第8話 連連

 

 途切れない軽口を言い合って、家と呼べる場所に着いた。

 台所を独占したいと主張する悠瀬に全権を容認して、窓の隙間カーテンを揺らす居間で、その内首が舟を漕いだ。

 ネカフェでは眠り足りなかったのかもしれない。

 それとも、あまりに忙しない朝に気疲れしたか。

 ベットに深く沈んで、キッチンから聴こえる賑やかな音のせいか、懐かしい夢を見た。

 一度だけ、父親と呼ぶべき人と、一緒に料理を作った。

 不出来で、味付けの濃い、見目の悪い焼きそばだった。

 お皿を用意したり、調味料を運んだりの、微力ながらの手伝いだったけど、言葉少なに過ごした共同作業は、緊張はあっても、相互に距離が縮まるよう作用してくれていた。

 母さんが連れてきた人。

 家族という鋳型に、陽のように差し込んでくれた人。

 血の繋がりはないけれど、同じ屋根の下で送るこれからを、俺もあの人も、受け入れる準備をしていた。

 料理は何時も母さんだったから、出掛けている間に、偶には二人で作ろうと。

 結果は歪だったけれど、その過程の手応えは、まずまずだったよう思う。

 後は、口に合うか。冷める前に帰ってきて欲しいと、母を心待ちにして。


 待った。


 待った。


 テレビを付けると、地元の血生臭いニュースが流れていた。


 母さんのお皿は、何時までも減らなかった。






 「…………」


 意識が孵る。

 適度な睡眠に沈んだ感覚が、夢の余韻をぬかるみの如く牽引する。俺が徐々に知覚した現実は、不自然に熱い頬と、その熱を拭ってくれる細やかな指の所作だった。


 「……悠瀬」


 横になった俺の目の前で、穏やかな表情の悠瀬が、その手を引いた。

 意識はそこで覚醒して、俺は現状を把握する。


 「……悪い、夢だった?」


 「……夢だったら、良かったのにな」


 身体を起こし、頭を支える。

 ……もの凄く、どうしようもない姿を見られた気がする。

 元々地底まで彫り下がった威厳が更に逆天元突破を決めたので、取り繕い方に全思考を捧げた。

 そんなだんまりを通していたら、悠瀬は何事もなかったかのように居間から姿を消した。

 作業音を立てる台所から、彼女の声が部屋に響く。


 「わたしも泣いたの見られたから、これでおあいこだね」


 それ以上、彼女は追求しなかった。

 馴れ合ってるな、と思う。

 互いのかさぶたに触れぬように、彼女との距離が形成されていく。

 それを自覚しながらも、俺は料理が運ばれるまで待っていた。数少ない家の皿がたぶん初の仕事を果たして、テーブルに並べられる。湯気を立てる麺は食欲をそそる色で、盛り付けられた葉野菜も夢と違ってコゲてはいなかった。


 「温めたから、いつでもどぞです」


 「……悪い。寝てて」


 「いいよ。先食べたし」


 「……二皿あるが」


 「……もっかい食べよと思って」


 控えめに誰かのお腹の虫が囁いた。

 顔を赤くして、机の前で誰かがパントマイムのように息を止める。

 明快に目も覚めて、起き抜けに俺は笑った。


 「――くっ、ははっ。……うん、ありがとな、悠瀬」


 悪い夢を上書きするように、俺は食卓に着く。

 同じく腰を落ち着ける悠瀬と、いただきますを重ねる。

 一口啜って、俺は思い出した。


 「……そういや、昨日も麺だったな」


 「感想それぇ?」


 素っ頓狂に彼女は言った。

 美味いよ、と俺は返した。

 一言では表せなかったから、早々と完食してみせた。

 彼女は目を丸くして、俺の食い気にひとしきり笑った。

 ベランダの洗濯物が、夏に照り付けられ揺れていた。






 乾いたね、と誰からともなく言った。

 乾いたな、と誰からともなく返した。


 家を先に出て、悠瀬が着替え終わるのを待った。


 昼下り。互いに決めた期限を過ぎて、彼女の帰りに付き添う。

 不思議と会話は生まれなくて、もの静かな後ろ姿に続く。彼女の足取りはあたかも一歩を惜しむようで、時の流れを堰き止めるかのようだった。情が過ぎるなと、我ながらに思う。

