第2話 辺境へ
タクラマカン砂漠は中央アジア、中国新疆ウイグル自治区にある広大な砂砂漠である。
その光景は、我々の多くが思い浮かべる細かな砂砂丘の連なりであり、昼夜の気温差は大きく、空気は乾燥し、点在するオアシスが人々の生活の支えとなっている。
北側に天山山脈、南側に崑崙山脈を擁し、水分を含んだ大気は山脈に阻まれてその潤いを失う。
トルファンの地に降り立ったのは、5月4日の夕方であった。
西安からウルムチを経て陸路で入る。
トルファンはシルクロード東域の都市であり、何十世紀も前から砂漠のオアシスとして東西の架け橋となっている。
袋詰めにされた香辛料、小麦、果物、そして色鮮やかな布、工芸品。
エリックはトルファンからクチャを経て、そこからタクラマカン砂漠に入ろうと考えていた。
タリム川沿に西へ向かう。
期限は一月。
ウルムチまでは飛行機で3時間半の移動だが、そこからトルファンまでは小型バスでさらに3時間かかった。
しばらく岩山が続き、平地へ出たかと思うとだだっ広い平野にぽつぽつと風車が続いていた。
コンクリートの道路が一本、まっすぐ灰色の平地を抜ける。
柵も歩道もない。
ところどころ短い草が点在する以外は、石ころしかない。
いつまでも同じ荒涼とした景色が続く。
この平野と同じくらいエリックの思考も空白だった。
止まることなく続くゴオーっという車のエンジン音と、だだっ広いだけの荒野に、彼の思考が溶け出していくようであった。
彼はそこでは何者でもなく、そして同時に、世界中どこに行っても何者でもなかった。
なんの気なく景色を眺めているうちに目的地へ着いた。
少しは冷房の効いた車内から外へ出ると、地面の熱気がわっと顔に襲いかかる。
5月初旬にも関わらず気温は30度を超える。
暑さ以上に質量を持つ陽の光が肌に突き刺さる。
急いでまくっていた袖を下ろす。
乾燥しているので汗ばんだりはしないが、乾いた熱を感じる。
それでも、長時間の移動でギシギシと軋みんだ身体は外気に当たって幾分か回復してくる。
バスの停留所からロバが引くタクシーで繁華街まで向かう。
タクシーといっても、人が7人も乗れるかどうかといった粗末な木の荷台である。
バスの車内から見た街は想定していたよりずっと都会であった。
整備された高速道路、そして街の中心部にはビルもある。
しかし、今いるとことは舗装されていない黄土色の道が続く。
繁華街に着く頃にはすでに夕餉の時刻となっていた。
バザールのいたるところからシシカバブやパンの焼ける香ばしい香りが漂ってくる。
祭りでもないのに3メートルほどの道路は人でごった返していた。
南インド系の白人、中華系の東洋人、ウイグル人・・・、東西様々な人種がいるようだ。
ウイグル語と中国語の特徴のあるキンキン声があちらこちらから交差する。
適当に賑わっていそうな店に入る。
屋外のテーブルはすでに地元の人々でいっぱいで、店内の席(相席だ)に案内される。
店内の方が涼しいかと思いきや、冷房は使っていないらしく、むしろ暑苦しかった。
慰めなのかあまり風量の強くない扇風機が回っている。
メニューもなにもなさそうであったので隣の小柄で浅黒い男が食べている皿を指差し、手振りで注文する。
5分もするとラグ麺と呼ばれる肉野菜炒めうどんのようなものと焼いた羊肉、そして瓶ビールが運ばれてきた。
おおよそアジアンなスパイシーな香りが食欲をそそるが、麺がかなりツルツルとすべり、使い慣れない箸ではどうしてもうまく口に麺を運べない。
フォークを持ってこなかったことを後悔しながら半ば皿に口をつける勢いで食べていると、見かねたのか先ほどの浅黒い男が彼を見てニタニタ笑っている。
少しむっとして見つめ返すとその男はおもむろに店員を呼び、なにやら話しかけた。
店員はちらりとエリックをみやり、納得したのか店の奥に引っ込む。
すぐに、何かを手に持って戻って来た。
エリックは無表情な彼女から三叉に分かれたフォークらしき錫の食器を受け取ると、シエシエ、と無意識に答えていた。
ありがとう、と。
この男は現地人のような風情でありながら、日本人であるという。
「ウェア アー ユー フロム?」
小柄な男は、日本から来たとあいさつした。
トーキョー、ジャパン。
金融マンであったエリックの叔父が、高度経済期の頃に赴任していたこともあって、日本に対して悪い印象はなかった。
