第2話 交渉

 凶器を握っていることも忘れて、その目に見入った。

 怯えとは違う、まるで見つけて貰えた迷子のよう。そんな表情を彼女がするから、俺は動けずにいた。予期せぬ邂逅から立ち戻ったのか、少女は瞼を擦り身体を正面にして、俺という不審者を見定めた。

 そうして、彼女なりの理解を口にした。


 「……お父さん、若返った?」


 「……悪いが、人違いだ」


 額に手を当て俺は答える。堪えるとも言う。変わらず切っ先は横に振れば首を通過する位置取りなのに、ただひたすらに童女のような無頓着さが、俺の思考を置き去りにしていた。

 俺より危ない人に出食わすなんて、思いもよらなかった。

 泡のように吹き飛んだ緊張を再度引き締め、脅しの体裁を保つ。


 「出来るなら、それ相応の反応を取ってくれると助かる」


 要求は至ってシンプル。

 叫んで泣き喚いて、俺という犯罪者を地域一帯に知らしめてくれること。

 逃げるにしても追いはしない。後はただ、社会の制裁を待つだけだ。

 だというのに、少女は傍らのナイフに構わず首を傾げる仕草を取るので、俺は右腕をやや泳がせた。森羅万象意に介さぬように、彼女は疑問を呈した。


 「そーおーってなに」


 抱いた印象通り、その口振りは幼い。会話を通じて最も明らかになったのは、彼女が初対面らしき少年らの遊戯に混じれるほどの親しみ易さを有しているという誤った歴史でなく、成長の過程で成熟する為の階段を踏まなかっただけの、身体だけを大きくした子供らしい、という事実だった。多少なりとも、強行的な手段が要されていた。

 刃の側面を近付ける。

 耳を隠した栗毛色の髪までは、もう指一本分の隙間しかない。


 「……こいつが見えないのか」


 少女は一瞥して、ただ無感動に、


 「見えてるよ」


 細くたおやかな指先で、ナイフを引き寄せて、


 「これで、お父さんと同じこと、してくれるんでしょ?」


 ぴったりと、頬に凶器を撫で付けた。無邪気に微笑んで。

 関わっちゃいけない奴だと、俺は思った。出来れば、相手にもそう感じていて欲しかった。むべなるかな、少女は刃物に触れて明らかに、ご満悦に相好を崩していた。玩具を与えた園児が次の遊びを見て貰いたがるような、周囲に待ったを与える圧迫感。それが、俺に主導権を許さなかった。

 人を傷付ける利器を慈しみ、彼女は問いを掛ける。

 獲物を値踏みするように、ゆっくりと。


 「それで、不躾に現れて、お父さんの真似をする貴方は、何?」


 瞬きを忘れた瞳の強制力が、そうさせたのかもしれない。

 あるいは、彼女のような理解不能という文字を擬人化させた存在が、俺の目的に沿うものだと、本能的に感じていたのか。ともかく俺は、我知らず問いの答えを零してしまった。


 「皆塚かいづか……皆塚かいづか定理ていりだ」


 全身には、ナイフを向けた時以上の緊張が奔っていた。

 きっとこの先どんな職場も乗り越えられるだろう波乱の自己紹介を終えて、面接官も応じる。挨拶には挨拶を。名乗りには名乗りを。常識には常識を。気安くあくまで、友好的に。

 

 「わたしは、悠瀬はるかせ、まなです」


 可愛げを感じるのが始末に悪い、屈託のない笑顔で少女は言った。

 それが、俺と彼女との、非常識な出遭いだった。


 ◆


 「皆塚さんは、何時もあんな挨拶してるの?」


 「……最初で、最後のつもりだったんだが」


 「そうなの。つまらないの」

 

 公園。ブランコ。二人きり。

 悠瀬と名乗った少女は、正しく遊具を活用しながら、俺の左隣を漕いでいく。視界を掠める黒の背中からは、その表情は読み取れないが、声色から心底つまなそうにしているのが伝わった。俺はと言えば、座すブランコを漕ぐ訳もなく、冷たい鎖を握りながら、破れかぶれで会話の進展を促した。


 「この際だから訊いておくが、悠瀬……さんの親父は、何時もそんな物騒なことをするのか」

 

 俺が心配する立場にないのは分かっていれど、悠瀬という少女の家族背景はやや常軌を逸していた。突っ込むだけ野暮かもしれないが、泥舟に乗ったつもりで腹を括った。

 規則正しい揺れを守りながら、悠瀬は平坦に言う。


 「もうしないよ。今は一緒にいないの。あ、わたしのことは呼び捨てでいいよ、皆塚さん。わたし達、仲良くなれそうだし」


 「どこをどう見て判断してるんだ、お前」

 

 にんまりとした横顔を見せびらかす彼女に、俺は再び頭を抱える。そうした俺の反応が楽しいのか、ブランコは慣性を増して溌剌と宙を泳いだ。


 「うんうん。それくらいぶっきらぼうでおーるおーけー。――だって貴方、まともじゃないもの」


 わたしもまともじゃないの


 乗り物が前後するせいか、やけに音が迷子になるけど、それだけははっきりと聞き取れた。

 幼いという印象に変わりはないが、彼女の奥にある理知的なものを、初めて捉えられた気がした。


 「……自覚はあるんだな、意外と」


 「教育の賜物ですな」


 「日本の未来が危ういわ」


 「だね。皆塚さん見てるとそう思うよ」


 売り言葉に買い言葉。些か返事に詰まったが、断じて図星ではない。それよりも、俺と彼女の間柄には、もっと適切な内容があるよう思う。会話の脱線も潮時だった。

 

