第6話 親愛

 部屋の照明は一定の明かりを保っている筈なのに、羽織ものを脱いだ悠瀬の肩から腕までの一筋のラインは、やけに光を返して見えた。外で病的に白いと感じた彼女の肌は纏う黒が際立ていたもので、近く目にする色つやは生きている事を示唆する健常なものだった。

 ノースリーブの右肩口から僅かに覗く、消えかかった痣を注視しなければ、彼女は何の変哲もない女の子だった。折り畳んだカーディガンを机に、悠瀬は上を仰いだ。

 

 「それじゃあ、優しめにお願いします」


 「……床屋か何かだな、まるで」


 椅子に腰掛けた悠瀬の後ろに、俺は立っている。ともすればニヤけているように見える気の抜けた彼女に対して、提案者ながら期待が肩に重かった。


 「髪は触っちゃ駄目だよ」


 「……トークは有りか無しか」


 「うわ似非美容院っぽい。んーと、ありよりのありで」


 「言いたいだけだろ」


 「段々分かってきたね。……お父さんの時はあまりお喋りしなかったから、控えめで」


 「……承った」


 悠瀬が、合図するように右腕を横に伸ばす。白鳥が羽を伸ばすような優美さで、全てを委ねるように無防備に。覚悟を決めて、俺もナイフを準備した。


 「…………触れるぞ」


 「――うん」


 陶器のような彼女の肌に、刃を寝かせた。小さく、彼女が震えた気がした。

 間違いが起きないよう右手首を軽く押さえながら、俺も呼吸を落ち着ける。


 触れるか触れないかの距離を意識しながら、そっと肌をなぞる。


 「――ン」


 声にならない吐息を、耳に拾った気がした。互いに共有しているであろう緊張が、同種のものであるかは汲み取れない。犬や猫を撫でるのとはまるで違う加減を求められて、俺は思わず手を止めていた。その先に踏み切れなくて、短く確認する。


 「……怖いか?」


 「……びっくりしたけど、だいじょうぶ。皆塚さんは、怖くない?」


 「……怖くないわけ、あるかよ」


 「そっか。なら、いいの」


 続けて、と彼女は言った。

 肘まで差し掛かったそれを、水面を撫でるように、そっと滑らせる。蟻が餌を運ぶような鈍さで過ぎゆく危害の道具は、己の意義を全うすることなく、少女の肌に何事かを確かめていく。きっと時間にして数秒、俺と彼女の間には呼吸を忘れる程の一瞬を通過して、か弱げな手の甲を抜けた。刃を仕舞い、一仕事と言うには余りにも重荷を終えて、俺は息を整えた。

 

 悠瀬は、何か大事な受け取り物を秘めるように、右腕をゆっくりと抱えた。


 背後に立つ俺には、その表情は窺えない。彼女の何かを埋められたのかは、確信を持てなかった。掛ける言葉もなく、反応を待つ。その空白は長くはあったが、苦ではなかった。

 

 「……ありがと」


 彼女は座る姿勢を変え、身体を真横に向け俺を見上げた。その頬は心なしか火照り気味で、その笑みは誕生日の褒美を貰った子供の様。慮外の表情に俺は、……恥を忍ばず言うのなら、ほんの少し、心の表層を動かされた。些細な揺れは波を打って胸の奥を叩き、俺は戦略的撤退を余儀なくされる。顔を逸らし、流れを変えようと言い繕った。


 「……気は済んだか」


 「皆塚さんは、満足しましたかー」


 「……物足りないなら付き合うぞ。だから、その変態性を俺に当てつけるな」


 「ひどっ。人の性癖を笑うなって教わらなかった?」


 「さりげなく認めるなよ。友達減るぞ」


 「友達皆塚さんしかいないし」


 「……誘拐犯じゃなかったのか」


 「不審者と書いて“とも”と呼ぶ!」


 「俺以外通じねぇからなその冗談。お前テンションおかしくない?」


 足を伸ばして腕を天に、喜色満面の悠瀬。弾む軽口は修学旅行の出し物に浮足立つ中学生のような具合で、頭のネジがいくつか飛んでいる。意志の疎通が危ぶまれた。


 「それで、犯罪者の卵さんは、次にどんな悪いことをしなさるのでしょーか」


 絡み酒のノリで、期待一心の伸びた声。

 

 「布団で素巻にして黙らせる」


 相手に出来んと、俺は切って吐き捨てる。

 それしきで、彼女の戯言が止まる筈もなく、


 「えーまだ1プレイじゃん」


 「大人しくしなかったら叩き出すぞ」


 「それは逆説的に、大人しくしてれば帰らなくていいってことでしょうか」


 「は?」


 「えへへ、言質取ったー」

 

