分からない向こう側

三津凛

第1話

いつも同じ所で躓いてしまう。

もう一度楽器を顎あてに挟み直して弾き直す。

昔はその度に右手の甲を打たれた。打たれる度に弓の毛が悲鳴をあげるように、不快な擦過音を立てて弦を滑っていった。

何度弾き直しても上手くいかないと、嫌味なほど真っ直ぐに張られた毛を毟って弓をへし折りたくなる。優美な女性の身体みたいな形のこの楽器を硬い床に叩きつけて、その木目も分からないほど粉々にしてしまうとどうなるのだろう。

こんな風に上手く弾けない時、同じことを子どもの頃に思った。

途端に母の般若のような凄まじい形相が瞼に浮かんで、私はいつもより丁寧に弦についた松脂を拭き取った。すうっと背筋が冷たくなって、指先が強張る。

それは多分、キリスト教徒が聖書を焼いてしまうのと同じくらい罰当たりで恐ろしいことなんだと幼心にも感じていた。


私の将来は決まっている。

ヴァイオリニストになること。だから、そこから逆算して今日やること明日やること…1年先にやることだって決まっている。

多分、母のお腹にいた時からそれは決まっていたことなんだろうなと思う。小学校の頃に名前の由来を親に聞く宿題が出た時に、母はこともなげに言い放った。

「海外で呼ばれやすいようにつけたのよ」

あぁ、だから安里と名付けたのかと私は納得した。

私は高校も大学も、その先だってどこに行くか決まっている。だから、余計なことは勉強せずにただひたすら五線譜の音符を追いかけることと練習に明け暮れている。

同級生達は進路の決まっている私のことを羨ましがっているけれど、これは前進とは違うのだろうなと思う。

何度も何度も、同じパッセージを弾き直すあの感覚とよく似ている。

喜びも哀しみもなくて、段々と頭の中が真っ白になっていくあの感覚とよく似ている。

美しいけれど、何の感動もない音色だけが骨を超えて身体の中を吹き抜けて行く。


「ねぇ、何してるの」

驚いて声のした木の陰に目をやると、紺色のスカートが微かに見えた。

視線を上げるとこけしみたいな頭の女の子がそっとこちらを窺っている。

ふと市原悦子の「家政婦は見た!」を思い出す。

多分同学年なのだろうけど、見たことない顔だった。

「…お昼ご飯、食べてただけ」

指の腹についた松脂の粉をハンカチで拭いながら言う。

「そう?」

全く信用していない様子で、その子はそっとにじり寄ってくる。

「いつも中庭で食べてるの?」

「雨の日以外はね」

「雨が降った日は?」

私は少しうんざりして、

「別にどこで食べてもいいじゃない」

言い放ってヴァイオリンのケースを掴んだ。

「私、あなたのこと知ってる」

大股に歩き出そうとした瞬間に思わぬことを言われて、石に躓いたみたいにつんのめる。

「ヴァイオリンやってる子でしょ」

そう言ってその子はふふっと笑った。

「お昼休みはいつもここで練習してるの?」

「いつもじゃないけど…」

私は歩きかけながら、振り向く。

「明日晴れたら、またここに来るの?」

期待いっぱいに膨らんだ丸い頰を見ると、中3にしては幼すぎるように思えた。そして、その幼さが明日も明後日も、1年先でさえ何をして、何が起こるか決まっていないことから立ち昇っていることに気がついた。

それをどこかで羨ましいと感じている自分を振り払うように私は意地悪く言った。

「明日は雨だから、ここには来ないわ」

そうかなあ、と呑気に空を見上げるその子を置いて私は駆け出した。


始めから終わりまで、整然と計画された古典派の音楽みたいに私は毎日を生きている。単調で決まりきった生き方は、つまらなさと不思議な安心感で頭の先から足の先まで満たされる。表情の動かない石膏のように、私の顔には色がない。ふとこけし頭の幼い顔が瞼を掠める。

