妖精駆除要請

OPQ

本編

 近年,害虫・害獣駆除の需要は伸び続けている。私の働いているこの会社も,数年前から大きく売り上げがジャンプアップした。野生化した人造生物のもたらす被害は,年々増加傾向にある。医療用の人造細胞を転用して,見世物,或いは研究材料にするために作られた自然界には存在しなかった生き物たち。それが人造生物。これまで空想上,創作作品上の生き物だったユニコーンやペガサス,人魚や怪獣を実際に作りだして,動物園や水族館に展示するようになったのが十年近く前。それらが人気を博すにつれて,個人の需要も伸びていき,今ではペットショップの看板はほとんど人造生物が占めている。だが,そういった人造生物を外に逃がしたり,逃げられたりして野生化する事例が年々増えていった。野に放たれた人造生物たちは人間に様々な被害を及ぼしている。作物を荒らし,人を襲い,建物を壊す。

 私の会社も,昔は主に蜂やシロアリなんかを相手にしていたらしいが,ちょうど私が入社するくらいから,人造生物の駆除依頼件数がそれらを上回った。個人は勿論,市や町からの依頼も多い。そんな中,私が配属されたのは妖精駆除チームだ。ペットとしての需要は人造生物の中でも一,二を争う人気商品だ。そして駆除依頼の件数も比例して多い。妖精は他の人造生物たちと比べても,取り立てて厄介な連中だ。理由は色々あるが,まずは知能が高い点。人間とほぼ変わらぬ知性を有しているため,簡単な罠には引っかからない。次に空を飛べる点。行動範囲が広く,すばしっこいため,初動でミスると挽回が困難になる。第三に,繁殖する点。第一世代妖精は生殖能力を持っていなかったのだが,「子供を作れないのは可哀想」「人と同じ精神を持っているのに愛を知れないなんて残酷だ」「子孫を生めない生物を作りだし使い捨てるのは人類による自然への冒涜がうんたらかんたら」等のクレームにより,第二世代から生殖能力が搭載された。雌同士で交尾し,卵を産む。そのせいで,野生化した妖精たちは子孫を作り,数を増やしたのだ。第三世代からは,行動を抑制するナノマシンを全身に投与して野に帰らせないようになった。今現在害虫として駆除対象になっているのは,ほとんどが第二世代の子孫たちだ。


 今日も,私は妖精を何匹も捕まえた。ものを盗んだり悪戯したりで,近隣では大分嫌われていたようだ。ガスケースの中で,怯えた目をして縮こまっている。

「助けてください,お願い~」「あたしぃ,野良じゃありませぇ~ん,飼い主さんがいるんですぅ~」

 とそれぞれがわめいていた。無論取り合う必要などない。私は無言でスイッチに手を伸ばした。これを押せばガスがケース内に充満し,こいつらは死ぬ。

「あの~,羽鳥先輩? いいんですか? 飼い主いるって言ってますけど」

「あー,こいつらの言ってること基本全部嘘だから。真に受けないで」

 私はスイッチを押した。透明なケース内が白い煙で包まれていく。断末魔の叫びがこだまするが,次第に小さくなっていき,やがて沈黙する。ちなみにこのガスは簡易人造細胞のみに有効なので,人間は勿論,医療用の人造細胞にも影響はない。よって万が一漏れることがあっても,何も問題は無い。気楽なものだ。

 後輩の鳥飼くんは,悲痛な表情を浮かべながら,ケースから顔を背けていた。彼は最近妖精チームに配属差されたばかりの新人。チームと言っても,私と彼の二人だけだ。妖精駆除は常に人材不足に喘いでいる。うちの会社のみならず,業界全体がそうだ。妖精たちは身長15センチ前後だが,容姿は人間に酷似している上,喋る。そういう生き物を騙し,捕らえ,殺していると,精神を病んでしまう人が多いのだ。まともな人は長続きせず,必然的に,ヤバい連中の吹き溜まりと化していく。他の会社では,捕らえた妖精を固めて人形にしてこっそり売りさばいたり,ナノマシンを投与したりして第四世代仕様に再改造してペットショップに横流しするようなことが少なくないらしい。そういうイマイチ倫理観に欠ける人が妖精駆除の仕事では多い。

 だが,私はそういうことはしない。捕らえた妖精はその場で即,処分する。長く生かしておくと逃げられる可能性,不本意ながら情を移してしまう可能性が高くなるためだ。同業者たちのように,こっそり横流しして売れば,きっと儲かるのだろうが,私にはそんなノウハウも度胸もなかった。

「実は本当だったりするケースってないんですか? たまたまタイミング悪く逃げ出してたり……」

 ケース内の煙が晴れた。折り重なって死んでいる妖精たちを気の毒そうに眺めながら,鳥飼くんが言った。

「飼い主いたら電子首輪がついてるはずでしょ。それに,ナノマシンも探知されなかったし」

 ケースに入れる際,体内にナノマシンがあれば探知できる仕様になっている。その場合は野良である可能性がグッと低くなるためだ。最も,第三世代以降の妖精が逃げ出した事例はほとんどゼロだが。それに加えて,電子首輪の装着が事実上義務づけられたので,飼い主のいる妖精が自由にしている可能性は限りなくゼロである。よって,妖精どもの命乞いは,間違いなく嘘なのだ。ちなみに電子首輪というのは,物理的なリードのない首輪のことで,体内のナノマシンと連動し,飼い主より規定以上離れないように体をコントロールする。妖精の場合は半径十メートルだ。

 最後に生命反応を確認した。死んでいる。うし。会社に戻ったら業者に引き渡す。人造生物を処分する専用の施設があるのだ。そこで骨も残さず溶かされることになる。妖精に限らず,人造生物の最後は全て同じ。可哀想だが,仕方がない。

「はい終わり。鳥飼くん,車回して」

「あ,はい……」


 あくる日も,私達は妖精駆除に出かけた。相変わらず私と鳥飼くんの二人。野犬の駆除をやっていたという中途採用の人も,二週間で根を上げ,他の部署に移っていった。犬や猫は数え切れないくらいあの世に送ってきた男のはずなのに,妖精が相手だとそういうわけにもいかないらしい。

「犬飼さんは娘さんがいますからね」

「娘がいたら妖精殺せなくなるの?」

「そりゃあそうでしょうよ……。独身の先輩にはわからないかもしれませんけど」

「は?」

「すみません」

 私達は車の中でモニターを見ながら雑談していた。ダミー妖精の撮影している映像が映っている。妖精を捕まえる方法は基本的にこれだけだ。妖精そっくりに作られたロボット人形。妖精と同じように動き,飛行する。首輪がないので,外から見れば,野生の妖精に見える。正しくペットをしている妖精たちは,基本的に野妖精とは関わらない。間違って一緒に捕まっても面倒だし,仲良くなっても悲しい結末が待っているとわかっているからだ。つまり,このダミーにコンタクトをとってくるのは……。

「ねえ! あなた一人?」

 かかった。緑色の髪と,透き通るような黄緑がかった羽根を持った,野妖精だ。汚れた人形の服を着ている。どこかのゴミ捨て場から盗ったのだろう。背中側の羽根の箇所に穴を空けている。

「ここは人間がいるから危ないわ。私の家に来なさいよ。お友達もいっぱいいるわ」


 首尾良く一網打尽にした私は,妖精たちの巣に近づいた。うち捨てられた鳥の巣箱の中に,人形用の服や食べ残しが散乱している。奥には布にくるまった卵が二つ。妖精の卵だ。

「お願い! 卵は! 卵だけは! 見逃してください! 私達はどうなっても構いません! お願い!」

 ケースの中で家族だったとみられる妖精四匹が涙を流しながら大声でわめき続けていた。妖精は雌同士でつがいになる。こいつらはおそらく二組の夫婦だったのだろう。

 私は鳥飼にスイッチを入れるよう指示したが,彼はぶるぶる震えて,手にはかけたが,押そうとはしなかった。私は巣箱ごと卵を回収して,ケースに近づいた。妖精たちの懇願がますますデカくなり,必死さが増していく。キンキンうるさい。妖精は声が高い奴ばっかなので,こうなるとマジで頭にくる。私はさっさとスイッチを押した。

「うーわ」

 鳥飼くんは非難めいた声を上げた。何その顔。仕事なんだからしょうがないでしょ。

「卵潰す前に死なせてあげたんだから,むしろ親切な方よ」

 夫婦二組が死んだのを確認してから,巣内部と卵の資料映像を撮った。それから巣穴をひっくり返して卵を取りだし,金属のケースに落とした。最後に鉄板で押し潰す。これで全滅だ。


「俺もう限界なんですけど,先輩よく一年も続いてますね」

 社内の自販機前でコーヒーを飲んでいたら,鳥飼くんが隣に立って話しかけてきた。

「そりゃ私だって別にいい気はしてないんだけど。人をサイコパスみたいに言うのやめてくれる?」

「いや,そういんじゃ……。平気になる秘訣ってなんですか?」

「だから平気な訳じゃないんだっつの。……これは仕事なんだって自分に言い聞かせて割り切るの。それだけ」

 私だって最初はキツかったし,何度もやめようと思った。吐いたこともある。好き好んで殺して回っているわけじゃない。仕事だからやっているだけだ。

 うちの会社ではおそらく始めての「妖精ハンター」になることはほぼ確実だった。(業界内では一年以上保った人を敬意とある種の侮蔑を込めてそう呼ぶ)

 だが,その直前に,私は大変な病気にかかって,入院することになった。

 女性だけが罹る,原因不明の奇病。俗に「人形病」と呼ばれている。体が縮む病気だ。私は特に重く,最終的に寛解までに身長16センチまで縮んでしまった。お見舞いに来てくれた同僚たちは,半数以上が「妖精の祟りじゃないか」と笑えない冗談を飛ばしてきた。確かに,今の私は妖精と同じスケール。羽根が生えていたら区別がつかないだろう,きっと。

(やだなあ……)

 病院の窓を見ながら,ぼんやりと思った。ハエやゴキブリのごとく殺してきたあいつらと同じサイズになっちゃうなんて。ケースの中で死んだ妖精たちの姿を思い出し,その中に自分を重ねてしまうようになった。そのたびに吐きかける。でもあいつらと私は違う。私は人間で,あいつらは所詮は人造生物だ。これが妖精の祟りだというのなら,声を大にして言いたい。私を恨まないでほしい。それに仕事だったんだから,しょうがないじゃない……。


 病気そのものは完全に治まり,いつでも退院できるようになった。でも私の体は16センチのまま。これじゃあまともに一人で生活することは不可能だ。できる仕事もなさそうだし。独り身で頼れる家族もない。後見を打診した友人たちには全員断られた。そりゃそうか。いくら友達でも,要介護の小人を責任と一緒に預かれるかというと,難しいだろう。逆の立場だったら,きっと私も断っただろうから,責めるわけにもいかなかった。

 ある日,医療チームの先生の一人が私のベッドに近づいてきた。ズシンズシンと大きな音を響かせながら近づいてくるその巨体は,私の十倍以上。まるで怪獣のようだ。……妖精たちには私もこんな風に見えていたのだろうか。

「一人で暮らす予定になりそうだ……って言っていましたよね,羽鳥さん」

「ええ,はい」

「これ,もしよかったらと思いまして……。羽鳥さんは十分の一組だから,幸い妖精用の設備がほぼそのまま使えるんですよ」

 先生はペットショップの出しているカタログを広げて見せた。妖精用のトイレ付きのケース,お風呂,服のセット……。確かに今の私にピッタリのサイズ。でも,まさかこの私が妖精(用の道具)に頼らなければならないなんて。プライドと罪悪感がそう簡単には私を許さなかった。


 それでも結局,私は退院後,自宅に妖精用の設備を整えることになった。意地を張って元の設備で暮らそうとして,トイレに落ちたのが直接の原因。あの時は本気で自殺を考えた。

 仕事を探そうにも,16センチではどうにもならない。せめて30センチ組だったら……。あ,でもそれだと妖精用設備が使えないから,ティッシュの上にウンチする羽目になるのか。はあ……。こんな病気存在しなければよかったのに。人造細胞で元の大きさに戻ることは既に可能になっているのだが,人体一人分の医療用人造細胞は恐ろしくお金がかかる。今の私には到底ひねり出せない金額だ。しかも,仕事がない今,預金は日に日に減っていく一方。


 そんな中,ある日の夜,後輩の鳥飼くんが私の家を訪ねてきた。焦燥し,かなり慌てていた。なだめながら話を聞いてみると,仕事で使うダミー妖精を壊してしまったらしい。明日も駆除にいかないといけない,どうすればいいかわからない,先輩助けてください……という内容だった。

 とりあえず正直に上に報告しなさいということを伝えた後,実際に明日の駆除をどうするか考えたが,厳しいと言わざるを得ない。まず予備はタイミングが悪く,メーカーでメンテ中。妖精たちは人間と同レベルの知性を持っている上,野生化して長い妖精とその子孫は経験豊富だ。ありきたりな罠にはかからないし,駆除しに来た人間とそうでない人間も割と的確に判別してくる。種族全体で共通する弱点は,仲間意識の強さしかないのだ。しかし,こちらの都合で当日キャンセルとなると,会社としては痛い。鳥飼くんも辛い立場に立たされるだろう。

 泣きじゃくる後輩の顔を見ていると,見捨ててはおけなくなった。今の私に力になれることがあるか分からないが,私は明日会社にいってみることにした。ダミーの簡単な応急修理なら手慣れている。もしかしたら鳥飼くんがテンパってるだけで,実際には軽い損傷だったりするかもしれない。その場合は私が直せ……ないな。この体じゃ。でも指示は出せるはず。


「うわあ……」

 私の第一声は言葉にならなかった。ダミー妖精は腰で真っ二つに折れ,背中の羽根も,根元ごと剥がれてしまっている。修理は無理だ。

「ですよね……」

 落ち込む鳥飼くんは,フラフラと部屋を出ていった。キャンセルするしかない。余所の会社に逃げられるのは痛い。最も,私にはもう関係ないんだけども。

 目の前に横たわるダミー人形を見ていると,気分が悪くなってくる。何しろ精巧な作りなもんだから,本物の死体のように見える。普通の人からみれば小さい分,リアリティは低いのだろうが,今の私から見りゃ等身大。ゾッとしてしまう。本体から目を背け,羽根を弄った。

(装飾じゃなくって,これが本当に飛行装置なんだよね~)

 妖精もこのダミーも,実際に羽根の部分で飛んでいるのだ。正直この部分の理屈は難しくてよくわからないけど。羽で揚力を得るのではなく,羽根に使われている物質が何とかいう力場を発生させているらしい。妖精程度の軽い物体なら,これで宙に浮かせることが可能だ。最近は姿勢制御機能を持った三ミリ浮くコップとかが出始めている。評判はよくないが。

 ふと好奇心が疼いた。今まで考えたこともなかったこと。妖精がこれで浮くなら,今の私も浮くのでは……?

