第4話 秘密
「殺風景だね」
寝室と居間を兼用した1Kの室内を見るなり、悠瀬は開口一番そう評した。玄関を越え、脇にキッチンと冷蔵庫くらいしか見るもののない通りを五歩となく進み、俺も我が家のフローリングを踏む。左方の壁面に配置されたベッドの反対側、部屋の隅で台座の上沈黙するテレビ。その手前に座る者のない椅子二脚に挟まれたテーブルといった、無味乾燥の空間。奥の窓に仕切られた向こうに映る、洗濯物が干されたベランダくらいしか、生活の跡は感じられないだろう。そのものずばり、悠瀬の所感は間違っていなかったので、ありのまま答える。
「まだ、住み始めたばっかだからな」
「学校行ってないのに一人暮らし?」
「宛がわれたんだ。……親に」
「気前の良いご家族だね」
率直で裏のない感想。耳に聞こえの良い言葉尻だが、俺には耐え難かった。
「体の良い厄介払いさ。特に会話もないからな」
吐き捨てて、悠瀬を避けテーブルに着く。彼女も奥の椅子に掛けて、くつろぐように頬杖をついた。
「仲悪いの?」
あえてつついてくる彼女の顔に、悪気の二文字は読み取れない。同じく肘をつき、拳を頬の支えにして、俺は明後日の方向に目を逸した。
「どうだっていいだろ。で、本当に何しに来たんだ、お前」
事と次第によっては無理矢理にでも叩き出すべきだろう。扉の前で朝まで泣かれて近隣住民にあらぬ噂が出回りかねないが、いざとなればその覚悟だ。悠瀬は俺の気も知らず、天井を仰ぎのうのうと呟く。
「何、かー。何でもいいよ。誘拐されるのが目的だったし」
「夕飯の献立並みに軽く言うなよ。そういうのが一番困るんだぞ」
「夕飯! そだ! ご飯にしようよ! 腹が減ってはなんとやらだし」
俺のぼやきを名案のように掻っ攫ってテンションを上げる自称華の女子高生。睨み付けるも、どこか相手を信じ切った目の彼女に、沈黙の無力さを知らされた。誘拐ってコスパ悪い。なんでこんな悪事が世に蔓延るのか、甚だ理解しかねた。
「……即席のもんしかねぇぞ」
「日頃お婆ちゃんの手料理だから、そっちの方が楽しみかも」
味付け薄いんだよねー、とひとりごちる彼女を置いて腰を上げる。台所の下からブツを取り出し、俺より休日の無い給湯ポッドから熱を注ぐ。大体3分くらいで食せるようになる人類の叡智、カップにシーフードな麺様々。引っ越ししたてで禄な準備もない一人暮らしのお供で、そのまま一生を支えてくれるんじゃないかと思える麻薬だった。
首尾良く店で貰った割りばしも用意して、両手に抱え持ち運ぶ。もの珍しげな悠瀬の前にウェイターの如く置いて、スマホの三分を測った。
時が来て、箸の仲を引き裂く。先に麺を啜る俺を見て、悠瀬は行儀よく手を合わせた。
「いただきます」
「……いただきます」
食後ながら流れで俺もそう言って、人生で指の数にも満たないんじゃないかというくらい、カップ麺に未知の期待を寄せる悠瀬を盗み見る。一つ口にして、「悪くないね」と頬を緩ませていた。
「さいですか」
「さいなのです」
「食ったら帰れ」
「ツレないなー」
だんまりを決め込む俺。拒絶をおかずにする悠瀬。団欒とはいかなかったが、誰かとこうして夕食の席に座るのは、果たしていつ振りだったろうと、古い記憶を辿る。家族と呼べる体裁を保てていた時代は遠く、込み上げるのはぼんやりとした諦観だけだった
食事は無言に終わり、早々にゴミを片付ける。
俺が戻るのを待ってから、悠瀬は机に腕を突っ伏して、
「皆塚さんはないの? わたしに訊きたいこととか」
いよいよという風に切り出した。
夜は長いよと語る目線が、下手に活力を与えたことを後悔させた。
「全面的に何故ここに居るのかを問い質したい」
「仲良くなりたいだけだよ、本当に」
「……」
こちらにその意思はないと無視を務める。そんな反応さえ、彼女は楽しんでいるようだった。気にも留めず、よくよく舌を回させる。
「じゃあ、提案。わたし達会って日も浅いし、秘密の交換っこしようよ」
「浅いどころか初対面だ。秘密も糞もあるか。マブダチだってやらねぇぞ」
若干語彙が古いことを自覚しつつ、馴れ馴れしさを突っぱねる。ポケットに手を入れ姿勢を変えると、忘れ去られた小振りの感触に手がついた。思い出すも、悠瀬の前に出すのも気まずくそのままにする。そんな俺の所作を追うように、彼女は事の核心に触れた。
「わたしがナイフで驚かなかった訳とか、知りたくないの?」
