1-3. 断崖絶壁ふたりきり



 岩の裏には、少女がうつ伏せに倒れていた。


 長く乱れた紫色の髪の下に、自分と同じ年頃くらいに見えるまだあどけなさの残る顔が隠れている。格好はどちらかと言うと少年のような服装だ。ブラウスにハーフパンツを着て、膝の上まである長いアーガイル柄の靴下を履いている。


 パッと見る限り外傷はなさそうだ。近づいてみると微かな息遣いも聞こえる。


「生きてる……」


 ひとまず死体ではなかったことにホッと胸をなでおろす。


 だが問題はかえって複雑化した。この断崖絶壁から脱出しなければいけない人数が一人から二人に増えたのだ。自分一人でも途方に暮れていたというのに、意識を失っている彼女を背負いながら崖を降りるなんてことになったら一気に難易度が上がる。というか無理だ。昔から俺は運動音痴で、おまけに中学・高校とひたすら運動部を避けてきたから体力は全くない。


 せめて彼女の意識が回復するよう、できることは試してみるか。


「おーい。大丈夫ですかー……?」


 以前学校で教わった救命講習の内容を思い出しながら、彼女の耳元で呼びかけ肩を叩く。……反応はない。


 ええと、確かこういうのって呼吸がしやすい体勢にしてあげた方がいいんだよな。


 彼女の右肩と腰に触れる。自分の身体とは違う柔らかい感触に、俺の頭の中は急に罪悪感でいっぱいになった。違うんです、これはあくまで手当てのためであって、決してスケベ目的じゃないんです。そんな言い訳をしながら、ゆっくりと身体を仰向けに……


 ア————————ッ!!!!


 俺は猛烈に後悔した。


 今なら土下座しながら頭で穴が掘れる。それくらいに後ろめたい。


 長い時間湿った地面に触れていたせいか、彼女のブラウスの胸部は湿気を帯びて透けていて……うっすら下着が見えていたのだ。


 そうか異世界にもブラジャーという概念があるんですねとかそういうことに感心している余裕はなくて、俺は慌てて自分の着ている半袖のシャツを脱いで彼女の身体にかけた。真夏だった現代日本に比べて、ここは春先くらいの肌寒い気温だったが、今のアクシデントで体温が急上昇したせいでタンクトップ一枚になってもちっとも寒くはない。


 ええい落ち着けイサム、ブラジャーごときがなんだ、形状は水着と同じだろ? コンビニのグラビア・成人誌コーナーを何食わぬ顔で通り過ぎてATMコーナーに行く時の心構えを思い出せ。


 俺は荒ぶった息を整えながら、仰向けになった少女の顔を見やる。俺の気などつゆ知らず、眠っているかのように穏やかな表情だ。


 彼女は一体どんな人なんだろうか。わざわざ一人でこんな場所にいるなんて、何か用事でもあったのだろうか。


 ふと、彼女の傍らに革のメッセンジャーバッグ——サイズは彼女の背中の幅よりも大きいくらいだ——が落ちているのが目に入った。中身はパンパンに詰まっていて、バッグの隙間から紙が飛び出している。


 見た目以上にバッグは重かった。俺はそれを抱えながら、中身が落ちないようそっと開く。中にはぎっしりとたくさんの手紙が入っていた。彼女はこの世界における郵便屋のような立場なのだろうか? 手紙のほとんどには封蝋ふうろうがされているが、上の方にある数枚は封筒には入っておらず、手紙というよりメモ書きのような紙だった。


 俺はそのうちの一枚を手にとって何が書いてあるか見てみる。そこにはやはり俺には理解できない言語が書かれていた。他のメモも手にとってみたが、読めそうにない。だが少しだけ法則性が見えてきた。どのメモにも必ず文末に同じ短い文字列がついているのだ。これはおそらく書き手の名前か何かなのではないか。バッグの方をよく見てみると、内側に同じ文字列が刺繍ししゅうされていた。


 もしかしてこれは彼女の名前……?


 俺はハッとして、自分のポケットの中に折りたたんでしまっていた金色の紙飛行機だったものを取り出し、内側に書かれていた手紙とバッグの中に入っていたメモ書きと見比べる。


 やっぱりそうだ。


 文字は小さめに書きつつも、強い意志を感じさせるようなしっかりとした筆圧。どこか筆跡が似ている。


 まさか、彼女がこの手紙の差出人なのか?