 綺麗に根元から取れているので,飛行装置としては損傷ゼロだ。私は制御盤を操作して,羽根を飛ばしてみた。いつもならダミー人形が羽ばたいて上昇するのだが,今は羽根だけだ。蝶のような形の透き通った羽根が,それだけで浮かび上がっていくのはシュールな光景だった。

(よっと……)

 私はジャンプして,機械部分を両手で掴んだ。ブラブラと体が揺れる。足は机につかない。できた。羽根は私がぶら下がっても高度を下げず,維持し続けた。

「先輩,やっぱ俺無理……何やってんすか」

「あ,いや……ちょっと……」

 私はすぐに手を離し,机に下りた。いい年して子供みたいに遊んでるところを見られてしまうとは。恥ずかしい……。

 鳥飼くんはしばらく考え込むような表情で押し黙り,しばらくしてから叫んだ。

「先輩! 俺,一生のお願いがあります!」


 私は妖精の羽根を背中にくっつけ,昼下がりの山間部をパタパタと飛んでいた。今日の駆除の間,私はダミー人形の代わりを務めることになった。いい年して妖精のコスプレして町をうろつくなんて,正直言うと恥ずかしい。でもお金は欲しい。このところはずっと貯金を切り崩すだけの生活だったからなぁ。

 二階建ての建物より少し高いくらいの高度を維持しながら飛んでいると,たまに道を歩いている人たちに指さされたり,私について何か話している声が聞こえてきたりする。妖精だと思っているんだろうな。屈辱……。

 羽根の操作は離れた車から鳥飼くんが行っているので,ぶっちゃけ私はただぶら下がっているだけだ。地面までは六メートル前後だが,今の私にはその十倍の高さに感じられる。飛ぶのって,怖い。妖精たちはよく平気な顔でやっていられるなと感心する。自分で羽根を制御できれば違うのだろうか。

 人目を避け山の方に入っていくと,人……いや,妖精が視界に入った。木の裏に隠れている。飼われている個体か,そうでないかはまだ分からない。私を警戒しているのかな。

(ストップ,止めて)

 小声で鳥飼くんに連絡。ホバリング状態になった。私はボーッとしていると,鳥飼くんの声が聞こえてきた。

(何してるんですか先輩,声かけてください)

(えっ,私が!?)

 いつもはダミー人形がAIで勝手にやってくれるから,意識の外だった。私が,自ら,この手で,妖精を騙して誘い出さなければならないのか……。その誘いに乗った妖精たちに待っているのは死だ。一気に気分が重くなった。そんな酷いこと,どうして私がしないといけないの。できない,そんなこと……。いや,ずっとやってきたことのはずでしょ。ただ,今までは十倍の目線から見下ろしつつ,ダミー人形にやらせていたから気にならなかっただけなんだ。

「あの……野妖精,だよね?」

 まごまごしていると,向こうから声をかけてきた。

「あ,あっ,うん,そう」

「やっぱり。私,マール。あなたは? どこから来たの?」

「えーっと……」

 ヤバい。何も考えてなかった。だって,今まで考える必要のなかったことだし。鳥飼くんも同じだったみたいで,ずっと黙っている。

「に,逃げてきたとこ……だから。夢中で。よくわかんなくて」

「あ……家族はみんな駆除されちゃったの?」

「そ,そう。うん。そうなの」

 野妖精は目をウルウルさせて,口を両手で覆った。

「ごめんね……辛いこと思い出させちゃって。でも,もう大丈夫だから……」

 疑うことを知らないのか。いや,それだけ私が本物の妖精に見えているって事だ。妖精に妖精だと思われるのが腹立たしかった。作戦が成功したのだから喜ぶべきなのかも知れないけど。

 水色の髪と白い羽根をもつ野妖精は,私をギュッと抱きしめた後,隠れ家に案内すると言い出した。私の罪悪感と良心が疼いた。この子は何の見返りも求めずに,無条件に私を信じ,迎え入れてくれようとしている。それに比べて,自分がこれからやろうとしていることは,卑劣で最低なことだ……。

 しかし,今更引くこともできない。私は頷き,この子についていった。

 自分に言い聞かせる。ずっと同じ事をしてきたんだ,今更善人ぶるな……。自ら手を下さなければならなくなった途端に拒否するなんて,なんて心の卑しいやつ……。すべきことを全うしろ,これは仕事なんだから……。

 それでも,これまでのようにはどうしても割り切れなかった。


 草むらの中に,幅十五センチ程度の崖が隠れていた。今の私から見れば崖のようだが,鳥飼くんから見れば,なんてことの無いくぼみでしかないだろう。その壁の中に,横穴があった。羽根をたたんで進むと,結構広い洞窟になっていた。奥のペンライトが灯りを広げ,中央の石のテーブルを照らしていた。脇に無人販売所から盗んだらしき野菜の切り身がある。

「やっほー。新しい友達を連れてきたよー」

 マールの他にも,二人の妖精が住んでいた。一人はまだ幼い少女だった。

「あ……かわいい」

 私は思わず,そうもらしてしまった。聞かれちゃったな,鳥飼くんに。

「この子もねー,人間に両親を奪われちゃったの」

「そう……なんだ。三人だけ?」

「今は四人よ」

 マールは朗らかに笑って私に抱きついた。子供の妖精は首を少し傾けながら,純粋な眼差しで私をジッと見つめていた。奥の大人の妖精も,うんうんと頷きながら私を歓迎しているのが伝わってきた。ダメだ。これ以上は。胸が痛い。全部ぶちまけてしまいたくなった。今ならみんな逃げられるはずだ……。馬鹿か私は。情けない。妖精なんかに感情移入して。それでも元「妖精ハンター」なの?

 第一,全部言ったら私はどうなるか。妖精同士の殺人は,実はそこそこ起きている。人間と同じくらいの比率で。同じ……。違う。この子たちは……人間じゃないんだ。私は人間。この子たちは妖精。違う。違うの……。

「どうしたの? お腹痛い?」

 妖精たちが心配そうな瞳で私を覗き込んでいた。いつの間にか泣いていたらしい。

「いや……その……」

 その時,穴の入り口がシューッという音が響いた。振り返ると,白いガスが広がり始めていた。本来ケースでやることだが,鳥飼くんが洞窟内に注ぎ込んでいるのだ。

「な,何これ!?」

「みんな奥に!」

「ママ~」

 妖精たちはパニックになりながら,洞窟の奥に移動した。私も腕を引っ張られ,一緒に奥に並んだ。このガスは一応,妖精を苦しませずに処分できる人道的なガス,ということになっている。私もそう思っていた。思わないといけなかった。

 あっという間に洞窟の奥まで充満し,妖精たちは次第に動きが緩慢になりながら,三人で身を寄せ合った。私はそれから少し離れようとしたが,幼い子供の妖精に手をつかまれ,離れられなかった。フラフラになりながら,不安そうな表情を浮かべて,私やマールを交互に見上げていた。

「大丈夫……だい……じょう……ぶ……」

 妖精たちは眠るように息を引き取り,折り重なって倒れた。私には直接害はないのだけれど,息ができなくなってきたのと,余りの罪悪感に押し潰されそうだったので,急いで連絡した。

「止めて,止めて! もう終わった! 終わったから!」

 ガスの注入が収まると,私は即座に穴に潜り込んだ。一秒でも早くこの場を離れたかった。私にこの洞窟にいる資格はない。最初からなかった。

 外に出ると,心底申し訳なさそうな,沈痛な面持ちで,チューブを手に提げた鳥飼くんが立っていた。無言で右手をさしのべ,私に乗るよう促した。

「すみません……でも……」

「いい。仕事だもんね。私が軽く考えすぎだったの」

 それから鳥飼くんスコップで壁に大穴を空け,みんなの死体や家具を取り出すのを,ずっと無言で見つめていた。胸が痛くて見ていられないけど,目を離せなかった。

 全てが終わると,洞窟……今はただのくぼみになった妖精の家には,もうなんの痕跡も残っていない。最初から何ごともなかったかのように静まり返っていた。鳥飼くんもずっと無言だった。やりとりをずっと彼も聞いていたはずだ。だから彼を責める気持ちも憎む気持ちもない。むしろ,彼は私達が苦しい思い,悲しい思いをしないようにと,「とっ捕まえてケースに入れる」という工程を排除し,直接,何が何だかわからないうちに殺したのだ。鳥飼くんがあの子たちを一匹一匹捕まえてケースに入れていたら。最後に私だけが何故かケースに入れられない。それできっと私が裏切り者だったと気づいただろう。死に際に私を罵倒しただろうか。その方が楽だったかな。最後まで騙したまま終わったのが,逆に私には辛く感じる。


 家まで送ってもらった後,私は食事を取る気にもなれず,即座に布団に潜った。妖精用の布団に。息が苦しい。私がこの布団を使っていいのか。そんな資格があるの……?

 妖精一家の最後が何度もフラッシュバックした。同時に,そんな自分を冷笑する自分もいた。なんでいきなりセンチメンタルになっているの,今までは同じ事をしてもなーんにも感じなかったくせに……。

 逆の立場だったら。私ならきっとケースに入れてから殺していた。わざわざ機械をバラして「スパイに騙され,人間に殺された」ことを悟らせないよう洞窟内で処分する,なんて配慮はしなかったろう。酷い女だ。最低……。


 夜,中途半端な時間に目が覚めた。すぐにお腹が鳴り始める。何も食べないで寝たからだ。寝室からリビングへ行くにも距離がある。ただでさえ体力が尽きかけているのに,こんなに歩かなくちゃならないのはしんどい。しかも,買い置きは底をついていた。時計を見ると,日付が変わる十分前。月も変わる。

 その時,私は家賃を払うのを忘れていたことに気づいた。ヤバい。ご飯もないし……。

 私は近くのコンビニまで足を伸ばすことにした。あそこは二十四時間ATMが動いている。店員も私……人形病の人が近くに住んでいるということを知っているから,手伝ってくれる。

 移動用の機械を起動して,表に出た。地面から三ミリ浮いて動く,ルンバ型の機械。元々は小物の運搬に使う機械らしいけど,縮んだ私は専ら自分の移動用に使っていた。主に外出する時に。


 家を出てコンビニへの道中,曲がり角に近づいた時だった。突然女性……いや,妖精が凄い勢いで私の横を飛び去っていった。

「えっ,何!?」

 振り返った時には既にその背中は遠くなっていた。前を見ていなかったその数秒の間に,次の妖精が私に思い切りぶつかってきた。

「きゃっ!?」「いたっ!?」

 私は機械から落っこち,上にバランスを崩した妖精がのしかかり,動けなくなってしまった。

「どいてよ! 重いって!」

「ごっごめんなさい,……あ」

 妖精が羽ばたいて飛び立とうとした時,虫取り網が私達を捕らえた。

「いやーっ」

 網に羽根が絡んだ妖精はジタバタもがいた。私は何が起きたのかわからず,周囲を見渡した。いつの間にか,すぐそばに大きな革靴がある。大きすぎて咄嗟には靴だとわからなかった。視線を上げると,巨大な男が二人。夜なせいもあって,顔はよく見えない。

「よし。捕まえたぞ。お前は最後の一匹を追え」「うす」

 片方が暗闇の中に走り去った。終始ポカーンとしていた私だったが,ようやく我に返った。

「あ,あの,出してください,私は人間でっ……ひゃっ!?」

 男は網ごしに私と妖精を手荒に掴んだ。潰される。本能的な恐怖が私の声を奪った。網がひっくり返り,私と妖精は網底に落ちた。捕まえた虫を運ぶかのごとく,私と妖精はそのまま連行された。

「出して! 出してください! 下ろして! 私は……」

「うるせえ!」

 低くドスの利いた声が全身を揺さぶった。間髪入れず,網が激しく左右に揺さぶられ,私はあっという間に三半規管をやられてしまった。

(うっ……ぷ)

 満足に声が出せるようになるころには,見知らぬ車に連れ込まれ,檻の中に妖精と一緒に放り込まれてしまった。

 ガチャリと蓋が閉じられた。

「ちょっと! 私は違います! 人間ですよ!」

「馬鹿言うんじゃねえ!」

「ひっ」

 余りの迫力に,私は黙りこくってしまった。始めて男の顔がハッキリとわかった。傷のある強面。黒いスーツ。ヤクザだ。やだやだやだ。怖い。なに? なにがどうなってるの?

 中には私と同じサイズの妖精たちが1,2,3……9人? 状況がようやくわかってきた。恐らく檻の中の妖精が数匹逃げだし,それを追っていたんだ。私はさっきの子と一緒に,間違って捕まってしまったのだ。

「貴方,誰?」「羽根は?」

 妖精たちは予期せぬ来訪者に驚き,口々に質問してきた。

「わ,私,人間で……」

「えー!?うっそー」「人間っていうのは,あーいうのよ」

 妖精の一匹がヤクザの男を指した。サイズのことを言っているのだ。そりゃそうか。「人形病」なんて妖精にわかるわけない。私はできるだけ不快にさせないよう,丁寧にもう一度ヤクザ男性に声をかけてみた。

「あのう,私は……」

 男はフロントガラスを見たままこっちを見ようともせず,無言で台を叩いた。十倍ある巨人の放つ本気の威圧感は,泣き出したくなるくらい怖かった。私は情けなく縮こまるより仕方なかった。

(どうせ……あとでわかるし……うん)

 男はたまに振り向いて私達を見た。恐らく見張っているのだろう。でも相当イライラしているせいか,一匹だけ羽根がないことには気がつかないようだった。小声で周りの妖精たちに事情を説明すると,妖精たちは私が人間だと理解してくれたようだった。でも,誰一人として声を上げようとはしない。

 しばらくすると,さっき別れた男が戻ってきた。車のドアが開いた途端,血なまぐさい匂いが漂ってきた。

「すみません,兄貴……」

 男は小声で何かを報告した。すぐに車が発進し,すぐに止まった。ヤクザ二人が私達の隣から何か用具を取りだして車から降りた。

 しばらくすると,潰れた妖精の死体が回収された。正視に耐えないグロさと生理的嫌悪感に,私は両目をつむって顔を膝に埋めた。もうやだ。早く出してよぉ……。


「ッチ。どうすんだオメー,一匹足りなくなったじゃねえか」

「すみません」

「ああ? みろやオイ,オメーのせいで二十九匹しか……」

 偉い方のヤクザが私の方を,後部座席に並んだ三つの檻を見た。目を細め,説教が止んだ。やっとだ。一人死んだのに三十人揃っていることに気がついたらしい。言うなら今しかない。私は手を真っ直ぐ上に伸ばした。

「あ,あのう……私人間です……」


「先方には三十匹納れるって言ってあるんだよ。なあ? 三十ってのは三十のことだぞ。二十九じゃねーんだ。あ?」

 ヤクザ二人は工場だか研究室だかよくわからないところに私と妖精たちを持ち帰り,上司っぽいヤクザに絞られていた。私は自分がこれからどうなるか,気が気じゃなかった。

「っかもこんな……見られやがって……」

 大柄な上司ヤクザは私を一瞥し,吐き捨てるかのような口調で言った。背筋が凍り付く。元の体でもきっと怖くて動けなかったに違いない,大柄で強面のヤクザが,自分の十倍以上のスケールで見下ろしてくるのだからたまらない。漏らしてもおかしくないのではないかと思えるほどの恐怖だった。

 下っ端ヤクザの一人が今から一匹新しく作ります,という提案をしたが,上司ヤクザはさらに激昂し,机を激しく叩いて立ち上がった。

「お前,医療用のがいくらするか覚えてんだろ? この前教えたよなぁ?」

 医療用……。私は檻の中の妖精たちを眺めた。妖精たち人造生物は安価な簡易人造細胞を使っているはずなんだけど……。もしかして,このヤクザたちは医療用の人造細胞でこの子たちを作ったの?