横目で少女を窺う。
公園で会ってから幾らか時間を重ねても、彼女の慣れ親しんだ笑顔からは、何も読み取れそうにない。興味がないと言えば嘘になるが、無関心を装い、平静を保った。
「……知りたくはあるな。後学の為に」
「まだする気あるんだ。――公園でも言ったけど、慣れてたんだ。お父さん、わたしによく見せてたから」
懐古に浸るように、悠瀬は目を細める。思い返す背景があまりに浮世離れしていることに、彼女は気付いていないのか。気付いた上で、俺に打ち明けているのか。自然、態度は硬く、言葉を選んでしまう。
「それは、そういう現場が、多々あったってことか」
言って、あまりの荒唐無稽さに唇を噤む。悠瀬は素知らぬ顔で、意気揚々と答える。
「ううん。人を切ったことは一度もないよ。全部、わたしの為だったから」
――躾けだったんだ
二人だけの室内で、それはやけに空虚に響いた。
「わたしが良い子じゃない時は、いつも手を上げてたから、壊さないよう戒めてたんだと思う。わたしが反省するように、ナイフで撫でてくれてた」
口にした表現を追うように、彼女は指先で机をなぞる。浮かぶ微笑みがよき過去のような言い草を演出するから、間違っているのは俺の方のように思われた。嫌悪。不可解。拒否感。いずれかのわだかまった感情は、常識という檻を形成してつまらない一言に凝縮されて脳裏に浮かんだ。きっとそれは、彼女が聞き飽きて、俺が生涯立ち会うことないだろうと、訳もなく信じていた一言だった。
「……世間じゃ、それを虐待って言うぞ」
指先が止まる。
前以て用意していた解答を読み上げるように、彼女は続ける。
弾むような声色で、朗らかに謡う。
「――うん。そうみたい。でもね、お父さんはわたしを傷付けないよう、一番傷付け易い道具で、一線を越えなかった訳だし、それって最後のブレーキだったんだよね。そういうの、大事にされてるってことだと思ってた。愛されてるって。周りは、そうは思わなかったみたいだけど」
語り終え、彼女は試すように俺を見る。期待も信頼もない、対話さえ求めていないその素振りに、俺と彼女の間に横たわる致命的なズレが、どうしようもなく見えてしまった。善悪の彼岸に居る彼女には、正しさも過ちもない。家族の愛を受けたと言い切る少女は、綺麗に折れて、真っ直ぐ育った、道端の野花を思わせた。遣る水が汚泥を帯びても、乾きは潤うのだ。その錯誤に真実を見る彼女の痛ましいくらいの純真さを、俺如きの第三者が、矯正出来る筈もない。俺は俺の【普通】を守る為に、紙切れのような正しさを、辛うじて喉の奥から絞り出す。その行為が、逃避となんら変わりないと知りながら。
「……悪いが、俺も同意してやれない」
「やっぱり、半端に悪人だね、皆塚さんも」
其処に落胆はない。反省もない。きっと彼女に関わる全部が、何も正してやれなかったのだと思う。彼女の停止した倫理の中で、彼女は被害者でないのだから。
話に花を咲かせるように、悠瀬は俺の罪を掘り返す。
「だから、ね。ほんとに懐かしかったんだ、人からナイフ突き付けられるの。お父さんと同じことしてくれるのかなーって。結果はご覧の通りのチキンでしたが」
「……チキンでいいさ」
――お前の親父と同列になるくらいなら
侮蔑の声を喉で殺す。何の宗派にも属さない俺に、彼女の神は傷付けられない。守るものを履き違えている。そんな過ちに気付きながら、返す言葉も知り得ない。
会話の節目を意味するように、悠瀬は上向きの掌を差し出した。
「と、いう訳で、わたしに皆塚さんのへっぴりナイフが効かなかったQEDは終了です。では一回裏、皆塚選手どぞ」
「…………」
「ちなみに対価は同じ重みを要求します」
「…………んなもんあるかよ」
言って、俺は黙り込む。悠瀬は机に覆い被さり、心の膜に触るように、人差し指で俺をつつく振りをする。声は陽気に。もっと遊ぼうとでも言う様に。
「ほれほれ、素直に吐きなー。裏は取れてるんだぞー」
彼女の辿った過去という情報は、多大な質量を伴って、俺という器から溢れてしまって、
「――なんで捕まりたいの」
整理する時間も、逃れる隙も、俺には与えられていなかった。
組んだ両腕に顔を埋めて、悠瀬は瞳を覗かせている。
瞬きもせずに、俺の奥を覗いている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます