1-1. 紙飛行機に誘われて



 高校三年の夏。


 親の希望もあって国立大学を目指している俺にとっては、本来なら受験勉強に明け暮れるべき大切な時期。


 にもかかわらず、今日は一日中部屋の押し入れを漁って、ようやく「異世界に行くための方法」が書かれた自由帳を見つけだした。


 窓の外でごうごうと音を立てて吹き付ける風が、一層俺の胸の内をざわめかせる。


 この自由帳……捨てずにとってあったことにも驚いたが、自分が今さらこんなものにすがろうとしているなんて。


 呆れて、思わずため息が出る。


 学校では理系一筋・融通効かないランキング学年一位・理論武装クソメガネ——と女子から陰口を言われているのを聞いた——な俺らしからぬ行動。


 こうなったのは全部、あの紙飛行機のせいだ。


 俺は、学習机の上に置いてある金色の紙飛行機を睨みつける。


 一体どこの誰が投げたものなのかは分からない。


 それは昨日、唐突に俺の日常をかき乱した。


 一分一秒狂わず、決められた時間に起き、決められた時間に学校の補習に出て、決められた時間に塾へ赴き、決められた時間にバスに乗って、バス停に着いたら英単語の暗記カード三十七枚分めくりながら帰る、その途中で。


 十九枚目の”realize”に差し掛かった時、ふと頭に何かが刺さる感触がした。


 最初は虫か何かだろうと思って特に気にはしなかった。


 だが、俺が頭をかいた後、地面にぽとりと落ちたのは金色の紙飛行機。


 忌々しい安っぽい金色が、夕日に照らされて俺の視界に強制的に入ってきた。


 俺にそれを拾わないという選択肢はなかった。


 七年経っても忘れはしない……金色の紙飛行機は、をどこかへ連れて行ってしまった憎むべき象徴だったから。


 これが俺を嫌っている人間からのイタズラだったのなら、むしろよく考えたなと称賛したいくらいだ。


 そしてなんの気なしに紙飛行機を開いてみて……俺は混乱した。


 紙飛行機の裏側には、書き殴ったような筆跡で文章が書かれていた。


『わたしは触れてはいけないものに触れてしまった。この手紙が届いた異世界のあなたに助けを求めたい。行き先は——』


 そこから先は見たことのない文字が使われていて、読むことはできない。インターネットで調べてみたが、ヒット件数はゼロ。……どうやらこの地球上に存在する言語ではないらしい。


 まさか本当に異世界からのSOSだとでも?


 そんなバカな。どうせどこぞの誰かが適当に作った造語なんだろう。


 誰しも幼い頃はファンタジー小説に出てくる造語に憧れて、自分も作れるのではないかとトライしてみるものだ。俺だってそういう時期はあった。「未言集みことしゅう」なんて筆ペンでキャンパスノートの表紙に大きく書いて、ありそうでない造語を書き留めていくのだ。その中でも記憶に残っているのは「二日カレー」だ。三日坊主の類語のようなもので、どれだけ美味いカレーも二日続けば飽きることのたとえ。そしてその言葉通り、キャンパスノートは二ページ目以降が埋まることはなかった。かといって、でかでかと表紙にタイトルを書いてしまったせいで他の用途にも使えず、結局捨てたか押入れのどこかに封印されている。


 まぁつまり、これはきっと誰かの手の込んだいたずらだってことだ。


 まともに取り合うだけ時間の無駄。


 ……理屈では、そう思っている。


 だが、昨日の俺はどうかしていた。紙飛行機の手紙を読んだ後、家の近くの雑貨屋に寄って、気づいたら成人男性用の傘とタコひもを買っていた。好奇心が理性を上回ってしまったのだ。もうそうなったら歯止めが効かなくて、受験勉強には一切手をつけず、押入れから必要なものを掘り出す作業に没頭していた。


 アメ玉とてるてる坊主は家にあるものでどうにでもなる。リコーダーとヘルメットは小学生時代のものが使える。上ばきシューズは……まぁ、高校生にもなって白いアレを履くのもダサいし、高校で使っている体育館用の上ばきでも許容範囲だろう。


いさむー、風ひどくなってきたわよー。もし塾休むなら今のうちに連絡入れておきなさいー」


 一階から母親の声がする。


 今夜は久々の大型台風が上陸。暴風警報発令待ったなし。


「……そうか、台風か」


 思わず、独り言が口をついて出る。


 あの子が消えたのも、確かこんな台風の日だった。


 台風の日に出かけるなんて危ないから止めたのに、「早く実験したいから」って一人で傘を持って外に飛び出していったんだ。ビビりだった当時の俺は、そんな彼女の背中を追いかけることはできなかった。考案者のくせに、あの傘で本当に異世界に行けるだなんてこれっぽっちも信じてはいなかったのだ。


 だから、彼女が失踪したと聞いた時、後悔よりも先に怒りが湧いてきた。


 どうせどこかに隠れていて、大人たちが心配になって探すのを待っているんだろ、って。一緒に行かなかった俺のことをからかっているんだろ、って。


 それまで大好きだった外国のファンタジー小説や幻獣図鑑、冒険RPGを部屋から一掃するくらいにはムカついていた。


 俺は信じない。


 異世界なんて信じない。


 そんなものに彼女が連れて行かれたなんて、信じてたまるものか。


 ……だけど彼女は、いつまで経っても帰ってはこなかった。


 遺体は見つかっていないからまだ「死亡」じゃない。それでも、彼女の家族はここ最近やけにそわそわしている。不思議に思って調べてみたところ、どうも法律には失踪して七年以上経つ人を実質死亡とみなすことができると定められているらしい。家族が申請さえすれば、彼女は役所の書類上もこの世界から消えてしまうのだ。


「……なぁ、本当にそれでいいのかよ」


 また、呟きが漏れる。


 彼女に対して問うても答えが返ってこないのは知っている。


 そう、これは俺自身に対する問いだ。


 俺は一階に降りて玄関に向かう。


「勇? あんたそんな変な傘持ってどこ行くのよ」


 台所から出てきた母親が怪訝な表情で言った。


「ちょっと川の様子を見てくる」


「はぁ……?」


 引き止められるより先に、俺は玄関の戸をぴしゃりと閉めた。


 傘の先端に取り付けられた金色の紙飛行機が風に吹かれて不安定に揺れる。


 さぁ、七年ぶりの実験だ。


 家の裏にある小さな山の展望台のところまで登り、俺は傘を開いてリコーダーを手に取った。小学生の頃に比べて随分小さく感じる。今なら低いドも余裕だろう。


 ちなみに「空とぶじゅもん」なんて、大層なものじゃない、通りすがりの路上パフォーマーに教えてもらった、不可解なメロディーを適当に鳴らすだけ。


 音は激しい風の音の中に消えていった。


 心なしか風が強まっている気がする。


 いいや、そこに科学的な因果関係はないはずだ。


 さっさとこの実験が失敗して、「異世界に行くための方法」が小学生の幻想に過ぎなかったことが証明されることを願う。


 俺は、傘の柄を握り、力強くその場を蹴って跳躍した——



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