 「お前、他に訊くべきことがあるだろ。俺が言うのもおかしいが、一応、殺されかけたんだぞ」


 「過去形でしょ? ほんとにその気があるなら、わたし今この世にいないし」


 「こうして話してるのが、俺の気紛れかもしれん」


 「また、気が変わりそう?」


 鎖の軋む音が、時を経て止んだ。

 やっと踏み込んだその核心に、答えを出すべきは俺だ。自ら振っておいて、それを決定付けるのは躊躇いを生んだ。あれだけのことをしでかして、俺が決めてもよいのだろうか、と。

 それを世間に問うのが、俺の目的であった筈なのに。

 心は、ポケットの底に眠るあの感触を、もう握りたくないと願っていた。


 「……その気も失せたよ。受験より緊張したんだがな」


 辟易と愚痴を後付けて、一世一代の犯行未遂を有耶無耶にした。おちゃらけたように、悠瀬は笑った。


 「大した受験じゃなかったのね。受かった?」


 「一身上の都合により黙秘だ」


 犯罪者にも矜持がある。なけなしのそれを守るために、俺は心を現実から逃した。俯かないよう顔を上げる。空が、何時の間にか群青を迎えていた。


 「児童公園ぷらついてる時点で答えだよねもう」


 黄昏れるにはまだ早いだろうと言うように、彼女を運ぶ鎖がまた鳴り出す。ならお前はどうなんだと言い返した所で、余計惨めになるだけだ。加害者と被害者の関係も忘れて、軽口を返すべく思考を回す。

 たぶん、この時点で。

 俺が彼女に抱いた印象は、マイナスに振り切っていなかった。この会話が、不愉快でない程度には。きっかけが違和感だらけであることは、言い逃れようもないけれど。


 「今日は出席してない可能性も考慮しろ」


 「尚悪いよ。ははっ」


 笑い飛ばして、ついで彼女も飛んだ。舞うスカートから目を瞑り、やがて乗り手を失ったブランコが慣性に逃げられ悲鳴を宥めていく。悠瀬は歩き回って俺の前にある安全柵に腰掛けた。改めて、黒一色の彼女は、暗みを増した空の下で、何処か不穏に、何処か儚げに映った。やけに白い肌が、どこか病染みていた。

 彼女は掌をぴったりと寄り添わせて、スカートの下部に沈ませる。真っ直ぐの視線は、あたかも何かを見抜こうとしているかのようで。


 「訊かれたそうだから訊いてみるけど、皆塚さん、どうしてわたしにナイフ向けたの」


 そよぐ風が栗毛色の髪を巻き上げた。彼女の髪が重力に揺り戻される程度の数瞬の一秒を要して、俺は答えた。


 「捕まりたかったんだ。むしゃくしゃして」


 彼女の満足を期待してではない、その場凌ぎの回答。

 それが真実とされたかは定かでないが、憤懣は露に、天の彼方に手向けられた。


 「つっまんねーーーーー」


 近隣住民を脅かし、公的暴力が駆け付けて来るのではと危惧する程の声量で、悠瀬は叫んだ。耳を押さえる俺を他所に、ひとまず気が済んだのか、猫のように気ままな豹変振りで、軽薄な調子を刻む。


 「受験に落ちたのが動機だったら、わたし皆塚さんとは仲良くなれないや」


 「こっちも願い下げだ。別に、そう受け取られても構わない」


 「やけっぱちだね。わたしが今通報したら、皆塚さんの思惑通り?」


 「そうなるが、お前に引導を渡されるのは釈然としない」

 

 「ひっでーの」


 けらけらと悠瀬は笑う。俺はひとしきり渋面する。たぶん幾ら会話を重ねても、彼女とのやり取りが真面目な方に舵を切ることはないのだろう。それは鬱陶しくもあったし、快くもあった。彼女が感情に正直だから、俺も動機以外明け透けでいられた。

 それは俺一人の感慨でなかったのか。共に雲を見遣って、彼女が呟く。


 「知らない人と、こんなにお話ししたのって初めて」


 夕焼けが、間もなく空を塗り上げようとしている。


 「……俺も、ここ一週間で一番喋ったよ」


 「あははっ。わたしもおんなじっ」


 彼女は上機嫌にまた歩き出して、今度は俺の背に回る。座る俺の上被さるように、両の鎖を握り込んで、一番長いお喋りを続けた。


 「ねぇ、要するにさ、皆塚さんは悪いことするのが目的なんでしょ。そんでお縄にかかりたい、と。万引きとか盗撮とか、もっと簡単なのは?」


 「……取り返しがつかなくて、一番見下げられる手段を選んだだけだ。理解を示してくれた所悪いが、これ以上俺と話しても、何の益にもならないぞ」


 俺は立ち上がって、態度でこの不毛を打ち切りにする。互いの本質を躱すような掴めない距離感は、確かに心地良くはあったが、身体を詰めた距離はそのまま理性が反発した。初対面の彼女との、他人未満の関係は、日没と同様に、もう引き伸ばしようがなかった。

 この馴れ合いは、これっきり。言外にそう伝えて、一応「通報しとけよ」と踵を返す。

 後ろ髪を引くように、彼女が口を開く気配がして、


 「そうかな。わたし、警察呼ぶつもりもないけど、貴方に協力出来るかもしれないよ」


 歩みを止め、最後の戯言に耳を傾ける。


「貴方は手を汚したい。わたしは貴方と話がしたい。だから、ギブアンドテイク」


 橙が公園を染めた頃、世界に馴染まない真っ黒な少女は、右手で鎖を握り込み、左手を胸に重ねて、整った唇を、再三世迷言の形に象った。自分を顧みない口振りで。

 その時初めて、俺は気付いた。

 捕まったのは、俺の方かもしれない、ということを。


 「――ここで帰るくらいなら、今からわたしを攫ってよ」


 笑顔の下で、鎖が嘲るように鳴いていた。

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