第7話 道連

 「芋ジャー……」


 「中学のだ。我慢しろ」


 麗らかな朝を迎えて平穏無事に人としての尊厳を損ねた後、悠瀬にぴったりの装備を貸し与えた。引っ越しの際、禄に荷物を分別せず仕舞っていた藍色のジャージである。

 部屋着として使用するのも申し分のない雑な汎用性を有しているそれは、高校に上ってからというのも段々と窮屈になってしまって、次第に着なくなってしまっていた。悠瀬の身を包もうにもやはり若干以上の体躯の差が出てしまって、袖や裾をめくりにまくり、腰回りの紐を縛りに縛って、ようやっと形になる有様だ。そんな不格好に不満を隠し切れないのか、テーブルにて向かい合う彼女は、これ見よがしに唇を窄めていた。


 「可愛げも色気もないね」


 「色気は出すな。俺が困る」


 「すけべ」


 くつくつと笑う悠瀬。

 俺は目線をズラし、窓の彼方に思いを馳せた。


 「これってさ、アヤコーのジャージだよね」


 聞き慣れた略称の後に、「世間は狭いね」と彼女は加えた。

 彩埼と名を冠した中学に通っていたのは昔といえば昔のことで、かといって特段懐かしさに囚われたりはしない。しかし学校や授業という概念から遠ざかった感の否めない悠瀬の口からそうした固有名詞が出たのが意外で、同郷の世界の手狭さに同じく共感した。

 

 「……一応、学校は行ってたのか」


 素朴にそう尋ねると、何時の間にやら袖に埋もれた腕をばってんの字にして、悠瀬は答えた。


 「お恥ずかしながら、がっこのジャージに袖を通したのは初めてです」


 「……予想裏切らないよな、悪い意味で」


 「期待に応えたんだよ。それとね、私も確かこの色だったよ。着たことないから朧気だけど」


 とすると、彼女は俺が中学を卒業した次の代であるらしい。季節が回るように学年毎振り分けられた色も一巡りして、彼女の記号になったのだろう。それはもう過去形で、現在の彼女は高校生という事になるのだろうか。平日の朝、彼女は制服を着て学び舎に向かうべきで、拉致監禁の現場に居るのはあまりにもズレている。咎めるべきか現行犯的に迷った。

 そんな良心の呵責にせめぎあっている間に、彼女の関心は未来に向けられた。


 「皆塚さん、今日のご予定は?」


 「……あれが乾くまで、誰かさんのお守りだな」


 ベランダで干された女物の衣類達。特殊性癖に覚えはないので断じて俺の持ち物では無い。悠瀬の洗濯物は重しになって、俺の今日という時間の侵食を約束していた。


 「今日の天気ならすぐだよ」


 「僭越ながら、すぐお帰り願いたかったんだが」


 「冷たい。あんなにホットな夜を過ごしたのに」


 「語弊を招く言い方やめろ」


 「生まれたての赤んぼの姿まで見られたし」


 「その件は謝ったろ……。いっそ警察に突き出してくれ……」


 「警察で済んだらごめんはいらないので」


 弱みをチラつかせ家主を強請ってくる。ターンの回らない王様ゲームのような塩梅で、当分は頭が上がらないだろう。とあれば、次の方針を打ち立てるのが誰になるのかは明白であり、俺の自由意志は求められず、彼女はそれとなく今後の予定を提示した。


 「それじゃ皆塚さん、お外出ようよ」


 「……まぁ、ここで軟禁ってのも、息が詰まるしな」


 主に俺が。

 虎視眈々と計画立てて本場の誘拐に踏み切った歴史に残る悪党共には申し訳ない程、自由な拘束を享受する悠瀬に外出の許可をおろす。彼女の言通りなら期限は衣服が乾くまで。さしたる時間にはならないだろう。守るべきプライベートの不足していた俺には、断る理由も浮かばなかった。学校、社会、何かしらの枷から外れてしまえば、人はこんなにも不自由になる。制服を着ていたあの頃保持していた盾は立派な矛で、職の頭に無が付く只今の時分は、同意を選ぶのに抵抗はなかった。


 「監禁先変えて、涼めるとこに逃げるか」


 「皆塚さん、悪役に無理出てる」


 「……悪ぶりたい年頃なんだよ」


 悠瀬の冗談気質が伝染ったのかもしれない。知らずそんな口振りになっていた事を指摘され、若干の気恥ずかしさを誤魔化す為テーブルに転がったビニール袋からもぞもぞと惣菜パンをくじ引きする。幸い肉っけのある種類。悠瀬の手も一泊置いて続いた。