 医療用の人造細胞を人間以外に使うことは厳しく制限されているのに。……だからヤクザがやっているのか。全然知らなかった。こんなことをしてるなら,私の会社に噂くらい届いたはず……。もしかしたら,私が人形病にかかって辞めた後に始まった事業なのだろうか。そういえば,下っ端たちはあまり手慣れている風には見えない。

 下っ端のうち偉い方も汗だくで,キョロキョロ目を動かしていたが,ある瞬間にその動きが止まった。私を見てニヤッと笑い,上司に小声で何かを提案した。嫌な予感がする。でも檻の中じゃ逃げられない。声を出しても外に聞こえるかわからないし,というかきっと酷い目に遭わされてしまう。私はどうすることもできず,運命に身を委ねているしかなかった。


「お願いですー! 誰にも! 誰にも言いませんから! 助けて! 助けてくださーい!」

 私は全身全霊を振り絞って,泣き叫びながら懇願した。ヤクザたちは私を妖精に改造して間に合わせることにしたのだ。羽根だけでいいから安上がり,口封じも同時にできて一石二鳥だ,と。信じられない。助けて。妖精なんかになりたくない。しかも,こいつら売る気なんでしょ?

 十倍の身長をもつヤクザの固く冷たい手が檻の蓋を開け,天を覆った。狭い檻で逃げることも抵抗することもできず,私はあっさりとつまみ上げられた。全力で抵抗してやる,という気持ちは音より早く消え失せた。つままれている私は,体感で上空十メートルぐらいの高さで,たよりなくブラブラしているからだ。落ちたら死んでしまう。あの逃げた妖精のように潰れて……。

 私は円柱型の容器に入れられ,蓋をされてしまった。ドンドン壁を叩き,泣きすがった。

「助けてください,お願いです,何でもします,誰にも言いません……出して……お願い……」

 ヤクザは愉快な人形劇でもみるかのようにほくそ笑んでいた。もう三人とも,私を「人間」だと看做していないのだ。彼らの中ではもう私は商品たる妖精なんだ……。

 緑色の液体が容器に注ぎ込まれ,私はすぐにその中に沈んだ。容器が液体で満たされ,空気は消えた。頑張って息を止めていたが,すぐに息切れし,私は緑色の液体の中で口を開けてしまった。だけど不思議なことに,液体の中なのに息苦しさはなく,呼吸ができているようだった。

(死な……ない?)

 だけどその間に,口から入った緑色の液体が私の体内をも満たしていくのが全身から伝わってきた。体に段々力が入らなくなり,私は手足をダランと伸ばしたまま,液体の中で水死体のようにふんわり仰向けに漂うことになった。

(いや……助けて……)

 意識も朦朧としてきて,視界がグニャグニャに歪み,目に映るもの全てが溶けていく。音も聞こえない。私はこのまま死ぬのかな……。

 手足の感覚が溶けていく。その感覚は次第に内部まで浸透してくる。本当に体が溶けているのだ。容器と体内を満たす緑色の液体に,私の体だったものが混ざっていく。しかし完全にドロドロにはならず,ある程度の人の形は保っているみたいだ。お腹に,顔にもそれが波及し,目が失われ,何も見えなくなってしまった。奇妙な感覚だった。私はもうすっかり溶けてしまったはずなのに,朧気な意識だけはある。まだ生きてる……。境界線も不確かな体の表面から,妙に心地よい,温かな恍惚感が全身を優しく包み込んだ。絶望的な状況なのにも関わらず,母に抱かれているかのような安心感があった。しばらくすると,体が再び形作られ始めたのがわかった。手足の感覚が次第に明瞭になっていく。真っ暗な世界に再び光が現れた。目ができたんだ。眩しくて辛い。そう思った矢先に瞼も蘇った。背中から今までになかった感覚が生じる。何かが生えた。伸びていく。体の感覚が広がっていく。神経が通っているんだ……。

(いや……ダメ……それは……いや……)

 妖精の羽根。私を人間でなくしてしまう,異形の第六肢。いらない。生やさないで……。朦朧とした意識の中で私は受け入れを拒否したが,体は逆に昂ぶっていた。心臓が再び鼓動を始める。生まれる。私が……。

 まるで繭の中で蝶に生まれ変わるかのような出来事だった。混濁した意識も徐々に明瞭になる。羽根の全容が感覚だけでわかった。蝶のような形をしているようだ。目で見ずとも,自分には指が五本あるとわかるのと同じ。くっつけられた機械の部品ではない。私に生えた,私の体なんだ……。


「オーケー,排水」

 ヤクザの冷たい,よく通る声で私は目が覚めた。ここは……?

 容器の液体が排出されていく。私の体は水面に浮かび,久々に空気を吸えた。

(私……寝てたの?)

 でも,さっきまで……体が再形成されるのを確かに体験した。と思ったが,液体が全て排出されると,ひんやりとした空気の感触,重力が生む体の重さ,周囲のヤクザたちの話し声がさっきまで存在しなかった「現実感」を私に叩きつけてきた。さっきまでとは全然違う。夢だったの?

 再形成の間,実際は寝ていたのだろうか。それとも,うっすら意識はあって,それで……。わかんない。

 ヤクザは容器に水を入れ始めた。私は慌てて立ち上がろうとしたけど,体がうまく動かせなかった。生まれたての子鹿のように。赤ちゃんのように。

 数秒間,容器全体が水で満ち,私は溺れるかと思ったが,すぐに排水された。ケホケホと咳をしながら底に転がっていると,蓋が開いてヤクザに取り出された。

「よお。可愛くなったじゃねえか」

「……っ」

 声が出せない。どうやって出すんだっけ……。

「あ……う」

 出た。

「ほらよ。サービスだ」

 ヤクザは私を鏡の前に突きだした。鏡の中に,すっかり変貌してしまった私の姿が映っている。人並みの抱負はあった胸とお尻がすっかり萎んで,控えめな凹凸の幼児体型になっている。幼い顔立ちに,水気のあるきめ細やかな肌。若返っている。ただ羽根が生えただけじゃなかった。私はショックだった。なんで,なんでなの……。いや,理由はわかる。中年女性の妖精なんてないからだ。

 髪の毛は薄いピンク色で,アニメキャラクターのように長い。羽根は感覚通り蝶の形で,これも透き通る桃色だった。私はただ単純に綺麗だ,と思った。同時に,これが私の体から生えた生の羽根なのだと思うと,人から妖精に成り下がってしまったのだという事実を突きつけられているように感じ,生まれてから最大の屈辱を味わった。そんな……。酷いよ。元に戻してよ……。

 妖精に改造されてしまったショックで頭が一杯で,自分が裸であること,それをヤクザに見られていることなんて完全に意識の外だった。

 ヤクザは絶望に顔を歪ませて黙りこくった私を,別の容器に放り込んだ。今度は何をするつもり!?

 今度は無色透明な,少し粘性のある液体に浸けられた。口から体内にもしっかり侵入された。今度は息ができなかったので溺れかけたが,すぐに解放された。

「インストールしろ」「へい」

「あ……」

 何を飲まされたのかわかった。妖精の行動を制限するためのナノマシンだったに違いない。第三世代以降の妖精が「逃げた」ことはほとんどない。つまり私も永久に妖精にされてしまうってこと……。

「やめてください,お願いです,それだけは」

 ヤクザたちは無言で機械を動かしていた。逃げ……無理だ。まだ体をうまく操れない。あ,そうだ。私,飛べるようになったんだよね……? 羽根に力を込めると,動かせた。羽根が自分の意思で動く。本当に神経繋がってるんだ。妖精になっちゃったんだ……。

「よし」

(えっ?)

 私は何の機械に繋がれているわけでもないのに,もう「インストール」が終わったらしい。無線でやっていたんだ。嫌だ。妖精として売られて,見も知らぬ誰かのペットになるなんて。羽根をパタパタ羽ばたかせると,体が浮かび上がった。

(逃げら……れる?)

 フラフラと上下左右にバランスを崩しながらも,私は宙に舞い上がることができた。ヤクザたちは口元をニヤつかえながら何も言わずに見守っていた。作業台から離れ,しばらく飛んだ。大分慣れてきた。飛べるってすごい。楽しい……。いや楽しんじゃダメでしょ。こんな状況で何考えてんの。ある程度距離が離れると,私は前進できなくなった。

(あ,あれ……?)

 まだうまく飛行できないのかと思ったけど,そういうわけでもなさそうだった。横と後ろには移動できる。前にだけ進めない。早く逃げなくちゃいけないのに……。モタモタしていると,体がひとりでに向きを変えた。

(な,何,なんなの!?)

 私の体は私の意思に反して,作業台に向かって飛んだ。私は悟った。もうナノマシンが働いているんだ。決まった距離以上離れることはできないよう,体を制御されてしまっている。

(そんな……うそ……)

 これじゃ,逃げられない。自分の体なのに,自分以外の機械,それもプログラムなんかに為す術なくコントロールされるなんて。

(やっ,やめっ……て)

 必死で体をよじったが,どうにもならない。私は再び作業台の上にぺたんこ座りさせられた。涙がポロポロこぼれ落ちる。死ぬほど悔しい。私はロボットじゃないよ……。

「飛行は問題なし」

 ヤクザはそれだけ言って,席を移動して,パソコンを操作しだした。

「妖精に『設定』をできるの,知ってるか?」

 知ってる。職業柄,その辺は詳しい。第四世代以降はナノマシンを通じて詳細な設定を盛り込めるようになった。名前,性格,特技,それから禁止行動やNGワード……。

「よし。お前の名前は『サクラ』だ」

「えっ?」

 ヤクザは不気味な笑顔を浮かべて私を見下ろしていた。私に「設定」したの? 妖精みたいに? ……ふざけないで!

「あ,あたしはサクラだよ!……あ,え。そんな……」

 今,私は確かに「私は羽鳥陽子だ」と言ったつもりだった。なのに,口から出るときに勝手に修正されてしまった。

「ち,違う。あたしはサクラ,じゃなくって……サクラ……」

 嘘でしょ……。自分の名前をNGワードにされちゃうなんて……。どこまで私を弄んだら気が済むの?

 ヤクザはキーボードを叩き,引き続き入力作業をしていた。これ以上はやめて,お願い。

「お前は人間か?」

「あたしは妖精です……あっうそ,やだ,そんな。違う! 私は妖精……じゃなくって! 元は……妖精!」

 ヤクザは満足そうな笑みを私にぶつけた。絶望だ。「自分は人間だ,或いは……だった」と言うことを禁止行動に設定されてしまったのだ。口封じ……。

「いやーっ,元に戻してーっ!」

 私が絶叫すると,ヤクザは台を強く蹴り飛ばし,机全体が激しくうねった。その衝撃で私は転んでしまった。

「もう黙れ」

「……」

 体感身長十八メートルのヤクザに凄まれたら,何も言い返すことはできない。私は声を殺して泣きながら,自分の「設定」が終わるのを大人しく待ち続けた。助けて……誰か助けて。


「株式会社ピクシーペット」産の妖精サクラ,ということにされてしまった私は,白いワンピースを着せられ,再び檻に入れられた。妖精たちは気の毒そうな表情を浮かべている子も散見されたが,小気味よさそうに笑う子が多かった。自分たちを勝手に作り,売り,玩具にしている人間が,自分たちと同じ立場に転落したというのは彼女らにとっては痛快な見世物だったのだろう。私はゾッとした。もしも自分が「妖精ハンター」だったことが知れたら,どんな扱いを受けるのだろうか。リンチされて殺されても何も不思議なことはないはずだ。

「ふふっ,大変だったわね」

 黒いゴスロリ衣装に身を包んだ,リーダー格の妖精が手を差し伸べてくれた。胸が痛んだけど,その手をとって私は立ち上がった。

「名前は?」

「サクラ……」

 違う。羽鳥陽子だ。でも,私には二度とその名を口にすることができない。

「サクラちゃんね。よろしく。私はルナ。短い間だけど,仲良くしましょう?」

 背後の妖精たちがクスクス笑った。何……何するの?

「人間だった時は何をしていたの?」

 ドキッとした。私の前職を知って聞いているの? いや,ありえない。この子たちはここでつい最近作られたばかりのはずだ。ヤクザたちも私の個人情報は把握していないはず。多分これから調べられるだろうけど……。

「私は妖精ですよ。人間だったことなんてないです」

 妖精たちが爆笑の渦に包まれた。これを言わせるための質問だったのだ。

「うっ……うぅ……」

 泣いても泣いても,涙のストックがつきない。ルナはひとしきり笑った後,優しく私の背中,羽根の付け根の狭間を撫でた。くすぐったくて,気持ちいい……。妖精ってここが敏感なんだ。って何感じてんの私は!?

 ルナから離れようとしたけど,狭い檻の中では余り身動きもとれなかった。他の妖精たちも私の羽根先や頭を撫で始め,私は妖精たちの慰み者になった。

 落ち着いた後,妖精たち全員に追加の設定が加えられた。私が人間だったという情報を伝えることは,禁止行動となった。私は内心で彼女らの告発をアテにしていただけに,酷く落胆した。


 もう逃げられないようにと,檻から外の見えないケースに移行され,車に揺られること三十分。振動が止まる。目的地に着いたらしい。世界が持ち上がった。ヤクザがケースを手に持って運んでいるのだ。私どうなるんだろう。とにかく,ヤクザたちの管轄から逃れてからがチャンスだ。

 机か何かに置かれてから,さらに数十分。妖精たちは別れの言葉を交わしていた。私はその輪から外れて,一人隅っこで小さくなっていた。ペットショップ……なんだよね。多分。

 一人ずつケースから出されていく。途中で私の番になった。最初でも最後でもない,中途半端な順番。なんてことない妖精のうち一匹,ワンオブゼムだと思われていることを痛感させられ,屈辱に胸が痛んだ。ようやく見えた外の光景。喧噪騒がしいペットショップだった。檻やケースに入った動物たちの声が四方八方から聞こえてくる。私もあの中の一つになるのかと思うと,無駄だと知りつつ叫ばずにはいられなくなった。

「あ,あたし妖精です! サクラです!」

「はいはい,よろしく。僕は山岡」

 ダメだ。言葉は全て矯正されてしまう。どうしても言えない。私が人間だってことが。店員はまったく動じず,可愛らしくデコられたピンク色のケースに私を入れた。それがまた私の羞恥心を煽った。小さな女の子の部屋みたいな,ふわふわのパステルカラー主体のケース。アラサーになる私には余りにも不釣り合いで恥ずかしい。

「出してー!」

 前面だけは外から見えるように透明になっている。私は壁を叩いて懇願した。店員さんは「買ってもらえたらね」と言って歩き去った。言葉が通じるのに。こうして会話できる相手をケースに閉じ込め,売買することをまったくおかしいとも,妙だとも,道義に反するとも思わないのかな。思わないよね。私も思ったことなかった。妖精がペットとして売られるなんて当然のことだから。

(私は人間なんだよっ……)

 また涙が出てきた。透明なプラスチックの壁に,泣きじゃくる幼いころの私が映っていた。ピンクの長髪であること,羽根が生えていることを除けば,昔の私にそっくりだ。

 ショップが開店し,客が入ってきた。あちこちのケースを眺めながら,ただ見ているだけの客,今日買うつもりで品定めしに来ている客,将来ペットを飼うつもりで下見に来ている客,何となくわかってしまう。私のケースは丁度成人の目線に合う位置なので,目や表情の細かな動きがよく見えるのだ。普段気にしたこともなかったことが,買われる側の視点だとこんなにも見え透くようになるのか。

 男の子が一人,私の前で立ち止まった。背伸びして私を見ている。

「ねえ……助けて。私違うの。妖精なの……じゃなくって……もう!」

 言葉はダメだ。私は身振り手振りで何とかしようとしたが,うまく伝わらない。人間が妖精に改造されてペットショップに並べられているだなんて,想像もできないのだろう。男の子はツンツンと巨大な指でケースをつついた。私は反射的に「ひゃっ」と叫んで後ずさった。彼は笑って離れていった。ダメか……。

 次に立ち止まったのは成人男性。「ほぉー」とか「うぅーむ」とか唸りながら私を観察していた。いたたまれなくなって私は体を背けた。なんなのあの態度。まるで野菜の品定めでもしているかのように。私は人間なのに。妖精なんかじゃないの。ペットじゃないんだよ!

