第3話 誘拐
「……勝手について来られるのは、人攫いの範疇なのか」
羽虫の目覚めた薄暗い夜。どこかの電灯に群がる彼らの生音を耳の端で拾いながら、俺の後ろを続く悠瀬に批難の批を投げる。歩道も何もない、家々に挟まれた道路だけの一本道。人気のない町中で、爛々とした少女の声が響いた。
「わたしが知らない人に言い寄られたって言ったら、疑う人はいないと思うけど。ほら、一応、わたしナイフで脅されたみたいだし」
思い出したようにそう言って、悠瀬が隣に並ぶ。頭一つ分の差で目が合うも、こいつが少女の形をした物の怪の類であると散々実感しているせいか、微笑みを携えたそのあどけなさが酷く忌々しい。無愛想に視線を外して、等間隔に並ぶ電柱を数えた。
「……筋道は立ってるが、思い通りにされてるようで腑に落ちん」
不機嫌であることは抑えずに伝える。これが罪を犯した罰ならば、神様は実は捻くれ者の死神で、きっと悠瀬の姿をしているのだろう。刃物を向けた代償は高く、俺の心身を削っていた。
想定していたものとは別種の後悔に襲われていると、頭痛の種は足を止めて、
「暴力に訴えるくらい嫌なら、わたしも引き返すけど」
眩い電灯の下、突然慮るようなことを言い出した。
こういう所が、彼女の一番不可解な部分だった。
常識と非常識が揺らいでいて、読めない。
「手を上げたら、帰ってくれるって言うのか」
思いの外最悪のことを口にしていると自覚しながら、悠瀬の返事を待つ。
「うん。帰るよ」
即答するもその目は、出来るの? と訊いているようで、やはり現在は彼女の手中にあった。俺が彼女を理解するのとは比較にならない程度には、俺という人間は彼女に見透かされていた。今日何度目かしれない、溜息を吐く。
「……それが出来たら、とっくに捕まってたんだけどな」
「皆塚さんは半端に善人だねー」
「そこは悪人にしといてくれ」
「それじゃ皆塚さん嫌がらないし」
「……いい性格だよ、お前」
心の底からそう言って、抵抗虚しく帰途に就く。俺の苦しみとは反比例な彼女の笑顔を見まいと、月を見上げる。今宵は新月。
つくづく、ツキに見放された今日だった。
◆
「友達の家来るのって初めて」
突っ込むのも疲れてようやっと着いたのは、三階建てのアパート。白塗りの壁で美しい長方形の、各階四部屋のありふれた安手の建物だ。
両脇に駐車場が面したスペースを抜けて、一階の一番近場。階段の登り降りの音に最も被害に遭うのが俺の部屋で、戻るにあたっては迷いようもない。鍵を差し込み扉を開き、日々の通りとはいかせるかと玄関に立ち尽くした。
「……なしで入り口塞ぐですか」
抗議の声が上がる。振り返れば案の定、恨み節の半目で表情豊かな悠瀬が居る。初めて彼女に刃向かえた気がして俺はほくそ笑んだ。……よく考えると情けなかったが、更に考え直すと前科者のようなものなので、人間堕ちるところまで堕ちてしまえるのだった。
虫を払うが如くしっしと手を振り、防衛の措置を取る。
「ほら、もう来ただろ、帰れ。未成年がほっつき歩くな」
「今更常識振られても……。今夜道歩いたら、わたし不審者に遭うかも」
「お前の前に居るのが不審者だぞ。帰れ」
「むぅ……」
唇を窄める悠瀬の前で内心ガッツポーズを決める。俺に主張出来る日々の安息を守る権利など皆無に等しい所だが、それはそれ。これ以上暴走少女に掻き乱されたりはしない。部屋に引き篭もってしまえば話は早いが、引き返す彼女を見届けて勝利の余韻に浸る気積もりだった。と、思ったのも束の間。
差し当たって名前を覚えるほどの接触もない、アパートの住人が視界の端に入った。
「こんばんは」
夜に障らないように小声。他人以上知り合い未満の彼、少々恰幅の良い体格のジャージさんと、取り決め程度の礼をする。彼が向かうは俺の部屋から二つ越えて最奥。その道を若干塞ぐ男女一同は邪魔でしかなかったろう。眼力を籠めて悠瀬の退避を促す。
何か思い付いたように、彼女は唇に人差し指を当てた。
男性が間もなくこちらに差し掛かるという頃、悠瀬は招き猫の手の形でまなじりを拭い始めた。
嘘のように上手い嘘泣きだった。
「……ねぇ、なんで、なんで入れてくれないの。わたし、ちゃんとするから。……お腹の子だって堕ろすから。側に、居させてよ……」
「おま、何言って……⁈」
ほぼ目と鼻の先という距離で素通りしかけたジャージさんがビクリと止まり、安定しない目線で俺達を盗み見る。ばっちり合って半笑い。彼もすかさず苦笑い。それは銀河の一瞬の邂逅のようにジャージさんは早足になった。
バタン! と、アパートが上から崩れるんじゃないかという扉の閉まる音がした。
悠瀬は、泣き真似の手の甲から隠れ見るようにして俺を窺った。
俺の怒りとも似つかない複雑な心境に満足したのか、彼女は笑顔を取り戻しまたほざく。
「と、いう風に、放っておくと捕まらない程度に皆塚さんの社会的地位を落としますが、家には上げてくれないですか?」
これが食堂の営業スマイルだったら喜んで堕ちると思う。
「……鬼か悪魔だよ、お前」
目頭を抑えて、俺は言った。
「華の女子高生捕まえて、酷い言い草」
「捕まえてねぇ。断じて捕まえてねぇぞっ」
勢いで前のめりになって、顔だけ彼女に近付ける。やはり彼女はものともせず、あまつさえ手で口を覆う。傍目からは怖がるように見えるその素振りを、不幸にも更なる住人が駐車場のスペースで目撃していた。
何も見なかったように、その住人が車に乗って出て行く。
そして彼女は手に隠したにんまり口を晒して、
「地は我に味方せり、ですな」
「厄日だ……」
扉に肩を預け、俺は項垂れる。
これ幸いと彼女は俺の横を通って、遂に玄関に辿り着きすれ違いざまにこう言った。
「悪いことするからでしょ」
ぐうの音もでなかった。
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