第5話夜の章⑤
はかり知ることができないものが多すぎる気がした。たとえば、胸の中で光り続ける名前。くすぶったまま、消えることもできずに。
委員会の行われる教室は別の階にあって、わたしと坂口くんは無言でそこまで歩いた。教室に入ってからも、わたしは彼との距離を掴みかねていた。ただ、奇妙に無垢だった野瀬の目を思った。
「ほんと言うと、思い出したくなかったでしょ」
放課後の喧騒の中、坂口くんが口を開いた。委員会が始まるまで、あと五分くらいあった。わたしはその問いに素直にうなずいた。
「もう、何が事実で何が嘘か、自分では判断できなくなってしまったから」
彼はふ、と笑った。「まじめだね、尾松ちゃん」
「でもほんとうに覚えてないことも多くて。さっき野瀬くんに訊かれたとき、わたしは思い出せなかったよ。顔も、どう呼んでたかすら」
「ノウエさん、て呼んでた」
その名前はどこか聞き覚えがあるようで、どこか遠い国の名前のようにも思えた。ほんとうにわたしは覚えていないのだ。
「名前なんて、どうでもよかったんだ。あのひとは、おれたちの神さまだった」
彼の横顔を見ながら、このひとは子どものころから笑っていただろうか、と思った。
「今でもそう思っているの」
「え?」
「ノウエさんのこと。坂口くんの神さま?」
彼は笑って首を横に振った。それから目を伏せて、でもと口にした。
「豊は、孤児で、あのひとに拾ってもらったから、そういうところもあるんだと思う」
「そういうところ?」
「おれたちはずっと三人でいたけど、おれと千穂には親がいた。ほんとうに行き場がなくて、あの施設にいたのは豊だけだった。だから」
彼はそこまで言って口をつぐんだ。わたしは施設がなくなった後、どうしたのかを控えめに訊ねた。
「養護施設へ。今も、そうだよ。豊も、千穂も」
「ああ、そうなんだ」
「今もいっしょなのにね。豊だけはずっと夢の中にいるみたいだ」
どういうこと、と訊き返そうとしたところで、委員会の先生が入って来た。ふたりとも前を向くしかなかった。けれどわたしは委員会の間ずっと子どものころのことを考えていた。
わたしは小学校に上がる前、数か月だけ、ひかりのそのという宗教施設に母といっしょにいたことがある。そこでは、ノウエさんという指導者のもと、みんなで農業をし、みんなで勉強したりしながら暮らしていた。
わたしたちのように親子で住んでいる人たちもいたが、子どもと大人は別々の作業をすることになっていたので、一日中いっしょにいられるわけではなかった。
ひかりのそのがなくなったのは、わたしが小学三年生の頃だった。もう祖母に引き取られていたわたしは、解体のことをテレビで知った。母があの時まだそこにいたのかはわからない。そして、いっしょに遊んだ子どもたちがどうなったのかも。
壊されていく施設を見ながら、わたしはやさしかった母を思った。夜、眠るとき、手を握ってくれた母。丁寧にわたしの髪に触れた手。そんなことを思い返しながら、施設に入る前の母の記憶が抜け落ちてしまったことに、気づいたのだ。
委員会が終わり、教室に戻ると、野瀬と吉森さんがいた。野瀬は自分の席で、吉森さんはわたしの席に座り、その隙間なんてないかのように顔を近づけて話していた。
「おつかれ」
野瀬はわたしと坂口くんを確認すると、言った。つられて吉森さんも顔を上げる。
「ほんとに待ってたの」
坂口くんは呆れたように笑った。「豊といっしょに帰ればよかったのに」
「かわいくなぁい」
吉森さんはわざとらしく唇をとがらせ、それからやわらかく微笑んだ。その笑みは坂口くんだけに向けられていた。
「尾松さんもいっしょに帰らない?」
思わず、野瀬を睨み付けていた。ほんの一瞬だったのに、その視線に気づいたのか、吉森さんの目が少し険しくなった。わたしなんて見ていないくせに。
何を勘違いしたのか、野瀬がわたしの名前を吉森さんに伝えた。
「覚えていない? ひかりのそのに少しだけいた」
彼に言われ、吉森さんははじめてわたしを見た。一割の嫌悪感と九割の無関心。そんな視線をさっと隠すように、彼女は完璧に笑ってみせた。音でもするんじゃないかと、思った。
「……ああ、はつかちゃん。懐かしいねえ」
そんなふうに呼んだことないだろう。出そうになった言葉をぎゅっと握りしめた拳に隠す。坂口くんがわたしの腕を軽く叩いた。
「尾松ちゃんは、芦原と帰る約束してるんだから、無理に誘うなよ」
ほら帰ろう、と坂口くんは吉森さんを促した。もう彼女の視界にはわたしはいない。慌ただしく去っていく三人の姿をわたしは眺めることしかできない。ぱたぱたと廊下を駆けていく音がする中、野瀬だけがもう一度教室に顔をのぞかせた。
「ばいばい、尾松さん。また」
ふざけるな。
そのあと、ちゃんと笑顔で手を振り返せていたか、挨拶できていたか、覚えていない。どうしてか涙が止まらなかった。
わたしは子どもの頃から吉森千穂に見てほしかった。その目に籠る感情がどんなものであれ、わたしに視線を向けてほしかった。二人の男の子がいつもそばにいる彼女があまりにもまぶしかったから。孤独な時間なんて過ごしたことのないであろう彼女の目に映ることで、わたしもその世界に入れる気がしていた。
けれど今は、あの二人の中心に彼女だけがいることがこんなにも悲しい。
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