 男は店員を呼んだ。

「これ,値段は?」

「そこに貼ってある通りです」

 私は動揺した。え,ちょっと……買うつもりなの? 私を? 人間を?

「あー,本当にこんなすんだ? 高級品なの?」

「ええ。特別製ですよ」

 一瞬,ドキリとした。「元人間」をウリにしているのかと思ったのだ。そうではなく,「医療用の人造細胞を使っている闇妖精」という意味だと気づくのに数秒かかった。

「ははは,手が出ないなぁ。普通のを見せてよ」

「はい。こちらへどうぞ」

 男と店員は視界から姿を消した。助かった……。いや助かったの? 買われた方がいいんじゃないの? 家のパソコンを使って助けを求めたりとか……。いや,「禁止行動」にされたから,きっと筆記も不可能なはずだ。

 その後も多くの人たちが私を眺め,品定めした。それが例えようもないくらいに恐ろしくて,悔しかった。どうして誰も気づいてくれないの。見た目はまるっきり人間,会話もできる。違いは羽根とサイズだけ。病気で小さくなった「人間」だっているのに。なのになんで,誰一人私が人間だってわからないの。一体何が違うの。


 幸か不幸か,その日は買い手がつかなかった。店員がケースの蓋を開け,食事を入れた。カサカサした丸いパンのような食べ物。見覚えがある。妖精用の「餌」だ。

 トイレの汲み取り作業と中の清掃を終えると,店員は蓋をして隣のケースに取りかかった。私は泣きながら餌にかじりついた。まさか自分がこれを食べる日が来るなんて。ダミー人形を使った方法が確立されるまでは,この丸い餌を文字通りの餌にしていたっけ……。今なら私も引っかかるんだろうか。

 畳められたハンカチを布団にして,私は就寝した。人生最悪の一日だった。私は一生妖精のままなの?

 人間だって伝える方法はないんだろうか。いや,ない。妖精のナノマシンについては人より詳しい。第四世代からは,個人情報保護の観点から,「情報Aを伝えることを禁止行動にした場合,いかなる方法でもっても他人に伝えられない」仕様になったのだ。口頭は勿論,筆記もダメ,スマホやパソコンを使ってもできないようにナノマシンが制御するはずだ。つまり私はもう二度と自分の名前と正体を明かすことはできない。あぁ……。これが夢ならよかったのに。なんで私がこんな目に……。散々妖精たちを殺してきたから? でも……。一番悪いのは面倒見れなくなったからって妖精を捨てた飼い主たちじゃないの? 私は仕事で,その尻ぬぐいをしていただけじゃん。なんで私なの。私だけがこんな……。酷いよ……。


 ペットとして値踏みされ,人に買われるという扱いを受け入れることは中々できなかった。しかも,よりにもよって散々ゴミのように殺してきた妖精として。怖い。妖精として買われるってことは,社会的にも完全に妖精として定義されることに他ならない。でも私が買われたくないからと言って買われなくなる,なんてことはない。全部目の前を通り過ぎていく巨人たちが,その胸先三寸で決めるのだ。私に意思があることはみんな知っているはずなのに,誰もその意思を尊重しようなどとは考えもしない。


 ある日,ルナが購入された。黒いマグネットのような首輪を装着されて。電子首輪だ。ショップを出る前に,私を含んだ「同期」たちに手を振って挨拶していった。その顔は誇らしげだった。どこの馬の骨ともわからないおばさんの所有物になったというのに,どうしてあんな顔ができるんだろう。私には分からない。妖精の気持ちがわからないってことは,私が人間であることの証だ,きっと……。そういうことにして自分を慰めた。それでも,ペットショップで商品としての日々が続くにつれて,買われたいという気持ちが日増しに強まっていく。ルナは持ち主本人或いは家の周囲十メートルしか飛べないとはいっても,その中ならば自由なのだ。持ち主と一緒に遊ぶことも,おねだりすることも,勝手にパソコンを弄ることだってできる。それに気がつくと,私は無性に羨ましくなった。ペットショップのケース内で腐っているより,絶対にチャンスも自由も得られるはずだ。誰でもいい……とは口が裂けても言えないけれど,早く買ってほしい。この狭いケースから救い出して欲しい。


 高いからか,他の妖精のように媚びないからか,私は同期の中でも数少ない売れ残りになった。それが良いことなのか,悪いことなのかわからない。そんなある日,ケースを洗浄する間,私は外に出された。大人しい妖精と思われているからか,特に拘束もなく作業台の端っこに座らされた。ナノマシンで体を制御されている限り,これでも逃げ出すことはできないのだ。物理的な縛りは何一つないにも関わらず。羽根を持って飛ぶことだってできるのに。無駄だとわかっていても,こんなに自由なんだから,逃げる努力をすべきではないか,しようとしないのは妖精であることを無意識に受け入れているからなんじゃないか。そんな意地悪な思いが私を苦しめた。頭を抱えてうずくまった。どうすればいいの。焦燥感ばかりが募る。

「危ない!」

「えっ……」

 考え事に耽り,周囲に気を配っていないのがまずかった。妖精用の身長計が私に向かって倒れてきていたのだ。急いでかわした。かわせたと思った。手足は確かに身長計に当たることはなかった。しかし,薄く広がった羽根が下敷きになり,私は仰向けに倒された。

「ぎゃあぁっ,……いっ……痛い……!」

 右翼にのしかかった身長計が羽根に食い込んで,鋭い激痛が走り続けた。痛い痛い,助けて,どけて……。

「あらたいへ~ん」

 同じく清掃で外に出されていた同期の妖精が上空をブンブン飛び回っていた。見てないで助けて……。早く……。痛いよぉ……。その時,右翼に食い込んでいた身長計がゆっくりと引きはがされた。

「だ,大丈夫!?」

 店員さんがすぐに身長計をどかして手当してくれた。そのおかげで羽根は千切れることも飛行能力を失うこともなかった。だけど,右翼には縦に長い傷跡が残ってしまった。私の扱いはその日を境に一転。今までとは比べものにならないくらい狭くて汚れた旧式のケースに移され,棚の一番下に設置された。「傷物」になってしまった私は,新品の高級妖精としての商品価値を失ったのだ。値札は見えないけど,きっと恐ろしく安くなったに違いない。

 棚の一番下に押し込められたので,見えるのは行き交う靴と足首だけ。私を品定めするのは,いかにも貧乏そうなおっさんや学生だけになった。

 それからすぐに,最後の同期が買われた。ショップを去る際,私に向かって告白した。身長計を押したのは自分だと。

「それじゃあ,頑張ってねー。最下位ちゃん」

 自分を買わせるために,ライバルを潰したのだ。「売れ残り」になって焦っていたのだろう。だからといって,こんな酷いことするなんて。理不尽……でもない。私が妖精たちにしてきたことを考えれば。だから私はあまり怒る気にもなれなかった。

 こうして私は同期三十人のうち,最後の一人になった。安い傷物妖精として。


 子供なら夏休みが始まるであろう時期。一人の女の子がショップで親に妖精をねだる声が聞こえた。

「買って買ってー。ちゃんと面倒みるからー」

「んもー,月夜ちゃん,去年もそう言ったからコモチン買ってあげたのに,すーぐ死なせちゃって」

「今度はちゃんとお世話するー」

「ダーメ。妖精さん高いのよ」

 ああいうのには買われたくないなぁ。とぼんやり思っていると,ちっちゃな可愛らしい赤い靴が私の前で止まった。腰を落として私を覗き込んだ。女の子だ。小学校低学年ぐらいかな。その子は頻繁に視線を上下させていた。値札を見ているのだ。

「ママー,この子安いよー」

「どれ? ……あらほんと」

 声から,さっきの親子だとわかった。嫌な予感がする。

「買って買ってー」

「えー,でも……」

「いいじゃないか母さん。好きなの買ってやるって約束なんだし。なあ?」

「んもー,仕方ないわねー」

 私の前で,私を売買する商談がまとまっていく。嘘でしょ。ペットを死なせた子供に飼われるなんて。

「やだやだ! 買わないでよー!」

「あれー,この子嫌がってるわねー」

 母親は買わなくて済むかもと思ったのか,少し弾んだ声で言った。

「この子,一ヶ月前に怪我しちゃいましてねー。それでふさぎ込んでるんです」

 え? いつそんなことになったの? 店としては売れ残りの傷物をサッサと処分したいのか,熱心に押した。

「あらまあ,可哀想」

「根はいい子ですから。優しくしてあげれば心を開いてくれますよ」

「優しくするー!」

 それ以後,私の叫びは全て強がり,照れ隠しということにされてしまった。定規程度の大きさしかないペットが何を言っても,可愛らしい微笑ましいとしか受け取られないのだ。誰も本気にしない。私はその場で購入され,電子首輪を装着された。真っ黒で厚みのある首輪には,青色の輝線が走っている。これを装着すると,もう持ち主とその家から離れることはできない。スマホを向けられると,電子証明書が表示されるようになる。所有者や買った場所,妖精の年齢などの情報が表示される。飼われている妖精であることを証明するものだ。

(そんな……)

 私はケースから解き放たれた。でもその代わりに,小さい女の子の所有物となってしまった。よりにもよって,粗暴そうな小さい子だなんて。大丈夫かな。

「いこっ,妖精ちゃん」

 親子がペットショップから出ていくと,私もそれにフラフラとついていった。強制的にだ。体内のナノマシンと首輪によって,私の体はひとりでに飛行し,この子に追従させられた。

「あ,あの,あたしは……」

 人間。妖精じゃない。サクラじゃない。羽鳥陽子……。私が言いたいことは何一つ言葉にならない。

「……サクラっていうの。よろ……しく……ね」


 家につくと,水槽に入るよう促された。空っぽで何も入っていない。

「えっと……」

「これでねー,去年コモチン飼ってたのー」

 えーと,この水槽で人造生物を飼っていた,ってこと?

「月夜。今度はちゃんとお世話しなさいよ」

「うん,するー」

「去年も聞いたわよ,それ」

「まあまあ母さん,いいじゃないか」

 不安だ……。去年飼っていた人造生物は世話を欠いて死なせたってことだよね? 大丈夫かな。というか本当にただの水槽なんだけど。妖精用の設備とかは……。せめて布かティッシュくらい敷いてくれても……。まごまごしていると両親はそのまま子供部屋を出ていった。

「ね,ねえ……他に何か買わなかったの?」

「何がー?」

「妖精用の生活用品とか,売ってたと思うんだけど……」

「?」

 月夜ちゃんは何を言っているかわからない,と言いたげな表情だった。親に聞いてこよう。私は飛んで水槽から出た。

「あー,どこいくのー」

「ちょっとおば……お母さんたちに聞いてくるだけだから」

「待ってよー」

 取っ手をうまく回せず,子供部屋から出られなかった。月夜ちゃんが腕を振り回しながら追いかけてきたので,私は天井まで高度を上げた。当たったら大怪我しちゃう。

「ちょちょ,ちょっと。腕振らないで! 当たったら危ないから!」

「あー!」

 私に嫌われたとでも思ったのか,月夜ちゃんが泣き出し,両親が部屋に来た。

「あらあら,どうしたの?」

「サクラちゃんが……サクラちゃんが……」

 両親がジロッと私を見たので,慌てて言った。

「何もしてませんよ!」

「あんまり飛び回ると危ないかも知れないなあ」

「そうねえ」

 私は水槽に入るよう言われ,仕方なく従った。あまり心証を悪くしてもまずいだろうと思ったのだ。事態が落ち着くのを見計らって,親の方に尋ねた。

「あの,妖精用の器具とか生活用品とか,一緒に買いませんでした?」

「あら,そんなのいるの? いらないと思って買わなかったわ」

 母親に返しに,私は背筋がゾッとした。父親も支持した。

「大丈夫だろう。ネットだと,妖精は基本人間と同じって書いてたし」

 それは体の構造とか食べ物とか知能とか,そういう話だと思うんだけど……。

「ま,仲良くしてやってくれ」

 父親は私にそう言って出ていった。母親も続いた。

「ねーねー,遊ぼー」

 機嫌を直した月夜ちゃんが迫ってきた。

「ら,乱暴しないならね……」

「うん,しなーい」


 月夜ちゃんはままごとに私を参加させたがった。それ自体は別に構わなかったけど,手荒にギュッと握ろうとしてきたので,急いで逃げた。あんな握り方されたら羽根が跡形もなく潰れてしまう。身長計が倒れて当たっただけでもあれだけ痛かったのに,グシャッと潰されたらどんな激痛がするか,わかったものじゃない。その後はいつの間にか鬼ごっこをしていることになり,部屋中を追い回され,ぬいぐるみを投げつけられた。いくら布と綿とはいえ,自分より遥かに大きな塊がビュンビュン飛んでくるのは死を予感せざるを得ない恐怖体験だった。しかもこの子は手加減せずに全力で投げてくるので,尚更だった。

 晩御飯になると,私は呼ばれていないが月夜ちゃんについていってリビングへいった。

「あの,あたしのは……」

「ほら,月夜ちゃん,ちゃんと餌をあげなくちゃ」

 え,餌……。月夜ちゃんは露骨に嫌そうな顔を見せた後。ご飯粒とキャベツの切れ端を皿の端っこに置いた。私はそれを食べた。

「えらいえらい。ちゃんとお世話するのよ」

「さっきも一緒に遊んだんだよー」

「あらそう,仲良くなったのねー」

 遊んだ? 殺されかけたんだけど。でも初日から文句ばっかり言って,一家から嫌われたら困る。私はグッとこらえた。


 月夜ちゃんは母親とお風呂に入った。私もお湯に浸かりたい。けど月夜ちゃんと一緒に入るのは勘弁だ。どうなるか想像がつく。

「あの,あたしもお風呂入って良いですか……できれば一人で」

「はー?」

 父親は機嫌を損ねた。さっき人間と同じって言ってたのおじさんじゃん……。

「いえ,体洗わないと……」

「知らん,知らん。月夜に言いなさい」

 それっきり父親はコミュニケートを拒否した。やな一家。

 仕方がなく,私は風呂場の前で待ち,二人が出てから入った。といっても,当然妖精用の洗浄用品はない。ワンピースを脱いで湯船に入るだけだ。とはいえ,湯船は海みたいに深い。どうやって入ろう……。洗面器に湯を張ってもらえればベストだけど……。思案していると父親が入ってきた。

「ひゃっ!?」

「おいこら,出ろ」

 裸を見られたことで真っ赤になった私とは裏腹に,父親は風呂場で虫を見てしまったかのように不快な顔をして,私を追い出した。

(結局,お風呂入れなかった……)

 母親に妖精用の風呂設備のことを教えたが,「勿体ない」で一蹴され,お風呂に一緒に入れてくれないかというお願いには「月夜に頼みなさい」で返され,私はすごすごと子供部屋に戻った。


 月夜ちゃんはタブレットでユーチューブを熱心に見ていて,私にはあまり感心を払わなかった。助かるような,不安なような……。水槽でボーッとしていると,寝る時間になったらしく,月夜は母親にベッドへ寝かされた。

「あの……あたしはどこで寝れば……」

「そこでしょ?」

 母親は何を当たり前のことを,と言わんばかりだった。冗談じゃない。固い水槽に直で寝ろって?

