モルグマン
安良巻祐介
今晩もまた、月が綺麗だ。
仕事場である死体置き場へ、ゆっくりと、村を横切って、己にしては珍しく、厳かに向かう。
重たい扉を開けると、冷房もないのにひんやりとした空気が流れ出てくる。夏に過ごすにはいい場所だ。実際は夏には臭くなるけれど。
いい具合に月の光が外から差し込んで、モルグの中は昔のフィルムの中のようになっていた。
己は白い台が幾つも並んでいる部屋の真中へと歩いて行き、ふところからタバコを一本取り出した。銘柄はホワイトマスク。いかにもそれらしいだろう。
一服していると、部屋の隅で何かが立ち上がる気配がした。
さっそく、おいでなすった。
小さな光を引くタバコを口端に加えたまま、己は腰のホルスターに差していた短めのカナテコを引き抜くと、ひらりと台を跳びこえて、そちらへ向かった。
青い光の届かない暗がりの隅に、目をぎょろつかせて立っているのは、三日前に死んだ義眼屋の
店を畳んだら自分の作った偽の目玉を色々嵌め変えながらのんびり余生を過ごしたいと言っていたのに、その暇もなく、病気でおっ死んでしまった。
己は右眼に仕込んだ判魂機を起動させながら、カナテコを握った鉄籠手に力を込めた。この便利な眼も、他ならぬ目の前の親爺がこさえてくれたものだ。
”Ignis Fatuus”
Level:002
赤い電気文字が視界の端に現れて消える。『泣き火』。それもまた随分と小さいやつだ。
あんなに子供がいないのを淋しがっていた親爺が、死んだ途端に、子供に憑かれるとは。
己はむなしい因果を感じながら、脳内に構築した仮想デックから「迷仔殺しのテーマ」の盤を引き抜くと、詠唱テーブルのベースに乗せて、口ずさみ始めた。
両手を突きだしてこちらを抱き締めようと向かって来ていた親爺は、発生した祈祷曲の音波に顔を歪めると、立ち止まって胸を押さえた。
ごぼごぼ、ごぼ、と声にならない声が漏れる。
そこへ、一撃。
インプラント義手の圧力で握りしめたカナテコの熱を帯びた尖端が、親爺の手の甲に突き刺さり、その向こうの左胸にまで貫通して、打ち抜く。
普通よりも激しく砕け裂けた肉の間から、ひちひちと粘り気のある血が飛び散り、さらにその奥から、ぼんやりと青白い燐光を帯びた塊が転げ出てきて、モルグの床に、ゴトリ、と落ちた。
心臓だ。
かつては工房で、真夏日も真っ赤な熱気を帯びた鉄窩台の上の硝子玉を押さえ、削り取って磨いていくための微細な力を、一呼吸一呼吸のための血液を、親爺の痩せた全身に送り出していたそれは、今や虚空に行きどころを失った哀れな魂の仮宿となり、温度のない、呪われた液体を、祝福されぬ老いた死体の指先まで行きわたらせようとしていた。
そして、それを、己が、この目玉で探り当てて、抉り出したのだ。
「あばよ。おやすみ」
一言、どこの餓鬼とも知れぬその青白い哀しい焔に告げると、己は鉄鋲を打ち込んだブーツで、心臓を一足に踏み潰した。
焔の触れていたところから複雑な硝子質になっていたそれは、靴の下で世にも美しい音を立てて、粉々に砕けた。
それと同時に、カナテコの傷が抉れ裂けて奇妙なサボテンのような格好になっていた親爺の骸も、そこで久しぶりに普通の重力に気がついたように、がくんとひしゃげてくずおれていった。
ズボンの擦過浄化帯にこすりつけて拭ったカナテコを、ホルスターに再びぶち込んで、頭の中のデックに盤を戻し、スイッチを切ると、モルグの中に再び静寂が戻った。
己は、一つきりの窓を見上げながら、端まで燃え尽くしたタバコを、残り火ごと噛み潰して、黒い唾にして吐いた。
――おっさん。あんた、無信心だったせいで、やっぱり面倒なことになっちまったな。
――人の領分を超えて、目の玉を代えたり付け足したりするような真似してる奴は、どうせ天国も願い下げだろうよ、とか、そんなふうに言ってたが、本当は、おかみさんを自分から奪って行った神様が気に食わなかったんだろう。
――だから、死ぬ時にも御祈りを拒んで、俺のところへ、後始末を頼んだのだろう。
己は、仕事を終えて沈黙した鉄籠手をもう片方の手で押さえながら、左眼を閉じ、右の偽眼だけで、窓の向こうの、十字に区切られた、青い月の姿を眺めた。
今日の月は、やっぱり綺麗で、そして少し、哀しい色をしているように見えた。
モルグマン 安良巻祐介 @aramaki88
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