第5話 告解

 空漠とした時間の最中、随分と、順序を間違えたように思う。

 あの公園で出会って、悠瀬の世界に踏み込んだ帳尻合わせを、支払うべきが今だった。逃れようもなく、自らのルーツを開示した彼女に、俺が出来る事。きっと、迷うべくもない。

 

 「それを話したら、帰ってくれるか」


 「考えとく」


 ここに掛け時計があったなら、秒針の刻む旋律だけが、この場を支配したことだろう。何から話そうか、どこまで話そうか。そんな概算をしているのは、許しを得たいからか。度し難い程に罪深くて、醜い。その逡巡を断ち切って、俺は心を手放した。

 きっと少女は、同情などおくびにも出さないだろうと。

 そんな不埒な信頼だけが、微かにあった。

 

 「血の繋がってない、父親がいるんだ」


 想いの込もらないよう、淡々と切り出す。その独白は、告解に似ていた。


 「本当の親父は物心つく前に交通事故で亡くなって、顔も覚えていない。俺が十になる前に母親は再婚して、それからはその人と暮らしてた。弁護士で、物静かな人で、戸惑ったし、慣れなかったけど……家族に、なろうとしてた。俺も、あの人も」


 悠瀬は張り付くような微笑みで、耳を傾けてくれている。やはり少しも揺らぎはしない彼女の湖面は、俺が物語る一助になった。程々に鮮明で、程々に不透明。聞かせるようで、独り言。だからその過去を語るのに、気負う必要はない。それが心底、有難かった。


 「式を上げて一年経たない内に、母親が死んだ。――殺されたんだ」

 

 琥珀の瞳は、依然微動だにしない。映る俺も、平時のままだ。首をもたげ、空を見つめる。彼女とそう変わらない歳の俺でも、語るべき事が山程ある。短い深呼吸をして、過去を手繰り寄せる。母親の像はまるで、記憶を記憶するようで、脳内で焼き増しにする度に、細部を見失っていく。それを悲しめないのが、悲しかった。

 言葉は流暢にいかずとも、心は徐々に漏れてしまう。目の前に居る彼女すら忘れて、俺は吐き出す。瓶底に残ったタールを掻き出すような、忌々しい感覚が喉を通る。


 「犯人は、あの人が昔弁護した奴で、刑を免れなかった逆恨み、だったらしい。模範囚だからって、外に出すなって話だよな、そんな奴。……泣いたし、悔しかったし、やるせなかった。あの人は、ただただずっと、謝ってた」


 我を忘れないように、息を継ぐ。

 力が込もって、首を折る。

 堰を切って、溢れ出す。

 

 「母さんを手にかけた奴以外、悪い奴なんていない。頭では分かってたのに、あの人をどこかで恨んでた。あんたさえいなければ、って、違うって分かってるのに、止まらないんだ。……それからは段々、余所余所しくなったよ。血も繋がってないのに、俺達を繋ぐ人もいなくなって、上辺だけの、家族って枷だけが残った」


 それが八つ当たりだと解っている。行き場なく持て余したまま、今でも折り合いを付けられずにいる。――いや、それも違うのかもしれない。互いに干渉せず、影響しないことで、先延ばしにしているだけだ。

 俺は停止する事でわだかまりを繋ぎ止め、あの人は踏み込まない事で背負う罪を良しとした。何処かで許し合えれば良かったのに、無為な日々が塵に積もって、壁を越える機会を見失い、一つ屋根の下の隔たりに、息苦しく生きてきて、


 「あの人は、仕事人間だったから。俺が避けてるのにかこつけて、中々同じ時間にはいられなかった。そのまま小学が過ぎて、中学も過ぎた。偶にテーブルに居ても、他人みたいだった。俺もあの人も、どうすればいいか、分からなかったんだと思う」


 吐息をついて、熱を逃した。

 悠瀬は、壁だけを見つめている。

 

 「高校になって、家に帰らないよう気ままな奴とツルんで、色々余計なことしてたツケだろうな。受験に失敗して、あの人の庇護に居る時間が延びた。卒業して働き出した方が、きっとせいせいした。けど、大学を出るまでは面倒を見るって譲らなかったよ。目も合わせないのに親父面して。ずっと二人だと息が詰まるだろうって、この家を用意してくれたんだ。……その時、何か切れたよ。

この人は俺のなんなんだろう。

俺はこの人のなんなんだろう、って」


 コトリ、と。

 悠瀬に突き付けた、出せずじまいだったそれを、机の上に置いた。彼女の目線が動く。今は刃の納められた、他に幾らでも使いでのあるアーミナイフ。改めてその利器を出した意味は、俺の過ちの象徴であるからだ。こんな安っぽい物で、俺が本当に切りたかったのは、

 

 「ずっと他人の関係が、気持ち悪くてさ。きっかけが、欲しかったんだ。俺があの人から離れる理由。あの人が俺から離れる理由。考えて、碌でも無いことしか浮かばなかった。プラスになれなかった俺達には、マイナスしかないって」


