始動編または逆襲編
第8話かもしれないし、最終話かもしれない
今日学んだこと。美術教師の名前は夕凪ではない。夕凪隼人という異世界で冒険しているらしい主人公兼その作者の名前は、ペンネームであるらしい。
今日忘れたこと。美術教師の名前。夕凪なんとかさんではないことは覚えているのだが、どうも聞いたはずなのに思い出せない。どうやら私の記憶力はすでに衰え始めてしまっているらしい。二十歳になる頃には老人ホームぐらしだろうか。
もちろん意味もなく美術教師の名前を忘れたわけではない。いや、意味がないからこそ人の名前というものは覚えづらく忘れやすいものなのかもしれないが、これにはちゃんとした理由がある。美術教師の名前を知ったあと、私は放課後に美術教師の家、つまり夕凪隼人も住んでいる家に行くことになったのだ。そこまでの道筋を覚えるのに精一杯で、美術教師の名前が頭の中からこぼれ落ちてしまった。
夕凪隼人がフリュレさんの探している夕凪隼人であることを確認したら、彼女を連れてきて会わせるべきだろう。そのためにはどこかへ言ってしまったフリュレさんと再び会わなければならない。会えるだろうか。そんな心配をしつつ、教師に叱られながら残りの授業を受けつつ可夏子さんと雑談したりしていて放課後になったら、美術教師の名前を忘れてしまっていた。だから私の記憶があやふやになってしまっているのは仕方がないことなのである。仕方のないことなのである。
「仕方ないかなあ?」
そんな弁解に対して、可夏子さんは疑問を呈した。
「私はね、私を正当化したくてたまらないんだ」
隠す必要はない。私は本音を暴露した。暴露と言うほどのことでもないかもしれないが。
「そりゃ間違いを認めたくないのは人間の性なんだからしょうがないけどさ、名字すら忘れるってことある?」
「ここにその一つの例があるから、あるんじゃないかな」
私は自分を指さした。そんなのことってあるのか。ここにあるのである。
「夕凪は覚えてるんだ」
「変な名前だったから」
「昨日の変な人の名前も覚えてるんだ」
「フリュレさんね。名前がカタカナの人と知り合うのは初めてだったから」
「私の名字、覚えてる?」
とても基本的なことを訊かれてしまった。可夏子さんは私の記憶力に疑念を抱いているらしい。
「春秋。あなたの名前は春秋可夏子、覚えてる。そういえば昼間に連れて行かれた図書館も春秋私立図書館ってところだった」
それなのにどうして美術教師の名前が思い出せないのだろう。あんんあに首から上の毛の量が多い人、他に知らないのに。
「変な図書館だったでしょ」
「自費出版の本ばっかり集めてる、有料の図書館だったね、たしか」
「うちの母親の趣味なんだよね。利益が出てるらしいからいいんだけどさ、正直あまり広まってほしくない」
「可夏子さんも変な人を選んじゃう趣味があるのに?」
「そこは遺伝だな、って自覚してる。それを仕事にまでする母親には引いてるけどさ」
母親だって変な人なんだったら、この変人好きは母親に惹かれてもいいのに。そこは肉親だから観測で済ませられる隣人とは違う感情が浮かぶのか。
「肉親、って言葉も好きじゃないんだ。肉の親。字面が肉塊っぽくってさ、私は動く肉塊に育てられたのかなあ、って思いながら寝たらべとべとの肉塊に抱きしめられる夢を見たんだ。それ以来、肉親って言葉は私にとってちょっとホラー」
動く肉塊に皮膚をまとわせたのが人間という生物である。全体の七割が水とか言われても、革を剥げばそこに現れるのは肉塊である。
「なんか気持ち悪くなってきた」
可夏子さんは自分から肉親と肉塊の類似点を上げておきながら、自分で顔色を薄くしていた。
「気持ち悪いなー。トイレに行く必要があるかもしれない」
自分の妄想で吐きそうになるとは、可夏子さんの想像力は私の数倍はありそうだ。
「……そろそろ心配してくれない?」
「あ、私の反応を待ってたんだ」
「もういいけどさ。ちょっと冷たいところ、あるんだね」
「自爆なのに」
「そうだけどさ」
そんな言葉で放課後の雑談は打ち切られ、私と可夏子さんは違うペースで廊下を歩いて学校を出た。可夏子さんのほうが歩幅が大きく、そして廊下を早く歩く。私だって意識してゆっくり歩いているわけではないのだが、足の長さという肉体的ハンディキャップは埋めることができない。
覚えた道筋をじっくりとなぞりながら、夕凪隼人と美術教師の家へ向かう。右と左の記号的な言葉だけじゃなく、いくつかの目印もしっかり頭に叩き込んである。だから夕凪隼人と美術教師の家がある辺りまでは、問題なく到着することができた。
それから私は途方に暮れた。どの表札が貼られているのが美術教師の家なのか、名前を忘れてしまっている私には分からなかったのである。
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