 彼女との道を辿り直せば、出遭った公園に足が着く。それなりの緑に囲まれた砂の広場は何時でも貸し切り状態で、侘びしさやうら寂しさよりも、ただそこにあるべきものとしての実在感を伴って、来る者も去るものも拒まない普遍的な在り方を体していた。そんな場所を、二人見つめる。彼女は予め用意していたように、幕引きの言葉を述べた。


 「――ここまでで、いいよ。わたし、日暮れまで、ここに用あるから」


 それが昨日もここに来た件と同一の理由なのかは、深く問い詰めなかった。ただ、誘拐犯なりに、つけるべきけじめを、俺は捨て切れなかった。


 「……俺も付き合う。また危ない奴に遭ったら、事だしな」


 「……言うと思った」


 振り払うことをせず、悠瀬は公園に入って行く。茂みや木々を背にした木製のベンチに腰掛け、俺も間を空けて座る。真向かいに見えるブランコを眺めると、昨日の彼女を攫った一件が記憶に真新しく思い起こされた。あれから二十四時間も経っていない。信じ難い事だけれど、くたびれた彼女との距離に、その実感は薄らいだ。間違って癒着した傷みたいに、雁字搦めに絡まったこの糸は、正しい解き方を見つけられるのか、自信を持てなかった。

 

 「皆塚さんは、さ」


 平坦な声が俺を呼ぶ。俯く悠瀬が、時を埋めていく。


 「公園でお父さんと遊んだことって、どれくらいある?」


 互いの背景を知らなければ、ただの世間話。彼女の興味に、俺は答える。


 「あの人が来た頃には、もうそんな年頃じゃなかったよ」


 それどころじゃなかったしな、と無粋は言わずに、事の流れを静観する。会話の意向には添えたのか、弱く笑んで、彼女は少しだけ思い出を明かした。


 「わたしね、お父さんのこと、待ってるの。小さい頃、お父さんとお母さんと、よくここに来てたから」


 彼女が母の話をするのは、俺の認識が正しければ、初めてのこと。

 かつてに浸るように、悠瀬は昔話を続けた。


 「お母さんがここに連れて来てくれて、日が落ちる頃に、お父さんが迎えに来てくれて、そんな毎日が、明日も続くって信じてて。……いつからかな、お父さんが酔って暴れるようになって、お母さんが逃げ出して、わたしとお父さんで、ごめんなさいを繰り返してた」


 木々の凪ぐ風がする。雨のように蝉が唄う。辺りのざわめきを亡くしたように、彼女の声が耳を打つ。彼女を構成するものが漏れていく。今の彼女がどのような心境の推移で、それを聞かせたがったのか。聞くべきだったのだろう。受け入れるべきだったのだろう。

 

 「お前の親父は」


 抑えきれず、俺は言葉の余白を切り裂いた。

 彼女の弱さを聞き流せる程、俺は強くなかった。

 そして、何時までも放置していた一つを、胸の底から掘り上げる。


 「……どうして、お前の元を去ったんだ」


 正しい周囲が引き離したのか。

 誤った何かが引き裂いたのか。

 ずっと触らずじまいだったその問い掛けに、彼女はまた物憂げな微笑みで応じる。


 「わたしのせいなの」


 悠瀬は立ち上がると、俺に背を向ける。

 小さな肩には、支えが要るように思えた。


 「――わたしね。自分が悪いんだって思ってた。お父さんが手を上げるのも、わたしが鈍臭いから、謝るのはわたしの方なんだって。どこで間違えたか、分からなくなって、謝るだけじゃ、足りなくなって、子供が、愛される為に生まれ落ちたなら、わたしは失敗作なんだって、どこかで気付いてて」


 ――落ちたら、生まれ変われると思ったの


 首を返し、笑顔を被って、彼女は続けた。


 「それで周りはてんやわんや。警察の人も駆け付けて、お父さんは責任能力の欠如だーって会えなくなって、わたしはお母さんの家に引き取られて、たくさん、たくさん迷惑掛けてる。……ねぇ、皆塚さん、わたしはさ、これから先も、生きてていいのかな?」