 「だから、捕まろうとしてた」


 真摯に、悠瀬は問うた。

 俺は、自嘲して笑えなかった。


 「……別に、それで何かがどうにかなるって、訳でもないんだろうな。俺は取り返しの付かない経歴になるだけで、あの人は名目上そんな俺の親であるってだけで。それが亀裂になって、俺を蔑んでくれるなら、諦められると思うんだ。もう手遅れで、家族ごっこは終いなんだ、って」


 「それってさ」


 間髪入れずに彼女は継ぐ。俺の信じた通り、情を排した声音で。


 「結局皆塚さんは、お父さんに繋がりを求めてるよね」


 心臓を掴むような物言いに、思わず瞠目する。ピントの合った先には、矢のように射抜く彼女の目がある。ほんの少し、怒っているようでもあった。

 その原因に当たりを付けるなら、事の本題が、【家族】であるからだろうか。


 「諦められるって、諦められない裏返しでしょ? そんなに思い悩む時点で、もう他人じゃないよ、それ」


 悠瀬の説法は、嫌に胸を刺した。


 「……他人じゃないなら、なんなんだ」


 「それは、皆塚さんが一番分かってるんじゃない?」


 笑みを取り戻し、したり顔で彼女は言う。そして指先でナイフを一つ突き、


 「もし、さ」


 どこか悲しみに暮れた眼差しで、俺の靄を言語化した。


 「悪い事した皆塚さんのことを、弁護士のお父さんが守ってくれたら、皆塚さんは嬉しい?」


 とても夢見がちで、都合の良い願望。他人である彼女だから、その解を引き出せたのかもしれない。それは俺が想像だにしなかった事で――どうだろう、心の奥底では、望んでいたのかもしれなった。例え遅きに失しても、気取られないように、強弁を振るう。


 「俺が、そんな期待を持ってるとでも?」


 「さぁ? わたしだったら、嬉しいなって。お父さんが守ってくれたなら」


 「俺とお前じゃ、事情も感情も違うだろ」


 「そうかも、しれないね。家族に愛されたわたしと、家族を愛せなかった皆塚さんじゃ大違い。や、愛したかった、かな?」


 「……さてな。好きに解釈しろよ。言葉で分かり合えることなんて、たかが知れてる」


 「皆塚さん良いこと言うね、悪い人なのに。――でもさ、言葉じゃなくても伝わること、きっとあるよ」


 からかうような文言の末尾は、切なげな温度を秘めていた。頑なになっていた俺も、その変化につい気を緩める。悠瀬は俺が抱く彼女の印象にそぐわない、殊勝な態度で嘆願した。

 

 「皆塚さん、ナイフ、借りてもいい?」


 「……刺そうってタマじゃねぇだろうな」


 「まさか。皆塚さん美味しくなさそうだし。じゃなくて、ね。少し、思い出したいの、昔の事」


 妙な部分で相手の意思を確認する彼女なりの礼節は、隠し事は出来ても嘘はつけない、素直さの表れなのか。彼女は奔放だが、器用ではない。それなりに過去を暴き合った現状のせいか、その願いが害を及ぼすものでないと希望的観測を取る。刃を仕舞うと一見ライターにでも見えかねないそれを、今一度手に取り、念を押す。


 「余計な真似、すんなよ」


 瞬きの間、彼女はらしくなく驚いて、次に彼女らしく微笑んだ。

 このお転婆な少女をして、刃物を受け取ることを一応の理として悪いと自覚している事が、今更ながら不思議に思えた。


 「うん。ありがと」


 目前に物を置くと、時間を掛けて、彼女は恐る恐るといった具合に手を伸ばす。少女の手にも小さなそれを、慣れない操作で刃を拡げる。その細腕にあっても、銀の煌めきは人を傷付ける利器だと見て取れた。胸に抱えて、悠瀬は暫しの間目を閉じる。彼女が浸っているであろう思い出は、俺からすれば、とんだ淀みでしかないけれど、当人にとっては、紛うことなき、愛の証なのだろう。

 俺は目を離さないままに、彼女を逐一観察する。今ここで起こり得る過ちは、彼女の気が触れて、突如その凶器を振り回す事くらい。狂気の兆しは感じ取れず、杞憂に思えて内心胸を撫で下ろしたが、瞼を開いた彼女の、虚空を睨むような瞳が、俺の反応を気後れさせて、数瞬身体は視るだけの機械になった。彼女はあまりにも自然に、歯ブラシを取ったら次の所作は決まりきっていると言わんばかりに、

 俺のナイフを、

 白い手首に、突き付けて


 「――悠瀬‼」


 彼女は動かない。寝かせた刃は、間違いなく彼女の柔肌に触れている。

 立ち上がって焦りを散らす俺に、彼女は落ち着いて語った。


 「大丈夫、血迷ったりしてないから。あと、遅いよ、名前で呼んでくれるの」


 挙動と言動が釣り合っていない、冗談のような言い草。それでも悠瀬は、凶器から手を離さなかった。ナイフを這わせた腕を下げて、確かめるように、一つ一つ。


 「わたしは、憶えてるよ。お父さんにこうされたこと。言葉じゃなくても、肌に残ってる。幾ら周りが違うって言い張っても、わたしだけは知ってるの。あれが、お父さんの愛だったって。ひんやりして、少し震えて、危うくて、ドキドキした。……やっぱり、自分でやると、全然似つかないや。あの、感触と」


