感傷I「われものちゅうい」
ある日からおとうさんが、おうちにいることがおおくなりました。
おとうさんがおしごとをやめて、おうちのいろいろが変わりました。
おかあさんがおとうさんにやさしくなりました。
元もとやさしかったけど、もっとやさしくなりました。
おとうさんは、がっこうの先せいでした。
たくさんの子に勉きょうをおしえていました。
おしえる子が、ひとり、きょう室からいなくなりました。
いじめ、とか、じさつ、とか、わたしにはよくわからない言ばを、おとうさんとおかあさんが話すようになりました。その時のおとうさんはとてもくるしそうで、なきそうで、おかあさんが頑ばってはげまそうとしていました。元きでいてほしかったから、わたしもいっしょにそばにいました。おとうさんはわらってくれました。よわく弱く、わらってくれました。丸まったかたが、わたしよりちいさく見えました。
ぼくのせいだ、とおとうさんはひとりつぶやきます。
ぼくが力になれなかったからだって、だれかにあやまるようにそう言います。
電わであやまるおとうさんを、よく見かけるようになりました。時どき、電わをむししてあたまをかかえていました。そんな日がつづくと、きゅうにおうちのドアがたたかれるようになりました。知らないだれかが、とびらの向こうでさけんでいました。
うちの子をかえして。
なんとからならなかったのか。
がっこうはいじめはなかったとこうげんしているぞ――言ばはおこったものばかりで、とびらの前でおとうさんはうなだれて、小さくふるえていました。知らないだれかがかえっても、いつまでもふるえたままでした。
おとうさんが、だんだんやせていきました。
ねむれるようにって、おさけをよく飲むようになりました。
そのときのおとうさんには近づかないようにって、わたしはおへやにこもるようになりました。おかあさんのかおや手に、ばんそうこうやしろいものがふえました。
おとうさんのあやまるこえをききました。
おかあさんのゆるすこえをききました。
おとうさんがいえにいることは、うれしいことのはずなのに、あかりをおとしたまいにちが、あしたもつづくようになりました。
あしたをこわがっているのが、おとうさんでした。
こんな日がありました。
おとうさんとおうちで、ふたりきり。ひとりであそぶこともなくなって、おとうさんのへやに入りました。おとうさんがぎんいろのきれいなものを、てくびにこすりつけていました。
かがやくぎんいろは、何かを切るものでした。くだものをむくいがいに使うのを見たことがなかったから、わたしには不しぎでした。
「おとうさん?」
自分がここにいないようなとおい目をするおとうさんを、わたしはできるだけきこえる声で呼びました。おとうさんははっとして、片づけきれなかったおもちゃを見られたわたしみたくおろおろして、ナイフをかくして、だれもおこってないのに、おこられたようなかおになりました。いえにいるようになってから、わらうよりも見るかおでした。
何してたの? ってききました。おへやのゆかであぐらをかくおとうさんのひざもとに、わたしはすわりました。ねこがもぐりこむみたく。そこが、わたしのていいちでした。
おとうさんは、すごくこたえにくそうでした。
とてもとても、バツがわるそうなかおでした。
それから、だれかにゆるしてもらいたがるみたいに、そのひみつをお話ししました。
きょうしつからいなくなった子が、昔てくびに、おなじようなまねをしたこと。
そんなにちじょうをかかえてしまうほどに、その子が追いつめられていたこと。
少しでもその子のこころを知るために、おとうさんはそのこういを追ったこと。
りすとかっと、ってことばが、おこなったことに対して、やけに軽くかんじられました。
何かわかった? ってききました。
「何も」とおとうさんはこたえました。ただ、少しだけ、あたまがひえて、おちついたそうです。ふみとどまることで、じぶんがここにいるとじっかんできるような。わたしにはよく、わかれませんでした。
ただ、おとうさんがずっとかなしそうなのが、わたしにもかなしくて。
おとうさんいすからはなれて、わたしは台どころにかけました。手ぢかないすをつかって、ある物をとりました。おとうさんのところにもどって、見せびらかしました。
おとうさんが、ぎょっとおどろいてくれました。
ある物は、わたしにもつかえる、ちっちゃなくだものナイフでした。
おとうさんいすに座りなおして、わたしもおとうさんのまねをします。話したとおりに、冷えたかんかくが、わたしのてくびをなでました。冷たいぎんいろごしに、わたしのねつをかんじました。「いきてるって、かんじで、かゆい」そのままおとうさんに言いました。
くすぐったくって、わらいながら。
おとうさんは泣きそうなかおで、わたしを抱きしめてくれました。
強くやわく、すがるように抱きしめてくれました。
それで自ぶんをきづつけてはいけないよって、耳もとで言いました。
やさしいてつきで、わたしのナイフを取りあげました。
わたしは本とうに久しぶりにおとうさんとお話が出きた気がして、わがままにせがみました。ひんやりしたナイフのおんどを、もういちどもとめました。
おとうさんなら、わたしをきずつけないから。
「まなは悪い子だ」っておとうさんはそう言って、わたしがいきてることをたしかめるように、てくびにナイフをのせてくれました。わたしがわたしにするより、こわごわとして、おもみのない手つきでした。じぶんでするより、くすぐったくなりました。
おとうさんに、『まな』って呼ばれるのが好きでした。
まなって名前は、『あい』って言ばの、別の読みかただそうです。
子供はあいされるためにうまれてきたから、『あい』で、『まな』。
おとうさんがたくさんかんがえてくれたひとつから、その名前をくれたそうです。
おとうさんが好きでした。
よわっても、つよくなくても、じぶんをゆるせなくても、おかあさんをきずつけてしまっても、わたしは、わたしをたいせつにしてくれているのと同じくらい、おとうさんがたいせつでした。おとうさんがきずつかなくていい場しょが今のここなら、それでいいとおもいました。おとうさんがなおれるように、言いました。
わたしは、おとうさんのことを、せかいでいちばんあいしています。
それからお父さんは、少し笑って、少し泣いた。
まだ、家族の形骸を保っていた、記憶の揺り籠。
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