第4話夜の章④

昨日の放課後を思う。

からめとられた視線。湿気を帯びた、気味の悪い沈黙。

梅雨はまだ、先だというのに。


 いたよ、と答えてわたしは席に着いた。机と机の三十センチくらいの隙間ですら近いと感じた。

「ああ、やっぱり。教室にいたのが見えたから」

 笑うと、普通に高校三年生の男の子なんだな、と思った。わたしは彼のほうを向かず、

「話したの、初めてだよね?」

 と訊いた。彼は少し迷って、覚えてない? と言った。

「ひかりのそので、一度」

「そうじゃなくて、クラスが同じになってから」

「……今、初めて話したかも」

 ふ、とおかしそうに彼が笑う。何もおもしろいことなんてない、と言ってやりたくなった。彼はそんなわたしの気持ちには気付かず、席替えしたの先週だからなあ、と呟いた。

「おれ、一度、尾松さんと話したくて」

 あの、と言葉をつなげようとしたとき、タイミングよくチャイムが鳴った。わたしは授業始まるよ、と会話を無理やり切った。隣の野瀬がどんな顔をしていたのかはわからない。

 ただ、無性に苛々した。


 野瀬の目がどうしてあんなに憂いを帯びているのか、わたしは知らない。理由の断片がわたしの記憶の中にあるとしても、思い返したくもない。けれど、あの奇妙な目で、普通の高校生のように笑うことが、気持ち悪い。

 放課後、野瀬がわたしのほうを向いたとほぼ同時に、坂口くんが教室に顔をのぞかせ、わたしの名前を呼んだ。

「坂口くん、どうしたの」

 わたしは笑顔で手を振った。

「今日、委員会あるから、いっしょに行こうと思って」

 駆け寄ってきた彼はそう言って、ふとわたしの隣の席に目を留めた。

「あれ、豊、隣の席なの?」

 わたしが答えるより早く、野瀬が先週から、と言った。

「尾松ちゃん、この人、迷惑かけてない?」

 坂口くんが笑うので、わたしは大丈夫だよ、と明るく返した。野瀬は少し顔をしかめ、

「迷惑も何も、今日初めて話したから」

「おまえ、人見知り激しいからなあ」

「そうでもないよ」

「おれと千穂以外の人と話してるの、あんまり見たことないけど」

「クラスに友達くらいいるよ」

 ふたりのやりとりにわたしは思わず笑ってしまった。「相変わらず、仲良しなんだね」

「今も、吉森さんと三人でよく帰ってるでしょ」

 そう言うと、坂口くんは不思議な顔をした。それを見た野瀬が不思議そうな顔になった。けれど空気を読み取ろうとする坂口くんと違って、ほんとうにわからないという子どもの顔に近かった。

「ええと、覚えていないかもしれないけど、小さいときに少しだけひかり(、、、)の(、)その(、、)にいたことがあって。ふたりと吉森さんとは、そこで」

「いや、覚えてるけど」

 坂口くんは歯切れ悪く言った。「尾松ちゃん、仲良くなってからも全然その話しなかったから。忘れているのか、あまり触れたくないのかどっちかなのかなって」

 はは、とわたしは笑った。乾いた笑いにならないよう、気を付けて。

「気を使わせてごめん。正直、施設にいたのは数か月だったし、ほとんど覚えてないっていうのもあって。でも、坂口くんたちのことはよく覚えてるよ」

「うわ、恥ずかしいなあ」

 坂口くんが大げさに笑ってみせた。「小学校くらいの話でしょ」

「じゃあ、あのひとのこと、今も覚えてる?」

 野瀬の言葉に空気が凍った。わたしも坂口くんも、返事に詰まる。

 やっぱり野瀬だけは不思議そうな子どもの顔でわたしたちを見ていた。

 そのとき、わたしはいら立ちの正体が見えた気がした。無垢な鈍感。野瀬はこの空気のひりつきさえ感じないのだ。そして、それが悪いことだと気づいていない。

「……豊は、あのひとのこと大好きだったもんな」

 坂口くんが張り付いた笑みで言って、わざとらしく時計を見た。

「尾松ちゃん、委員会始まるから」

 わたしは坂口くんの後を追う。その背中に、終わるまで待ってるねえ、という野瀬の間延びした声が追いかけてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る