エルベ川の岸辺
Masumi Manyama
第1話 プロローグ
その年、ウィリアム王子とキャサリン妃に第三子であるルイ王子が誕生した。
5月初旬の天気はそれを祝うように晴天続きであり、90歳となったエリザベス女王もヘリコプターで孫のもとに駆けつけたという。
それまでロシアのスパイ疑惑、metoo運動、セクシャルマイノリティーの人権運動で賑わっていた紙面も、この時ばかりは誕生した王子と、小さな黄色い花のブーケを持って訪問する女王の写真で飾られた。
ロンドンの道路にはイギリス国旗が四方に張り巡らされ、道ゆく人々の笑顔も明るい。
テムズ川に面した開放的なフラット、クルーズ船が波の立たない旧港湾をゆっくりと周遊する。
そこはビルの最上階であり、窓からは近場に位置する世界最大規模のドッグランズ、再開発地域のビル群が港湾の光を反射する。
その近代的な様相と対をなすように、周縁には雑然とした貧民街がぼつぼつと残っている。
ガラスのテーブルを透かして、黒檀のスラックスに反射した自らの顔をおもむろに凝視する。
休日にも関わらずオールバックの短髪、唇はハの字型に結ばれ、平均より濃い眉は冬の峻峰を思わせる。
彼が投資銀行部門の最高顧問に呼び出されたのは、まさにルイ王子誕生のその日であった。
4月23日の気温は、しばらく続いていた初夏の様相とは打って変わり、肌寒いものであった。
週頭の月曜日であり、週末に羽を伸ばして英気を養ったロンドン市民が普段より少しばかり早い時間に出社する。
彼は普段と同じ朝7時に家を出て7時30分にはオフィスの自分の席でコーヒーを飲んでくつろいでいた。
今週は特に大きなプレゼンもなく、現在部下のライアン先導で進めているプロジェクトも、あとは公表と決済を残すのみとなっていた。
金属加工会社同士のM&A、業界4位と6位が併合して業界3位の規模を狙うという有り体なものであったが、規模は大きかった。
ライアンは彼の指導のもと着実に動いた。
シナジーの算出、想定される潜在リスク、企業文化の類似性、合併後の株価の算出。
期間にして3ヶ月、システム統合に関してはかなり大掛かりな調整が見込まれたが、仲介したコンサル会社に対し企業が資金を惜しまなかったため、首尾よく進むことが予想された。
イギリスのEU離脱後も内需での存在感はひときわ大きくなるだろう。
公表後9ヶ月をかけて全ての具体的なシステム統合が予定されていた。
「エリック、話があるのだけど。会議室にきてくれないかしら。なにも持たなくて大丈夫よ」
上司のマーサ、推定48歳、は生粋の英国人でブロンドの長い髪を胸下まで伸ばしている。
夫と2人の子供にも恵まれ、今も投資銀行の管理職として敏腕をふるっている。
先日の英企業ブリティッシュ・アメリカン・タバコの米企業レイノス・アメリカン買収案件も彼女が監督した。
「マーサ、ティータイムにはまだ早くないか?」
軽口を叩くが、彼女の表情は硬い。感情のこもらない表情でこちらを振り向くと、
「エリック、冗談じゃないのよ、早くして」
と落ち着いた声で言う。
その声色に何事かと周りも関心をもって二人を見やる。
20人ほど入る中規模の会議室に入ると、そこには最高顧問であるブライアンが手を組んだ状態で鎮座している。
ライアンも先に来ていたようで落ち着きなく席に座っている。
「エリック、今日は少し肌寒いね。朝食は食べて来たかね?」
ブライアンはそう切り出すと着席を促した。間も無く4人分のコーヒーが運ばれる。
「今日はね、例の金属加工会社について一つ問題が起きたので、・・・そう、緊急会議ということだ。本題から入ろう。エリック、残念だが君は今日をもって退職となる」
「君が原因ではないのだ。問題は、そこのライアンだ」
矛先を向けられると、ライアンは一瞬身を震わせ、沈黙した。ことの事情はこういうことらしい。
先週末、ライアンがロンドン中心部のパブで幾人かの同窓生と飲んでいた。
そこで今回のM&A案件の話を酔った勢いで漏らしてしまったというのだ。
当然、具体的な内容は機密事項であり、口外した時点で就業規則違反、ひいては金融行動監視規定違反となる。
「彼の友人の中に保険会社の機関投資家がいてね。先程早速取引所に株式の買いオファーを入れて来た。
それも20億という額だ。高額な金額が動けば市場も無視はできまい。
当然、インサイダーの嫌疑がかかる。これではお互い損だということで担当者に連絡を取ってね。
話がまとまった。内々にオファーを取り消してもらう。ライアンは残す。
しかし上司たる君には退社してもらう。それが先方の要請だ。
我が社は優秀な君を失い、先方も高額の含み益をみすみす逃す。痛み分けということだ。
君、最近海外探索が趣味のようじゃないか。これを機に長期でバカンスにでも行って来たらどうかね」
ブライアンの目は笑っていなかった。
いつも陽気なマーサも、擁護することもなくまっすぐ前を見つめていた。 ライアンは嵐が過ぎ去るのを待っているという程であった。
状況が理解できて来た。
イギリスのEU脱退決定以降、ヘッジファンドは衰退の一途を辿っている。
市場の期待を超える成果が上げられず、すでにかなりの機関投資家がヘッジファンドへの投資から撤退した。
その流れの中、すでに監督者としてみずから手を動かさないエリックのような高給取りは高コストなのだ。
彼はまた、自らが陽気でもなければ胸襟を分かつ話し相手に選ばれるタイプでもないことがわかっていた。
今回の件は程の良いやっかいもの払いなのだ。
会社はライアンをかばい、エリックを切り捨てた、いずれ社内でもまこと密やかにその噂が流れるであろう。
「オーケー、ブライアン、それで、エレガントな推薦状は書いてくれるのかな?」
「構わない、うまいのを書かせよう。マーサ、君に任せるよ。それじゃあ、長年、ご苦労だったね」
そう言って肩を二回叩くと、何事もなかったかのように会議室を後にした。
マーサも今度は同情の表情で話しかけて来たが、話に付き合っている気分ではなかった。
「マーサ、悪いのだけど、推薦状を来週の月曜日までに僕の自宅へ送ってくれ。可能なら下書きができた時点で僕のプライベートアドレスへ送ってくれないか。
忙しいところすまないね。世話になったよ」
そういうとゆっくりと彼女とハグをする。
立て続けにライアンにも向き合って形だけのハグをし、部屋をじする。
閉じた部屋からライアンのすすり泣きのようなものが聞こえてくる。
後悔しても遅いことというのは、この世にはいくらでもあるのだ。
残っている荷物の配送を女性スタッフに依頼すると、行きと同じ軽い鞄だけ持って会社を後にする。
今日から自由の身なのだ。不思議と陰鬱な気持ちはしなかった。
そこにあったのはただ漠然とした空白であり、それを塗りつぶす絵の具を自分が所持していないということだけははっきりと認識できた。
退社の日から一週間が過ぎ、二週間が過ぎようとしていた。
M&Aの公表は滞りなく執り行われ、情報公開後の株価は一気に跳ね上がった。
関係会社との壮大な祝典が週末に行われたということだが、実務面での指揮を一任されていたエリックに招待の声がかかることはなかった。
数少ないほんの数人の同僚からは彼の進退の確認と近状確認の連絡が入ったが、全て無視している。
「オーケー、有り体に、ね」
よくわからない励ましを自らに投げかけると、深煎りのドリップコーヒーを片手に、浅くないため息をついた。
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