 妖精は羽根があるから柔らかいものを下に敷かないといけないのに。常識だ。そうしないと羽根が痛んでしまう。私はそれを説明したが,どうにも理解してもらえなかったらしく,母親は「我が侭言わないの」と叫んで出ていってしまった。

「ねえ,月夜ちゃん,古いハンカチとか……」

「お休みー」

 すぐにいびきが流れ始め,月夜ちゃんは答えなくなった。私は自力で何とかしようと思ったが,ハンカチはタンスの中らしく,私の非力な腕では開けられなかった。妖精の羽根は大きいから,横向きでも寝られないし,じゃあうつ伏せ? あの固い水槽に?

 他に何かないかな。部屋はもう照明が消されて暗く,探索は困難だった。取っ手が回せず,別の部屋にもいけない。

 一日。今晩だけなら。仕方がなく,私は水槽の底に仰向けに転がった。背中が,羽根が痛い,付け根がジンジン痛む。これじゃ寝られないよ……。


「おはよー」

 目が覚めた時には,もう月夜ちゃんは起きていた。

「いっ……」

 付け根がヤバいくらい痛む。とてもダメだ。下に何か敷かないと。

「つっ,月夜ちゃん……布団,あたしにも作って……」

「行くよー」

 行くって,どこに?

「行ってきまーす」

 体がビクッとなり,羽根が勝手に羽ばたきだした。

「痛い痛い痛い,ちょっ,無理,待って!」

 ナノマシンと首輪のせいで,私は月夜ちゃんから離れられない。外出する月夜ちゃんについていくため,体が勝手に飛び出した。付け根の激痛が尋常じゃなく苦しい。今は本来飛べる状態じゃないのに,無理矢理飛ばされているせいで,信じられないぐらい辛かった。叫びながら家の中を飛んで玄関へ向かう私に,親たちはあからさまに嫌そうな顔を見せた。

「うるさいなー,妖精買ったの失敗だったかなー」


「あ,やっと来たー」

 激痛に耐えながら月夜ちゃんに追いつくと,同年代の女の子が数人集まっていた。他に妖精を飼ってる子がいたら,アドバイスしてくれるのでは……と淡い希望を抱いたが,誰もいないようだった。

「サクラちゃんだよ!」

 月夜が私を友達に紹介すると,黄色い歓声が上がった。

「きゃー,かわいいー」

「いいなー」

「ふふーん」

 いくら褒められてもまったく嬉しくない。私は人間だもん。というか痛みでそれどころじゃない。いつ家に帰るの……?

「自由研究これにするの?」

「そう!あたしは妖精にしたの!」

 えっ……。自由研究? もしかして,夏休みの自由研究のために私を買ったの?

 その後もお喋りは続き,危険だと知りつつも,私は道路に下りた。とてもじゃないがこれ以上は飛んでいられない。しかし夏のアスファルトは想像以上に熱く,足をつけた瞬間に悲鳴を上げて飛び上がってしまった。下りられない。

「サクラちゃん,帰っていーよー」

 しばらくすると月夜ちゃんはそう言って,友達と一緒にどこかへ出かけようとした。しかしそれはできない。持ち主から離れられないからだ。

「それは,いっつ……無理なの,いてて……持ち主,がっ……ひぃ……」

 月夜ちゃんが移動すると,強制的に後を追わされる。勿論飛んで。羽根が千切れるんじゃないかと思うほどの激痛と戦いながら,その日一日中連れ回された。「帰ればいーのにー」「月夜ちゃんのこと好きなんだよー」などと暢気な会話を聞かされながら。


 家に帰ると,私は即座に玄関の靴入れの上にうつ伏せで横たわり,しばらく動けなかった。死ぬかと思った……。羽根全体が痛いよぉ……。もうやだぁ……。

 リビングからはさらに私を傷つける会話が聞こえてきた。

「あれ買えこれ買えって贅沢なやつだなー,妖精って」

「あぁ,あたしも言われたわ,それ」

「まったく,お前はペットショップの回し者かよ,って」

 生き物を飼うということに余りにも無責任なんじゃないか,と思ったけど,だからといって文句も言えない。既に私は相当悪印象を持たれているらしい。そんなに我が侭な要求だったかなぁ……。

 その時,尿意を催してきた。そういえば昨日からずっといってない。トイレ……。妖精用のはないから,この家のを使うしかない。飛ぶしかない。また激痛に耐えながらトイレに向かった。取っ手が固くて回せない。ちょっと,開いて,開いてよ,限界近いのに……。

「あの,誰か,トイレ,開けてください!だれ……」

 下腹部が緩んだ。シャーッとおしっこが漏れ出た。

「あ……」

 しかもそのタイミングで親たちがやってきた。うそ,やだ……人前でおもらしなんて……。止まって。やだ。丸一日分貯めこんだ尿意はとどまる気配を見せず,一層激しく流れ出た。まるで滝のように。

「っち」

 父親は舌打ちして,

「月夜に掃除させろよ」

 と言って姿を消した。母親も渋い顔で後始末の準備を始めた。

「あうぅ……」

 私はフラフラと床に降り立ち,次第に面積を広げていく黄色い海の上で泣いた。


 水槽の中に「トイレ」が設けられた。ハムスター用の砂トイレ。全面ガラス張りの中でここにしろっていうの?

「コモチンの捨てなくてよかったわねー」

 妖精用のトイレを買って欲しい,という私の嘆願は却下された。

「ったく,最近のペットは卑しいな。動物まで金金言い出したら,世も末だ」

 ペットじゃないよ。人間なんだから。本当だもん……。どうやら父親には完全に嫌われてしまったらしい。

「おもらしおもらしー」

 月夜ちゃんは私を指さして笑った。こんな小さい子におもらし現場を見られるなんて……。穴があったら入りたい。

 布団は用意してくれなかったので,仕方なくうつ伏せで寝ることにした。固く冷たいガラスの感触が私を一層惨めな気分にたたき落とした。これならペットショップの方がずっと良かった。人間らしい暮らしがしたい。動物扱いは真っ平だ。


 羽根の痛みが引いた日,私はパソコンを探して家の中をうろついた。どうやら父親の書斎にしかないらしい。こっそり入り込んでキーボードを足で踏み,文字を入力した。「私は人間です,助けてください……」という感じの文章が打ちたかったけど,それは許されなかった。やはり禁止行動にされているため,「私は妖精です」という文章になるよう,体の動きが矯正されてしまう。そうこうしていると父親が書斎に入ってきて,怒鳴られた。

「おい!勝手にいじるな!」

「ひゃっ,ごめんなさい!」

 急いで書斎から逃げだし,リビングで筆記も試したが,結果は同じだった。ここで妖精としてペット生活を続けるしかないのか……。

 子供部屋に戻ろうとすると,父親が母親に対して愚痴っているのが聞こえてきた。

「ったく,あいつ勝手に注文とかしてねーだろうな」

 そんなことしないよ……できないようプラグラミングされてるんだから。もう挽回不可能なところまで私の印象が悪くなっていそうだ。じゃあ,どうすれば良かったの? 私,そんなに酷いことばっかりした?


 これ以上嫌われたくなかったのと,体調が優れない(こんな生活しているのだから当然だ)ことから,私は水槽で大人しくしていることが多くなった。

 月夜ちゃんは程よく私に構ってくれたが,乱暴なのでどうしても少し距離を置かざるを得ない。それがまたよくない印象を与えているようだった。口頭で何度か丁寧に扱ってくれるならもっと遊んであげる,と注意したものの,その度に「あたしがいじめてるっていうの!?」などとプリプリ怒るので,中々うまくいかなかった。私の言い方が悪いのかなぁ。でも一度でも握りつぶされたり強く叩きつけられたりしたら取り返しがつかないから,私とて慎重にならざるを得ない。こいつら,絶対に手当できないし,例え骨折しようとも,病院にも連れて行ってくれないだろうから。

 月夜ちゃんも一応歩み寄りの姿勢はそれなりに見せてくれた。着た切り雀だった私に,着せ替え人形の服を「あげる-」と言ってプレゼントしてくれた。嬉しかったけど,着ることはできない。羽根があるからだ。私は出来る限り言葉を選んでやんわりとそのことを伝えたつもりだったが,月夜ちゃんは機嫌を損ねた。

「ふーん。着れないならいいよ。返して」

 切り込みを入れて妖精仕様にしよう……とまでは思わないらしく,人形の服は全て持って行かれた。背中側で切れば着られるよ,と言ったら今度は「切っちゃうなんてダメ!」といって怒り,結局私は買われた時に来ていた白のワンピースだけで過ごした。ずっと着ているから,次第にシワシワのヨレヨレになり,スカートの先はボロボロになっていった。


 八月になると,月夜ちゃんはトイレの世話もしてくれなくなった。臭うから早めに,と言っても「あとで」というばかり。終いには母親に「やってー」とねだる始末だった。母親は「ちゃんと面倒を見なさい」というと,渋々重い腰を上げてくれた。恨めしそうな目で私を見ながら,月夜ちゃんはハムスター用の砂トイレを持って部屋から出ていった。私だって,できれば人に下の世話なんか頼みたくないし,そもそもガラス張りで周囲から丸見えの中,おまるみたいな砂トイレに用を足すのがどれだけ屈辱的で恥ずかしいと思ってるの。世話がいやならトイレの取っ手を回しやすくする工夫をしてほしい。

 食事もこっちからリビングに押しかけない限りはわけてくれない。その上,こっちから「わけて」と要求すると,月夜ちゃんは不服そうな顔をするのだ。

「コモチンはあんな風にわけてー,なんて言わなかったのに。いやしんぼ」

 部屋に戻ると月夜ちゃんは私にそう言った。そりゃハムスターがそんなことするわけないじゃん。というかハムスターに餌あげてたんなら,私にも普通に……。あ,この子ハムスター死なせたんだっけ。

 一家全員が私にヘイトを向けつつあるのが辛く,腹が立った。そっちの都合で買っておいて,何なのこの扱い。私は買うなって言ったのに。人の都合で勝手に飼い始めたくせに,面倒くさくなったら入らない子扱いしだすなんて,身勝手すぎる。私だってこの家で飼われるのは嫌だ。首輪とナノマシンがあるから逃げられないだけなのに。いらないならペットショップに戻して欲しい。あっちの方がよっぽどまともな扱いだった。


 八月終盤,月夜ちゃんは宿題を大慌てで片付け始めた。そのうちの一つ,自由研究「妖精観察日記」の作成にあたって,私に協力を求めてきた。私はこの家に買われてからの一ヶ月半にあったことを,覚えている範囲でできるだけ正確に教えてあげたつもりだったが,月夜ちゃんには気に入らない内容だったらしい。

「あたしもっとお世話したでしょー!?」

「あ,いや,別にそういう意味じゃ……」

「あたしが嫌いならそう言ってよ!」

「嫌いじゃないよ,誤解……」

「じゃーなんでそんなに酷いことばっかり覚えてるの!」

 酷いことばっかりされたから……とは言えない。最終的には自由研究はそれっぽく仕上がったが,捏造された内容や,ほんの小さなお世話を針小棒大に恩着せがましく書いたものが大半を占めた。これを読んだ先生は真面目に妖精をお世話ができた,と思うのだろうか。私はもう髪もボサボサで伸びっぱなしだし,服も汗まみれの白ワンピ一着なのだが。顔にも大分疲れが目立つ。こんな生活がこれから何年も,死ぬまで続くのだろうか。それを考えると悪寒が走る。水槽には隙を見て拝借したティッシュで作った寝床があったが,それでも快適とはほど遠い。人間に戻ることはもうできないのだろうか。あのヤクザの会社が摘発される日がやってくるのを待つしかないのか。

 九月になると,月夜ちゃんは日中学校へ行くようになり,少しストレスが軽減された。しかし,在宅仕事の父親がずっと家にいるので,自由に家の中を満喫するわけにもいかなかった。特に仕事の締め切り近くになると,私が視界に入っただけで怒鳴ることも多々あったので,かなり配慮しなければならなかった。


 九月の第一週が終わる頃だった。いつものように月夜ちゃんのご飯をわけてもらったその直後。

「んー,自由研究終わったし,サクラちゃんもういーよ」

「え?」

 月夜ちゃんの言葉に,私は耳を疑った。

「そうだな,家の中汚すし」

 よ……汚す!? もしかしてトイレ前で漏らしたことを根に持ってる? あれ一回だけなのに!

「こら,月夜。ちゃんとお世話するっていったでしょ」

 家族会議では父親が私を嫌っていること,月夜ちゃんがもう興味を失っているらしいことが強く作用した。母親は娘を叱ったが,とはいえ私を好いているわけでもないので,「捨てる」という結論に達した。彼らが私に意見を聞くことはなかった。私もこの一家が好きなわけではなかったので,ちゃんと面倒をみてほしいと言い出すことができなかった。

「妖精を捨てるのってどうするんだ?」

「近くの山にでもおいてくればいいんじゃない?」

「ついてきちゃうんじゃないかしら」

 恐ろしい会話が目の前で繰り広げられている。おぞましさに目眩がする。人との違いなんて羽根くらいなのに,まるで釣った魚の放流か何かみたいに。会話だって成立する相手を,こんな風に扱えてしまうものなのか。その時,私が潰した妖精の卵の記憶が脳裏にチラついた。してきた。私も……。

「あ,あの……あたしたちは電子首輪とナノマシンで制御されているから,そういう風には捨てられないです……」

 それでも怖ず怖ずと発言すると,父親が大きなため息をつきながら言った。

「はぁー。最近のは面倒だな」

 買ったときの書類に書いてあったし,この人はサインもしたはずだけど……読んでいなかったんだろうな。

「わかった。明日父さんがペットショップに連れて行くよ。そこで処分してもらおう」

「えっ……しょ,処分!? 嫌です!」

 要らなくなった妖精の処理は二通りある。ペットショップに売るか,ショップ,動物病院,保健所などに連れて行き「処分」……つまり殺してもらうか。

「う,売った方がいいですよ! 少しですけどお金も戻ってきます!」

「ん,そうなのか?じゃあそうするか」

 私はホッと安堵した。ペットショップに戻れるなら,それにこしたことはない。傷物の中古になるから,以前よりもランクが下がるだろうけど,ここよりはマシなはずだ。この時の私にはこの家から出て行ける,ということが明るい希望に思えた。


 私は通販の小さなダンボール箱に入れられた。外の様子が見えないし,ほとんど身動きがとれない。父親と店員との会話が聞こえ始めると,ようやく外に出してもらえた。そこは確かにペットショップだった。しかし,私がいたのとは違う。

「え,どこ,ここ? あたしのいたのは違うよ……」

「んんー,大分健康状態が悪そうですけど,ちゃんと世話しました?」

「娘がねー,ものぐさなやつでして」

 私の言葉を誰も聞いていない。周囲を見渡すと,壁に貼られた「妖精高価買い取り」のチラシが目に入った。

「買い取りはできませんねー,誠に残念ですが……」

「なんだよ,まったく……」

「でも,処分はできますので,よろしければお引き取りしますよ」

「ああ,なんだ。じゃあ頼むよ」

「ありがとうございます。こちらのポイントカードはお持ちで……」

 え,うそ。今なんて言った? 私処分するって!? ……殺すって事!?

