あいだの言葉
三津凛
第1話
まだ私は言葉を知らない。
誰かに語りかける言葉を、まだ知らない。
「百人一首ね」
柔らかな声色に私は顔をあげた。
机に伏せて置かれた文庫本を佳乃子先生が手に取る。
私は保健委員としての作業を中断する。
「誰が好きなの?」
目を細めて佳乃子先生が聞く。私は佳乃子先生のこういう所が好きだ。大抵は「よくこんなものを読むね」なんてこそばゆい事を言われる。
ふわふわとした雛あられのような、口に入れた途端に溶けてしまう物語より、短くても心の襞に触れるものが私は好きだった。
「藤原興風が好きです」
背筋を伸ばして応える。
「へぇ」
佳乃子先生はぱらぱらとページを繰る。唇が自然と動く。
「たれをかも しる人にせん 高砂の 松も昔の 友ならなくに」
わたしは、いったい誰をわが知己として、心の痛みを訴えたらいいのだろう。
「本当に好きなのね」
私は無言で頷く。
「寂しい歌が好きなの?」
「え、どうだろう…。先生は?」
佳乃子先生は悪戯っぽく笑う。
「私はやっぱり、小野小町じゃないか
しら」
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身よにふる ながめせしまに
恋の悩みにあくせくしている内に、わが身の容色も衰えってしまったものよ。
私は思わずじっと佳乃子先生を見つめてしまう。先生は確かまだ30代半ばだ。同級生の男子は陰で「ババア」なんて言っていたけれど、私は笑うと微かに皺の寄る佳乃子先生の口元が好きだった。ただ瑞々しいだけが取り柄の私たちとは違う。紙のように薄い身体と感性しか持たない自分がもどかしくて恨めしい。
「なあに、そんな顔しなくてもいいじゃない」
「あ、すみません」
佳乃子先生が私の頰をつまむ。
「若いって、いいなあ」
過去を惜しむように佳乃子先生が言う。私はちっともそれがいいものだなんて思えなかった。
自由なようで、自由でない。少しでも子どもぽくない本を読んだり、言ったりすると生意気だとか遠巻きに見つめられる。大人の思う孤独とこれはどう違うのだろう。
「私は早く大人になりたいです」
「そう?」
佳乃子先生が首を傾げる。
私はむっつり黙ったまま、再びシャーペンを動かす。
佳乃子先生は静かに自分の机に向かう。私はそっと白衣に包まれた背中を眺める。
もっと色々な話を佳乃子先生としたい。もっと知りたい。もっと甘えたい。
この気持ちをどう表現すればいいのだろう。
私はまだ言葉を知らない。
「日が落ちるのが早くなったわね」
私から日誌を受け取りながら、佳乃子先生は窓の向こうを眺める。
「日が短くなると、なんか哀しくなりますよね。気温も低くなるし」
「そうそう」
佳乃子先生が頷く。私は次何を話そうか頭をめぐらせる。こんな風に必死になる自分を滑稽に感じた。
「大江千里」
佳乃子先生の唇が歌うように動く。
「え?」
「さっきの百人一首。 月みれば ちぢに物こそ かなしけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど」
私はまだ置きっ放しになっていた文庫本を開く。
あの澄み切った秋の月を眺めていると、あれを思いこれを思い、何かにつけて悲しさがこみ上げてならない。…自分一人が悲しみを背負いこんでいるような気になってしまう…
佳乃子先生には分からないように、そっとページを折る。
「まだ月は見えないけど」
佳乃子先生は見えない月を透かして見るように、目を凝らす。
私も同じように目を凝らしてみる。
「こんな話ができて嬉しいわ」
佳乃子先生が微笑む。
「私もです…あまりこういう話できないから」
「そうね。私も初めて生徒とこういう話したわ」
ゆっくり手を伸ばして、佳乃子先生は私の目にかかる前髪を軽く梳く。
「万葉集は読んだことある?」
「ありません」
「とても綺麗よ、多分気に入ると思うな」
私は万葉集、と心の中で呟く。
「先生はどの歌が一番好きですか?」
「うーん、そうね…なんか恥ずかしいな」
急に煮え切らない態度になった佳乃子先生を不思議な気持ちで私は見つめる。
