた。どうも喋り方や身体の動かし方は分かるものの、自分や周囲にまつわるエピソード記憶はすっかり抜け落ちてしまっているようだ。


 当然、世界がどうしてこうなったのかも覚えていないのだという。


「じゃあそこにあるバッグは? 君のものかどうか分かるかい」


 俺はさっき中身を覗いてしまったメッセンジャーバッグを指す。彼女の華奢な身体に比べてずいぶんサイズが大きく重たいが、この状況からして他に持ち主がいるとも考えがたい。


「わたしの、なのかな……」


 彼女はおそるおそるバッグを開け、怪訝な表情を浮かべた。その視線が留まっているのは、上の方に束ねてあったメモ書きと、バッグの内側の文字が刺繍されている場所だ。


「gклgиф……」


 彼女は急に聞きなれない言葉を発した。うーうーうなっていた時とは違って確かに言葉のようだったが、あまりにも耳慣れない響きのせいで俺の脳内ではカタカナにも変換できない。


 やがて俺がぽかんとしているのに気づいたのだろう、彼女はハッとした表情を浮かべると、今度は俺がよく知る日本語で言った。


「あ、ごめん。えっと、さっきの言葉を今わたしが話している言葉に近い音に直すと……『ヴィオラ』」


「ヴィオラ?」


「そう。それがこのメモ書きとカバンに書かれている文字」


「もしかしてその言葉が読めるのか!?」


 つい前のめりになってしまったせいで、彼女は若干たじろいだ。


「読めるというか、音が分かるだけかな。言葉の意味は忘れちゃっているみたい……」


 それではメモ書きに書かれている内容は何か分からないということだ。結局、この世界についての手がかりが無いことに変わりはない。


 そんな俺の落胆が伝わってしまったのか、彼女は慌てて言葉を続けた。


「で、でも、これはたぶんわたしのバッグだと思う。この革のにおいと、手紙の重み……なんだか知っているような気がするんだ。それに、メモ書きの文字だって」


 彼女はバッグの中に入っていた羽ペンを手に取り、メモ書きの空いているスペースにすらすらと文字を書く。わざと似せようとするまでもなく、筆跡はほとんど同じだった。


「なるほど……やっぱりこれは君のバッグで、メモ書きも君が書いたものだってことなんだろうな。つまり、さっきの『ヴィオラ』ってのは」


「わたしの名前……かな」


 彼女はやや自信なさげに言った。


 この世界風の発音ではない点で『ヴィオラ』は本名ではないだろうが、彼女の紫色の髪と瞳にはしっくり来るような気がする。


「じゃあ君のことはヴィオラって呼ぶよ。俺は赤塩勇あかしおいさむ。イサムって呼んでくれ」


「イサム……うん、分かった」


 そう言って、ヴィオラは初めて俺の前で微笑んで見せた。無邪気で、柔らかい笑顔。


 ……ちくしょう、俺の気も知らないで。


 あのバッグが彼女のもので、メモ書きも彼女が書いたものだとしたら、やはり彼女が俺に紙飛行機を送りつけてきた張本人である可能性が高いということになる。


 異世界で掲げた目標が、こんなにもあっけなく達成されてしまうなんて。この世界はとことん俺の期待を裏切ることばかりやってくれる。


 とはいえ彼女が記憶を失っている今、なぜ紙飛行機を飛ばしたのかどうか問いただしたところで答えは返ってこないだろう。


 しばらく一緒に行動してみて、記憶が戻るのを待つしかない、か。


 俺はため息ひとつ吐き、崖から崩壊した景色を眺める。


「にしても参ったな……まずはこの崖から抜け出さないと、二人ともこのまま餓死するだけだ。何か方法は……」


 ちらりとヴィオラの方を見てみるが、彼女はふるふると首を横に振る。やはり彼女もどうやってここに登ってきたのかは分からないらしい。


「風の音からして、反対側の道の先は行き止まりみたいだったしな……」


 その時、一筋の強い風がぴゅうと吹き、ヴィオラの髪をふわりとなびかせた。ヴィオラは乱れた髪を手ぐしで整えようとする。だがそれを邪魔するように再び風が吹いた。まるで彼女にまとわりつくかのように何度も、何度も。