「待って待って! あたしまだ大丈夫だよ! 元気……」

 店員の一人が私を掴んで,ケースに入れて蓋をした。手慣れた感じでまったく隙がなく,私はどうすることもできなかった。

 ケースは透明ではないので,外の様子はうかがえない。ピー,という機械音が首輪から響いた。カチッ,と乾いた音が響き,二つに割れて,床に落ちた。電子首輪が外れた……ということは,私はあの一家の飼い妖精ではなくなったということを意味する。その後,会話と足音から,手続きを終えた父親がショップを出ていったのもわかった。

「出してー! 待ってくださーい! あたしまだ……その……売れますよ! だからお願い!」

 まさか自分から自分の商品価値を訴えることになるなんて,思ってもみなかった。だけど今の私にはそれしか残されていない。壁をバンバン叩いた。

 誰かがケースを持ち上げた。小刻みに揺れる浮遊感……運んでいる。店の奥に。私を殺すために……。

(人間なの! 私人間なんです! 妖精じゃないんですーっ!)


 どこかに置かれた後,蓋が開いた。私はすぐに飛び上がった。逃げよう。逃げないと。だけど透明な壁にぶつかり,あえなく望みは砕け散った。ケースを出た先はまた別のケース。最初から逃げられなかったのだ。四方を透明な壁に囲まれ,そのうちの一面に,ガスの注入口がついているのが見える。私はこのケースを知っている。誰よりも。

「この子手入れすりゃまだ売れるんじゃないの?」

「妖精は中古売れないんだよ。羽根も目立つ傷あるし」

「あ,ほんとだ。まー仕方ないですね」

 壁の向こうに立つ巨人たちが,私を殺すためのガスを入れるスイッチを押そうとしている。嫌だ。死にたくない。妖精のまま,妖精として殺されるなんて。でも私は,自分が人間であることを誰にも言うことができない。

「助けて! お願い! 出して! 違うの! これは……飼い主の子と少し喧嘩しちゃっただけなの! すぐに引き取りにくるから! 待って!」

 私は全力で壁を何度も叩きつけながら,必死で命乞いした。何でも良い,出して,殺さないで……。

「やだなー,可哀想」

「あー,妖精の言うこととか,いちいち真に受けなくていいから。どうせ嘘だし」

「そっすね」

「あたしは! サクラッ……じゃなくって! 妖精……なの!」

 お願い,矯正しないで。一回でいいから,言いたいことを言わせてよ。死にたくない。助けて,誰か……。

 私の嘆願が届くことはなく,スイッチが入れられ,白い煙が徐々にケース内に広まっていく。私は反対側の壁に背をつけた。気がついたら涙が溢れ,ボロボロと情けなく流れ落ちていた。きっと今,私は見るに堪えない酷い表情をしているだろう。絶望に顔を歪めて,涙で泣き腫らして……。

 すぐにケース内は真っ白に染まり,私の視界も霧に包まれた。息が苦しい。できない。息を止めたが,無駄な抵抗だった。すぐに限界になり口を開けた。だけど入ってくるのは白いガスばかり。そこに酸素はない。吸っても吸っても,息したことにならない。肺が酸素を求めて呼吸を早めた。私はハァハァとうめき声を漏らしながら,急速にガスを吸い込んだ。空気は……酸素はないの……。ケース内をフラフラとさまよい歩きながら,あるはずもない空気を探したが,足が動かなくなり,私は崩れ落ちた。もうダメ。死ぬ。わた


 自分の咳で目が覚めた。何度も大きく体を跳ねながら喉が脈動し,空気を肺に取り込んだ。ここは……。私どうしたんだっけ。

「あれ……。うわっ,この子生きてますよ」

「あ? 嘘だろ……うわ,マジか」

「あ,あれ? ガス足りなかったですか?」

「いや,まだ余裕あるし……っかしーな」

 次第に頭がハッキリしてきた。私は確か,ガスで処分されて……。生きてる,みたい……。体には力が入らず,起き上がれない。蓋が開き,店員が手を入れて,ペチペチ私を叩いた後,体中をまさぐった。人間ならセクハラだろうが,今は何もいう気力がない。

「このガス,妖精なら絶対死ぬはずっすよねー」

「そうなんだよ,簡易人造細胞なら死ぬはず……ああ」

 店員が手を抜いて,また蓋を閉めた。

「わかった。この子,あれだよ。ほら,噂の……『ヤー産』」

「え,マジで。ホントに!? うわー,マジすかー,始めて見ますねー」

 理由がわかった。私は元人間の上,医療用の人造細胞を使っているから,ガスが効かなかったのだ。ただ単純に,窒息しかけただけだったんだ。

「え,じゃあどうします? もう一回……」

「いや,医療用だと人間と同じだから,効かないと思うよ。現に生きてるし」

 人間と同じ……じゃなくて,人間……なの。全身に酸素が運ばれたのか,私はゆっくりと立ち上がることができた。

「たす……け,て」

 壁にもたれかかりながら,枯れた声で懇願した。しかし,小さすぎて聞こえなかったようだ。

「じゃあ……直接?」

 片方の店員が,キュッと鶏の首を絞める動作をした。

「いや……それはちょっと……」

 店員はやや顔を青くしながら,私を見下ろした。流石に,直接手で殺すのは気が引けるようだ。私はまた崩れ落ち,その場に座り込んだ。肩で息をしながら,必死に天に祈った。

「君たち,早く戻りなさい。いつまでかかってるんだ」

「すいません,実は……」

 やや立場の上らしい店員が加わり,私の処遇について会議になった。最終的に偉い店員が引き受けるということになり,私は別のケースに収容された。外の様子は見えない。とりあえず助かったのかな。もう身も心もボロボロで,泣く気力や体力すら残ってはいない。


 私を引き取った店員は,服を剥ぎ取り,お湯に入れた。いい感じの温度で,疲れがとろけ出ていくようだった。裸を見られるのは嫌だけど,それ以上に心地よさが勝ったので,あまり気にもならなかった。さらに慣れた手つきで私の体を洗って,汚れを落としてくれた。

 お風呂から出た後は髪をタオルでガシガシ拭かれ,丁寧に梳かされた。この人が飼い主だったらよかったのに……。いや飼われるってこと自体ダメでしょ。いつの間にか妖精としての立場を受け入れかけていた自分が嫌だ。

 可愛らしい服を着せられ,大きなリボンで髪をツインテールにされたのは子供っぽくて嫌だったが,鏡を見ると意外と様になっていた。悔しいんだけど,なんだか嬉しくもあった。顔と体を幼くされたおかげか,女児みたいなコーデが似合っていた。なんだかこそばゆい……。最後に軽い化粧まで施した。この人は私をドレスアップしてどうする気なんだろう。また売るのかな?

「そこ立ってくれる?」

 店員さんは白い円形の台座を作業台に置き,私にそこに乗るよう促した。何するんだろう。

「大丈夫。写真撮るだけ。宣材。宣材わかんないか。もっといい飼い主に見つけてもらうための写真だよ」

 ああ,やっぱり売るんだ……。でもいいか。その程度なら。救ってもらった恩もある。それに,人形病にかかってから一年近く,お洒落なんてまったくできなかった。そんなわけで,私は年甲斐もなく,ちょっとテンションが上がっていた。いい年してこんなぶりぶりのアニメキャラみたいな格好するのは恥ずかしくはあるんだけど,色んな意味で人間扱いされなかったこの夏のことを思うと,こんな風に可愛くしてもらえたことがとても嬉しい。写真撮るくらいどうってことない。そう思えた。

 台座の上にチョコンと立つと,ポーズを指示された。

「両足閉じて……両手合わせて,そう。で,祈る感じで。そうそう。いいね,すっごい可愛いよ」

 照れくさい。恥ずかしい。けど悪い気はしない。最後に笑うよう言われたので,私は笑顔を作った。今なら普通に笑える。作り笑いじゃない笑顔だ。

「はい,そのまま。ちょっと待ってね,照明つけるから」

 店員さんは私の真上に何か器具を置いた。見上げると,ポーズを維持するよう注意された。あの器具,照明には見えないけど。穴が開いていたし。どっちかというとシャワーみたいだった。なんにしても早くして欲しいな。恥ずかしいから。

「はいオッケー,じゃいくよ,一,二,三……」

 店員さんはスマホを構えた。その瞬間,シャーッという音と共に液体が私に降りかかった。

(ふぇっ!?)

 思わずその場を離れ……られなかった。体が動かない。頭上から液体を浴びた瞬間に,私の体はカチカチに固まり,一寸たりとも動かせなかった。

(な,何!? 何をしたの!?)

「うし。固まったな」

 店員は私を指で軽く叩いた。コン,コンとまるで陶器を叩いたかのような音が響く。こ,この冷たい音が私から出てるの!?

(写真撮るんじゃなかったの? 早く元に戻して!)

 声も出せない。視線すら動かせなかった。身動きがとれない……。あの液体は何,私に何したの,どうしてこんなことを……。訳が分からずパニックに陥っていると,他の店員が姿を見せた。

「お,可愛くなりましたね。これならまだ売れたかも」

「やめとけって。ヤクザの闇妖精なんか売ったら色々怖いしな」

「それもそっすね」

「ま,人形としてなら俺のツテで売れるからな。いい値がつくぜこれ」

 な,何それ。私を人形として売るってこと!? 信じられない,どうしてそんな酷いことを……。それより私の体はどうなっちゃったの。まるで時間が停止しちゃったみたい。どうしたら動けるの。

「羽根の傷が残念ですねー」

「後で塗るから消えるよ」

 店員は液体を浴びせた器具を片付け始めた。「生体保存液」のラベルが貼られた瓶が,たまたま私の視界に入った。知ってる。ある人造生物と既存生物の子供を駆除するときに使ったことがある。生け捕りにしろって厳命だったから,生きたまま生物を標本化するあの液体を使ったんだっけ。……あれを私にかけたの!? 私は標本にされちゃったってこと!?

(嘘でしょ,標本になんか……人形になんかなりたくない)

 妖精駆除を請け負う同業他社で,捕らえた妖精を人形にして売る人がいるらしい,と聞いたことがある。きっとこの人もそれと同じだ。私を妖精の人形として売るつもりなんだ!

 標本化されていなければ涙が出ていただろう。優しく丁寧に私を洗って,ドレスアップしてくれたのは,全部人形にするためだったんだ。

「これ,腐ったりしません?」

「平気さ。元々は貴重な動植物の生体サンプルを残すために作られた技術だから。健康状態も保ったまま,半永久的に保存してくれるから,人形だって言えばまずバレねー」

「へー」

(そんな。永遠に,私は指一本動かせない人形のままなの?)

 生体保存された生き物,死ぬっけ。聞いたことない。ずっと保存できるとしか。下手したら私,死ぬことすら許されず永遠にこのままってことも……?

 ダメだ。気が狂いそうになる。逃げなくちゃ。私は人間なんだ。妖精でも人形でもない。こんな液体なんか……。

(んんっ……ぐっ……)

 体に力を入れようとしたが無理だった。力を入れるということそのものができない。比喩ではなく,私の体は時間を止められているのだ。

 店員が私を掴んだ。台座ごと私は宙に浮いた。姿勢を一ミリも変えないまま。髪の毛すら微動だにしない。本当にこれじゃ人形……それもフィギュアのようだ。

 別の作業台に置かれた私に,店員は絵の具をつけた筆を向けた。今度は何なの?

 右翼にくすぐったい感触が走った。飛び跳ねたい。声を上げて身悶えしたい。こんなにこそばゆいのに,私は微動だにできず,ただジッとしていることしかできない。それが果てしなく苦しかった。

「はい,完成」

 冥土の土産かせめてもの情けなのか,店員は私に鏡を見せた。人間ではアニメでしかありえない大きなリボンで結った,長いピンクのツインテールに,フリルでいっぱいの可愛らしい白いドレスに身を包み,蝶のような羽根を広げて微笑む妖精の人形が映っていた。私は目を背けたかった。これが自分だなんて信じたくない。でもそれすら許されず,強制的に現実を直視させられた。このポーズをとって笑ったのは自分だ。年甲斐もなくおだてに乗って,こんな痛々しい格好を……。自分が情けなくて,惨めで,いたたまれなかった。しかも,これからずっとこの姿のまま固定されるだなんて……。生き恥とはまさにこのことだろう。再び動き出そうと試みたが,体に指令を出すことができない。私の体は最初から樹脂の固まりであったかのようだ。私は心の中で泣き叫んだ。妖精どころか,その人形にまで落ちぶれてしまうなんて。あんまりだよ。一生このまま? 本当に? 誰か何とかして。このフィギュアの台座から私を下ろしてよ……。


「これはすごい。まるで生きているみたいですよ」

「ははは,でしょう」

 私はアニメキャラのグッズが所狭しと並ぶ,オタクショップに売られてしまった。勿論,正真正銘のフィギュアとして。「処分するはずだった妖精を固めたもの」とは一言も説明しなかった。

 見も知らぬアニメキャラのフィギュアが並べられたガラスケースの中に,私も入れられた。コトン,という音と共に,私は樹脂の塊であるフィギュアたちと同じ存在になってしまった。

(違うの! 私はフィギュアじゃないの! 生きてるの! 本物の妖精なのーっ! ……いや,妖精,でもないけど……)

 棚に鍵がかけられ,店員が視界から消えた。そんな……。体は頑として動かないし,声も出せない。視界にあるのは,ガラスにうっすらと映る余りに惨めな私の姿と,巨大なオタクグッズの山。私の左右にあるのはフィギュア。それに挟まれた私も,もはやただのフィギュアでしかなかった。この店の人も,客たちも,誰もが私を妖精のフィギュアだと思っているのだ。

(どうすればいいの……?)

 絶望的だった。助けは絶対にこない。だって,もはや誰も私が生きていると知らないんだから。かといって,自力で何をすることもできない。生体保存された私の時間は決して動き出すことがない。詰んだ。

 棚の前を通り過ぎていくオタクたちに,心の中で呼びかけた。無論,誰一人その声を聞いてくれる人はいなかった。あるオタクは私をジロジロ眺めながら,ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべた。自分の十倍ある巨大さと相まって,鳥肌が立つほど気持ち悪かった。それでも,私の体の皮膚は鳥肌を立ててくれない。それすらできない。私は両手を胸の前で合わせたまま,ただひたすらに微笑み続けることしかできない。

 閉店して人がいなくなり,店の照明も落ちると,私は暗い店内のガラス棚の中に一人ぼっちになった。怖い。心細い。

(誰かいないの……?)

