第3話 懐郷
ロンドンに出てくるまで、エリックはイングランドの湖水地方、ケンブル村で育った。
湖水地方というと、豊富な自然と水源、そして古くからの街並みを残すイングランドの景勝地である。
チャールズ皇太子の別邸もあり、王室関係者たちも、毎年のように避暑で訪れるという。
ケンブル村は「村」いうだけあり、パディントンからつながる鉄道駅とテムズ川の水源、そしてコッツォルズ空港を除いては、特筆すべきものがない。
鉄道駅は田舎にふさわし小ぶりな装いで、線路は上りと下りの二車線だけとなっている。
また空港と言っても、先の大戦時に王室空軍が使っていた基地を航空機の展示施設に転用したものだ。
今は商業目的の空港としては稼働していない。
それでも、しばしばプライベートジェットやヘリコプターが行き来するため、少年たちは喜んで通う。
17世紀から変わらない煉瓦造りの街並みは、ロンドンの高級住宅街と比べても遜色がない。
歴史を重ねたレンガの質感とそれをおおう翡翠色の蔦、そして住人が育てる朱鷺色の花々が鮮やかな色彩を生む。
簡素で小ぶりながらも、美しい街並みは鑑賞に値する。
エリックの父親は30代になったばかりのある日、その空港で働くためにわざわざロンドンから移り住んで来た。
彼は無類の航空機好きであり、順調に進んでいた会計士としてのキャリアよりも、好きなもののために働くことを選択したのだ。
そして当時空港近くのカフェで働いていた母親に一目惚れして結婚した。
父親の家系は元来王室軍でも功績を挙げてきた一族であり、父親の父親は彼の愚劣な行いに対して怒り狂ったという。
ケンジトンの住居やいくつかロンドン市内に保有する不動産の維持管理を、今後一体誰が引き継いでいくのか。
エリックはそんな父親の血を受け継いでいるのか、非常に自由で好奇心旺盛な少年だった。
学校が終わると日が暮れるまで友人たちと山や川を探索した。
ケンブル村は自然にあふれた地域なので、遊び場所には事欠かない。
彼が8歳になったばかりのあの日、エリックと友人たちは学校が終わると、いつものようにカバンを置き、おやつを持って集合した。
その日は、テムズ川の水源、その傍らにある小さな池に向かっていた。
新学期が始まって1月ほど、サマータイムが始まり日が落ちるのが遅くなる頃だった。
その沼にはしばしば大きな魚が出るという噂が学校で流行っていた。
その魚は30セントほど、ギョロリとした大きな目を持ち、鈍く輝く赤い鱗に覆われているという。
その魚を見ると、見た者の願いが一つだけ、叶うというのだ。
「願い・・・」
エリックはその願いが叶う、というところに食いついた。
母親の誕生日が近づいてきており、彼は花の好きな母親に7月の誕生花であるハスの花をプレゼントしたいと思っていた。
しかし、地元の花屋を探しても、その薄桃色の花は売っていなかった。
それは、東洋の、清く澄んだ池にのみ咲くという。
遠く離れたイギリスの山奥でも、池の主ならあるいは叶えてくれるかもしれなかった。
彼の発案で、友人たちは噂の真相を確かめるために、各々あみや釣り道具をバッグに詰めて池にやってきた。
日中の時間が長くなり、遊ぶ時間は冬よりずっと増えていた。
ケンブル駅から徒歩30分ほどの池は、直径5メートルほどの楕円形で、周りを初夏の葦に覆われていた。
水源から直接、わずかながら水が流れ込んでおり、どこかへ抜けているようだった。
靴で大きく育った若い茎を踏みつけて池に近づく。
「おい、いたかー?」
水面は思いの外澄んでいて、とても色のある大きな魚がいるとは思えなかった。
藻や倒木があるところ以外は、泥の積もった灰色の水底が見えている。
赤い魚は物陰に潜んでいるか、灰色の泥に潜っているのかもしれない。
