第9話 旧友
『物持ちがいいのね』と、見下げるようにそう言われた。
まだ制服を着ていた頃の、古びてはいない記憶。相手は女性徒で、同級生で、同じ机に差し向かって、俺が教科書を開いた時だった。続く言葉も、覚えている。
『新品みたいで、貴方の跡が見えない』
その通りだった。将来を選択する手順を、俺は正しく踏まなかった。彼女の前で本を出したのも、ただの付き合いのようなもの。学びの私物に自分の色を出せるほど、俺は日々を割いていない。そんな本質を突かれて、何も言い返せなかった。答えはあった筈なのに。
何を積み重ねても、人は突如として失う。
些細なきっかけで、容易く未来を奪われる。肉親の死に囚われて、自分の落ちぶれる言い訳にした。俺はあの時、彼女に言うべきだったのかもしれない。
物持ちがいいんじゃない。
俺は、何も持とうとして来なかったんだよ、柊。
同居人のいない朝を迎えて、とある物を紛失してることに気付き、そんな一幕が頭をよぎった。道具を持つ責任すら、俺は持てていなかった。
「あ、い、つ…………」
今日も真っ白な俺の予定は、あの不届き者に、再度会うことに決まったらしい。
悠瀬まなに、ナイフの所在を、問わねばならない。
さすがに同じ公園に三日も連続で来ると、不審者を志していた者として成長を感じずにはいられない。そんな嘘で己を鼓舞し勇み足で着いたものの、少女の姿は不在だった。大変宜しいことに思えた。これで学校に行ってくれているなら、俺は喜ぶべきなんだろう。
あいつの居場所が、本当にそこにあるなら。
「さて……」
件の彼女は、ナイフを持って、何を考えているだろう?
彼女が態々刃物を手元に置きたい理由は、また回顧によるものか。幾らでも推察出来たし、それ故自分に憤った。一夜を外で過ごした時点では、まだナイフは持ち歩いていた。彼女の側には置けなかったから。とすれば、買い出しを終えて諸々を整理した際に、財布と共に投げ出したのか。眠り落ちたあの後が、盗む側に過不足なく、俺の気が緩んで見落としてしまうタイミング。分析する都度に、自分が腹立たしかった。
悠瀬まながその用途を如何なものにするにせよ、動機を与えたのは俺だ。
あの時点で、また会うつもりはなかったろうに。彼女の方も、どうしてこんな難儀を抱えたのか。直に会うには、彼女の約定である夕刻まで、まだ日があり余っていた。
きっと今帰っても、何も手に付かない。手を付ける事柄も、さして思い浮かばない。今日に至る前に頓挫することを目指した人生だ。棒に振りたかった余生とその余波が、棒倒しで誰かに介入して、今の俺を動かしている。
その、後始末。自分のこと。両方を束ねて、俺が今成すべきこと。
思考の渦に囚われていると、ポケットに潜む携帯が震えた。
意識の隙を突かれ数瞬動じる。三度目ほどのコールが鳴り響く最中、騒音の元を取り出して、電話先の名前を読み取った。
『
「――よお、色情魔」
『――やあ、浪人侍』
開口一番の悪態に、互いの失礼千番な頬の歪みを垣間見た。
共に好感も不快もない、慣れ切ったやり取り。同年代の男の声は、耳を揺らして久しい。
一言で表すなら、腐れ縁という奴だった。
◆
御遠寺玖兼。同級生。小学校からの付き合い。“色情魔”は誇張でなく、昔から女性関係を一定期間断ったことがない。また、一定以上続いたこともない。惚れやすく捨てられやすい、都合の良い人の代表格。付いたあだ名は“隣りのキープくん”。これで大体察して欲しい。
『相変わらずご挨拶だね。男のモーニングコールは不服かな? さっくんあたりじゃなくて悪いね』
軽々浮薄な、悩みを知らない優男風なイメージを連れて、飄々とした声が固有名詞を口にする。俺と彼がよく知る女性に用いた、当人にはあまり好まれなかった愛称だ。
『物持ちがいいのね』と今朝も思い出した人物が脳裏を掠める。
真っ直ぐな目と、真っ直ぐな背筋が印象的な、生真面目が服を着た同級生。
俺は彼女に、引け目がある。
「なんであいつが出てくるんだよ……。言っちゃ悪いが、お前の方も、異性の目覚ましに恵まれてるとは思えんが」
過去に追い付かれないように、彼女の話題を封鎖する。続く軽口は、物悲しいものだった。
『僻むなよ。両の指じゃ足りないぞ。……全部、別れ話だったけど』