 とてとてばったん! と、可愛らしい足音を立てて悠瀬は人の家のベッドにダイブする。まるで可愛げのないその行動に呆気に取られ、俺は言葉を失う。如何なる糾弾も思い浮かばず、呻くことしか出来なかった。


 「おい……」


 寝床の柔らかさを堪能しながら機嫌良く足を上下に踊らせて、拉致られた少女はぬけぬけと言う。


 「やー、攫われた身ですから、仕方なく不可抗力否応なしに、晩食にあずかってふかふかのベッドに匿われながら朝まで眠るのもやむなしですなー」


 「……勝手にしろよ、もう」


 きっと宇宙人にでも育てられたのであろう彼女に説得を試みるほどの気力は最早ない。親の顔が見たいもんだと気持ちだけ毒づきながら、やはりそんなものは見たくもないと思い直す。ただならぬ自己紹介、もとい自己傷介を経て、大なり小なり同情が芽生えたのか、彼女に甘くしてしまっている自覚はあった。


 「皆塚さんって、将来悪い女の人に遊ばれそう」


 現在進行形で踏み荒らしまくってる張本人がそれを言うから、俺も思わずムキになる。

 

 「減らず口が収まらないなら、摘み出す権利は俺にあるぞ」


 睨み付けるも、肩から沈んで枕を頭にした悠瀬の笑顔は崩れない。口ばかりの牽制は意味を成さず、暫し考える間を空けて、彼女はのっそりと右腕を動かした。

 真っ直ぐにした掌を立てるようにして、あたかも俺の右手に握られた物を連想させるように――事実彼女の瞳はそれを射止めながら――首筋をなぞる。


 「ここを撫でてくれたら、大人しくなるかも」


 求めているものが、掌の温度でないのは確かだった。

 余熱の篭った彼女の瞳が、紛うことなく伝えていた。


 「……本当に悪い女だよ、お前」


 受け入れる俺も、きっとどうかしている。生れ落ちてこの方積み立てた道徳という観念は今日という一夜で瞬く間に剥がれ落ちて、俺は彼女を寝かし付けるべく、枕の手前側に腰を下ろす。横になっていた彼女も身を起こして、丁度右隣、同じ目線の高さになった。

 刃を拡げ、深く溜め息を零す。


 「……先に言っておくが、誰にでも気を許すなよ、こんな事」


 「うん」


 「やけに、素直だな」


 「たぶん、二度はないよ、こんな事」


 神妙な横顔が、この交流の奇妙さを、くすぐったそうに微笑っている。

 

 「ああ、二度と御免だ」


 主犯の俺も、釣られて小さく笑った。


 「うん、ごめん、だね」


 謝罪を被せて、彼女は続けた。

 俺の預かり知らない、彼女の倫理に従事して。


 「わたしは、貴方に優しくされたけど、皆塚さんと、皆塚さんのお父さんとの事には、してあげられることって、全然思い浮かばないの。不公平だよね、これ」


 か細いトーンで零れた負い目は、真実俺を慮るもので、彼女なりに何かを背負おうとしているのだと知る。降って湧いた幸福ほど得体の知れない物もなく、この場合彼女に振りかかった悲劇かもしれなかった事象が、役者の違いで喜劇にすり替わっただけに過ぎない。手前勝手な理屈だけども、彼女が謝る必要性を、俺は求めてやれなかった。

 これは、俺の落ち度が、彼女の光明になっただけ。

 歪んだパズルが、上手く嵌っただけの話だ。


 「対価とか感謝とか、そんなのをお前が悩まなくていい。これは、俺がお前を脅したツケだからな。……本当、人にナイフなんて向けるもんじゃないよな」


 「ほんとに、ね」


 「お前も、ナイフ向ける奴に付いていくなよ」


 「皆塚さんも、二度と悪いことをしちゃ駄目だよ」


 「お前に諭されるかー」


 「わたしも焼きが回ったもんですなー」


 「…………大人しくしとけよ」


 「――はい」


 互いに息を潜める。

 伸びた髪を纏めるようにして、悠瀬が首元を晒す。

 寝かせた刃を果物の皮を剥くように反らして、徐々に肌に貼り付ける。

 眠るように瞼を閉じる彼女の首筋を、息を殺して登っていく。

 コツを掴んだ訳でもなしに、緊張は全身を支配していたけれど、片手にその作業を成せてしまえたのは、俺がこの行為に、よからぬ感情を抱いていたせいだろうか。危うさに身を委ねる悠瀬の横顔は静止していて、彫刻品の様に綺麗だと、網膜が思考を飛ばして伝達する。集中はかつてなく研がれ、小振りのナイフは、その柔い頬の瑞々しさを名残惜しく抜けていった。ほっと、息を吐く。

