第5話

 堕権ダゴンと戦艦三笠が激突する音を後に、式神を追い始めて数分。白亜の巨影が見えてきて、式神は再び足を止める。ギルマンホテル。その目の前にある円形交通地帯ロータリーで。


 式神は全身の毛を逆立てて、何かに警戒するように吼え猛る。直後、地面が跳ねあがるような衝撃を感じ、続けて振られるような大きな横揺れがやってきた。悠雅は堪らず膝を付くと、その横で民家が音立てて崩れた。


「くそ、こんな時に地震なんて……!!」


 悪態を吐きながら、立ち込める土埃から逃れた悠雅は頭上からやけに明るい光が降りてきていることに気がついた。

 嫌な予感がして天を仰げば、遥か天空に交差する光帯が一際明るく瞬く様を見る。


 それだけでは済まない。太平洋が燃え上がるように赤く染まり、沖で巨大な水柱が立ち上がる。赤い水飛沫の奥には余りにも巨大な影が見えた。帝都に建ち並ぶ摩天楼などとは比べ物にならないほどの巨大さに、悠雅は言葉を失う。


 巨影はイソギンチャクが海中で漂うように、九つの、長い触手のようなものをふわふわと伸ばし、空を穢す。天幕の如き翼を広げると、鈍い管楽器のような鳴き声をあげるのだった。


 巨躯がなんであるか考える間もなく、鈍く呻く様な声が続けて聞こえてきた。山伏の行列のように魚人の群が列を成して、近づいて来たのだ

 彼らは硝子玉のような丸い眼球で悠雅を見据えながら唄を唄う。



「――空を見上げよ。更にその先を。天に星々が整列する」


「――永遠の時は終わった。来るぞ、来るぞ、来るぞ。終末の時がやってくる。檻は朽ち果て、彼が目を覚ました」


「――彼は戻ってきた。人類は知るだろう。新たな恐怖を」


「――彼は全ての名を取り戻した」


「――彼は九つの贄を求めるだろう」


「――希望は潰えた」


「――無知で愚かなる人類が支配しているこの星を彼は再び支配する。彼方の星は燦然と輝き、燃え上がり、激しく、彷徨う」


「――獣が海より至り、人を食らう。最後の審判の時がくる」


「――八つの丘、八つの谷より支配する」


「――彼に祝福されしものは御印みしるしが刻まれる」


「――狂気、恐怖、苦痛の坩堝るつぼ。彼が齎すは終わりなき災厄」


「――ああ、恐れるがいい。王の帰還を!!」



 魚人の唄はさながらきょうや讃美歌の如き神聖さを放ち、同時に深い邪性を孕んでいて、おぞましき感覚に肌が粟立つ。悠雅が息を呑んでいる間に、魚人たちはふらりふらりと近づいてくる。


憤狂ふんぐるい霧狂那不むぐるなふ九頭流宇くとぅるう流々家るるいえ雨臥不那狂うがふなぐる不多群ふたぐん威安いあ威安いあ九頭流宇くとぅるう


 地下空洞で口にしていた、何かを礼讃する文字の羅列。

 悠雅は一人唇を真一文字に結び、改めて海に浮かぶ巨影を見据える。


「九頭龍。怪異の神」

『あれを屠るのは相当骨だぞ』

「放っておくという選択肢はない。あれは間違いなく、人を害するモノだ。だが、その前に――」


 彼は天之尾羽張を深く握りしめた。紅蓮の独眼は巨影でも、魚人でもなく、ただ一点のみを捉えていた。

 ギルマンホテルの中央玄関口エントランスから現れる、燃える体躯の男。


「甘粕正彦」


 悠雅は爛々と輝く黄金色の瞳に視線を叩きつけながら祈祷いのりを展開する。それも、あの禍々しい緋火色金の剣翼を晒して。

 甘粕はすこしばかり驚いたような顔を見せながら、それでいてばかに嬉しそうに、悠雅の背負う赫い円光を見据える。


「ずいぶん、器用に暴走した力を制御しているじゃないか。無論、薄氷を渡るような危うさはあるが」

「裏返りっぱなしなせいで慣れただけだ」


 悠雅は大きく息を呑んで、天之尾羽張を正眼に構えた。霊力は過活動し、祈祷いのりは未だ荒れ狂っている。さりとて、その心は平静を保った凪。波も泡も一つない。危機的状況にあるはずなのに。それも今まで以上に。

 追い詰められているからか? 九頭龍が出現したからか? 或いは禍津神に裏返ったからか? よもや憤怒と憎悪が尽きた? いや、そのどれとも違う。


 悠雅を踏み留まらせたのは手心を加えた甘粕への疑問。どうして、自身を煽るのに、るべき時に、れた時に、なぜ退いたのか? 甘粕の読めない、奇妙な行動が悠雅を冷静にさせた。


「何で俺を殺さなかった?」

「強度をたがえただけだ」

「つまらない冗談も大概にしろ」


 悠雅の問いに、甘粕はまともに取り合うことなく神器コルヴァズを構える。互いに異形となり果ててなお、刃を向け合う様は滑稽なようで、御前試合にも似た聖性を放つ。

 まず呼吸音が失せた。次いで風が止む。最後に鼓動が消える。残されたのは剣翼同士が擦れる音と天を衝くように燃え盛る炎が弾ける音。


「来い。最後にもう一度だけ遊んでやる」


 火蓋が今切って落とされる。

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