エリックは淡い希望をもって水際に立ち、あみの竿を池に差し込みながら水深を確認していた。
仲間の数人はバシャバシャと水面を木の棒で叩いたり、つりの餌を探したりしていた。
そうしているうち、ケイトという牧師の息子が靴を脱いで沼に入り始めた。
数人がそれに追従する。
ケイトは、エリックの家の隣に住む少年で、幼少期から一緒の時間を過ごすことが多かった。
敬虔な国教会信徒であった両親とエリックは、毎週日曜日にケイトの父親の教会に通った。
そこで礼拝をし、その後共に昼食を食べるのが常であった。
「あの倒木の裏が怪しいね。ちょっと調べてみるよ!」
そういうと、ケイトは池の真ん中に網を伸ばしながら、ずいずいと進んでいった。
彼は普段どちらかというと大人しく、自ら進んで行動を起こそうというタイプではない。
「気をつけて!滑ると危ないよ。
縄を持ってきただろ、それを身体に結んでから入ったほうがいい」
「大丈夫、この池は浅いって、昔父さんが言っていたから」
エリックもいつになく危なっかしい友人を心配しつつ、半ば期待を持って倒木のほうをみやる。
赤い影は見えない。
いてもいられなくなり、彼自身も水に入ろうと持ってきたサンダルに履き替え始めた。
その時、なにかを踏みつけるようなグミャリという鈍い音とケイトの「あっ・・・」という声が聞こえた。
顔を上げて池を見ると、ケイトの着ていた明るい朱鷺色のベストが弧を描くようにその残滓を残しながら池にぶつかるところだった。
派手な水音が立つ。
すぐに、後ろにいた少年が助け起こそうとする。
エリックも、靴のまま急いで池に入った。
ザブザブと冷たく重い水の感覚に足が包まれる。
しかし、いくら手を伸ばしても、ケイトらしいものの片鱗をつかむことができない。
水深は、8歳の少年の腰の高さまでしかない。
他の少年たちも、みな一様に水に身体を浸して底を掬うが、どういうわけか朱鷺色のベストが見えてこない。
耳の後ろのほうで、ヨーロッパコマドリのキンと澄んだ高い声が聞こえる。
ピピウ ピピピッ ピピウ ピピピッ
「みんな一列に並べ!早く!早く助けるんだ!」
「レニー、早く行って誰か大人を呼んで来てくれ!」
自分の息遣いが遠くに聞こえる。
5月の、まだ冷たい風が髪を吹き抜け、濡れた服から体温を奪う。
身震いしながら泥を底から掬い、藻の付いた石を撫で、倒木の下をさらう。
「ケイトー!どこだ、どこにいるんだ!」
すでに5分が経過しようとしていた。
各々いなくなった少年の名前を連呼する。
次第に、幼い少年たちの焦りもピークに達する。
「いったいどうした!」
その声を聞きつけたのか、近くの水源を見学していた初老の男性が池に駆けつける。
その後から、近くのロッジのオーナーを連れて、レニーが戻ってくる。
「今助けるからな、お前達は早く池から上がれ!」
エリックは緊張の糸が切れたのか、どっと泣き出した。
**
結局、大人達の懸命な捜索にも関わらず、ケイトは発見されなかった。
朱鷺色のベストの切れ端だけが、なぜか倒木の突き出した枝に引っかかっていたという。
赤い大きな魚というのも、どこからも見つからなかった。
デタラメだったのだ。
ないものを探してテムズ川の底へいなくなってしまった少年。
ケイトは、8歳の純朴な少年は、一体今どこにいるのであろう。
彼の葬式は、その数年後に行われた。
遺体はなく、棺だけを代々の墓の隣に納められた。
涙はもう出なかった。
**
エリックはその数年後、ロンドンのパブリックスクールに入学する。
そこで新たな友人たちに出会い日々を過ごすうちに、徐々に当時の記憶は薄れていった。
エルベ川の岸辺 Masumi Manyama @Maire
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