「何を考えているの?」

母の声はまるで雄牛のように響く。

「ごめんなさい」

弓を握る手を止めて、上目遣いに窺う。

夕飯を終えるとこうして母に練習した成果を聞かせることが物心ついた頃からの日課だ。

母がまるで額縁の向こうから睨むベートーヴェンのような顔になっていく。

そんな顔をされる度に私は指を強張らせて、目にする側から音符を取りこぼしていく。そしてますます母は厳しい顔になっていく。

一心不乱に弾いていると、私の方がヴァイオリンの付属物になってしまったような不思議な感覚になってくる。

いっそ、そうであった方が私にとっても母にとっても幸せであったのかもしれないと思った。


「やっぱりここにいると思った」

顎の辺りで切り揃えられた髪を微かに揺らして、その子が笑った。

私は何も言わず息を吐いた。

私の態度を気にする素振りもなく、当たり前のようにその子は草に座る。

「ちくちくするのね」

面白そうに呟いて持ってきた弁当の包みを開く。

雨は降らなかったし、弁当を食べる場所も練習をする場所も結局変えなかった。それは違う、と私は小さく呟く。

こけし頭が微かに私の方を向く。

変えられなかっただけ、そして多分今日も明日もその先も、決まりきった音楽の上を滑るように、私は色んなことをしていくのだろうと思った。

「安里って外国人みたいな名前よね」

その子が私を見ながら言う。

「海外で呼ばれやすいようにって付けられたから」

「へぇ」

その子はおにぎりをひと口食べると、急に黙って静かになった。

「夏美って名前の方が爽やかでいい名前だと思うけど」

目を見開くその子の反応を見て、

「あ、同じクラスの子に聞いてみたの。こけしみたいな頭してる子知ってるかって」

夏美は米粒を飲み込んでから、

「びっくりした。…こけし頭で通じたのは意外だったけど」

くすくす笑いながら言う。

「他に例えるなら、何があるのかしら…私はこけし頭くらいだけど、貴女はヴァイオリンって言えばすぐに通じるからいいよね」

夏美が心底羨ましそうに頰を緩めるのを見て、私は見慣れているあの木目を思い出す。

夏美はこけし頭くらいだけだと言うけれど、髪型は変えられる。その度に多分誰かから見た夏美も変わっていくのだろうと思った。まだ自分にルーツのある部分を見られているだけマシだろうと思った。

「何か考え事?」

夏美が静かに私を見ながら言った。

「別に」

ヴァイオリンをやってる子でしょ?

夏美の言葉を反芻しながら、無機質なものを通してでしか見られていない自分を突きつけられる。

本当はヴァイオリニストになんて、なりたくないんじゃないかとふと思う。

そう思うすぐ裏側で、慄きながら聖書を焼くキリスト教徒の姿が浮かぶ。

「私、何をやりたいかさっぱり分からない」

一片の悲壮感もなく夏美が笑う。私もつられて

「私も分からないわ」

と呟く。夏美が不思議そうに

「ヴァイオリニストにはならないの?」

私は黙って傍に置いた硬いケースを見る。

夏美がふと思い出したように言った。

「ねぇ、ラインホルト・ニーバーって知ってる?」

「知らない」

「祈りっていう詩の中にね、こんなのがあるの。変えられないものを受け入れる潔さと、変えられるものを変える勇気、そしてこの2つを見分ける知恵を私に与えて下さい。…私は馬鹿で臆病だから多分普通に高校へ行って、なんとなく大学にも行くんだろうけど、それでも何も分からないのよね」

黙っていれば私の未来は分かりきったものなんだろうなと思った。

何も考えずに、一途に1つの神を信仰するようにヴァイオリンを弾いていれば夏美のような気持ちを知ることはないのかもしれない。自分で考えようとする分だけ、傍のヴァイオリンは不幸を呼び寄せる淫猥な売女みたいな存在になっていくのかもしれない。


「今日はヴァイオリン弾かないの?」

夏美が私の顔を覗き込む。

「…弾かない」

私は足跡の付いていない中庭を見ながら言った。露骨に落ち込んだ顔を夏美が見せる。あまりにも素直な反応に背中を押されたような気がした。

「…でも、もし一緒に駅まで来てくれたら面白いもの見せてあげる」

意味ありげに私が笑うと、夏美は身を乗り出して

「行く行く!」

と叫んだ。


「これ、ずっと網棚の上に置いてありました」ヴァイオリンのケースを突き出して駅員に静かに言い放つ私に夏美が目を剥いた。でも、何も言わなかった。押し付けられたケースを目の高さまで上げて

「…楽器?ですか」

駅員は困ったようにこめかみを揉んだ。そんな駅員を尻目に私はちょうど滑り込んで来た電車に乗り込む。夏美も慌てて乗り込むと扉が閉まって電車が静かに動き出す。

黒檀のように光るケースと遠ざかって行く私達を駅員が交互に見ている。やがてその姿も小さく見えなくなっていった。

「あんなことしてよかったの?」

「分からない。でも面白かったでしょ?」

夏美はまだ気になるのかもう見えなくなってしまった駅員を探すように、窓の向こうを見ている。

夜になると、私はまた同じ場所へと引き戻されるだろうと思った。

楽器の落し物なんてそうある訳でもないし、連番ですぐに持ち主も分かってしまう。母はどんな顔をするだろう。

異端審問にかける教父のように苛烈な顔をして私を叱るかもしれない。

それどころか、家が1つ建つほどの物を無下にした私を一生許さないかもしれない。

落ち着かない横顔を見せる夏美と引き換えに、私は自分でも驚くほど静かに凪いだ気持ちになってくる。

ほんの少し先の未来だけれど、今夜のことは何も分からない。

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