孤独なキュクロプス

三津凛

第1話

そこにあるべきものが欠けていたり、あるべきでない所に余分なものがあったりすると、私たちは何かが脅かされたような気になる。ちょうど1つしかない目や、1本多い指を目の当たりにしたときに。

そして同時にそんなものを産み出した自然の仕業に感心したりもするのだ。

ただ最も恐ろしいものは目に見えない部分にある欠乏と余剰だ。

自然の仕業ではなく、人為的にもたらされたその造形がどうなっていくのか私たちは驚くほど無知で無関心であるのだ。


鶴丸、という名前を初めて見たとき武家か何かの末裔の男の子だろうかと不思議な気持ちになった。

そしてその名前の主がどこからどう見ても女の子だと知ったとき、私はますます不思議な気持ちになった。

変わった名前だ、なんてことは本人も飽きるほど聞いているだろうから私は鶴丸にどう声をかけるか迷った。

結局声をかけることができないまま1年が過ぎ、その次の年はクラスが分かれ、ようやく声をかけることができたのは高校生活も残り半年になってからだった。

鶴丸はいつも大きさの違う画集を昼休みに広げて読んでいた。いつもたった1人で、何が楽しいのだろうと思った。

「ねぇ、いつも何読んでるの」

頬杖をついて目を落とす鶴丸に思い切って声をかけたのは、教室に誰もいなかったからだった。

少し遅れて気がついたように目を上げた鶴丸は、前に美術の教科書でみたベラスケスの「フェリペ・プロスペロの肖像」みたいだと思った。どこか蝋人形を思わせる白い肌に年齢不詳の顔つきに不思議な魅力があった。

「今日はルドン」

「ふうん」

覗きこむと鶴丸は微笑んで私が見やすいように大学ノート大の画集を押しやる。笑った顔が意外なほど幼くて私は少し驚いた。

「ルドンが1番好きなの」

パラパラとページを繰っていると鶴丸がため息を吐くように言った。

「へぇ。不思議な絵が好きなんだね」

鶴丸を振り返りながら手を止めたページに目を落とす。

不気味な外見とは裏腹に寂しそうな目でこちらを見つめる1つ目の巨人がそこにいた。


それから鶴丸とは何かにつけて話しをするようになった。

「鶴丸って、変わった名前よね」

私は以前から言いたかったことをあるとき思い切ってぶつけてみた。

鶴丸は硬い表情のまま、

「つまらないこと言うのね」

と呟いた。そしていつものように画集に目を落とした。今日はゴヤの版画集「戦争の惨禍」だった。

鶴丸はいつも暗くて不気味なよく分からない絵ばかり見ている。

数えきれない画家たちの陰鬱な筆致が、彼女のどこか鬱屈した行き場のない澱を可視化しているようで私は少しだけ鶴丸が怖くなる。

「人って、どこまで残酷になれるのかな」

誰に言うでもなく鶴丸が言う。

黒檀のように濡れた黒目が鈍く光る。

鶴丸は時折、何かに憑かれたような目をする。その目は私を超え、ゴヤの版画を超え目には見えない深い深い地獄の底に魅せられたようだ。

「男の子が欲しかったからだよ」

「え?」

脈絡のない返しに私は気の抜けた返事をする。

「さっきの、名前のこと」

「あ、あぁ」

鶴丸の瞳がしっかり私に結ばれる。

「あるべき所にあるべきものがなくて、いなくてもいいものが、あるべき所にあるって皮肉だと思わない?」

私はどう反応してよいか分からず、苦笑した。鶴丸は目を細めて、

「私は多分生まれたときから、そうなんだわ。あの人たちにとって」

それが暗に鶴丸の両親のことを言っていると分かった。

そしてなんとなく、鶴丸の不安定さが両親に起因していることがほの見えたのだった。


一度だけ鶴丸の部屋に行ったことがある。どういう経緯でそうなったのか、詳しいことはもう憶えていない。

ただ、誘われたその日は珍しく画集を持ってきていなくて鶴丸は窓の外を穏やかな顔で眺めていたような気がする。私はその横顔を見たときに何か不吉なものを感じた。何か大切なものを諦め切った、生きることを諦め切った末期の癌患者のような痛々しい静謐さをみるようだった。

当の鶴丸は意外なほど明るく、そして楽しそうに部屋へ案内してくれた。

壁に掛けられた1枚の絵のことを、私はよく憶えている。

「この絵どこかで見た気がする」

私が呟くと、鶴丸も隣に立って見上げる。

「多分初めて話しかけてくれたときに見てた絵じゃないかな」

「あぁ」

どうしてこの巨人はこんなに寂しげなんだろう、と思った。

鶴丸はそんな私を見透かすように、

「ルドンはこの絵に母親に対する想いを込めたって言われてるの。裕福な家に生まれたけど体が弱くて里子に出されていたから」

「へぇ」

たった1つの大きな目が物欲しそうに、でも手に入れる前から全てを諦めたようにこちらを見ていた。

「なんとなく、目つきが鶴丸に似てる気がする」

私が言うと、鶴丸は少し驚いたように目を剥いて笑った。

寂しい笑い声だった。小石の転がるような虚ろな響きだった。

「誰だって、本当に欲しいものは手に入らないようになっているのかもね」

まるで自分の分身を宥めるように、巨人の頭のあたりを鶴丸は指で撫でた。

鶴丸の欲しいもの、欲しかったものはなんだろうか。

鶴丸の欲しかったものを類推するには、私はあまりにも満たされて余分なものを纏っているのだと思った。


鶴丸とはそれ以上仲良くなることも、話すこともなくなっていった。

そして、高校卒業後会うことは決してなかった。

あのとき一緒にルドンの絵を見ていた私はまさか鶴丸が両親を殺した後、自ら命を絶つことになるとは思わなかっただろう。

奇妙な名前が一面に載った新聞を見て、ようやく鶴丸の事を思い出したのだった。

鶴丸の写真を見ても、私は今ひとつ自分の中の鶴丸と結びつかなかった。

たった1つの物欲しそうな大きな目が何故か思い浮かぶだけだった。

それが何なのか、私は今でも分からないままでいる。


ただ最も恐ろしいものは目に見えない部分にある欠乏と余剰だ。

自然の仕業ではなく、人為的にもたらされたその造形がどうなっていくのか私たちは驚くほど無知で無関心であるのだ。






ディエゴ・ベラスケス1659『フェリペ・プロスペロ(Felipe Próspero)の肖像』ウィーン美術史美術館

https://blogs.yahoo.co.jp


フランシス・デ・ゴヤ 1810〜1820『戦争の惨禍』

http://www.abaxjp.com/goya-war/goya-war.html


オディロン・ルドン 1914年頃 『キュクロプス』クレラー・ミュラー美術館

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/

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