 周りに居るのは命を持たないフィギュアだけ。私もその一員なのかと思うと死ぬほど悔しく,じれったかった。このままフィギュアに埋没していくなんて嫌だよ。私は人間なの。こんなところで固められて展示されるようないわれは……。妖精をたくさん殺したから? だとしたら,私よりももっと罰を受けるべき連中がいっぱいいるはずでしょ。何で,どうして私がこんな末路を辿らなくちゃいけないの……。


 それからずっと,私は身動きもできず,うめき声一つ出せない状態で,ただひたすらに笑顔で店を彩るだけの日々が続いた。それは恐ろしい拷問だった。誰も私に気づいてくれない。ガラス棚の中のフィギュアに人間が混じっていることに,一週間たっても,一ヶ月たっても,誰一人気づかない。固められた妖精だとすら思ってはもらえない。せめて意識がなければよかったのに。どうしてこうもはっきり意識と五感が残ってしまったんだろう。それこそ人間だからなのかな。生まれつきの妖精だったら,本当に完全に私の時間は止まっていたのかも。目が覚めたらこの悪夢から解放されていて……。

 解放される日,来るのかな? この分だと,永遠にフィギュアでいるほかないとしか思えないよ……。


 今が何月かもわからなくなったころ,私は一人の青年に購入された。

(えっ,あっ,待って)

 当然,文句を言うことも逃げることも不可能だ。梱包されて,私は青年に手渡された。どうしよう。どうにもできないけど。妖精にされ人形にされ,ここまで人の手を渡ったら,もう元凶のヤクザたちが捕まっても,私は永遠にこのままかもしれない。ヤクザは私を人間だと知っていた。ペットショップの人たちは私を生きた妖精だと知っていた。でも,今私を売買した二人はどちらも,私が生きていることを知らない……。ただのフィギュアだと思ってる……。いよいよ,私は生物ですらなくなったのだ。


 青年の家で私の梱包が解かれると,青年以外にもう一人,金髪の妖精に出迎えられた。

「きゃっ,かわいい」

「なっ,すげーよくできてるだろ」

 アリスと呼ばれた妖精は,私をツンツンつついた。青年とは仲がいいみたいだ。私は胸が苦しくなった。私も,良い人に妖精として買ってもらえていたら,きっとこんなことにはならなかったのに……。主人と仲睦まじく談笑するアリスを見ていると,嫉妬と羨望,そして悲痛な絶望が胸中を渦巻いた。同じ妖精なのに,アリスは自由に動けて,飛べて,喋れるんだ。なのに,私はフィギュア。動くことも飛ぶことも喋ることもできない。私を「よくできたフィギュア」扱いして笑う妖精を目の当たりにすると,自分が本当に妖精よりも下位の存在にまで落ちぶれてしまったのだということを嫌と言うほど思い知らされる。もういや,どこまで私を辱めれば気が済むの。

 開封の儀が終わると,簡単に洗われた後,玄関に飾られた。青年もアリスも,私が人間だとも妖精だとも気がつかない。これまで通り,台座の上で微笑んでいるだけの生活。玄関なので二人の生活の様子は音だけでしかうかがい知れない。最初の数日は,日中にアリスが玄関で固まっている私をつついたりして遊んでいたが,反応のないものを弄っても楽しくないのか,すぐにしなくなった。日中のアリスはゲームをしたり,タブレットを弄ったりして遊んでいるようだ。私はアリスが妬ましかった。月夜ちゃんの家があれくらい妖精に優しかったら。

 夜に青年が帰宅すると,私の目の前で「おかえりなさーい」と叫びながら,青年の顔に飛びついていちゃついた。私にはそれが自分への見せしめ,当てつけであるかのように感じられ,ますますアリスが憎くなった。やめてよ。もうわかったから。助けて。同じ妖精なんだから気づいてよ。私もあなたの仲間なの。玄関で埃を被るために生まれたフィギュアじゃないのよ。

 願いが通じたのか何なのか,ある日からアリスは,たまーに私を拭いてくれるようになった。深い意味はないだろう。玄関の置物が埃を被っているとみっともないと,青年が考えたに違いない。でも少しだけ,私をキュッキュと拭いてくれるアリスに対して,敵愾心が癒やされた。


 青年は人付き合いのいい方らしく,イベントごとに友人らしき人物たちが上がり込んで,楽しそうに飲み食いする音,話す声,遊ぶゲームの音が玄関まで響いてくる。それが私の孤独を一層辛いものにした。アリスが輪に参加して「かわいい」「さすがアリスちゃん」「気が利く~」などと賞賛を浴びているのだから尚更だった。私だって……。体が動けば。始めて私を見た来客たちは「かわいい」「生きてるみたい」と私を褒めてくれたが,置物としての賞賛なんていらない。その度に現実に引き戻され,自分がただのフィギュアにすぎないことを痛感させられてしまう。そして,二度目以降の来客たちは私に何の注意も払わなくなる。訪ねてきた人,帰っていく人たちが心底憎らしかった。これだけ雁首揃えておきながら,本当に誰も私が生体標本だってわからないわけ? 逆恨みだってわかってる。でも誰かに何かをぶつけなければ正気を保てなかった。

 ハロウィン,誕生日パーティー,クリスマス,大晦日,正月……。過ぎていく月日に私の苛立ちと焦りは増していく一方だった。本当に死ぬまでここで妖精の置物を演じ続けなければいけないのだろうか。もしも仮に助かったとして,短くない年月が経っていたとき,私は社会復帰できるのだろうか……。


 月日がたったある日,青年は家の大掃除を始めた。アリスとの会話から察するに,要らないものをまとめて捨てるつもりのようだ。青年は玄関に姿を見せたかと思えば,古い靴などを整理し始めた。ボーッと眺めていると,振り返って私を見た。何か悩んでいる風だ。え……ちょっと,まさか……。

 不安は的中。巨大な手が私を掴んだ。私は抵抗の意思表示すら許されぬまま,廊下を運ばれた。今の私には床からの距離は数メートルの高さに感じられる。身動きのとれないなかそんな高さを運ばれるのは恐怖だ。もう長いこと玄関に飾られたまま一歩も動かずにいた分,余計にそう感じる。青年は私をゴミ袋の中に入れてしまった。

(いやっ! やめて! 捨てないで!)

 私は胸中で絶叫した。無駄だとわかっているはずなのに,それでも叫ばずにはいられなかった。

(私人形じゃないの! 生きてるの! 人間だったのーっ!)

 袋の中には次々とゴミが詰められていき,私の視界を覆っていった。嫌だ,助けて。死にたくない。このまま妖精にすら戻れずゴミとして死ぬなんていやだ。何とかして動こうとした。でもダメだ。体が動かない。うめき声一つもらせない。

(あああっ……そんな……)

 私は焦った。何とか,何とかならないの。指一本動かせないし,声も出ない,周りはみんなフィギュアだと思ってる……。希望がない。いやぁ……こんな死に方いや……。

 私を入れたゴミ袋は玄関に置かれた。後は次の朝にゴミ捨て場に出されるのを待つばかりだ。

(お願いです! 出してください! 何でもしますっ! ……い,一生人形のままでもいいからぁっ! 捨てないでぇ!)

 心の中でいくら叫んでも,無駄な努力だった。全力で体を動かそうと努めたが,やはり徒労に終わり,やがて家の明かりが落ち,静かになった。青年は寝てしまった。もう誰も,助けてくれる人はいない……。

(助けて……誰か……動けないの……でも生きてるんだよぉ……誰かぁ……)


 私はとてもじゃないが寝られなかった。逃げることも助けを求めることもできないまま,絶望の中,ゴミ収集車の中で潰れて死ぬ運命が数時間後に迫っているのだから。

 その時,ガサガサと音がした。誰かがゴミ袋を開けている。でも青年が起きた気配はない。足音もしなかった。

(だ,誰?)

 ゴミの海をかきわけて,何かが近づいてくる。柔らかい手が私を掴んだ。私と同じサイズの手。妖精の手だ。

(アリス……?)

 アリスはんーんー唸りながら私を引っ張り出して,全力で羽根を激しく上下させながら,廊下を飛んだ。

(な,何? 助けてくれた……の……?)

 予想外だ。アリスも私が生きてることは知らないはずなのに。手入れ担当だからか,或いは自分と似ていたから情が移ったのだろうか……?

 風呂場に連れて行かれ,アリスはシャワーを使って,私に熱湯を浴びせた。妖精用のちっちゃなタワシでゴシゴシ体全体をこすった。徐々に私の体に生気が戻り始めた。ピクッ,ピクッと体が動くようになり,一時間すると力を入れると,手足をぎこちなく動かせるまでになった。最後にお湯の中に何度も浸けられ,朝日が昇る頃,私の体は再び時を刻み始めた。

「えっと……ありがとう……?」

 私はアリスに礼を述べた。どうして助けてくれたんだろう。そして,何故私が生体標本化した妖精だとわかったんだろう?

「どういたしまして。今までゴメンね,助けてあげられなくて。マスターの持ち物には手出しできないから……」

 アリスの話に私は驚いた。最初に一目見た時から,哀れな末路を辿った「同族」だとわかっていたのだという。でもナノマシンの禁止行動で手出しできなかったのだと説明し,泣きながら私に頭を下げてきたのだ。それを見て私はもらい泣きした。胸が苦しい。こんなに優しくて,人思いで,美しい心を持った生き物を,昔の私は虫のように見下して殺してきたのかと思うと,やましさと罪悪感に胸を強烈に締め付けられた。最っ低だ,私。そしてそんな私を妖精が助けてくれたという事実。過去の後悔と,すまないと思う気持ち,死なずに済んだ安心感,アリスへの感謝,色々な思いが洪水のようにあふれ出して,涙が止まらなかった。今度はアリスが私を見て冷静さを取り戻し,優しく抱きしめ,慰めてくれた。私は幼い子供のようにアリスの胸に顔を埋めて泣いた。

「あと一時間でマスターが起きるわ。その前に……」

 アリスは最後にチョコを一粒食べさせてくれた。食事をするのはいつぶりだろう。一年ぐらい前だろうか。忘れかけていた味の感覚が,また私の心を刺激して,どうにも涙を止められそうになかった。自分がこんな泣き虫だったとは知らなかった。この年になってみっともない……。

 余りに泣いたからか,水も飲ませてくれた。最後に,アリスは家を出て逃げるよう言った。マスターに見つかると大変だから,と。真面目なのはいいが,生真面目すぎる嫌いがあるので,私を見たら保健所に引き渡してしまうだろう,と。私も出ていくことに相違はなかった。

 お風呂場から出ようとした時,私は飛ぼうとして転んだ。

「大丈夫?」

「平気……」

 長い間固まっていたので,体の動かし方がわからなくなっていたのだ。特に飛び方が。でも生体保存だったためか,すぐに勘を取り戻し,概ね自由に飛べるようになった。

「じゃあ,元気でね。人間に見つからないようにね」

「うん。本当にありがとう」

 扉が閉まった。私は高く飛んだ。早朝の静かな町が朝日に照らされ,とても綺麗だった。私,生きてる。自由になれたんだ,と思うと段々テンションが上がり,虫みたいにブンブン飛び回った。こんなに自由に飛べるなんて。どこにでもいけるんだ。いいなあ。すごいや。人間だった時は近くのコンビニに行くのも一苦労だったのに。こっちの方が遥かにいい。まあ……妖精のままでは人権がないけど。


 ゴミの日とあって,早くから人の姿が現れた。私はマンションの天井のヘリに座って,人の往来を眺めていた。これからどうしようか。もう私を縛る枷は何もない。持ち主のいない妖精になった私に行動制限はない。あ,でも基礎的な禁止行動はまだ有効なはずだ。人を殺さない,傷つけない,そして……私が人間,羽鳥陽子だとは誰にも伝えてはいけない……。

 だから人に助けは中々求めづらい。じゃあどうしよう。喋るのも,筆記も,メールもダメ。とにかく私が人間だという情報を伝えることそのものが禁止されている今,周りに察してもらうしかない。私を知ってる人……。というか羽鳥陽子は今どういう扱いになっているんだろう。行方不明かな,多分。

(そうだ。とにかく,家に帰ろう)

 家に帰れば私を証明するものが一杯……まだ残ってるかわからないけど,知り合いを訪ねれば,もしかしたら見ただけでわかってくれるかも。「人形病の友人が行方不明」と「それによく似た妖精が訪ねてきた」を合わせれば,そう難しい推理じゃないはず。だよね? もしもあのヤクザたちが摘発されていれば,もっと話は簡単だ。

(あ,ここどこだっけ)

 私はアリスにここがどこなのか聞いておけばよかったと後悔した。見知らぬ町を見下ろしながら,私は出勤通学タイムが終わるまで,マンションの屋上で日向ぼっこした。


 極力目撃されないよう天井伝いに飛行して,大きな道路に出た。そこの看板から,大まかな地理を把握できた。ここからずーっと西に行けば名古屋に行ける。そうしたら後は簡単だ。

(けど,いつの間にかこんなに遠くにきてたんだ……)

 このサイズで乗り物を使わずに名古屋へ行くまで何日かかるだろう。いや飛べるから結構簡単かもしれない。私は西に向かって飛び立った。もうすぐ帰れるという高揚感が私を奮い立たせてくれる。太陽が真上に昇った頃,お腹が鳴った。空腹だ。私はすっかり失念していた。何か食べないと自分は死んでしまうのだということを。ずっと生体保存されていたせいで,生き物としての常識がいくつか抜け落ちていた。どうしよう。どこで何を食べれば……。餌……じゃない食事をくれる飼い主もいないし。お金もないし……。どこかからちょっとだけ失敬しようかな。いや,そんなことしちゃダメ。

 でも夏場の飛行はかなりカロリーを消費するらしく,私は我慢できなくなった。美味しそうな匂いと空腹に負け,高度を下げてフラフラと小さなスーパーに入店した。当然,買い物客たちは怪訝な表情で私を見ていたが,そんなことに注意を払う余裕はなかった。青果コーナーに飛び,パックの苺の上に着地した。パックを破って,ぬいぐるみぐらい大きな苺にかぶりついた。美味しい。甘くて瑞々しくて。恍惚としながら苺を食べている間,周りのざわめきに気がつかなかった。満腹になったころに,店員がダンボール箱を上から勢いよく被せてきた。

「っしゃ!」

「きゃっ!?」

「保健所に連絡して」「はい」

 しまった。なんてアホなことを。とりあえず,私は自分が野良ではなくペットだと主張してみた。

「じゃあ,飼い主は誰?」

「えっと……」

「野良だな」

「あう……」

 保健所に引き渡されたら終わりだ。脱出しないと。でもダンボールを破る力は私にない。どうしよう。せっかく自由になれたのに。

「かわいそうだよー」

 幼い少女の声が聞こえた。それに便乗して,他にもいくつか同情の声があがった。人間というのは現金だな,と私は思った。保健所で処分される犬や猫,妖精なんか普段は気にもしないくせに,いざ目の前で捕物帖をやられるとこれだ。今の私にはありがたいけど。

「ごめんなさい~,もうしませ~ん」

 私も便乗して,幼く舌っ足らずな感じを出して懇願した。恥ずかしいけど仕方ない。死ぬよりマシだ。

「いや,ですけどね……」

 店員さんの蓋を締め付ける力が弱くなった。今だ。私は勢いよく蓋に体当たりし,強行突破した。そのまま出口へ向かって飛び,店の外に出るとすぐ垂直上昇した。ふう。これで安心。妖精慣れしていない人だったから何とか逃げ出せた。これが保健所の人や駆除業者だったらこうはいかなかったろう。

 私は急いでスーパー上空を離れながら反省した。苺を一パック盗み食いしてダメにしてしまったことと,自分が野妖精であることへの自覚の無さに。今の私は目立ったらすぐ通報されるんだ。注意しなくちゃ。

 とはいえ,お腹は空くし,タダで手に入る食べ物が町中に転がっていたりはしない。歩きながら何か食べている人におねだり……というのも考えたけど,リスクが大きいし,そんな物乞いか幼児みたいなことをするのは自尊心が傷つく。とかなんとかいっても空腹に勝てず,私は晩にクレープ屋の前のウロウロし,人当たりの良さそうな女子高生グループに声をかけた。なるたけ可愛くなるよう,声を作って。結果的にアニメ声っぽくなった。

「ねえねえ,それちょっとちょーだーい」

 顔が火照る。恥ずかしい。この子たちの二倍近く生きている大人が,こんな声と口調で子供に物乞いとは……。

「いーよー」「きゃー,かわいいー」「写真撮っていい?」

 読みは当たりだった。女子高生たちは首輪の有無などまったく気にしていない。というかきっとその辺の事情は知りもしないだろう。クレープを食べている間,スマホでパシャパシャ写真を撮られた。「妖精ちゃんとクレープ♪」とかなんとかいってSNSに上げるんだろうな,と思うと一層恥ずかしくなった。物乞い現場を世界中に晒すとは。仕方ないけど。