「……う、うう……」


 小さな呻き声が聞こえて、俺はすぐに手紙をバッグの中に戻した。少女の指先がわずかに震えている。


 少しだけ肩をゆすってみると、彼女はゆっくりとまぶたを開いた。髪の色よりも少し濃い瞳端ひとみはに囲まれた虹彩は、まるでアメジストみたいにきれいで……思わず見入ってしまいそうだった。俺は誤魔化すように目をそらし、彼女の背中を支えて身体を抱き起こす。


 起き上がった後、彼女はふと首を横にかしげた。


「あ……う…………?」


 急にむず痒くなってきて、俺は頭をかく。


 自分と同じ年頃の女の子が、目の前で赤ちゃんのような声を出すというのはなんとも奇妙な気持ちになる。


「あのさ、言葉が通じるか分からないんだけど……とりあえず身体の具合はどう? 君はここに倒れていたんだ。どこか痛いところがあるとか、気分が悪いとかは」


「うぅぅぅぅううう!」


 少女は急に叫びだし、立ち上がって崖の方へと駆け出した。


「ちょ、ちょっと!? 危ないって!」


 俺は慌てて後を追う。だがその必要はなかった。どうやら彼女は足を痛めていたらしい。痛みでうまく走れず、がくんと膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。


 少女の視線は崩壊した景色に向けられていた。視線をそらさないまま、ずりずりと崖っぷちまで這っていく。そして再び景色を眺め——息を飲んだかと思うと口を押さえた。指の隙間から、抑えきれない悲痛な叫びが漏れ出す。


「うあ……うあぁぁぁぁぁ…………」


 大きな瞳から涙がぽろぽろとこぼれ、彼女の頬を伝って落ちる。なぜ泣いているのか詳しく事情は分からないが、その表情を見ていると俺まで悲しい気分になってきそうだった。


 とりあえず、崖っぷちは危ないので彼女を引っ張って下がらせる。


 彼女が徐々に落ち着いてきた頃、俺は思い切って尋ねてみた。


「……なぁ、教えてくれ。この世界で一体何があった? 君は一体誰なんだ? 君が……俺に紙飛行機を飛ばしたのか?」


「うぅ……うあうう……」


「そもそもこの世界は何なんだ。本当に異世界なのか?」


「あぅあぅ……」


「ああいいや、もっと簡単な質問に変えよう。君は一体どうやってここまで来た? 地上への降り方は分かるのか?」


「ううう……ああう……」


 思わず深いため息が漏れる。らちがあかない。これは言葉が通じる通じない以前の問題だ。俺の問いに対して彼女は何かを訴えるかのような声を出すが、それは言葉というよりも動物の鳴き声に近い。俺の言葉を理解している様子でもない。


 言葉という文化が未発達の世界なのか?


 いや、そうだとしたら彼女のカバンの中に入ってる大量の手紙に説明がつかない。


 それに、彼女が景色を見て泣いたという点も引っかかった。以前生物の授業の時に先生が言っていたが、生理的な現象以外で情動的に涙を流すのは、発達した脳を持っていなければ不可能なのだという。


 つまり——彼女は元々言葉を使える人間だが、今は何かしらの理由で話せなくなっている?


「とりあえず……言葉が話せないのは不便だよな」


 きょとんと首をかしげる少女に向き合い、俺は彼女の額の前に手をかざす。


 この世界に来て急に使えるようになった魔法の力。どんなフィクションでも、だいたい魔法には二種類ある。攻撃のために使われる魔法と……回復のために使われる魔法だ。


 ついさっきまでごく普通の高校三年生だった俺には当然回復魔法の心得なんて無いが、さっき火を起こしたり、音を大きくしたりした要領で——


「〈レドモ・バトコ〉!」


 正直、半信半疑だった。


 たとえこれで何も起きなかったとしても、彼女が言葉を理解できない今なら別に大した恥もかかないだろうと、軽い実験のつもりだった。


 だが、そんな俺の過小評価とは裏腹に、指先から眩しい白い光がほとばしり、彼女の額を照らしていたかと思うと、すっと吸い込まれるようにして彼女の身体の中に入り込んでしまった。


「ウソだろ……」


 唖然とする俺。


 何が起きたのかよくわかっていない彼女。


 彼女が小さく息を吸い、口を開く。


 俺はごくりと唾を飲む。


「わたし……」


 控えめな声だが、はっきりと言葉と分かる音が、彼女の口からこぼれ出す。


 本当に、彼女に言葉が復活した。


 いや、驚くべきはそれだけじゃない。


 彼女が話しだしたのは異世界の言語ではなく……俺のよく知る日本語だったのだ。



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