その日本人は、少々ダミ声で聞きづらくはあったが流暢な英語を話す。
彼もジークでカシュガルまで行き、そこから、バスでインドへ向かうという。
フォークだけでなく、その日の宿も、その日本人が采配してくれた。
エリックは仕事であったら綿密に旅程の確認をしたであろうが、今回はあえて流れるままに進もうと決めていた。
それでも水をろ過する道具だけは食中毒が怖くて持って来ていた。
昔から他の人より腹が弱い。
東洋人の男はもともと商社マンをしていたが、早くに妻を亡くし、子どももいないので気ままに各地を旅しているという。
旅先で手に入れた珍しいものを日本国内で売りさばくというスタイルらしい。
「去年はね、参りましたよ。主要な商材であるインド紅茶がストライキで採れなくなっちゃって。
特に、セカンドフラッシュでしょ?一番人気だからね。私はね、小さな農園とも自分で足を運んで取引しているんです。
自分で見て回って、気に入った農園の茶葉を売れる分だけ買い付ける。
毎年扱う茶葉は変わるけど、その年の一番いいものだけを仕入れているんです。
お得意さんもそれがわかっているから、毎年飽きずについて来てくれます。
去年は労働環境とかそういう問題じゃなかったからね。小さな農園も同じようにストライキしちゃった。
ほとんど全滅です。
まあその分今年の茶葉の品質は良くなっているようだから、それもアリだったのかなとは思います」
あまり聞き取りやすい英語ではなかったが、言っている内容はわかった。
確かに去年はインドのストライキで新茶が出に入らなかったというのはエリックもよく覚えている。
「確かに去年は新茶がありませんでしたね。ニホンではどの農園のお茶が人気なのですか?」
「そうですね。マーガレットホープとかはよくでますね。まあコアなお客さんの間ではキャッスルトン茶園が根強い人気です」
「キャッスルトンですか。私もたまに買いますが、独特の香りがしますね」
「さすが本場ロンドンの方ですね。違いがわかっていらっしゃる」
その後しばらくはその日本人と同行するようになった。
無料で旅のウンチクを語ってくれる、口うるさいガイドのようだ。
日本人というよりは中国人というほうがしっくりとくる。
アジア人の違いというのは灰色の鼠と白色の鼠を見分けようとするようなものだ。
見た目で区別しようとするのは至難である。
トルファンには結局二泊した。
シシカバブ、サモサ、ナン。
バザールには色とりどりのカラフルな布、香辛料の山、そして新鮮なフルーツや野菜の山々が連なっていた。
いたるところで料理の香りがしてもはや自分からにおっているのか外からなのかわからなくなっていた。
大きな通りから路地裏に入ると、ウイグル人の職人たちが作った、錫の鍋や刀、ありとあらゆる生活用具がところせましと並べている。
ロンドンでもこれだけの品物が一堂に揃うマーケットはないであろう。
女たちは鮮明な赤やピングの衣装をまとい、子どもたちも明るい声をあげてふざけあっている。
広大なユーラシア大陸、その西端と東端、いかなる距離を隔てようと、人々の営みは変わらず、子どもは笑い、女は装い、男は酒に酔っている。
バザールをあてもなく巡るエリックも、異邦人の装いをしていながらもいつの間にか街の一員のような妙な気分になった。
最初は奇妙に聞こえた中国語やウイグル語の奇抜なアクセントも、次第に耳に馴染んでくる。
適当に街を散策した後に、当面の食料と水を買い込んだ。
ありがたいことに日本人の男が手配したジークに便乗させてもらえれることになった。
クチャに到着後は別行動となり、エリックはそこから砂漠に入る。
トルファンから見る月はすでにふっくらとした下弦となっていた。
新月まではあと10日あり、十分余裕をもって進めている。
まだ明かりの残る街からでも十分に星が見えた。
空気が綺麗な分、ロンドンよりずっと鮮明に見える。
「A bird in the hand is worth two in the bush...」
いざ辺境の地に来てみると、かつての、物心ついたばかりの幼少期の頃の記憶が強くフラッシュバックする。
もしかしたら、あるべきもの以上を求めているのかもしれない。
しかし、身体の内に知らぬ間に潜んでいたらしい狂おしいほどの情動が彼に進む以外の道を示さなかった。
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