第6話 夜の章⑥

忘れてしまった体温を取り戻すように、記憶はめぐる。取り残されてしまったことにも気づかずに。


翌朝、気まずさを抱えながら教室へ入ると、野瀬は何もなかったようにおはよ、と言った。彼は坂口君のようには笑わない。吉森さんのように、完璧を目指したような笑い方もしない。けれど、あなたに対しては気を許している、というふうな顔をする。まるで動物みたいだ。

「尾松さんて、髪染めてるの?」

「え」

「ちょっと茶髪っぽいから」

ああ、とわたしは髪を一束持ち上げてみせた。

「地毛だよ。少し、色素薄めなの」

へえ、と野瀬は少しわたしとの距離を縮めた。昨日の吉森さんと自分が重なるみたいで、わたしはそんな珍しいもんじゃないよ、と早口で言った。

わたしと野瀬の間はまた三十センチほどに戻る。彼女と同じ感覚でしゃべられるのもしゃべるのもなぜか嫌だった。

完璧だ、と思ったのだ。はじめて吉森千穂に会ったとき。

いつだって誰かに愛され守られて、わたしのほしいものをすべて持っているように思えたから。

わたしは彼女がまぶしくて仕方がなかった。その視界に映れば、彼女の世界に入っていける気がしていた。

けれど、昨日彼女の目に映る自分を見て気づいたのだ。わたしは彼女になりたかったのだと。

野瀬がまたわたしに何か話しかける。わたしはその執着の根源を探し、また彼の目に迷い込む。


教室の外にあるロッカーから次の教科書を取り出していると、深雪に名前を呼ばれた。わたしはほっとして、

「そっちのクラスも次、移動?」

と訊いた。彼女は手に持っていた地学の教科書をひらひらさせて、

「地層見に行くんだ。しんどいよね」

「ああ、それわたしたち来週だよ。レポートあるよねぇ」

あるある、と彼女が顔をしかめたところで、離れたところから、はつかちゃん、とわたしを呼ぶ声がした。振り向くと、サイズの合っていないジャージを着た吉森さんが立っていた。

「おはよう」

彼女は昨日と同じ、隙のない笑みで言った。おはよ、とわたしも何とか笑顔で返す。

「はつかちゃんのクラス、次数学だよね? 移動するの?」

「あ、習熟度別だから。わたし、数学苦手で、別の教室に」

「そうなんだ。豊、一時間目は移動じゃないって言ってたから、気になっただけなの」

そう、とうなずきながら、だんだん自分の顔がうつむきがちになっていくのを感じていた。あんなにも彼女の視界に入りたかったのに、今はうまく見ることができない。惨めだった。

彼女はじっとわたしを見ている。その視界から、深雪は外れているようだった。

「ジャージ、サイズ合ってなくない?」

吉森さんの世界をぶった切るように、深雪が言った。いつもの彼女より口調がほんの少し強く感じた。

「ああ。これ、豊の」

吉森さんはさらりと返した。「忘れちゃったんだぁ。だから」

「予鈴。鳴るけど、大丈夫?」

わたしの声に吉森さんはじゃあね、と駆けて行った。

「男に借りるか? フツー」

深雪は真顔で呟いた。


午後から雨だという予報は当たり、四時間目が終わるころから天気が崩れた。わたしがクラスの仲のいい女の子たちとお昼を食べていたとき、吉森さんが教室に顔をのぞかせた。

彼女はゆたか、と臆せず彼を呼び出した。何人かの男子とお昼を食べていた野瀬は当たり前のように彼女のもとへ行く。

まわりのクラスメイトたちはふたりを見ていた。その一瞬のざわめきに吉森さんは気づいているだろう。野瀬はしらない。

ただ彼女と話す野瀬の横顔はやっぱりきれいで、誰も気づかなければいい、と思った。

「やっぱり野瀬くんてさあ、吉森さんと付き合ってんのかな」

一緒に食べていた中本さんが声を潜めて言った。

「えー、でも、吉森さんて、坂口くんと付き合ってるって噂もあるよね」

「まじ? 坂口くん、趣味悪くない? なんか残念かも」

わたしは何も言わなかった。そのとき、中本さんがふっとひとり言のように、でも野瀬くんてちょっといいよね、と呟いた。

「好きなの?」

わたしの問に中本さんは少し声量を上げて、

「そういうんじゃなくて。でも、目立たないけど、結構きれいな顔してるなって」

他の女の子たちもああ、とうなずいた。

「うちのクラスの中だと、かっこいいほうに入るよね」

「はつかちゃんは野瀬くんとわりと仲いいよね」

え、とわたしは言った。「席、隣だからかな。でも、そんなに話したことないよ」

「野瀬くん、女子とあんまりしゃべらないから貴重だよー」

そうかなあ、とわたしは首をかしげた。

「好きになったりとか、ないの?」

「わたし、他の女の子と仲良くするひとって嫌なんだ」

「ええー、意外と独占欲強いんだね」

独占欲。その言葉がうまく腹に落ちず、わたしはあいまいに微笑んだ。

うつりゆく会話を耳に、わたしは独占欲、という言葉を唱える。

わたしは、わたしだけを愛してほしい。でもそれが特定の誰かである必要はあるのだろうか。

ふと、あの日、頭に乗せられた手を思い出した。決して大きくはなかったけど、やさしい体温を持った手のひら。

わたしはあの手が欲しかったのだ。

電流に打たれたように、思った。

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夜の子どもと朝の王国への旅 ねこ @Neko0001

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