 気丈さを装った声だった。

 内側で、涙を溜めているように聴こえた。

 この時初めて、彼女は彼女の本当を晒したのだと思う。

 彼女は一度終わり方を探して、終わって、終わりかけて、またその終わりを探している。

 終わり続けている。

 

 彼女は歪んでいるけど、壊れていない。

 

 半端に人間性を残した様は、それ故苦しそうに見えた。

 俺が言葉で解決出来る事なら、彼女は今、悲しげな顔をしていないだろう。己の無力を痛感しながら、それでも言わずにはいられなかった。


 「それでも、俺は」


 引き上げるのは、薄っぺらな綺麗事。

 絹のように重みはなくとも、その弱さを包めればいいと、切に祈った。


 「お前と居て、少し、救われたよ」


 この感謝が届けばいい。

 凶犯を許容して、今を重ねて、同じ食卓に着いた。

 この邂逅は悪い夢でなかったと、彼女に伝わって欲しかった。

 悠瀬は今日一番の驚きを返して、その表情を控え目な笑みに象る。

 受け取った熱を喉に下すように、彼女は吐露した。


 「……そっか。……そっか。…………変なの。…………嬉しいや」


 ひしひしとそう言って、座り直す彼女に、些末でも価値になれた事を願う。届けた言葉が強く意味を持つように、俺はそれ以上を押し留めた。緩やかに、時間だけが過ぎて行った。

 木陰の葉が作った幾重もの影を、そよぐ風が揺り動かす。自然を雑音に捉えないなら、今は正しく静寂と言えた。けれど、場所が停滞しても、人は巡って歩き出す。俺達以外の来訪者が現れるのは必然で、やがて昨日も見かけた子供達が、小柄を並べて地を踏んだ。

 一人、活発そうな丸刈りの少年が、悠瀬を見留めてサッカーボールを頭上に掲げる。

彼女もそれに気付いて、先日遊びに興じた面子に手を振る。子供達は広がって、その身に収まらない活気を発散するように、使い込まれたボールを蹴り回す。二人して、その光景を眺めた。


 「……混ざらないのか」


 「……皆塚さん、わたしのこと、子供扱いしてるでしょ」


 みなまで言わずに、俺は重い腰を上げる。それから、むすっとした悠瀬に、手を差し伸べる。

 その意図を判じかねてか、彼女は手を取らなかった。


 「……皆塚さん?」


 「……俺が混ざりたいから、力貸してくれ」


 支離滅裂を自覚しながら、彼女が立つ事を促す。俺に子供と交友する童心はないけれど、昨日彼らの間を走り回った彼女の姿は、ありのままに近く見えた。過去を振り返り、感傷に暮れた現在を切り替えるのなら、身体を動かすくらいが丁度いい。俺が混じるのは、この際方便だった。自分で言っておいて、かなり気恥ずかしい。

 そんな余計な気回しは、果たして功を奏したのか。

 悠瀬はさも可笑しげに調子を取り直して、

 

 「わたしがいないと駄目だね、皆塚さんは」


 目前の手を無視して、勢い良く立ち上がった。

 お前と居るとダメなんだよ――とは、やはり言わずにしておいた。

 手を振り駆けて行く彼女の背中を、俺も追った。



 ◆



 不登校女子の協力により不審者の壁を越えて無職の好青年として迎え入れられた。

 元気が服を着て歩いている少年らに揉まれ、俺達はベンチでくたびれる。

 二人仲良く、呼吸に喘ぐ。


 「………………あいつら…………核で動いてんのか……」


 「……………………子供は…………風の子……ですので……」


 息が整う頃には、日が沈みかけていた。



 ◆



 夜の兆しが夕を塗って、空が青く暗くなっていく。

 人気のない夜道、悠瀬を送る。

 両脇に一軒家が並ぶ景色。俺と悠瀬の居住区は公園を堺にそう離れていないらしく、見えるものにはあまり代わり映えがない。そのせいか実感も乏しく、また会話も要さずに歩いている。昨晩ナイフを振るった一件に、漸く、幕が降りる。


