第6話

「何、あれ……?」


 アナスタシアは太平洋に浮かび上がる巨大な影を目の当たりにして、大いに狼狽える。真っ赤な海から這い上がる獣の王。どこか終末的な、或いはそのもの終末的な光景。基督教徒クリスチャンであるアナスタシアの脳裏には否応が無く黙示録の内容がよぎる。


 何が起きてもいいと思っていた。何が起きようと受け入れられると、そう思っていた。だが、それでも彼女には致命的に覚悟が足りていなかった。彼女は自己と家族をかける覚悟はしていた。しかし、“世界と家族”を天秤にかけるほどの覚悟はできていなかったのだ。どうしようもなく、絶望的な光景を前に怖気づいた彼女は胃の中をひっくり返す。


 緊張。続けてやってくる、後悔。罪悪感。そして、これまで家族を蘇生することを最優先に考えてきておいて、いざ世界と天秤にかけるとなるとこうして尻込みしている己が腹が立って仕方が無かった。


 家族をもう一度抱きしめるために、優しい人たちと袂を分かった。家族と過ごす時間を取り戻すために、優しい時間から目を背けた。家族を蘇らせるために、悠雅の手を振り払った。たとえ、どんな美辞麗句を並べ立てても、それは許されざる罪だ。


 アナスタシアは捩じれ狂った心の中で辛うじて理解する。これは罰なのだろう、と。ことわりを越えようとした己への。皆を裏切った己への。


 腹の底がごわごわとざわつく。未だかつてない動揺がひたすらに渦巻いて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。思考から整合性が失せて、正気ではなくなっていく。吐けども吐けども、吐き気は収まらない。まるでその身に宿る悪徳を吐き散らかしているよう。


 そこに禍々しき霊力の波動を感じて、アナスタシアは呼吸が止まりそうになる。振り向けばギルマンホテルの本館のその向こうに、見覚えのある赫い緋火色金の翼が天を衝かんと広げられたのが見えた。続けてつんざく爆音が鳴り響き、反転した深凪悠雅の姿が容易に脳裏に浮かんだ。


 彼が来ることはわかっていた。どんなに傷ついても彼は来てくれると。約束を果たしに。道を外れた自分を断罪するために。

 アナスタシアはどこか救われた気持ちになってしまった。同時に己への嫌悪感が更に高まった。


(虫がいいにもほどがある)


 これは私の為ではない。己にそう言い聞かせてひっそりと唇を噛む。救いを求めてはならない。救われてはならない。可能な限りむごたらしく、可能な限り絶望して死んでいくべきなのだと。

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