 掌を首元に、肌に残る冷ややかさを確かめるようにして、彼女の唇が薄く開く。仄かに上気した頬と、微かに熱っぽい目線が、俺を捉えた。

 

 「……ドキドキしました」


 「……悪い意味でな」


 視線を外し、妙な熱が冷めてくれるように、俺は何をするでもなく宙を見つめる。

 悠瀬は俺の後ろに倒れ込み、独り言のようにして呟いた。


 「皆塚さんは、わたしのこと、おかしいって言ったりしないんだね」


 「俺が言えた義理じゃないからな」


 素っ気なく、本心からそう返す。共に相手を正面にしていないのに、自然と言葉を出せるのは、それなりに互いを受け入れた証左か。その距離感は俺にとっての不可解で、彼女にとっての望外なのか、掴みかねるようにして、彼女は言葉を探していた。


 「それでも、やっぱり変だよ。……お父さん以外にして貰うの、こんなにくすぐったいだなんて、思わなかった」


 声に滲むのは、戸惑いか喜びか。其処に答えを見出すよりも早く、彼女の勘違いを正すべきだった。束の間寄り添った風に見えても、彼女の導を担える程、俺は出来た人間ではないのだから。


 「俺は、お前の父親の代わりにはなれないぞ」


 「……うん。知ってる」


 「こんな事をしでかしておいて、やっぱり言えた立場なんかじゃないが、お前の父親が、正しい奴だとも思わない。だから、お前の味方にもなれない」


 「だから、友達でもないぞ、って言うんでしょ」


 不確かな線引きをより曖昧なままに、それでは俺達のこの関係は何と名付けるべきなのだろうかと、ふと考える。味方でないのならその対もなく、否定も肯定も介在しない、薄氷のような脆弱な利害の一致のみが其処にはあって、父親の親愛を求める彼女と、家族の垣根を壊したかった俺との似ても似つかない繋がりを、友人という名目に当て嵌めてしまうのは、言葉が間に合っていない気がした。


 「俺は誘拐犯で、お前は被害者だ。明日からはい忘れましたって言うには、お互い相手を知り過ぎた。……友達でも味方でもねぇけど、宙ぶらりんが嫌なら、いい名前があるぞ」


 この馴れ合った距離に名札を付けるなら、出来るだけ不名誉なものがいい。

 首を返して、仰向けの悠瀬を見る。不可思議そうな面持ちの彼女に向けて、俺なりの答えを継いだ。


 「――俺が罪を被りたくて、お前が合意で着いてきた。だから、悠瀬まな。お前は俺にとっての共犯者だよ。誘拐犯に従って、今日は良い夢見て静かにしてろ。反論は受け付けねぇからな」


 「……今寝たら、夢が終わっちゃいそう」


 「心配しなくても、帰りくらいは送ってやる」


 しめやかな瞳の彼女に、年甲斐もなく大人ぶる。身じろいで壁を向こうにした彼女は、静かな声で俺を呼んだ。


 「皆塚さん、さ」


 「なんだ」


 「悪い人、向いてないよ」


 それっきり、彼女は押し黙った。


 「…………俺も、そう思う」


 少女の笑う気配が、部屋の沈黙を揺らした。



 ◆


 

 ネカフェで一夜明かした。

 推定JCからJKと思わしき異性と同空間に居合わせて冷静でいられる程俺は強くなかったし、一時的な退避先を選べない程弱くもなかった。駅周辺で俺の在宅地から割と遠い其処から、帰路につく今はお日様が昇った頃で、朝方の鳥の囀りが巷には流れていた。


 道行きのコンビニで朝食を買って自宅に向かう。久方の早朝の空気は新雪に足を踏み入れるが如しで、安易にも得した気分になる。二人分の重みが詰まったビニール袋を提げた帰り道は和やかで、誘拐という二文字を罪深くも霞ませていた。庭先のペット達も寝静まる街中を辿り、さしたる苦もなく家に着く。ここに今人が居るという現実に不思議な気持ちが込み上げて、差し込みかけた鍵を一旦手に止める。さすがにただいまはないよなと独り笑いたくなるのを抑えながらドアノブを回し、何気なく扉を開けた先の通路に立つ裸族を視界に入れて俺は一瞬凍った。


 タオルで髪を拭きながら、一糸纏わぬ姿で、悠瀬が立っている。


 「……」


 「……」


 両手を頭に水気を取り払っていく動作は俺と目が合った時点で止まっていて、一切の防御に移ることなく水晶のような瞳が俺を試している。目下何かを試されている俺は異性の異性たる部分をまっこと邪に注視して生身の女子の細さに驚かされながらその非現実感とやっと追い付いてきた罪悪感と理性の鳴らす警鐘と戦いながらこの惨憺たる事故の弁明を考えながらやはり上半身の一点に視線を吸い寄せられ「……すけべ」黄金の意思で捻じ伏せた。


