第4話

 いつになく人気がない。悠雅と瑞乃がそう感じたのは、隠州口に入ってすぐのこと。悠雅は自分達を送り届けた真琴が、血相欠いた様子で帝都の方へと引き返していくのを見送る。「帝都防衛に関わる仕事なんだ」と、そう珍しく余裕が無さそうに語る真琴に、身が引き締められる思いがした悠雅は、溜まらず走り出そうとする。が、瑞乃に袖口を掴まれ出鼻を挫かれる形となった。


「何するんですか、お嬢!!」

「急ぐ気持ちはわかりますが、少し落ち着いてください。貴方のそういう風に誰かのために必死になれる部分は嫌いではありませんが、今冷静さを欠くのは悪手です」


 きっぱりと述べる彼女は手印をさっと結び、呪符を放る。すると、呪符の中からぼふんと白い煙が吹き出して、それが子犬の姿をへと変わっていくのを見る。先日アナスタシアが攫われた時にも使用した式神である。


「先日、彼女に渡した呪符の効果が残っています。それを使って彼女を追うとしましょう」


 その言葉に悠雅が首肯した所で海岸沿いの道から、一人の老爺が駆けてくるのが見えた。


「お前たち、永倉の弟子だな?」

「貴方は?」

「永倉のかつての仕事仲間だ。それより、早くここを離れなさい」


 瑞乃の質問を手早く捌き、老爺は悠雅たちに退去を命ずる。


「爺さんと東條が刃を交えているからですか?」

「わかっているならなぜここに来た?」

「連れ戻さなければいけない人がいる」

「ここにはもう救うべき人間はいない」

「いますよ」


 紅蓮の独眼が、警官の瞳を貫く。赫く燃える激情を湛えた瞳。純粋に、真摯に、アナスタシアを想う瞳。

 警官は呆れた様子で溜め息を吐くと嘆くように「師が師なら弟子も弟子か」とボヤく。


「命を落とすやもしれんぞ?」

「承知の上です」


 悠雅は警官に背を向け、走り出す。瑞乃は老爺に頭を下げ、悠雅を追った。


「爺さんが東條とやり合ってるなら、もう心配はいらない。あとは、甘粕をぶった斬って、あいつを連れ戻すだけだ」

「簡単に言いますね。甘粕正彦を打倒する案があるんですか?」

「できるかじゃない、やるんですよ。やらなきゃ俺は前に進めない」

「前に必ず進まなければならないんですか? 立ち止まったっていいじゃないですか」

「立ち止まるというのは死んでいるのと一緒です。俺の命は友誼ゆうぎむくろの上にある。友を足蹴にしたまま横たわるなど許されない」


 だからこそ、彼は前に進む。たとえ、手足ががれようとも、這って前に進む。たとえ後ろ向きにだとしても、前へと進む。

 歪んだ生き方をする彼を、好ましく想う瑞乃も相応に歪んでいるのだろう。


 不意に、式神がぴたりと足を止めた。そこは陰州口いんしゅうぐち臨海部にある通り。人の気配を微塵も感じさせない商店が立ち並んでおりガランとしていた。


 すると、瘴気にも似た霊力の接近を肌で感じる。次いで立ち込める、鼻が曲がりそうになるほどの磯の香り。ただでさえ普段よりも色濃いというのに、更に色濃く。悪臭とさえ言えるその臭いは、粘性を帯びている気がして、鼻にこびり付く様子を想起させた。


「待ちかねたぞ」


 呻くように、吼えるように、咳込むように、くぐもった低い声が通りの正面から響いてくる。武装した魚人をはべる、豪奢な法衣に王冠ような金細工の冠を被った一個体。ウィリアム・マーシュ。


 彼の右手に握られた戦棍メイスの石突が石造りの床をこつん、また、こつん、と叩く音が反響して、徐々に大きくなっている。それに伴い、その体もまた不自然に肥大化させていた。

 漲る霊力に殺気を気取った悠雅が、天之尾羽張あめのおはばりを手に前へ出ようとすると瑞乃が片手で制する。


「あれは私に用があるようです。悠雅さんは先に彼女の元に」


 先行を促す瑞乃に、マーシュは大きな目玉で今にも射殺さんと睨みつけている。


「ですが、お嬢一人置いていく訳には……」

「優先順位を履き違えないでください。今最優先にするべきなのは皇女アナスタシアの保護です」


 悠雅からすれば聞き入れたくない提案だった。悠雅にとって瑞乃もまた守りたい人々の一人。何かをしようとしている敵の元に彼女一人を置いていきたくない。できることなら、この場を二人で切り抜けてしまいたいと考える。しかし、彼女の提案も尤もであった。


 今すぐにでもアナスタシアを止めなければならない。


 しかし、尚も天秤にかけようと蒼白顔で逡巡する悠雅の横顔を見て、瑞乃は薄く笑む。しかし、喜んでいられる時間はない。彼の背中を押さなければ。


「貴方は甘粕と刃を交えなければならないのですよ? ここで要らぬ怪我を負うわけにはいかないでしょう?」

「ですが……」

「いいから、行ってください。私なら、大丈夫です。何せ、三笠が着いていますから」


 そう言って一拍手。背後の空間が歪められ、その歪みを砲門に三笠の武装が次々と顔を出し、あっという間に通りを埋め尽くしてしまう。


『――いつも立ててもらっているのだ。たまには立ててやれ、悠雅』


 勇壮なる御姿を晒す瑞乃と三笠に敬服した様子の天之尾羽張が、さらに後押しする。


「……わかった。わかりましたよ。必ず追い付いてください」

「ええ、必ず。何せ、私はあの女の横っ面をひっぱたきに来たのですから」


 やけに美しく笑う瑞乃に見送られ、悠雅は走り出す。式神を連れ、迫る脅威を見据えて、最短距離を、最速で駆け抜ける。


「一人で私を討てると、本当にそう思っているのか?」

「思っていますよ。いい女というものは約束を破らないんです」

「ならば、お前は悪い女になる」


 マーシュは肥大化した四肢の内、両腕を空に掲げ、天空を走る十字を抱き込みながら、


■■■讃えよ■■■■■■■■■我は父なる堕権


 マーシュが得体の知れぬ言葉を口走った瞬間、背後の魚人たちが人間の声帯では到底出せないような、鈍い太鼓音の如き声で唄い始める。ぶつぶつと経や聖歌にも似た、さりとて聖性を少しも感じさせない言霊を垂れ流す。


「ダゴン」

「ダゴン」

「ダゴン」


 その言の葉に導かれるようにマーシュの体は加速度的に肥大化していく。身に纏っていた法衣は千切れ、戦棍メイスは狂った前衛芸術のようにひしゃげて潰れた。しかし、まだ止まらない。鱗が何度も抜け落ちてはその都度新たな、鱗が生え変わり、鋭利な牙の列は一列から二列、三列と増えていく。あたりの民家を押しつぶしながら巨大化していくマーシュがひと際大きく吼えて、ようやくそれが止まる。

 至近距離では見上げるだけでも一苦労する、巨大に過ぎるマーシュの全長は有に二五メートルを超えていた。


「お前だけはこの手で滅さなければならないと考えていた。我がつがい、ハイドラが受けた苦しみを思い知るが良い。忌々しき、大いなるものよ」

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