夢の拒絶

三津凛

第1話

人は誰でも、夢を見る。

人は誰でも、神になりたがる。

つぐ美はそんな人類の一つの夢だった。


「もう起きて大丈夫なの」

「大丈夫、もう慣れっこだから」

つぐ美が笑う。

つぐ美の笑顔は日向のようだ。

「いつも目が覚めたとき、同じことを思うの。変でしょ、一番最初の手術から覚めたときと全然変わらないの」

「へぇ…」

私は何度聞いたか分からないその答えを待つ。

つぐ美は見えない神を慈しむように目を細める。一瞬だけ、艶やかな頰が酷く老成したものに見える。

「世界は美しい」

「そうかな」

「そうだよ」

つぐ美はできたての胸の傷を指で撫でる。

「今度は誰の臓器なの」

「芸術家の心臓だって。名前は教えてもらえなかったけど」

「心臓にも、記憶とかってあるのかな」

「さあ」

つぐ美はあまり興味なさそうに呟く。昔、心臓移植を受けた人が好きではなかったビールをやたら飲みたくなったという話を聞いた。

心臓の元の持ち主は無類のビール好きだったと、あとから分かったそうだ。

「心臓が感情を生み出してるって、昔の人は本当に思ってたみたいよ」

「へぇ。そういわれると、なんとなく憂鬱な気分がしてくるかも。心臓にも記憶があるのかもね」

つぐ美がおかしそうに笑う。

つぐ美は拒絶というものを知らない。

「次の手術はまた芸術家からの移植なの。眼球だって。世界がもっと美しく見えるかもね」

「その逆かもよ。つぐ美が初めて、世界を醜いものだと思うかも」

「それはそれで、楽しみだけど」

つぐ美が笑う。


ただの臓器ではない。

ただの移植ではない。

研ぎ澄まされた一流の人たちの、知性と孤独を詰め込んだ臓器がつぐ美に移植される。

つぐ美の身体は拒絶というものを、知らない。


人は誰でも、夢を見る。

人は誰でも、神になりたがる。

一流の人たちの持つ全てのものを、たった一人の人間に預けたとき、どうなるのだろう。

つぐ美はそんな人類の一つの夢だった。

拒絶することを知らない、つぐ美の身体がそれを叶えようとしていた。


「つぐ美の身体で、取り替えてないところって脳くらいね」

「そういえば、そうね」

つぐ美はいつもどこか他人事だ。つぐ美の一部となった人たちの孤独もちょうどこんな風に渇いたものだったのだろうか。

「もし、脳も誰かのものと移植するってなったらどうする?」

「どうもしない、ただ受け入れるだけ。私にできることはそれくらいじゃない」

それはこれまでつぐ美の身体に入れ替わり立ち代り、通り過ぎて行った無数の天才たちの声を聞くようだった。

彼らだって、つぐ美と同じように受け入れた。偉大な夢を咲かせる種まきを喜んでしてくれた。

「私って意識がどこから来るのか、つぐ美は考えたことある?」

「どうだろう…。私の臓器は天才のものだけど、私の頭はまだただの人間だもの。分からないわ」

私はその答えに、不吉なものを感じた。

もうすぐ、ただの人間ではなくなることをつぐ美は感じているのだろうか。

「もし…もし、脳のどこかに私っていう存在があったとしたら」

「うん」

「その脳を取り替えたとき、それでもつぐ美はつぐ美のままだっていえるのかな」

あるものを構成する全ての要素が置き換わったとき、それは前のものと同じであると言えるのだろうか。

もうつぐ美の九割は、自然ではなく人が与えたものだった。その最後の一割に何かとても大きな意味があるように思えた。

「やだ、なにそれ難し過ぎて分からない」

「つぐ美はそのうち、分からないことなんてなくなっちゃうかもよ」

「そうなったら、私は神様みたいなものかもね」

つぐ美は笑った。

どうして、笑えるのだろうと思った。

つぐ美はやっぱり拒絶することを知らない。

一番最初に自然が与えたものは、ある一つの部分を除いてつぐ美の中にはもう存在しない。

その最後の部分に、私たちの夢が詰まっている。


「目が覚めたとき、やっぱり同じことを思うのかしら」

「そうだといいね」

私は初めて、つぐ美にとってこれまでと同じように世界が美しいまま見えてほしいと思った。

「素直だね」

つぐ美がちょっと驚いた顔をする。

「同じことを言ってくれたら、つぐ美だって分かるから。つぐ美がどこかに行ってしまうのは嫌だもの」

「私はどこにも行かないわ」

「そうかな。きっと、あの神様みたいな脳を受け入れてしまう気がする」

「受け入れたとしても、私は同じことをまた言ってあげるわ。約束する」

つぐ美は笑った。

私も笑ってみせた。

つぐ美はつぐ美のままでいると、約束してくれた。


人は誰でも、夢を見る。

人は誰でも、神になりたがる。

そして、そのあらゆる全ての叡智を含んだ脳をたった一人の人間に託そうとした。


「世界をこんなに美しいと思ったこと、なかったな」

つぐ美は見えないはずの瞳をめぐらして、呟いた。

つぐ美の泣くところを、私は初めて見た。


「約束、ちゃんと守ったでしょ」


つぐ美は約束通り、どこにも行かなかった。

永遠に。

初めて、つぐ美は拒絶した。

人類の叡智の全てを包んだ脳を受け入れなかった。

つぐ美はつぐ美のまま、死んだ。


人は誰でも、夢を見る。

人は誰でも、神になりたがる。

つぐ美はそんな人類の一つの夢だった。


そんな一つの夢と、無数の命を抱えた一人の命が星屑のように消えた。

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夢の拒絶 三津凛 @mitsurin12

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