 力一杯扉を閉める。


 ナイフを向けたよりも取り返しのつかなさに追われ、ドアに背を預けへたり込む。一杯の申し訳なさと一抹の感謝の枚挙した複雑な感情――目にしてしまった幾つかの加虐の痕も含めて――と相談しながら、一枚の隔たり越しに微かに聴こえる足音をどうしても意識する。図らずもその音は段々とこちらに近付いて、次に悠瀬の淡々とした声を届かせた。


 「もし、そこの覗き魔さん」


 「……言い訳を宜しいですか、ハルカセサン」


 「うん。まぁ、不幸な事故だよね」


 落ち着いてるのが怖い。

 外気を吸っているのに取り調べ室にいる気分だった。


 「何か、言う事はありませんか」


 「……悪い。俺の想像力不足だった」


 「それは、こっちも迂闊だったからお互い様なんだけど、そうじゃなくて」


 気安い語り口から一転、声は怒気を孕んで俺を突く。

 知ってる人の知らない一面は、扉を厚くするかのように剣呑だった。


 「あれだけまじまじと見つめられて、何もなかったかのようにされるのも癪なのです」


 「……感想にしないと駄目か」


 「女の肌は安くないってばっちゃが言ってた」


 「……良い婆ちゃんだな」


 「うん、わたしも尊敬してる。今なら、情状酌量の余地もなきにしもあらずです」


 「…………………………………………………………………………形は良かった」


 「……………………………………………………………………………………やらしい」


 何かもの凄く掛け替えのない大事な物を失った喪失感に苛まれながら、詰問が終わる。俺の評価が暴落したのは間違いないが、肝の座り方が常識では括れない彼女は、先の珍事を忘れたようにお気楽な調子を取り戻し、手慣れたように俺をからかう。


 「皆塚さん鼻息収まっても入っちゃ駄目だよ。まだすっぽんぽんなので」


 「お前、そういうことをだな……」


 「へんっ、意識してらー。あっ、それとお洋服借りとくね。わたしの服洗濯機回してるから」


 「フリーダム過ぎんだろ」


 「好きにしろって言ったの皆塚さんだし。動いちゃ駄目だよ」


 部屋を歩く気配がして、騒々しさが止む。真朝の空は青く澄んで、爛れた俺の罪過を照らしている。腰を上げる気力もなく悠瀬を待っていると、奥の部屋から人の出る物音がして、昨日のジャージさんと目が合った。汚物を見るような具合で通り過ぎていく彼の中では、JCないしJKに不純異性交遊を働き掛け責任を押し付け泣かせた挙げ句、翌朝家を締め出される哀れな一男子といった五里霧中ストーリーが描かれているのであろう。世間の目に耐えながら、捕まるよりも惨いと俺は溢れ出そうな何かを堪えた。

 途方に暮れていると、やがてドアノブの回る音がして、寄りかかる俺への反逆を感じ取る。腰を上げ尻を払うと、類人猿から現代人に文化的な装備をした悠瀬に迎えられた。


 「ん。おはよ。……どったの」


 彼女が訝しんだ訳は、俺が顔を逸らしたせいにあると思う。……不肖ながら、新たな刺激は更に予想を飛び越えたもので、目のやり場に困ったのだ。男一人暮らしの部屋の中で彼女がセレクトするのに無理がなく、最も手間要らずな様相。彼女の肌を覆うのは一枚きりで、男物のTシャツによってのみ、彼女のセキュリティは守られていた。いわんや、幾ら小柄な女子にダボついた上着とはいえ隠れるのは腰までで、下は水気を拭った素足が眩しく覗いていた。目の端にそんな立ち姿が入るものだから、俺は彼女の祖母の言に従って、対価の感想を忌憚なく口にした。


 「…………こっちのがやらしい」


 「……………………皆塚さん、やっぱ悪い人だ」


 右手で胸元を掻き抱き、左手で裾を引き伸ばす悠瀬。恥じらいで顔を赤らめる程度には彼女は普通で、真に捕まるべき俺は、先程のジャージさんがこのタイミングで現れなかった幸運を、切実に感謝していた。右手に提げたビニール袋を持ち上げ、俺は場を変えたい一心で浮かぶ言葉に舌を動かす。

 それは、家に帰り着いた合図。

 仮面の家族の間では、長年口に出来なかったお約束。


 「…………それと、ただいま」


 きょとんと一泊空けて、小さく吹き出すと、悠瀬は相好を崩した。


 「うん、ははっ。おかえり、だね、皆塚さん」


 妙なこそばゆさを共有しながら、俺達は向かい合った。

 朝の陽気にくるまれた温かさを滲ませて、数年振りに、家に帰れた心地がした。

  

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