 小さな口で可もなく不可もなくなメロンパンをひと齧りして、彼女は淡々と呟いた。

 

 「どこ逃げてもおんなじだよ。わたし達、世界に監禁されてるんだから」


 きっと、生まれた時から

 

 声にもならなかったその音を、何故だか耳に拾った気がした。

 俺が作り出したその幻聴は、己が生れ落ちた瞬間から命の虜囚であると奇妙な実感を連れて胸に沈んだ。法を敷いて正しさを繕っても、本質は奪い奪われの不条理の庭だと。

 初めから苦しいように世界を肯定すれば、後の痛みは少なくなる。

 未だになっても、悠瀬を理解してやれた気にはなれない。目下彼女が吐いた言葉が如何様な息苦しさを覚えての物なのか、正しく推し量れるなどと傲慢にはなれない。父を愛して、崇めて、欠いた彼女の主観に挟めるのも、また身勝手な主観だけだった。


 「……少なくとも、お前と飯食ってるのは、親父といるよりは苦しくねぇよ」


 また、目を逸した。

 自分のはみ出てしまう悪ぶれなさが、そろそろ煩わしかった。

 食欲の手を止めた彼女が、どんな表情かは分からない。


 「――うん。ここはあったかいから、涼みにいこっか」


 恐らく、次の監獄も生温いのだろうと、仄かな予感を胸に仕舞った。

 窓の外、どこか遠くで、蝉が未来を削る音がした。






 

 夏の陽射しを耐え忍び、悠瀬に最寄りのスーパーへと連行された。

 何でも、一宿一飯の恩義に報いる為料理を振る舞いたいとの事だった。

 なんて律儀な奴だと感極まる反面、ナチュラルに午後も居座る宣言だと受け取れた。

 一度決めた彼女が馬耳東風であると熟知している俺は、体力の浪費を忌避してその提案を飲んだ。もう直、攫った人間の要求を尽く受け入れた選手権でギネスに乗れると思う。是が非でも、そんな記録は公になって欲しくなかった。


 「かーいづかさーんの、おーすきなもーのは?」


 「……強いて言うなら、焼きそば」


 「ふむふむ。お父さんに作って貰ったの?」


 野菜の並んだ区画で涼みながら押していたカートと共に停止する。家を出る時に渡した灰色の帽子を半ば団扇代わりにしながら、悠瀬は店の商品を物色している。そんな彼女の直感という奴に冷房以上の寒気を覚えながら、答え合わせに窮する俺だった。


 「……なんで鼻が効くんだ、お前。……それしか作らなかったよ、あの人は。両の指で、数え切れる程度だけど」


 「そんな思い出を忘れずいるんなら、皆塚さんって、結構お父さんのこと好きなんじゃない?」


 「……歩いて雷に当たるよりは低確率だから、偶々覚えてるだけだ」


 「皆塚さんがそう言うなら、そういう事にしとこっか」


 相手が降りて言い負かされたと感じる口論もある。

 無言を貫き、野菜や肉、飲料水諸々、生活の基盤を鹵獲していく。一日きりとはいえ、それなりに二人分を意識した分量で。菓子の陳列棚に差し掛かると、ばっちゃん子の悠瀬が目の色を変えて甘味を簒奪し始めた。誘拐って怖い。改めてそう思った。


 「実際、人手借りれるのは有り難い」


 エンゲル係数がハザードレベル直前な現実はさて置き、本心から礼を述べる。

 何処の誰が考え出したのか不明瞭な、唇と唇が万有引力される悪戯に重宝される棒状のチョコレイトをぽいして、悠瀬はご満悦そうにしていた。


 「ばっちゃの荷物もよく持つから、お任せ下され」


 「今後の婆ちゃんの買い物が、大変になる前に帰れよ」


 「……急に後悔が」


 珍しく素直に顔を青くする悠瀬。可笑しくて「おせえよ」とつい突っ込むも、聞こえてない御様子。そんなこんなで、俺達はセルフのレジまで向かい都合のいい神様に祈りを捧げ、金額の尻の数値までぴったりと揃った財布の底力に二人天高く拳を突き上げ周囲に引かれながら週三くらいで通っているスーパーを後にした。


 店を出て平たい駐車場を出ると、歩道を沿って遠くに陸橋が見える。それを渡れば、住まいのアパートに辿り着く。通勤ラッシュを終え社会に人を吐き出した大通りはそれなりに物静かで、不登校一名と一浪未成年二人してのんびりと帰途に就いた。