「じゃーねー」

「ありがとー」

 周囲の大人たちからは「あれ野良じゃね?」という声も聞こえたが,女子高生軍団に割って入る勇気のある人はいなかったようだ。次からもこれでいこう。


 夜になると,寝床が必要だということを理解した。けど安全なところあるかな。寝ている間に冷たくなってました,じゃ困る。犬や猫に襲われてもヤバい。通報されて起きたときには保健所,もまずい。それにフカフカして柔らかい布団代わりのものがないと,羽根が痛むし寝られない。

 暗くなる前に探せばよかった。人気がなくて,猫やカラスもいないところ……。段々気温も下がってくる中,あてもなく夜の空をさまよっていると,妖精を一人見つけた。接近すると,首輪がない。野妖精だ。私は話しかけてみた。

「ね,ねえ。あなたも野良?」

「あ,やっぱり! だと思った!」

 快活そうな声を出した褐色の妖精は,住処に案内してくれた。空き地の木々に囲まれた一角,背の高い草むらの中に,ダンボールハウスがひっそりと隠れていた。中には食料と妖精用のベッドがあった。大分汚れているので,おそらくゴミから拾ってきたのだろう。

「一人分だから,こっちで寝てもらうことになるけど……」

 布を広げて,床に私の布団を作ってくれた。

「わー,ありがとうありがとう。助かるよー」

「いいって。野良同士助け合わなくちゃね」

 ズキンと心が痛んだ。私達はこの習性を利用して,ダミー妖精で彼女たちを捕らえてきた。私を招いてくれたということは,この子はダミーに引っかかるのだ……。

 次の日,朝ご飯もわけてもらった。出所は尋ねなかったが,盗品なのは間違いなかった。この子もいずれは……。「ダミーに注意して」と警告すべきか,私は迷った。人間はダミー妖精で野妖精を捕まえるという知識が妖精たちの間で共有されてしまえば,妖精の駆除は非情に困難になってしまうだろう。私は自分が人間であるという意識を捨てきれない。それに,情報の伝達速度が早ければ,今後私がこの旅の中でこうして手助けしてもらうことも難しくなるかもしれない,という自己保身も。結局,私はダミーのことを言わずに,お礼を告げてここを去った。良心が痛むけど,仕方がない。あの子を捕まえるのは私じゃないんだし……。私のせいじゃない。


 旅を続けていると,ある時期を境にして,食べ物を恵んでもらえなくなった。私を見た女子高生たちは引きつった笑顔で一歩下がるようになった。最初は理由がわからなかったが,雨上がりに水溜を覗き込むと,すぐ氷解した。旅の間,お風呂にも入らず,手入れも受けていない私は,髪はボサボサ,服もヨレヨレ,体中は汚れて,どんな子供でも一目で野良だとわかる姿になっていた。これじゃあ女子高生たちも汚くて避けるわけだ。仕方がなく,私はまた盗みを働くようになった。生きるためだから仕方ない,と自分に言い聞かせながら。自分もすっかり駆除されるべき「害獣」の仲間入りだ。私が殺してきた妖精たちも,同じ流れでものを盗むようになったのかと,今にしてようやく理解した。二重に辛い。でもその代わり,行く先々で居着いている野良妖精に助けてもらえることが多くなった。助けてくれた野妖精たちには感謝してもしたりない。でも同時に心が痛んで仕方なかった。私を助けた子たちは全員,ダミーに引っかかる子たちなのだから。善意につけ込んでこんな優しい子たちを殺すなんて。話してみると,本当にどの子も人間と変わりなかった。泣き,叫び,笑う。なんで人間だったころはわからなかったんだろう。会話は成立していたのに。サイズが違ったから? それだけでこうも変わってしまうものなのか。だとしたら人形病にかかった私が人間扱いされていたのは何故だろう。羽根がなかったからか,人間だという共通認識を周囲にもたれていたからか。どこが境界線だったんだろう。


 ボロボロの汚れた姿も,逆に同情を買う域までいったのか,たまに人間も助けてくれた。色んな人や妖精たちの助けを借りながら,夏も終わる頃に,私はようやく見覚えのある町にたどり着いた。名古屋だ。懐かしい。また生きて帰ってこられるなんて,思ってもみなかった。

 涙がポロポロこぼれてきたので,歩を止めて心が落ち着くのを待った。そうしていると,妖精が声をかけてきた。

「ねえ,どうしたの? 大丈夫?」

「あ,いや,ごめん。何でも無い……。野良?」

「うん。仲間だね」

 ここまで来たら焦る必要もない。日も沈みかけていたので,私はその子の家にお邪魔した。空き家の屋根裏全体を使った居住スペースはかなり贅沢なものだった。妖精用の生活用品,服が多く揃っている。和服がよく似合いそうな黒髪の妖精は「ヨウコ」と名乗った。私の本当の名前と同じ。

「あなたは?」

「あたしはっ……サクラ……」

「サクラちゃんか。いい名前ね」

 ホントは同じ名前なんだよ。私は心の中で呟いた。

「どこから来たの?」

「えっと……山梨のあたり,かな……?」

「あら……そんな遠くから。大変だったでしょ」

 ヨウコちゃんは屋根裏から私を連れて,その家の一階まで飛んだ。私は危ないよと言ったが,空き家(正確には別荘のようだ)だから大丈夫,とヨウコちゃんは強気だった。水で私の体を洗ってくれた上,新しい服もくれたのだ。

「そんなの受け取れないよ」

「いいのいいの。これ私には似合わなくって。羽根穴のサイズも合わなくって」

 押しに負けて,私は派手なアイドル衣装を身に纏った。

「きゃー,似合う似合う」

 鏡を見ていると,久々に自分をかわいいと思えた。汚れも落ちたし,このアイドル衣装は私のピンクの髪によく似合っていた。恥ずかしいけど。というか,やっぱり受け取れない。これで町を飛び回るのはちょっと……。

「ねえねえ,旅のお話聞かせてよ」

 暖かい布団に転がりながら,私はヨウコにこれまでの旅の話をした。そのうちに眠くなり,気づいたときには夢の中だった。


 朝起きると,久しぶりに気持ちよく起きられた。妖精用のベッドで寝られたからだ。隣のベッドにヨウコの姿はなかった。また下の階に行ってるのかな? いくら普段は空き家だと言っても,あんまりガスや水道を使うと目をつけられちゃうんじゃないかなあ。

 勝手に食料に手をつけるのも気が引けたので,元のボロ服に着替えながら,ヨウコちゃんの帰りを待った。

「あ,起きたー?」

「ヨウコちゃん。どこ行って……」

 ヨウコちゃんの後ろにもう一人,妖精の姿があった。

「この子も迷子なの。さっき近くで」

「ヨウコちゃん!そいつは偽物だよ!」

「えっ!?」

 私は大声で叫んだ。嫌な汗が顔中から滴り落ちる。私には一目でわかった。彼女が連れてきたのはダミー妖精だと。

「人間の罠なの! 逃げて! ほら早く!」

「えっ,えっ……!? ホントなの,メイちゃん!?」

 ヨウコちゃんはダミーに尋ねた。ダミーはそんなことないよと答えたが,明らかに感情がこもっていなかった。今まで妖精たちがこれで騙されていたのが不思議なくらいだ。私はヨウコちゃんの肩を掴んで言った。

「すぐ人間が来るから。急いでここから……」

 下の階から音がした。人の足音。

「わ,わかったわ。サクラちゃんも!」

 私とヨウコちゃんは出入り口から飛び出した。その瞬間,網にかかってしまった。出入り口はダミーのカメラでバレていたのだ。もがいていると,網が引っ張られ,地上に落ちた。すぐに巨人たちが迫ってきた。

「どどどうしよう!?」「お,落ち着いてヨウコちゃん!」

 落ち着いてはいられない。網はどこにも出口がなく,脱出も無理そうだった。妖精の羽根が絡まるよう設計したのだから。巨人は慣れた手つきで私達を透明なケースに入れた。ヤバい。駆除業者だ。プロだから逃げるのは無理そう……っていうかもう不可能だ。ケースにぶち込まれてしまったのだから。

 その時,ブーッブーッと音が鳴った。

「あれ?」

「捕まえましたー?」

 陽動として一階に入っていたもう一人が合流した。

「ああ,捕まえたけど……これは……」

「うわっ,第四世代すか!? マジで!?」

 私の体内のナノマシンを検知したらしい。チャンスだ。

「そ,そうなの! 私野良じゃないの! ……この子も!」

「いや,そっちは違うだろ」

 ダメか。何とかヨウコちゃんも救いたいけど,難しそうだ……。

「え,マジすか。第四の野良って全国初じゃ?」

「いやでも,首輪ねえし……電証も所有者欄空白だぞ」

「え,電証出るなら飼い妖精でしょうよ。処分すんのはまずいすよ。とりあえず社に……」

 業者は私にスマホを向けて,電子証明書を確認していた。

「お前,飼い妖精か?」

「うん! うん!」

「飼い主は?」

「……えっと」

 私は困った。誰か言わないと。でも誰を? 月夜ちゃん……絶対ダメだ。そうだ,ここ名古屋だし,誰か私の友達……ダメか。この人たちはこの後,私が出した名前に,電話で「お宅の妖精が逃げてますけど,本当にお宅のですか」って確認するはずだ。その時,電話先の相手が私の顔を見ることはない。せめて顔を見せれば,察してくれるかもしれないのに。私の名前はサクラということになっているから,名前だけだと不可能だ。誰かいない? 電話だけで私が私だと察してくれそうな。無理か。飼った覚えの全くない,サクラという名前の妖精が飼い主だと言っている。それだけの情報から私が私だなんてわかるわけがない。せめて妖精思いの人とか……。いないや。妖精に詳しい人……あ。私の脳裏に,人間として最後に会った後輩の顔が浮かんだ。

「鳥飼くん! ……鳥飼益司! 害虫駆除の会社に勤務してて……」

「ん? それって鳥飼先輩のこと?」

 私は今気がついた。この人たちは,私の務めていた会社のチームじゃん! まさか自分が野妖精として駆除される側になるなんて思ってもみなかった……。けど鳥飼くんは?

「先輩結構前に辞めたんだけど……。やっぱ嘘」

「違う違うホント! 嘘じゃない! ちょっと喧嘩しちゃって追い出されたの!」

 下手こいた。最近まで飼われていたなら転職を知らないのはおかしい……。けど私は必死で,後輩たちに訴えた。二人はまさか私が同じ社の先輩だとは想像もつかないだろう。

 最終的に,私達二人はその場では殺されず,本社に持ち帰られた。


 ヨウコちゃんと別々のケースにわけられ,私は審判を待った。目の前で電話が始まった。鳥飼くんお願い……。助けて……。

「鳥飼先輩。俺です。ちょっと確認したいんですが,妖精って飼ってました? ……ない? はいわかりま」

「わー!! わー!!」

 私は大声で叫んだ。

「うるさい!」

 バシッと叩かれ,ケースが大きく揺れた。私は思わず黙ってしまった。

「……ああ,すいません。……いやちょっと,先輩の飼い妖精だっていう奴を捕まえて……はい,はい。第四世代です。所有者欄は空白ですが。名前? ……えーと」

 後輩は胡散臭そうな目で私を見た。私は叫んだ。

「サクラ! ……あたし,サクラ!」

 羽鳥陽子だ,って言えたら。でも言えない。何かないの。禁止行動をかいくぐる方法……ここを逃したらもう……。ヨウコちゃんももう処分されちゃっただろうか。助けられなくてごめんね。ヨウコ……。

「ヨウコ! ……あの子はヨウコ!」

 私はあらん限りの大声を張り上げた。

「うっせー!」

「きゃっ」

 ケースを箱にしまわれ,私は電話から遠ざけられた。伝わったかな。もう祈ることしかできない。お願い鳥飼くん……!

「すいません先輩。妖精が……。え? 飼ってた? マジすか!?」


「ちゃんと首輪つけといてくださいよ。処分することでしたよ」

「あはは,ごめんごめん」

 私は電子首輪を装着され,本当に鳥飼くんのペットになった。もう鳥飼くんから離れられない。自由は失われた。鳥飼くんはヨウコちゃんの遺体を見せてもらった後,会社を後にした。私に何も尋ねなかった。私も余りに気まずくて,何も言い出せなかった。駐車場に出て車に乗ると,ようやく鳥飼くんが口を開いた。

「……えーっと,それで,君は本当はどこの子なの?」

 私は失望した。どうやら私だとわかって助けてくれたわけではないらしい。

「一緒,だった,でしょ?」

「うーん,僕妖精飼ったことないんだけどな……。誰かと間違えてたり……」

「……ないもん。間違えてないもん」

 少し目が潤んだ。私の顔を見てもわかんないなんて。私のことなんかもう覚えてないんだ。結構,面倒みてあげたのに。まあ羽根が生えて,若返ってて,髪がピンクじゃわかりにくいかもしれないけどさ。家に着くまで,私は沈黙を貫き通した。


 鳥飼くんの家は昔と同じだった。一度だけお邪魔したことがある。でも中はダンボール箱が一杯で,家具が姿を消していた。まるで引っ越し作業中みたいな……。

「……引っ越すの?」

「うん。結婚するんだ」

「……へえー」

 突然,私の胃が重たくなった。理由はわからない。

「……じゃあなんであたしを助けてくれたの?」

 あれ。何言ってるんだろ私。結婚と関係ないでしょ……。

「んーとね」

 鳥飼くんはスマホのアルバムを見せた。私と一緒に映った写真。いつかの仕事でふざけて撮ったやつだ。

「これ。前いた会社の先輩なんだけど,二年前に行方不明になっちゃったんだ。猫かカラスに襲われたんだろうって言ってたけど,死体も出なかったし……。そのうち帰ってくるんじゃないかって思ってたんだけど。ヨウコって名前でね。羽鳥陽子。だからもしかしたら,って思ったんだけど,まあそんなわけないよね。人間だったもんね」

 あ。だからヨウコちゃんの遺体も確認したんだ。……というか,そっちがメインだったんだね。そりゃそうか。あの電話じゃ,そういう解釈になるね。

「でも今更勘違いでしたーとかカッコ悪いから,流れで君引き取っちゃった。先輩かもしれないと思ったなんて言ったらドン引きされるし」

「ううん。助かったよ。ありがと」

 鳥飼くんは少し背を曲げ,ジッと私の顔を見た。

「そういえば君も何か……似てるかも」

「うん,うん!」

 きたきた。鳥飼くんは少し頬を赤らめながら,怖ず怖ずと尋ねてきた。

「君,羽鳥先輩だったり……する?」

 そうだよ。と答えたかった。でも私の首は黙って横に振った。違う。縦! 縦に振って! ……お願い。

「だよね。ごめん。変なこと聞いちゃって」

 鳥飼くんは背伸びしてからスマホの写真を見た。

「好きだったんだ。この先輩のこと」

「えっ!?」

 私は驚愕した。鳥飼くんが……私を!? 気がつかなかった……。胸に熱いものがこみ上げてきて,私はいてもたってもいられなくなった。

「サクラ!」

「え?」

「あたし! ……サクラ! あたしは……あたしは……」

 涙が溢れてきた。止められない。胸も痛い。ダメだ。我慢できない。私は降下して床に座り込み,ワンワン泣いた。

「あ……ええと……」

 悲劇的な恋の話に胸を打たれた……とでも思ったのか,鳥飼くんは左手の薬指を見せつけてきた。

「ほら。もう吹っ切れたんだ。大丈夫だって。……泣かないでよ,ちょっと……困るん,だけど……。ねえ,ちょっと……」

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妖精駆除要請 OPQ @opqmoru

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