 「……もう、気は済んだろ」


 「……もう少し、もう少しだけ」


 沈痛な繰り返しは、誰に捧げる祈りだろうか。

 彼女の跡を、彼女の痕が掘り返す。そんな傷みを弄くり回したのは、誤った冀望を、彼女に魅せたのは、


 「…………悠瀬」


 他の、誰でもなく


 「まだ、お前に詫びてなかったな」


 「……何のこと?」


 「俺がお前に、ナイフを向けたことだよ」


 悠瀬が顔を上げる。やっと、彼女の世界から立ち戻る。それしきの興味を引く程度には、俺という存在も認知されているらしい。あしらうように、彼女は言う。


 「使う気もないナイフなんて、割り箸向けられてるのと変わらないよ」


 彼女は平行線を望んでいる。そんな彼女の過去に割り込んだ、俺という部外者が成すべきこと。誠実になんて言えば余りに嘘臭くなるけれど、薄っぺらな常識を掲げて、彼女に届くよう、綺麗事を重ねる。


 「それでも、世間一般じゃ罪なんだ。それに、俺のしたことが、お前に余計なことを思い出せたなら、全部俺のせいなんだ」


 「また悪ぶって。わたしは何も気にしないよ」


 「俺が気にするんだ。――だって悠瀬、お前、泣いてるぞ」


 歯を噛み締める。一人の少女の頬を伝う一筋の熱を、流させてしまった事に悔やみ入る。左手をナイフの重圧から解いて、彼女はまなじりに指を這わせた。


 「――ぁ」


 我知らず零れた感情の雫を、彼女は拭う。俺はそれを見守りながら、これから彼女が言うであろう言葉と、その次に俺が示すべき事を考える。彼女はきっと、謝るから。


 「……あはは。みっともないとこ見せたね。ごめんなさ――」


 「謝らなくていい。謝らなくていいから。……俺はお前に、償う義務があると思う」


 「わたしが困るよ、そんなの」


 「悠瀬」


 名を呼ぶ。その人の名前を認めるのは、互いの境界を折り重ねる準備だ。このまま名前を呼ばずいられたら、いずれ別れて、いつか他人でいられた。虫のいい話だと思う。それをするには、俺達は関わり過ぎていた。俺自身が、踏み込む事を望んでいた。


 「俺は、お前の親父のことを、微塵も正しいだなんて思えないけど……お前が望むなら、一つくらい、力になってもいいと思ってる。今だけ、だが」


 「……遠回しに言うね、皆塚さんは」


 彼女が俺の深層を見抜いたように、彼女に対して、俺も物思う所がある。我儘で、自由で、なのに遠慮がちで、刃物を愛する少女が、ここにいる真意。何に飢えているのか知った今なら、想像するのは難しくない。それは憶測に過ぎないかもしれないけれど、何もしない理由にはならなかった。他人の領分を既に越えて、俺は続ける。


 「お前が、妙な部分で良い子振るからだろ。ここまで押し入っておいて、本音はなしってのも、喉につかえるんだよ。……期待したから、ここに居るんじゃないのか」


 きっと愛する父以来に、刃を向けてくれた他者。

 それ以上をせず去ろうとする俺に、彼女が秘めた感情。

 その、当たりが付いていることを、切に祈った。

 悠瀬は、見下ろす俺を前にして、初めて年相応の子供のように、密やかな声で言った。


 「――わたしが、皆塚さんに、お父さんの影を見てるって?」


 「違うって、言い切れるのか」


 散々彼女に絡め取られた瞳の奥を、今度は俺が揺り返す。それはまるで我慢比べのようで、根負けしたのか彼女は、不可思議そうに笑みを綻ばせた。その顔が一番、彼女らしいと思った。


 「皆塚さんって、良い人でも、悪い人でもないね。変な人だ、すっごく」


 「少なくとも、普通じゃないだろうな。もう」


 彼女の寛大な評価に釣られて笑う。俺達を繋いだ根源を、彼女は刃を仕舞い再び俺の前にそっと置く。使い方なんて幾らでもある十徳ナイフ。俺はそれを、彼女の為に使おうとしている。彼女の望む遣り方で。それが、俺の罰だと言い聞かせて。

 たぶん、それは全部言い訳で。

 俺は、悠瀬まなという少女を泣かせたくなかっただけなのだと、やけに大人ぶった表情をする彼女の前で思う。ほんの少し、見えない壁を和らげるかのように、彼女は彼女の願いを口にした。

 

 「それじゃあ、皆塚さん。わたしに教えてよ。正しいナイフの使い方」


 「……間違いだらけだよ、お前も、俺も」

 

 その日初めて、ナイフを切る以外に扱った。

 人に刺すよりかは、ベストな案に思えた。

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