「や、やめて!」


 彼女は少し頰を赤らめながら、風に向かって叫んだ。


 変わった子だ。風にそんなこと言っても仕方ないのに。


 そう言えば「あの子」もよく何もない場所に向かって話しかけていた。強風でスカートがめくれて、危うくパンツが見えそうになって、顔を真っ赤にしながら照れ隠しで「シルフのバカ!」なんて言っていたっけ。そんなファンタジー世界の住民が、現代日本にいるわけがないのに。


 あれ、待てよ。


 今俺がいるのは現代日本じゃなくて異世界だ。


「まさか……妖精?」


 俺は慌てて傘を背から下ろして開く。きょとんとしているヴィオラの手を引いて、彼女に傘を持たせる。俺も片方の手は傘の柄に、そしてもう片方の手を空に向かってかざした。


「〈フルシ・セカ・ラカチ〉!」


 試しに呪文を唱えてみる。


 すると、かざした手の先をぐるぐると糸を巻くように風が吹き抜け——風の渦の中から、手のひらサイズの小人が現れた。


「よ、妖精……! 本当に……?」


 小人は唖然とする俺をからかうように、歯を見せてニシシと笑う。


「おれ、よんだの、おまえ? おれ、おまえ、かり、ある。おまえ、とくべつ。ちから、かす」


 小人がそう言ったかと思うと、急に強い風が俺とヴィオラの足元から吹き出した。風は傘を押し上げ、俺たち二人を軽々と宙に浮き上がらせた。まるでパラシュートのように、風に乗ってゆっくりと地上へと降下していく。


「そっか……そうだ」


 俺の隣で、ヴィオラは何か思い出したように呟いた。


「わたしたちの生活の隣には、彼ら妖精たちが住んでいるの。わたしはシルフの力を借りて崖の上まで来たんだ。どうして忘れていたんだろう……妖精たちとは仲良くしていたはずなのに」


 ヴィオラは寂しげに宙を見上げた。小人はまた風の中に消えてしまって今は見当たらない。


「そんなに近い存在だったんだな」


「うん、特に風の妖精シルフはよくいたずらをしに来てて。だからさっき、思わずやめてって言っちゃったんだと思う」


「なるほど……」


 俺はヴィオラの話に相槌を打ちながら、傘を持っていない方の自分の手を見つめる。……まただ。また魔法が使えた。しかも、その場で思いついた適当な呪文で妖精を呼び出すなんてことができてしまった。


 しかしいくらなんでも都合が良すぎる。だって俺は別に疲れもしないし、何かを代償に捧げたわけでもない。ただ呪文を唱えるだけで思い通りのものが出てくるのだ。


 それなのにシルフは、俺に借りがあると言った。


 一体、俺がいつ何を貸した?


「……『ナ・レート』」


「へ?」


 ヴィオラが急に聞き慣れない単語を呟いた。彼女は目を輝かせて俺の顔を見る。


「思い出した、『ナ・レート』だよ。呪術とは別の、不思議な力のこと」


 魔法、魔術、超能力、呪術、錬金術……超常的な力をラベリングする言葉は様々にあるが、『ナ・レート』というのは聞いたことがない。


「それは一体どういう力なんだ」


「ごめん、詳しくは思い出せない。でも、なら知っているかも」


「おばあちゃんって、君の知り合い? 何か思い出したのか?」


 ヴィオラは縦に頷くと、宙に向かって叫んだ。


「シルフ! わたしたちを森のおばあちゃんのところに連れて行って!」


 すると返事の代わりにどこからか「にしし」という笑い声が聞こえてきた。


「うお!?」


 急に風が強くなり、傘が宙を滑空するスピードが速くなる。


「大丈夫なのかこれ!?」


 血の気が引き始めた俺の問いに対して、シルフはただ笑い声を響かせるだけだった——



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る