「……そいつは、目が覚めるな」
電話口に苦笑を漏らし、適当な木陰で夏を逃がす。知人の現状は今も変わらず、勝敗の均整が整っていた。最短五秒で振られた現場を目撃したことがあるので、玖兼の交際関係はネタに事欠かない。通学路の旗振りおばさんに将来性がないと断言された元小学生に、会話の手綱を握らせる。
「で、何か用か?」
『ん。差し当たって急ぎじゃないんだけど、会えないかと思ってさ、久々に』
「……意外だな。大学満喫中のお前が、女の尻追っかけないなんて」
本心からそう言った。決して女性から寄って来ない彼に、立ち止まる時間など有りはしない。万年夏の蝉の如く鳴くことが、俺の知る玖兼の生命活動だ。そんな俺の心象を裏切るように、笑っていなす彼が語るのは、思いの外真っ当な理由だった。
『言われるまでもなく、キャンパスライフは謳歌してるよ? ただ、一人寂しく路頭に迷う友人の近況くらい、知りたくなるのも人情って奴さ』
あえて軽い調子の物言いに、今はもう、互いの立場にズレが生じているのを痛感する。玖兼は今をときめく大学生で、自分は地に足の着かない根無し草。学生という梯子を外して尚、気まずさもなく接してくれる彼の人となりが、捻くれた自分を突いてくる。
俺が母さんを亡くした時も、彼は変わらぬ距離でいてくれた。そんな友人の手前だから、俺も同様の気安さを交える。玖兼の気苦労を、和らげられるように。
「順風満帆だ。空っぽで夢詰め込めそう」
『第三者的に君は取り零したんだけどねぇ……。まぁ、虚勢でもなさそうだし、そこは安心しとく。じゃあこの後大丈夫かい? うん、大丈夫だね』
殆ど俺の意思を確認しない勢いで、玖兼は待ち合わせの場所を捲し立てる。積もる話はその時に、と締め括る筈だった会話を、俺はあえて引き継いだ。
「なぁ、玖兼」
『ん』
「…………飛び降りたいって、思ったこと、あるか」
ずっと頭を蔓延って離れない、あいつのこと。
昨日ここで聞いた告白を思い返して、何の関係もない玖兼にそう問うた。あの時感じた物悲しさだとか、うら寂しさだとか、温度が残っていて、溶けない内に沈みたかった。一人で解ったふりをするには、悠瀬まなは遠い人間だったから。何も知らない玖兼に、頼る手を伸ばす。それを傍迷惑と切り捨てず、彼は純粋な心配を電波に乗せた。
『……人生相談?』
「安心しろ、俺のじゃない」
『尚更分からん』
混乱する口振りながらも、玖兼は考える沈黙を空ける。蝉のさざめきを破る、彼の一言。
『昔、学校にいたね。それを実践した子』
「……ああ」
玖兼が関連付けた過去は、記憶の底に沈殿していて、一瞬事実として掴めなかった。一人の生徒が虐めを苦にして、校舎から飛び降りた母校のニュース。受け持った担任も辞職した、世界の何処かには有りがちな、誰も幸せにならない他人事。彼か彼女かも覚えていないその子に、俺は黙祷も捧げていない。その死を惜しむ為全校生徒が集う場に、俺は居合わせていなかった。母を亡くして塞ぎ込んで、外にも出なかった時期を振り返り、知らず淀んだ空気を吐き出した。死んだり、死なせたり、何の因果もなく、不幸は重なる。重なって続いていく。生みの親と別れた、あの子のように。
携帯を介していなかったら、いかめしい面構えを、他者に見せてしまったことだろう。助かった気持ちの俺を他所に、玖兼は過去の共有を踏まえて、特に感情も寄せずに続けた。
『僕は女子と同じ酸素吸ってるだけで桃源郷だし、死にたい人の気持ちをトレースするには脳の構造が違い過ぎると自負してるけど、そんな奴の一家言でもいいのかい?』
「俺は、お前の偏った経験は信頼してる」
役者が違うとでも言うような前振りに、旧年来の友人として念を押す。その気安さから同性の相談事にはよく回っていた彼だから、全幅の信頼を置けた。異性とのキャッチボールについては、推して知るべし。
『そりゃどうも』と返して玖兼は、堂々と持論を語り出す。