 「――ここまででいいよ。婆ちゃんの家、すぐそこだから」


 何処なのかははっきりと指し示ずに、彼女は立ち止まった。白い屋根の一軒家を側に、二人向かい合う。

 夜の暗がりに飲まれる前に、俺は問うた。


 「母親も、今の家に居るのか」


 「うん。ちょっと、心が参ってて、あまりお喋り出来ないけど。家の事は、殆どお婆ちゃんに甘えてる」


 「……大事にしろよ」


 「……知ってて言うんだもんね。皆塚さんは」


 会話が途切れる。そんな話をしたかった訳じゃないのに、途切れてしまう。上手な切り上げ方を互いに預けて、二人目線を地に落とした。清浄な夜が、間もなく更けていく。


 「――定理」


 下手糞を承知で、会話の枝葉を繋げた。俺の名前を聞き留めて、悠瀬が面を上げる。

 年の差で呼び名を気遣う間柄は、たぶん、当の昔に通り過ぎていて、


 「定理でいい。さん付けで呼ばれる程、俺は立派な奴じゃない。……今更だが」


 あまりに時を失した親しさの開示を、彼女は笑っていなした。


 「変なの。誘拐は終わりなのに、それじゃまるで、次があるみたい」


 「……お前がいいなら、それでもいい」


 真っ直ぐ、彼女が茶化さないように、その瞳を捉える。この縁はこれっきりだと、態度で示したのは俺の方で、何も言わずに彼女も、それを受け入れていたのだと思う。暗黙の了解を蹴破って、身勝手を働く俺の言に、彼女は戸惑いで揺れていた。


 「……わたしと会うのは、皆塚さんの得になるの?」


 「……お前が、俺を不登校のダシに使えば、その内穏便に捕まるだろ」


 始まりは、俺の独り善がりな行き詰まりだったから、改めてそう言った。なんでもいいだろと、ごねてるのと変わりなかった。か細い声が、俺を評した。


 「…………素直じゃないよね。ほんとう」


 微笑む彼女に安堵を覚えて、肩の荷が降りた心地になる。目を細めて彼女は、確かめるように、同じ音を口ずさんだ。


 「……定理、ていり、てーり。響きまで、変な人だね」


 なにやらいたたまれなくなって、俺は踵を返す。精神的首位が更に下がったように思えて、内心を隠す為ぶっきらぼうに別れを告げる。


 「……じゃあ、ここいらで帰るぞ。来たくなったら勝手に来い。ナイフは振るってやらねぇからな」


 一番大事な部分は釘を刺して、一歩を踏む。少し張り上げた悠瀬の声が、俺を追いかけた。


 「てーりはさっ、なんで、わたしに構うの?」


 納得が欲しいと言うように尋ねる彼女を認めて、満点の解答は提出出来ない。情が移った。力になりたかった。俺みたいな卑屈者でも、彼女の助けになりたいと思った。

 どれも本音で、それ故嘘臭い。口をつくのは、殻で覆った戯言ばかり。


 「……少なくとも、お前の事は、もう他人事じゃねぇよ」


 「……きざてーり」


 引き出した笑みが、加点によるものだと信じる。

 お開きの合図に、俺は右手を掲げた。


 「じゃあ、またな。悠瀬」


 「待って。スットプ。ハウス。減点免許失効だよ、てーり」


 「……普通に別れられないのか、お前は。何か、間違えたか、俺」


 何度目かの決意を削がれ、悠瀬の不明瞭な言動を目で批難する。後ろ手を組んで彼女は、楽しげに肩を揺らして、悪戯をかけるように言い放った。


 「わたしだけ、余所余所しいのはやだよ」


 悠瀬まなは、当然の理として主張する。

 期待の眼差しに負けて、俺は過ちを正した。


 「…………またな、まな」


 「うん、ばいばい。――また攫ってね、てーり」


 馬鹿野郎と、ぶっきらぼうに返した。からかわれるのが常になって、強い言葉も柔いでく。

 それでまなが笑うなら、安いものだと思えた。


 




 彼女は明日も、あの公園に居るのだろう。帰らない父を心待ちにして。

 正しかった時間が動き出すのを、ずっと待っている。生きてる事が、悪い夢のように。


 其処に、俺如きの部外者が許されるなら。


 今度はナイフでなく、本当に彼女の手が取れればいいと、おこがましくも思った。


 一人の家が、今夜はやけに、広く感じられた。

 

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