第9話 目には見えない存在

 カッちゃんと初めて遠出をしたのは、二年前の夏、山梨県のやまというところだった。

 標高一三五〇メートルの高原で、カッちゃんの運転してきた車から降りると、秋のように涼しく、トンボがたくさん飛んでいた。

 野辺山には、国立天文台の電波観測所があり、巨大なレーダーのような白い電波望遠鏡が、八ヶ岳をバックにそびえ立っている。

 私がその写真を撮ろうとスマホを構えたとき、後ろでシャッター音がした。当時はまだ敬語でしゃべっていた私が、振り返って、

「何を撮ったんですか?」

 と聞くと、カッちゃんは、

「瑠奈。または電波望遠鏡を珍しがる文系の女子大生」

 と言って笑った。


 芝生に覆われた広大な敷地には、巨大な電波望遠鏡の他にも、へリオグラフと呼ばれる、人間の大人くらいの大きさの望遠鏡が、イースター島のモアイ像のようにいくつも並んでいる。それらをすべて合わせて、一つの巨大な望遠鏡と同じ役割を果たすのだという。


 敷地内を見学しながら、カッちゃんは「電磁波」というものについて講義してくれた。

「宇宙空間に存在するあらゆるものは、電磁波を発している。その中のごく限られた波長領域のものが、こうせん、つまり、光と呼ばれる。人間の目に見える電磁波だ」

 可視光線よりも少し波長の長い電磁波が赤外線、それよりも波長の長い電磁波を電波と呼ぶらしい。

「昔の天文学は、可視光線で捉えられるものだけを扱っていたから、見えるものが限られていた。この半世紀ほどの間に電波天文学が発達して、見えなかったものが見えるようになったんだ」

「電波で見ると、宇宙はどう見えるんですか?」

 とたった一人の生徒が質問する。

「たとえば、可視光線で捉えようとすると、何もないように見えるところに、ガスや塵が充満していたりする。それは、星が死んだ後の姿だ。星が誕生しやすい場所でもあるんだが」

「目には見えない、死んだ後の姿って、ゴーストみたい」

 と私が言うと、

「非科学的なものと一緒にするな」

 と若き天文学者が叱った。


   *


 それから、二人でたくさんの場所に出かけ、たくさんの写真を撮った。

 私のノートパソコンには、二人が撮った写真を収めたフォトアルバムのフォルダがある。

 ファイル名が「K」から始まっているのが、カッちゃんの撮った写真。「L」から始まっているのが、私の撮った写真だ。それに続く数字が日付になっているから、いつ撮った写真かは、ファイル名を見ただけでわかる。


 L−20160813


 野辺山に出かけた数日後の日付をファイル名に持つ写真が一枚だけある。一見何でもない、街灯に照らされた公園のベンチを写した写真だ。

 その夜、そこで初めてカッちゃんとキスをした。私のファーストキスでもある。

 とても長く、丁寧なキスだった。

 一度体を離してから、カッちゃんがもう一度私を抱きしめた。キスをしながら、服の中に手を入れようとしたので、

「ここではダメです」

 と私が叱ると、

「ごめん」

 と彼は素直に謝って、私を抱きしめたまま、髪をなでてくれた。

 そのとき、ふと公園の時計を見ると、針が十一時ちょうどを指していたのを覚えている。時間も場所も忘れたくないから、写真を撮った。


 十九歳の誕生日に、カッちゃんは初心者向けのデジカメをプレゼントしてくれた。

 それを二人で買いに行ったときのことは、とてもよく覚えている。

 カッちゃんと初めて寝た翌日で、家電ショップのカメラ売り場を歩きながら、私は生まれて初めて「誰かの女である」という感覚を味わっていた。それは、意外なほど誇らしく、幸せな気持ちだった。

 と同時に、

「カッちゃんは私のものだ」

 と思った。


 愛し愛される関係が、永遠に続くような気がしていた。


   *


 二人で、落ち葉を踏みながら歩いた秋の渓谷、温泉宿から見た雪山、イルミネーションの街、桜と菜の花の山里、紫陽花の寺、煌めく海、二人で登った八ヶ岳……。


 フォトアルバムには、風景だけを撮った写真もあれば、私かカッちゃんが写っている写真も、二人ともが写っている写真もある。

 時々、アルバムを整理して、お気に入りの写真をマイクロSDカードに移す。

 その作業をしながら、私は「将来、結婚式を挙げるとき、写真を選ぶのが大変だろうな」と思ったり、「子どもができたら、二人の若い頃の写真を見せるのだろうな」と思ったりしていた。

 おじいちゃんとおばあちゃんになったとき、写真を見返すのは楽しいだろうな、とも。

 それは、何十年先までも続く、幸せの記録になる……はずだった。


 K−20170527


 アルバムの写真は、去年五月の日付をファイル名に持つ一枚で、突然終わっている。

 それは、カッちゃんがチリのアタカマ砂漠に向かう途中、サンティアゴから送ってくれた写真で、白い歯を見せて微笑む彼の後ろに、アンデス山脈が見えている。

 その写真が添付されていたメールが、彼からもらった最後のメールだ。


 私は、思い出し始めていた。

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