「一目見た人に恋することは、雪のように、消え入りそうな想いがするって歌かな」
「先生は今そんな恋をしているってことですか?」
私は真っ直ぐ佳乃子先生の鼻先に視線を向ける。
佳乃子先生は軽く顎を引いて、誤魔化すように笑う。
あぁ、こういうのを恋というのだなと思った。佳乃子先生は誰かに恋をしている。なんだか裏切られたような、見捨てられてしまったような気がする。
「その好きな人はどんな人なんですか?」
自分の言葉が虚ろになってしまった所に還ってくる。佳乃子先生は少し困ったように腕を組む。
「もう暗いから帰りなさい」
乾いた声で佳乃子先生が言う。それは佳乃子先生の纏う白衣のように甘えを寄せ付けないものだった。
「はい」
私はもどかしい想いを抱えたまま、素直な振りをして鞄を掴んだ。
佳乃子先生が誰に恋をしているかは私には分かりそうもない。ただあのやり取りがあってから、私は皮肉にも自分が佳乃子先生のことを好きだったのだと気がついた。
告白する前から振られたようなものだ。この気持ちが消えてなくなるまでいつまでかかるのだろう。
冷たくなったまま、孵化することのない卵をいつまでも抱え込んでいる。
私は必要以上に丁寧に日誌を書いていく。佳乃子先生はそれに気づいているのかいないのか、いつまでも居残る私に注意することも「帰りなさい」ということもなかった。
振り返ると、佳乃子先生はいつものように白衣に包まれた背中を向けている。私はシャーペンをわざと音を立てて置いた。
佳乃子先生が振り返る。
「どうしたの?」
「先生、やっぱり気になります」
「なにが?」
私は喉元にせり上がってくる硬いものを飲み込む。
「先生の好きな人」
佳乃子先生は少し眉根を寄せた。怒っているのか、困っているのかそれを認めるほど長く佳乃子先生の顔を見つめていられない。
「知りたいんです」
「どうして、そんなに知りたいの」
問い詰めるような気配はなかった。
佳乃子先生の視線が真っ直ぐに注がれる。私はその視線から逃れるように、俯く。
佳乃子先生は躊躇いながら、私の頰を少し冷たくなった掌で包む。
こんな時、なんて言えばいいのだろう。
私はまだ言葉を知らない。
でも、知らないままではいられない。
何かに託してでも、今向き合わなければ多分後悔する。
顔をあげて、私は佳乃子先生を真っ直ぐ見据える。
「つくばねの 峰によりおつる みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる」
みなの川は、初めこそ僅かな水量に過ぎない。その水が積もり積もって深い淵となっていくように、私の恋情も、密かな物思いが積もりに積もって、もはや抜き差しならない所まで来てしまった…
佳乃子先生は何かに耐えるように唇を噛んだ。
私は意味が通じたことを理解した。冷静になった後で、こんなことを言ったのを後悔してしまうだろうか。
ただ今はもう佳乃子先生と一緒にいるのが無性に哀しくて、駆け出そうとした。
「待って!」
強い調子で佳乃子先生が言う。私は驚いて振り返る。
佳乃子先生の唇が静かに動く。
「みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに 乱れそめにし われならなくに」
"しのぶもぢずり"の乱れ染めの模様のように、わたしの心もちぢに乱れ始めたのですが、それは一体誰のせいでしょうか、それというのも、ただひとえに、あなたのせいなのですよ。
佳乃子先生は泣きだす前のように見えた。
大人でも、こんな夜の闇を恐れる子どものような表情をするのだと私は初めて知った。
私は佳乃子先生が好きだ。
多分、佳乃子先生も私のことが好きなんだ。
こういうことを、なんて言えばいいのだろう。
私はまだ言葉を知らない。
私が大人になる時は、自分の言葉で誰かに語りかけた時だと思った。
「先生」
佳乃子先生が目をあげる。
「先生、好きです」
私は一つ、言葉を知った。
あいだの言葉 三津凛 @mitsurin12
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