結(完)

「――ますか、聞こえ――! しっかり――くださ――すぐに――来ますから!」


 俺に向かって、必死に呼びかける声が聴こえていた。





 目が覚めると、白い天井と白い壁の部屋にいた。


 ベッドに横たわっているようだ、となんとなく理解して、寝返りを打とうとすると、左腕が強く痛んだ。


「いぢぢぢ」


 言語未満の音を発して、いったん動くのを諦める。


「あー、あー」


 声は普通に出せた。点滴が刺さっているが、右腕は動くようだ。脚は……左脚が固定されているようだった。頭に違和感もあって、何かかぶって、いや、状況からすると巻かれている?


 これは、ひょっとして大怪我なのでは?


「ええー……」


 いつどこで怪我をしたのか、一切記憶にない。いっそこれもやり直せたら良かったのに。


 ……ん? やり直す?


 漫画やアニメじゃあるまいし、人生は一度きりに決まっている。なんでそんな発想が出たんだろう。


 不思議に思っていると「それは置いといて」と言わんばかりに、がーっと、スライド式のドアが開いて。


「あ、起きられました?」


 入ってきた長身の女性が、笑顔を向けてくれる。看護師の白衣を着ていることから、やはり、とだいたい状況が飲み込めた。


「あ、はい。えっと……俺、怪我したんですかね」


「そうですね。ちゃんと会話もできるみたいで安心しました。ドクターに伝えてくるので、安静にしててください」




 車に撥ねられた、とのことだった。


 信号待ちの交差点、歩道に居眠り運転の車が突っ込んだとのことで。とっさに避けた数人が軽傷。撥ねられたことにすら気付いていなかったノロマが一人、重傷を負ってここにいる。


 たまたま近くにいたこの病院の看護師が、適切な応急処置をしたおかげで、大事に至らずに済んだらしい。意識が戻らないようだったら危険な状態だった、とも。


「優秀なスタッフだろう。自慢なんだ」


 そう言って、医師は豪快に笑った。


 決して短くない入院期間となり、職場に連絡を入れたところ、珍しい無断欠勤だったので随分と心配されていた。


 課長からは「しっかり治して、しっかり休んで、万全の状態で復帰してくるように」と檄を飛ばされた。少なからず迷惑がかかってしまうだろう。申し訳ない。


 両親に連絡を入れると、わちゃわちゃーっと電話口であれこれ言われ、何を言われたのかよくわかっていないうちに、翌日には二人で駆けつけてくれた。


 今年もようさん採れた、と田舎の柿を持ってきてくれて、久々に母親に剥いてもらった果物を食べた。何年経っても、変わらず優しい甘さだった。





「順調ですね」


 点滴を交換しながら、長身の看護師さんが言う。


「あ、はい。おかげさまで」


 一連の動きはてきぱきとしていて、他の看護師さんと比べても優れているように感じる。贔屓目だろうか。


「あの……」


「はい?」


 声をかけると、微笑んで返事をしてくれた。


「ドクターから聞きました。事故の時に現場にいて、応急処置をしてくれたって。本当にありがとうございます」


「ああ、その事ですか。改まってやめてください、恥ずかしいです」


 整った笑顔が少し緩む。きびきびとしたイメージから、少し親しみやすさを感じられる印象に変わった。


「もう、ドクターもいちいち言わなくていいのに。それは、その、あれです。あの時のお礼みたいなもんです」


「お礼?」


 あ、と小さく漏れるような声がして、柔らかかった笑顔が突き刺す視線に変わる。えっ、何怖い。


「やっぱり覚えてないんですね……」


「えっ、えっ? どこかでお会いしてましたっけ」


 ため息をつくと、看護師の女性は二つの駅の名前を口にした。


 一秒ほどの間があって、記憶がつながる。


「え、もしかして、あの日の朝の!?」


「はい、その節はどうも」


 はー……と口が半開きになってしまう。髪をまとめてキャップに入れているからか、ぜんぜん気付けなかった。そもそも一瞬しか顔見てないし。


「あの時は急いでいたので、ちゃんとお礼も言えずにすみません。失礼しました」


「あーいや、いえいえいえ。え、じゃあ急いでいたのにあの後、戻ってきて助けてくれたんですか」


「ええ、まあ。あの状況なら当然じゃないですかね」


 いや、当然では、ないと思う。


(……あ)


 つながった記憶が、もうひとつ呼び起こす。


「――あの時、必死に呼びかけてくれてましたよね?」


 女性の顔がわずかに赤くなる。


「な、なんでそういうことは覚えてるんですか」


「覚えているというか、思い出したというか……」


「もう、ほんとやめてください。素になると恥ずかしいんですから」


 手で顔を扇ぐようにしながら、彼女が真っ直ぐ立つ。いつの間にか処置は終わっていた。


「あの、やっぱり釣り合わないですよ。ちゃんとお礼させてください」


「いいですよそんなの。仕事の一環みたいなものなので」


「そんな、何かさせてください。どこかで食事とか……」


 もう話を聞いていないかのように、背を向けた彼女が、


「ダメです」


 きっぱりと言い放つ。


「患者さんからのそういうお誘いは、お断りするようになっているんです」


 顔だけをこちらに向きなおして、人差し指を立てて、


「だから、早く治してくださいね」


 言い残して、病室を出て行った。




 俺はベッドに身体を預けなおして、早く治れと強く念じる。


 治ったら、きっと俺の分まで、誰よりも働いている課長にお礼を言いに行こう。


 持って行く菓子折りは、土田の実家のやつにしようか。


 心配をかけた両親にも会いに、一度田舎に帰ろう。

 長らく見ていない田舎の空は、ここから見える空より、萎びた俺の記憶より、ずっとずっと綺麗なはずだ。


 それから。


 毎日の通勤で、彼女に会えるのを楽しみにすることぐらいは、きっと許される。


 それから先がどうなるか、わかるはずもないが。

 ほんの少しのきっかけで、日常が一変することもある。


 俺はひとまず、更新されていた先輩のフェイスブックの写真に、いいねと、コメントもつけて。


 やり残したことがあっても、やり直せない人生で。思いつくことはできるだけやってみよう。


 いつか最期の瞬間を迎えても、笑顔でいられるように。

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天国地獄に行く前に 風谷閣下 @miriora

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