『主題の飛び降りから外れるけど、死ぬ奴って、二択に揺れると思うんだよね。“死にたい”か、“殺したい”か。死を想う以上、自害か加害かは選ぶ脳味噌あるじゃん。僕が仮にそう思い詰めるほどの迫害にあったとしたら、やり返す、と仮定する。心が死んでない内は、そんな判断が下せると思う。じゃあそこら辺がじわじわ機能しなくなった奴から自死に踏み切るかと言うと、それも否だ。“死にたい”は行動を移すには推進力として足りないんだ。明日目が覚めなければいい。女の子に振られたら僕だって似たようなことは考える。まぁ、同一に考えるのは流石に失礼だけど。うん、話が逸れた。何が言いたいかって言うとね、“死にたい”の先に逝ける奴は、想いの純度がとっくに規格から外れてるんだ。
“自分を殺したい”
飛び降りれる人間は、世界を憎む余裕もないよ。全部あの世に持っていく。哀しいことだけ残してね』
耳を駆け抜けた死生観を咀嚼して、件のあの子に当て嵌める。ナイフをチラつかせる俺についてきた、ともすれば自暴自棄とさえ言える女の子。
彼女は“自分”を“殺せる”子だ。玖兼の推量する心理は、そう的外れではない気がした。それでも、あの言葉が耳に貼り付いて離れない。生きてていのかと、器を溢れた泣き声が。
やはりこの人選は間違っていなかったと確信を改めながら、感謝以上に拭い去れない気持ちに襲われて、俺は電話越しの旧友の存在を確かめる。
「玖兼」
『何か、参考にはなったかい』
態度を平時から変えないその声に、まず言いたいのは、
「……死ぬなよ」
思ったよりも、死に触れている彼の考え方に、思わずその気がないか確認する。女子に振られ過ぎておかしくなったのではと、かなり本気に危惧していた。
それを杞憂だと跳ね返すように、玖兼は笑い飛ばした。
『ははっ、純潔捨てるまでは死ねないよ』
また後で、と通話を打切る玖兼に合わせて、俺も公園を出る。
入り口付近に目を遣ると、年季に晒された真四角の石に、『井の蛙公園』という文字が彫り込まれているのを発見した。三日目にして初めて知ったこの場所の名前は、今にまごついて道に迷う自分が通うには、お似合いの名に思えた。
迷って悩んで、きっとあいつも、またここに来るんだろう。
それを呪いのようだと思うのは、身勝手だろうか。
◆
昼時からやや時間を外して訪れた駅前の喫茶店は、ピーク時から人の引いた静けさに落ち着いていた。先に席を取って大丈夫とのお達しだったので、適当にコーヒーを注文する。店内を入って真向かいのカウンターからぐるりと回って、赤茶けた木の色に彩られた床を歩き、人気のない奥のテーブルを選んだ。
素材の味に拘りはないので砂糖を溶かし一口啜る。味わいよりも熱を飲み下すようで、広がる充足に無意識の強張りが解けていく。一息ついて改めて客層を見回すと、女性の一人客が目についた。ついで、疑問も浮かぶ。
玖兼のセンスでここを選ぶのは、奴のイメージにそぐわない。女絡み以外で、財布の紐を緩めない彼が、野郎と会う場所に小洒落た店を選ぶだろうか。物よりも時間に金を支払う空間に居座るより、空気に無賃乗車して外で駄弁るのを好む性格なのだ、御遠寺玖兼という人間は。流れる洋楽。誰かのグラスで氷の動いた微かな音。最近対人強度を著しく低めていたせいか、アウェイな感覚に付き纏われながら、琥珀の液体と時間を擦り減らす。
その違和感に従っていれば、気構えもついたのかもしれない。
磨かれた机に目を落として、現実の輪郭をぼんやりとさせながら、まなについて考えた。彼女のナイフの使い方。追想の儀式。懐古の戯れ。やるせなさが喉を締め上げ、次の一口に動かない。そんな停滞から、幾ばくか。
「皆塚」
特に張り上げる訳でもない、その癖硬質な女性の声に呼ばれ面を上げる。
真っ直ぐな目と、真っ直ぐな背筋。ふわりと肩口で広がる髪型は、高校時代にはなかった、柔らかな印象を他者に与える。切れ味の鋭い目線は、何も変わっていないけれど。
「……柊?」
昔なじみとの邂逅に、俺は手放しの驚きを示した。
彼女は向かいの席に座って、断りもなく俺のコーヒーを手に取り、景気良く飲み干した。
それから丁寧にカップを返し、硝子玉のような瞳に俺を宿し、口角を酷薄に吊り上げる。
「ご無沙汰皆塚。相変わらず、何か取り落としたような顔ね、貴方」
心の蔵を掴むように、
何かにつけて核心を抉る彼女は――それほどでもない昔、俺と付き合っていた人だった。
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