書評7.元気があればなんでもできる
「(精力的な時代と沈鬱な時代の違いは)、戸外の活動的な生活の代わりに、座りがちな都会生活を選んだためというような、きわめて簡単で生理学的な原因であったかもしれない。もしかすると、ストア学派の哲学者たちは肝臓の働きが不活発であったかもしれない。もしかすると、『伝道の書』の作者は、十分な運動をしなかったために、いっさいはむなしい、と思ったのかもしれない。」(『ラッセル結婚論』)
先日の日曜日、私はバスに乗り遅れました。
しかも、ちょうど私の目の前で、バスが出発してしまったのです。
とても悔しい気持ちでバスを見送ると、停留所のすぐ先にある信号で、バスは止まっていました。
私は、10kgの赤ん坊を前に抱え、ノートPCやお尻拭きやお茶など詰め込んだ5kgほどのリュックを後ろに背負って、走りました。
そのタイミングでバスが赤信号で止まると、その先の角を曲がった先の信号でも、だいたい止まることを知っていたからです。
バスが2つの赤信号で止まっている間に、先回りをして次の停留所にたどりつけるかもしれないと思いました。
案の定、バスは次の信号でも止まり、私は停留所1つ分を走って先回りしました。
やっとこさ乗り込んだバスの中で、私は何となく「明日からもまた仕事がんばろ」と高揚していました。
間に合ったことの喜びもあるのですが、同時に、単純に走ったことによって気分が上がったのだと思います。
ただ、その後しばらくすると暑くて動悸がして、ちょっと気持ち悪くなりました。
まぁ慣れてるんでイライラはしなかったですけど、いいことばかりじゃないなというのは思いました。
バートランド・ラッセルは100年ほど前の著作で、キリスト教の世界観がやたらと厭世的で禁欲的なのは、これまで誰も考察しなかったような理由があるからではないか、と上記のように書きました。
まぁ、実際にそういう理由によるものなのかは誰にもわからない(本気でそういう研究をすればわかるかもしれません)のですが、人生なんて意外とそれぐらい単純なものかもしれない、と冗談めかして言っているわけです。
健康的な生活をしていれば気分も晴れるし、健康が優れない生活をしていれば気分も沈んで、厭世的な哲学の一つも書き留めたい気分になるものだ、と。
雑誌の悩み相談コーナーで北方謙三が「ソープに行け!」を連発していた、というのは有名な話ですが、「ソープへ行け!」と「筋トレしろ!」で、だいたいのお悩みは一掃できるのではないかと、私も思います。
シャレにならない系の深刻な悩みは、知りません。
書評7.『蝉の声 ~元親友の人気者と日陰者~』 作者 @karakuriimu
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886048520
「一緒に走ったら笑い合えた」、という話。
それ以上でもそれ以下でもない。
そこがいい。
と、言えればよかったのだが、ちょっとだけプラスアルファの要素が付く。
つまり、二人の登場人物のうち、片方は運動が得意で、片方は運動が不得意だ。
それで、不得意のほうが劣等感を感じて、相手から距離を置いてしまったというのである。
性格については、得意な方は「明るい」で、不得意な方は「真面目」らしい。
そんな中で、不得意な方が相手に劣等感を感じて、いつしか避けるようになっていた。
そういう二人が、一緒に走ったら、なんだかスッキリと笑い合えた。
そういう話。
でもたぶん、もともとの劣等感がモヤモヤしている限り、また学校が始まったら、この二人は気まずくなるのだろう。
ただ、まぁ、あるよね、そういうことは。
この小説、小学校高学年の話だと思って読んでいたが、紹介文を読むと高校生だとのこと。
小学校の頃に仲良かったけど、高校になったらほとんどしゃべらない、みたいな友だちは、いるよね。
興味関心が変わってくると、話題も合わないしね。
それと、この小説はスクールカースト的なことを主題の一つにしている。
スクールカーストはもはや学校を語るうえでの前提常識のようになっている。
私もかつては学校に通っていたので、それはなんとなく実感としてはわかる。
わかるが、あまり気にしていなかった気がする。
私は視野が狭く、まず何よりも自分のことが大好きな高校生だったので、周囲の人間もたぶん私のことを気に入っていると思っていたし、もしも嫌われているなら相手がアホなのだと思っていた。
今思えば、本気で私のことを嫌っていた友人もいたような気がするけれど、その前にはその友人と仲良かったし、根本的にお互いに気が合うと思っていたので、別に一時的なものだろうと思っていた。
実際、その友人は結婚する時には私をパーティに呼んでくれた。
何が言いたいのかといえば、私は運動部だったということだ。
運動しまくっていたので、スクールカースト的なことをいちいち気にしないで済んだのかもしれない。
誰かに嫌われようと、そのうちまた仲良くなれると笑い飛ばせたのかもしれない。
こういうことを言うと、「運動部はスクールカースト的に上位に位置するから、スクールカーストを意識せずに済んだのだ」と反論されるかもしれない。
私の友人で、演劇部に所属しながら声楽を趣味とし、夏になると地元の遠泳のアシスタントをやっている奴がいた。
アシスタントというのは、ボートに乗ったりしつつ、実際にはほとんど同じ距離を泳いでいるらしい。
この友人は運動部でもなく、スクールカースト的に別に上位にいたようにも思えないけれど、そういうことをいちいち気にしてなかった。
何が言いたいのかというともちろん、この友人もとにかく体を使いまくっていたということだ。
体をよく動かすことで、誰かが自分より運動が得意だとか、自分より人気があるんじゃないかとか、そういうことを気にせずに済むかもしれない。
実際のところは、私は知らない。
知りたい人は、筋肉量と鬱の相関とか、一定の運動をした後の心理テストとか、たぶんそういう研究があるから適当に調べてほしい。
ただ、実感を、詩的な意味で表現するなら、この小説は正しいと思う。
同感だ、と思う。
書評7.『蝉の声 ~元親友の人気者と日陰者~』 作者 @karakuriimu
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