 しっかり持ってきた容量満杯一歩手前のマイバッグを、悠瀬が諸手を使って吊り下げる。俺もペッドボトル等ウェイトを占めた戦利品を両の手に、彼女の頼もしい背中に続く。町並みの風情を横切りながら、陸橋の麓まで差し掛かる。

 その折に、悠瀬は突然立ち止まった。

 

 「……悠瀬?」


 怪訝に思い、彼女の動向を追う。階段はもう目の前で、止まる理由は見当たらない。バテでもしたかと横顔を窺うと、彼女の目線は遥か上を注視していた。

 階段をトボトボと降りる、暗い顔をした制服の少女を、俺も認識した。

 ここまで来る際に、ずっと視界には入っていたのかもしれない。けれどそれが悠瀬の立ち止まる理由になるとは思い当たらなくて、意識からつい外れていた。

 見慣れた赤を貴重としたスカートから察するに、その夏服仕様の出で立ちは、俺の母校の高校生か。少女は指を反発しそうな癖っ毛頭の至る箇所を寝癖で暴発させて、この世の終わりに根ざしたように首を折っている。名探偵の自負はないけれど、現在進行形で彼女が背負う悲劇の名を、“寝坊”という二文字で妥当とするには、十分な情報のように思えた。


 そこまで分析した所で、悠瀬は動き出し、俺を隠れ蓑にするかのように肩に立った。


 丁度俺達の左を通り過ぎるであろう遅刻少女(暫定)から真反対。悠瀬はそっぽを向いて、自意識過剰な無関心をアピールしている。図らずも少女は俯くことを暫しやめ、不自然な対向者を一瞥した。特にイベントもなく、彼女は黙々と去っていった。

 緊張を解いて、悠瀬は毒吐く。 


 「ふりょー……」


 「お前が言うのか……」


 さすがの寝坊少女も悠瀬にばかりは言われたくない筈である。ついで、大胆を地で行く彼女の人間性に弱味の一角を見た気がして、好奇心が疼いた。


 「今の、同級生か?」


 「……知らない人。でも、それっぽい人には、あんま見られたくないから」


 眉間に小じわを浮かべる彼女に対して苦笑を返す。お互いの過去を語っても表面的な部分には驚くほど触れていない間柄のせいか、日常の顔が垣間見えるのは不思議と愉快だった。昨夜散々弄ばされたので、冗談気味に追い打ちする。


 「やっぱ不登校か、お前」


 「……入学式は顔出したよ」


 「プロじゃねぇか」


 そろそろ夏休みが窓口を開いてる。

 ぷーで虚無な役職な上最近カレンダーも確認していないけど、身体に刻まれた記憶によればきっとたぶんそうだった。これ以上我が身を振り返ると惨めさに首を掻き毟りそうなので、階段に足を掛ける。先を進む傍らで、一応の雑談を続けた。


 「お前にも、真っ当に思春期なとこあるんだな」


 中腹で立ち止まって振り返ると、キャップ帽のズレ落ちそうな悠瀬が羞恥に赤らんだ顔で俺を見上げていた。気を損ねたのか、乱暴に荷物を振って彼女もそそくさと上り始める。


 「えっちぃ皆塚さんには言われたかねーです」


 「そのばっちぃもん見る目やめよう?」


 侮蔑の視線に追い越され白旗を上げた。

 陸橋を降りそうな先の彼女に、聞こえる事を期待しない声で、俺は零した。


 「結構、普通なとこあるよな。悠瀬」


 不登校を同年代に目撃されるのは気恥ずかしくて。

 急所を突かれるとむくれてしまう。

 彼女の育った環境を鑑みれば、それはまともに過ぎる感性に思えた。

 悠瀬まなの多くはまだ知り得ないけど、彼女の人格に時折チラつく祖母の存在に敬服した。なんの気無しの一言は、どうやら耳に届いたようで、彼女は振り返り、


 「…………見る目ないよ、皆塚さんは」


 ズレた帽子から覗くその瞳は、困惑と微々たるバツの悪さに彩られている。

 

 「お前と会うんだから、そうなんだろうな」


 軽めに笑い飛ばして、俺は悠瀬を追い抜いた。

 陸橋を降りる間、彼女は皮肉を噛み砕くように暫し動かず、遅れて俺の方に並んで言った。

 

 「……ほんと、変な人だね」


 聞こえない振りをして、互いの歩幅を合わせた。

 揺れる荷物が、時折俺達の間を擦れ合った。

 

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